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2008年7月 2日 (水)

わたしのしごと

九時から四時まで警備会社で事務をしてます。
職場は理想的、人も環境もすごくきもちがいい。

雑居ビルで、ぐるりに草の原があります。
以前にやくざやさんが住んでいて銃をぶっぱなす事件があったらしく、住民が出て行ってしまい空室が目立ちますが、今は物騒なひとはいないです。犬は飼い放題、静かでとても快適です。
まったく、なにが幸いするかわかりませんね。
通勤のガソリンはとても高くなったけれど。

私の仕事は毎月のお給料計算と受託先への請求書作成。それと隊員さんが遠いところから出てきてる孤独な人が多いので、はげますことも大切なしごとです。事務は手仕事です。パソコンはまちがえても直しが楽な分記憶が薄いのですが、手で書くと人の名前や契約先の名前を忘れません。

間違えないようにやってても、時にまちがえます。先月、なぜか書きかけの未完成品だったのにそれと気付かず、長い長い四枚つづりの請求書を大きな得意先にお出ししてしまいました。
私が見直し、さらにボスが見直してもわからなかったミスなんです。こちらがうんと損をするいたーい請求漏れ。あーあ。(ちゃんとあとで気付いたから、こうして書いているんですが)。あちらからは、ここの経理はアホじゃて思われてしまったようです・・。

だから、年金で記載ミスうんぬんの話、ぜったい笑いません。人が入力するんだもの、間違うよ。

隊員さんがどんなにいっしょけんめい働いても、請求しなければお金は入ってきません。多忙で事務が間に合わず、お給料支払いができず潰れた会社が実際にあります。そのおかげでうちが仕事がいただけましたが・・。

なにが幸いするかわかりませんよね。

追伸:

こんどの六日、久留米六角堂広場で「湘南の風」のメンバー1人ほかレゲエ、ヒップホップミュージシャンたちのジョイントコンサートがあるんですが、その警備をやります。あんな狭いとこに2000人も入るん。むすこにきけば、とても人気が高いバンドだそう。しらべると、私も聞いたことあった、かれらの純恋歌。これまでボクシングとかマラソンとか野球とか競輪とか闘牛など体育会系のイベント警備しかやったことなくて、こんな若者向けレゲエバンドの警備は初めてなので、隊長は目下群集心理と空間との関係を研究中。え。そんなヒマじゃないか。当日の晴れと無事を祈る。(雨天決行とのこと)

湘南の風、わたしもみにいきたい。

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コメント

リーダーはサブをつれ、多忙な合間をぬって場所の下見に数回でかけてました。

久留米六角堂広場って、一番街の中の井筒屋近くところのこと?
あそこだったらせせこましいとこね。
警備の仕事って内容が何であろうと警備は警備に集中するだけでしょうけど、工事現場とコンサート会場じゃ気分は違うでしょうね。

私もhimenoさんの仕事のようなことずーっとやってきました。(自営だから)
今は微々たる量なのに、どうしてこれに気がつかなかったのだろうとふしぎなくらい集中できてない。

さくら先生、自営業でいらっしゃるのですか。ひとをつかうのって大変なことなのですね。上にたつひとたちは、そりゃもう、大変なくろうをなさってます。だから信じられるのですけども。
六角堂広場は一見せせこましいです。下見にいっても、やはりせせこましいっていってた。うーん、人があそこにあふれる図は想像もつかない。どうなるんだろ。ま、花火大会の雑踏警備の経験でいくしかない。あとは、からだはってとめる。このイベントは、商工会議所青年部のはじめてのこころみだそうで、町の活性化をめざすものです。前から思ってましたが、くるめって音楽的なセンスあふれる心ゆたかな町で、福岡のリバプールていわれるくらい。(え。だーれもそんなことはいわんのかな。)

言えるかもしれん。
seikoさんじゃなかった聖子ちゃんやチェッカーズやその他たくさんの芸人を排出してるとこみると。

6日ですか。連句会やめて、いきまひょか?あ、強固半の顔色がかわった。連句会、ちゃんと行きますから。
私は久留米市生まれです。六つ門にほど近い小頭町で生まれました。六角堂周辺は、昔あけぼの商店街といっていました。小さなお店がたくさんありました。金丸小学校でいっしょだった、たきうちくんのおみせもありました。喫茶店だったと思います。
今はすっかり変わってしまっています。でも一本道を入れば、昔の通りが残っていて、なつかしいです。

ぼんさん、そうなんですか?

あけぼの商店街なつかしい名前です。
昭和40年ごろ井筒屋付近に勤めていたので帰りはあけぼの商店街の中をうろうろして
帰りました。
二又や呉服店で着物を作り、菊や洋品店、とよしまでスーツを仕立てていました。
「古連」でケーキを食べました。
「田園」と言う大きな喫茶店でダンス音楽を聴きました。
「タイホー」と言うスーパーができたのはその頃。
「タイホー」ができる前は東宝映画館、加山雄三の映画をよく見ました。
六角堂のところには籃胎漆器やさんや茶碗やさんがあったような。
表通りには松竹映画館がありました。その隣はおもちゃやさんがありました。

金丸小学校って南町に近くないですか?
一番親しかった同僚がたしかそこの小学校だって言ってました。

あー、最近ものや人の名前がなかなか出てこないのに今どんどん出てきた。
出てくるときに書いとかんと。

さくらさん私たちは昔どこかですれ違っていたかもしれませんね。そんな気がしました。タイホーは、そごうストアと言っていました。それからタイホーにかわりました。井筒屋の裏通りに、ロイリーという映画館がありました。10円で、月光仮面か、赤胴すずのすけの映画を見てました。久留米荘といううどん屋さんはご存知ですか?今もあります。すうどん一杯25えんでした。昭和39年ごろの話です。
強固半、もりあがってしまって、すみません。久留米の昔をいつか書きたいと思っていましたが、ここで書くとは、なんでじゃろ。
花畑駅周辺がすっかりきれいになって、おもかげがありません。覚えているうちに、記録したいと思います。

ぼん、いつかそのうどんやさんいこね。花畑駅周辺はずっといろんな工事が入ってて、免許なしの隊員さんを送ったこともある。道のそばにあった目立つ柔道具やさんの看板、きづかなくなりました。

さくらさんの書かれた昔の久留米、知ってる景があります。いまものこってるのもあるしね。八女の人間がくるめまででてゆくことは年に数回でした。バスでゆくのはとても遠かった。

ぼんさん、himenoさん、井筒屋の裏あたりに中華うどんの「一平」ってご存知?
ここです。
http://www.kurume-town.com/mypage/kr019180

いっぺんここの中華うどんを私の変わりに食べてきて!
40年くらい前に私が食べていた中華うどんが、今もずーっと作られていてますます繁盛してるってすごいわ。

久留米荘のうどんっていうのもかすかに覚えがあります。

私が久留米に通勤したのは昭和37年から43年です。

たった六年、されど青春の貴重な六年間。

↑の一平のうどんの説明を読んで、竹下ベーカリーのやきそばを連想しました。筑紫通り沿い博多那珂五丁目。たぶんいまもある。学校給食用のぱんを作るとこで、おいしいとかモダンとかからはほど遠いけど、決して潰れないだろうなってお店。みそしるのようなお店。レストランもやってて、そこのやきそば、なんとケチャップ味だった。スパゲティやん。でもおいしかった。

一平の中華うどんは、一度食べたことがあります。6歳離れた姉に連れて行ってもらいました。姉は23年生まれです。下の姉がうどんが好きで、毎日のように自転車で久留米荘に行ってました。私は25円のお金がなかったし、自転車もなかったので、うらやましかったです。久留米荘はJR久留米駅前の昔のダイエーに支店があります。駐車場があるので、こちらのほうが行きやすいです。いつかいこうね。

みんな、よう覚えとるなあ。
わたしが初めて自分たちだけで、久留米に行ったのは、中学校に入学してからだった。それまでは父や母に連れられて行った覚えしかない。

初めて行った先は、たしか文化センター近くにあったスケート場だったなあ。

久留米の話してるうち「久留米荘におうどん食べに行こう・・・」と誘ってくれた友の顔が浮かんできた。
とっても粗末な食堂で、誘ってくれた友人は、久留米大学付属小学校の校長先生のお嬢様だったので似つかわしくなかったが特にうどん好きだったみたい。

この9.10日は浅草ほうずき市、海ほうずきを売ってるって知ったから(確かhimenoさんつながりで昨年知った)暑くてきついけど、海ほうずきの為に体張りたくなった。

海ほうずきは久留米水天宮の思い出に繋がるから。

さくらさん、海ほおづえじゃない海ほおずきのためにからだはる!どうぞご無事で!
あしたはやーくおわったら、くるめにいくひま、ないかな。・・・午前中の二時間で巻き上げる脱兎のごとく。そしたらいける湘南乃風(まだゆうてる)ひるごはんたべないでくるめでうどんかっこむ。ってのはどう。
でもなー。そううまくいかねんだよね。

昨日、飛行機で読了した祥伝社文庫「I LOVE YOU」の中の一編、中田永一氏の「百瀬、こっちを向いて」という短編の舞台が久留米でした。西鉄久留米駅の二階の「甲子園」とか出てきます。
ともあれ、この短編集、おすすめ。

甲子園は、お好み焼きのお店です。試合の帰り、日当?として100円ずつもらえたのですが、皆で甲子園でお好み焼き食べて、帰っていました。なつかしいです。

お好み焼き甲子園は有名でしたね。
そこと「甘太郎」のなんたら麺。なんだったか忘れた。中学で英検をうけにいった帰り、引率の古賀先生といっしょに行ったのだけはちゃんと覚えてる。

甘太郎はまだあるんですね。
当時は回転まんじゅうだけだったけど、今は何でもあるわけ?
白あんの大きな豆つぶが入って美味しかったです。

甘太郎はなんでもありました。女子どもがすきそうなのは。いまはどうかな。

きのうのけいびはじごくみたいだったって。無数に入り口があるかんじで、収拾がつかなかったらしい、暑いし。でも成功。また来年もするみたい。若い人たちがたくさんきました。すずきさりながでてくると、うわーっとひとが押してきて、それを押し返すのに必死だったといってた。最前線でふむばってた対馬から来た若い警備士。水分補給もできなかったし休む間もなかった、とかいいつつも楽しげだった。

何気なく「久留米」「ロイリー」で検索したら、このブログだけが出てきました。私はその映画館「ロイリー」の隣に住んでいたのでよく知っています。いずれは昔久留米にあった映画館のことを調べてみたいと思っているのですが…「フクニチ・スポーツ」のバック・ナンバーがあればなあ。

久留米人さんこんばんは。

七年振りに関西から見えた連句の先生が、久留米駅におりたち、まず、こうおっしゃいました。
さびれてますねえ・・地方はいま、どこもこうみたいですねえ。
八女に入ったときも、「七年前よりずっと寂れていますわねえ。」
とおっしゃいました。

フクニチスポーツのバックナンバー。フクニチ記者だった人に聞かれたらどうでしょう。あるいは、くるめの観光コンベンションてところに尋ねられたらどうでしょう。

ロイリー。なつかしい。10円映画、やってたのおぼえてますか?私は小頭町に住んでたので、時々行ってました。「赤胴鈴之助」を見たように思います。

大将会館 と 東映が ダイエーがあった辺りに建ってたそうです
二階席は高かったて値段が

 コメントいろいろありがとうございました。「大将会館」は「大勝館」のことでは?ここがつぶれた後に「そごうストア」か「タイホー」になり、「ショッパーズ」か何かに名前が変わり、それも今はつぶれてしまって、さびれた久留米のシンボルの1つみたいです。
 ロイリーはそこから少し離れていて、いわゆる「新世界」(新興市場?これまたさびれている)の反対側の出口の所にあり、中華料理店「光華楼」?の人が経営していたらしいです。もともと洋画の2番3番館だったけど、夏休みには子供映画特集やって長蛇の列ができたり、でも映画の斜陽期になると日本映画やったり、ついにはピンク映画館になり、そのHっぽい声が隣の私の家まで聞こえてきたものです。潰れた後は駐車場になり、私の家が櫛原に引っ越した後は更にそれを拡張しています(確か、今もそうでは?)。
 ちなみに「田園」は同級生の親が経営していて、何度か遊びに行きました。そのA君をはじめ、日吉小時代の友だち、みんな今どうしてるかな?
 ではまた。

あれま。久留米の還暦の人から教えてもらった館名、違ってましたか。ご愛嬌。
くしはらには母方の祖母が最晩年住んでいました。

ぼんの書いた十円映画ってすごい昔のことでは?
独身のころ、ふくおか天神のセントラルで五百円映画をみてました。ソラリアのあるとこ。すこし古い映画をやってました。

久留米人さん、私は金丸小学校でした。大勝館、ありましたねえ。そこの裏通りに「まるえい」という洋服やさんがあって、お正月前、いつも服をかってもらってました。久留米荘のうどんの話を以前していたのですが、25円のころです。10円映画は小学生のころです。ちゃんこやさんになってた時期もあったような。平井床屋さんはまだあるでしょうか。同級生です。日吉小の人たちは諏訪中でいっしょになりましたが、1学期だけで私も転校しました。

 んーっ、映画も久留米荘のうどんも、値段はいくらだったか忘れてしまった。天神セントラルは1978年頃に1度行ったことあるけど、500円だったのはいつ頃でしょう?
 今の久留米荘本店は、昔と味が変わったとか。JR久留米駅前に支店があるということでしたが、私は数年前に西鉄久留米駅裏の岩田屋?の地下で食べました。中華うどんの「一平」は数年前に初めて知り食べに行きました。六角堂に街頭テレビを見に行くほど近くに住んでたんだけど。
 洋服屋の「まるえい」、なんとなく覚えてます、西鉄近くにあった久留米初のスーパーも最初は「丸栄」と言ったけど、おそらくこれとは無関係、「丸栄」はその後「ユニード」と改名しました。

ああそれで、まるえいってなまえに郷愁があるんですね。丸栄へは母が弟といっしょにお正月やお盆の前などによく連れて行ってくれました。おとうとはおもちゃがほしくて、駄々コネをして泣いてましたっけ。
むかしの子はそんな子を結構みかけたとおもうのですが、いま、そんな子を見なくなりました。みんなすぐに買ってもらえるからだろうか。

セントラルが五百円だったころって、そのころです。五時半起きして遠距離通勤してたのは、昭和五十ニ年から五十四年ころでしたから。

 「かささぎ」さんは僕よりちょっと年下ぐらいなのかな?「丸栄」は、久留米にもスーパーマーケットができる!と小学校で話題になりました。「旭屋」デパートが井筒屋と名前を変えたのはその数年前。その井筒屋も閉店するとか。数年前の夏屋上に行ってみたら、昔の遊園地はもちろん、何もなくて荒涼とした感じでした。
 「ぼん」さんは小頭町出身ということですが、小頭町公園は僕らの野球場でした。ここと東町公園と三本松公園が三大公園?花畑には昔花畑東映という映画館があったのをご存じですか?
 そういえば数日前に「久留米 大勝館」で検索したら、「南太平洋の若大将」の地方版チラシがヤフオクの出品されていました、すでに売り切れになってたけど。

まるえいデパート。記憶にあります。
小学生のころ。
ここに買い物に行ったり、三本松公園にくじゃくを観に行ったりするのが、楽しみでした。

久留米人様へ

若大将映画のポスター、久留米ゆめタウン前のラーメンやさんのインテリアに使われてました。先だって子とそこでラーメンたべ、発見。
井筒やの前に旭やってのがあった。それはしりませんでした。
絣記念館というものがあるみたいですね。井上伝の墓も。コンベンションの冊子で知りました。宣伝不足ですよね。

花畑東映、知っております。私はご幼少のころ大谷幼稚園に通っていましたから。私の映画デヴューは、ロイリーだったか東映だったか覚えてません。時代劇で、駕籠に乗せられた囚人が出てきて処罰される…そんな始まりだったと記憶しています。題名などは覚えていません。この映画がトラウマで、時代劇はきらいです。
小頭町公園は3丁目からは少しとおかったので、あまり行きませんでした。サーカスや、闘犬がきていました。小学校対抗の「鼓笛演奏会」が行われていました。バトンガールの上級生にあこがれていました。

 ロイリーはその頃洋画の2番3番館だったので、ぼんさんの見た時代劇は東映でしょう。花畑東映か当時は「古賀久」の近くにあった久留米東映かはわからないけど。古賀久も10年以上前に改築されて昔の風情がなくなりましたね。そういえば木下サーカス見に行ったのは小頭町公園かな?1971年頃前衛演劇黒テントの公演もありました。
 井上伝の墓は有名かと思ったけど、今はそうでもないのかな?櫛原にある高山彦九郎の墓はどうなのかな?
 三本松公園は東洋一の孔雀園がうたい文句で、ほとんど放し飼い状態、おかげで旅行先などで孔雀が羽広げているのを見ても、あまり感動しません。あの孔雀園はいつ頃なぜなくなったのでしょう?ペンギンもいたしヒグマもいたし、一種の無料動物園でしたね。

そうでしたか。
久留米の観光地はどこだろうか。と考えて、でも知らなくて、人に教えることができなかった自分を恥じました。

で。
チェッカーズ、復活してほしいな。
だいたいなんであのきどったひとは一人で歌ってるのだろうか。うたも昔に比べたらちっともよくないとおもう。仲間とやってたときはあんなに輝いていたのにね。

 久留米の観光地で今も日本中に誇れるのは石橋美術館でしょう。美術や日本史の教科書にも載っている青木繁の「海の幸」、青木と並ぶ画家坂本繁二郎(アトリエが文化センター内に移築・保存)の「放牧三馬」、この2人と同世代だけど久留米でもあまり知られていない古賀春江というシュールレアリズム系画家の代表作もあります。
 ブリヂストンって、「石(ストーン)」と「橋(ブリッヂ)」」を英語で逆にして命名したというのも、久留米人で知らない人が多いのでは?ちなみに東京にはブリヂストン美術館というのがあります。
 チェッカーズの復活は、いろいろ金銭関係の問題もあったようで、しばらくは無理なのかな。F・F氏は、鳥越俊太郎との対談でも、鳥越氏が筑後弁で話しかけているのにやたらきどっていました。

昔東京から友達が尋ねてきたとき、高良山に連れて行きました。そう、1回目にきた時は文化センターのプールで泳ぎました。2回目は、高良山しか思い浮かばず車で高良大社まで。そうそう、このとき車の鍵をつめこんでしまって、お店の人に先が丸くしてある針金をかりたんだった。後、大宰府に行こうかと言ったけど時間がなくておしまい。今なら森林公園から山苞の道を通って草野までいけるし、いろいろあるよね。
高山彦九郎の墓も井上伝の墓も行った事がない。三本松公園はよく絵を書きに行っていた。あひるが放し飼いにしてあり、後を付いてくるのがこわくて逃げ回っていたのを思い出す。

久留米人さん。ブリジストンが石橋の英訳とは知ってるけど、肝腎の久留米の地名の由来を知りません。八女も久留米もなんとなくことばのひびきに負のイメージがありますがなぜでしょうね。かささぎはぜったいこのふたつの地名はセットだという気がする。「め」という強い禁忌の語で韻を踏んでいるから。
やめは已め!止め!辞め!病め!だし、
くるめはもう二度と来るめってかんじ。

ぼんは時代劇がトラウマ。へえー。
やめの福島の映画館に父に連れられて行った記憶あり。たぶん小学校へあがる前?記憶にある場面はお侍さんが波打ち際を歩いている。かたなを紙か布で拭いて投げる。で、幕。
ほかはお姫様の時代劇風ミュージカルみたいなもの。さいごにしゃんしゃんしゃんと手合わせ。

 八女の地名には日本書紀の「八女津媛」からきているという定説があるようだけど、久留米ははっきりしないみたいですね。ちなみに東京にある久留米という地名にも諸説あります(わが久留米と関係あるとかないとか)。福島県郡山にある久留米の地名(最近知った)は、明らかに旧久留米藩が開墾したからだそうです。
 昔、日田に陽が昇った時「陽だ!」と叫ばれ、夜明あたりはまだ「夜明け」で、久留米にはまだ陽が「来るめ」と言われたという話を聞いたけど、これはたぶん冗談でしょう。
 ぼんさんは金丸小出身ということですが、「日吉校に火がついて、金丸校の鐘が鳴る、荘島校の消防車、南薫校は何しょっか」という戯れ歌(いろんなバージョンあり)をご存じでしょうか。僕が小学校の頃は、その金丸校が火事になり、一時日吉校に間借りしに来ていたような記憶があります。

 連続ですんません、実は今、久留米に住んでないので「新世界」が再開発で壊された?ことをさっき知りました。私の旧家は、新世界の(うちでは「新興市場」と言っていた)、国道に面したのと反対側の入口近くだったし、友人の実家もある(あった?)のでショック!井筒屋屋上同様、ここも数年前に探索したけど、昼間通り抜けるのもちょっと怖そうな雰囲気だった。昔、森進一が来て「盛り場ブルース」を歌った時、歌詞の最後を「…、…、新世界」と替えて歌ったほど、久留米の三大歓楽街(笑)の1つだったんだけど。そして、「文化街」が、ここの入口にあった映画館「文化会堂」から来ているというのも最近知りました。

火事のことはよく覚えています。あれは私が幼稚園のころでした。うちの前は辻さんで、平屋だったんですが、その屋根越しに炎が上がっていて、とても恐かった。後で友達になった信ちゃんちは校庭を挟んだ正面の家で、玄関のガラスが真っ赤になって、近寄れなかったと言ってました。
1年生の途中まで二部学級でした。低学年が午前中授業で、3~4年が午後から、5~6年が庄島小学校や日吉小に、行っていたと思います。
地元にいながら小頭町は車で通るだけです。花畑駅周辺も大きく変わりました。わたしは花畑大龍(ラーメン)派ですが、久留米人さんはばんようけんがお好みですか?

(ぼんさん。ようおぼえとらっしゃあですね。)
花畑は職場でこの一年もっともよく出動する交通誘導現場のひとつです。みち、そうとうきれいになって昔のごちゃごちゃしたイメージはどこにもないです。
それと。もとくるめ人さん。
文化街はなぜに文化街なんだろうとずっとおもっていました。そういうことだったのですか。なーんだ。

 ラーメンについて言えば、昔は播陽軒派だったけど、高校時代は近くて安い沖食堂に行くことが多かった。25歳の頃六軒屋に住んでる時は花畑大龍にも行きました。播陽軒はその後なぜかまずくなり、今は大龍バイパス店に年1回ぐらい行きます。文化街の満州屋は高い!満州屋本店はチャンポンがうまかったけどな。最近知った穴場は小頭町?の広瀬食堂、六角堂の大栄ラーメンもまずまずだと思います。替え玉の老舗で坂本繁二郎とも関係のある丸星は、行きたいけどちょっと遠いですね。
 久留米の各地名も昔からいろんな言い方があります。古賀久のあたりは「有楽町」とか、六ツ門近くの「浮世小路」とか、西鉄の(久留米初の歩道橋の)近くに「道頓堀」があったりとか。「両替町」はなくなっても「両替町アパート」は残っているし。ん~、また正月に帰ったら探索してみよう。

久留米の話になるとなぜか盛り上がるね。
久留米人さん、はじめまして。

蛍川なんて町名、知っています?
思い出の町なんだなぁ。

古賀久って覚えがあるけど、飲み屋でしたっけ?

古賀ひさし。人のなまえかとおもった。なんだろ?

さくらさん。ほたるがわ。きれいな名ですが、通ったら川などないし、裏町ってかんじのところですよ。そこがなにか?
ああ。初デートでしたね。笑

今日は現場。約一年ぶり。老体にむちうち、立ちますか。断わりきれなかったよ~

古賀久。こがひさしではないばい、かささぎどん。
こがきゅう。を知らんのかい。
労働者向け?の酒場です。
若いころ、職場の上司に連れられてよく行きました。おっちゃんが異常におおい飲み屋。安くておつまみがたくさんあって。一度リニューアルして、女性ばかりでも行きやすくなったとのことで女性ばかりで行ったことがあります。でも、やっぱりおっちゃんばっかりで、恥ずかしかったのを覚えています。さて、いまはどうなったんだろ。
蛍川には今も行きますよ。その名も「ほたる川」という焼き鳥の美味しい店があって、ここはいつも客が多い人気の高い店です。機械があったら行ってみてください。久留米人さん。さくらさん。

 螢川は今も町名として残っており、第一病院の前の道を寺町方面に5分ぐらい歩いたあたり、鮎川誠が昔この辺に住んでいたようです。ついでながら今は俳優やってる石橋凌も久留米出身の元ミュージシャン、私のヨメの城南中・久留米高校時代の同級生で本名は石橋秀樹というそうです。
 古賀久はリニューアルしてやや小ぎれいになり、2階は小じゃれた感じになってるけど、どちらにしろ昔の古賀久らしさはなくなり値段も高くなった。あ、第一病院の斜め前にある「桃屋」のうどんはおすすめですよ。

seikoさんより早く「こがきゅう」を書こうとしてたのに、パソコンが固まってしまってできなかった。SOSをseikoさんにだしたのにふられた。娘にもSOSだしたのにこちらも応答なし。。しかたなくだんなに助けを求めた。強制終了を習ってやっと会社にいけた。今日は一日ついてなかった。

桃屋のうどん  知りませんねえ。焼き鳥の蛍川も。行ってみたくなりました。

蛍川は昔から何もなかったよ。
ただ寺町に近かったから寺町は良く歩いた。
井上伝、高山彦九朗の墓は寺町にあったごたる。

若大将の映画は大半見ました。あそこ、大勝館といったかどうか覚えていません。
若大将見て播陽軒でラーメン食べると言うのが定番でした。
古賀久って松竹映画館のとこでしたっけ?

みなさんの会話で自分のしらない久留米を知ることができる。ありがたいなあ。
うどんやさんのおいしいところ、しらないので、いろいろ紹介くださいましね。

 考えてみたら蛍川には昔から蛍もいないし川もないね、たぶん江戸時代からの地名なんでしょう。
 古賀久は六ツ門にあり、去年この近くの「みずまや」という店でチャンポン食ったらうまかった。松竹ビルにあるのは「酒蔵松竹」で、ここは昼の定食がお勧め。JR久留米駅近くの「さわ荘」・古賀久・松竹が、久留米の三大老舗大衆居酒屋(兼食事処)では?
 松竹はもともと映画館だけだった?で、それより駅に近いところに大映もありました。東映は六ツ門から入ったところ、日活は文化街にあり、大勝館は東宝系、以上がかつての邦画5社封切館です。
 ところでさくらさんの7/4の投稿にあるおもちゃやさんって、「高島屋」ではないですか?小中時代の同級生の家です。六角堂からはちょっと距離があるけど、とにかく松竹の隣です。近くにはこれまた同級生の家、肉料理の「三原屋」が今でもあります。

さわ荘も松竹ももうありません。さわ荘はマンションに変わろうとして、もう工事がはじまっています。
松竹は、名前が変わっただけかもわかりません。いくつかのおみせがはいった、レストラン街?と、確か予備校が上の方の階にあったようなきがします。26日にここの店の一つ、つつじ庵というところでしょくじをするよていになっています。この辺りへ行くのも本当に久しぶりなので、楽しみです。

松竹は英進館ビルでした 数年前まで
それが手狭になり ちょうどベスト電器ビルが移転したあとに英進館が移転しました 駅のすぐ前
両方の英進館に行ってたので 松竹会館は知ってます

女が居酒屋に入る習慣があまりなかったあの頃は、毎日前を通っていたのに松竹の居酒屋には入ったことはありませんでした。
だいたい、食事を外で食べて帰る習慣は、よほどのことがない限りありませんでした。

松竹の左側のおもちゃ屋さんはそうそう「高島屋」、かすかに思い出しました。
今は学習塾ねぇ。繁華街で。
彼と「マイフェアレディ」見たのも東宝の大勝館だったような、若大将とへッブバーンは全部見ました。

 さわ荘は15年以上前に行ったきりなので、ああそうなのかと思うけど、松竹までなくなっているとは…そういえば今年8月にあのへんで旧友と待ち合わせている時、何となく前と変わったなと思っていたら、うちのヨメが、塾がベスト電器があった所に移ったとか言ってたな。結局あのへんはチェーン店的な飲み屋ばかりが目立ってました。高島屋もなくなったのかな、三原屋の看板はまだあったけど。
 ところで昔の映画館については、4年前に福岡県立図書館で「50年前の映画界」という特別展があったみたいで、そのホームページ?に当時の福岡県の映画館一覧があり、久留米の映画館が11館載っています(でももっとたくさんあったのでは)。この中で私が知っているのは大勝館と文化会堂ぐらい、文化街の住所は「日吉町新天地」とあります。瀬ノ下に映画館があったのは覚えているけど「ニコニコ座」なんて名前は初めて知ったし、当時はまだ三井郡だった草野に映画館があったというのにもビックリ。そう言えば、去年か一昨年、草野でロケした映画が作られたらしいですね、まだ見る機会がありません。

みいぐんてよむのかな。それとも、みついぐん?
いつもよめないんだよね、このちめい。とほほ

松竹はまだあるっちゃないかな。映画館も居酒屋も。だって塾があったころからまだ両方ともありましたよ。てことは塾が移動したあとも残っているんじゃないかな。
法事の日、大村のおじ(今は福岡)がうちに泊りました。おじの嫁さんは大川の古い映画館主の家の人でした。はやくなくなりました。関係ないのですが

 かささぎさん、三井郡は「みいぐん」と読み、昔は小郡市も三井郡の一部でした。数年前に北野町も久留米に合併されたので、まだ三井郡って残ってるのかなと調べてみたら、何と大正年間は櫛原や国分も三井郡だったと知りビックリ!そしてまだ大刀洗町だけがなぜか残っているようです。ちなみに大刀洗(たちあらい)という地名も宮の陣と同じく、南北朝の争乱に由来しており、また戦前は陸軍の飛行場があったところです。
 松竹はまだ残っているのかどうか、年末帰省した時に行ってみます、ついでに「新世界」跡なども。

ぜひそうしてください。こちら今日、柳川の合同庁舎へ行くとき前を通りましたが、よくわからなかった。なんだか、明治通りそのものがガラ~ンとしてます。
みい郡ですか。そんなら、岩井の戦争の御井で戦った。っていうのも、今の御井町ではないのかも。もっと範囲がひろいんでしょうね。
ぼんに手紙だすとき、宛名を覚えてる形で書いてしまいます。そしていつも怒られる。三潴郡高三潴。こんだけしか書かない。そんだけしか覚えていない。郡はなくなって、久留米市になったんだ。いっそ、三潴県にすればいい。むかしの一時期みたいに。どこが郡でどこが市かわからん。きたのにきたの。くるめにはくるめ。・・あそんでいなさいいつまでも。

 お久しぶりです。
 私は一昨日久留米に帰ってきて、さっそく「新世界」跡を探索してきたけど、何と、真ん中の部分だけ更地にした後、そこを開発するはずだった業者が倒産し、そのまま工事がストップしているのだそうです。だから周囲の(表から目に付く)部分はまだ店をやっていて(ゲームセンターとか播陽軒とか、逆のほうの入り口の飲み屋とか)、私の友人の実家の飲み屋も、商売はもうやっていないけど店舗・住宅は残っていました。しかしこれからどうするつもりじゃろ。通りに面していればとりあえず駐車場かなんかに使えるだろうけど、あの状態じゃどうしようもない。そして、あそこにビルを建てた後戻ってくるために、取りあえず仮住まいしている人たちはどうなるのやら。バブルの反省がまったくなかったのでしょうね。「昭和レトロ横丁」とでもして保存しておいたほうが、よっぽどよかったのでは。あと、光華楼は倒産したとか、文化街は昔「新町」と言っていたとか、久留米荘本店のあたりはかつて「おぜき町」と言っていたとか、以上は今年80歳の父からの情報です。
 さて今日は、櫛原の家を出て、ます小学生時代以来の遍照院(高山彦九郎の墓)・井上伝の墓・高山彦九郎終焉の地などをめぐり、明治通りに出てきました。松竹会館の「酒蔵松竹」はまだありましたよ、ぼんさん。前も書いたとおり、ランチタイムがお勧めです。「古賀久」はつまらんごとなった(これは父の言葉)。松竹近くに旧友宅の「高島屋」がまだ営業しているのもうれしかった。それから、ぼんさんが書いていた、JR久留米駅近くの旧ダイエー(グルメシティ?)の久留米荘支店は昨日発見~しかしダイエー系列店がつぶれていく中、この店は何と24時間営業で、100円ショップはあるし、久留米荘はあるし、家から徒歩20分弱でいけるのでありがたい!
 ところで私は今久留米リベール地下のネットカフェにいますが、近くの岩田屋新館地下にも久留米荘支店がありました。ぜひ一度どうぞ。さてこれから花畑までまた散策して、大龍本店があったら行ってみようかなと思っています。もしいっぱいだったりなくなってたら広瀬食堂にしようかな?久留米荘本店に行ってみようかな。久留米の味の宝庫とマニアック史跡は数日では回れない?年末~正月休みもあるだろうし。とりあえず1/4午前中ぐらいまで久留米に滞在の予定です。
 以上、長々とすみません、他に久留米の話題が載ってるページ(コーナー)があったら教えてください。

久留米人さんへ
ようこそおかえりやす。あらら。
こういうときはなんというのでしょう。おかえりやっしゃ。じゃなかですね。ずいぶん久しぶりでございます。
帰省中はパソコン環境から切れておられるのですね。いまごろは紅白歌合戦。藤あや子とか。笑
そのネットカフェは、うちの長男が行ったことあるそうです。ほかに久留米の・・・そういえば、さくらさんならご存知かも。かささぎは視野きょうさくです。笑
その再開発のとこが倒れてほっぽらかしにされている・・・というのは、気の毒ですが、けっこうあるようです、いま。
また、おたちよりくだされ。おたっしゃでー。かしこ。


あけましておめでとう。ことしもよろしく。
久留米荘はどこの支店も行ったことがある。でも、何故か皆愛想が悪い。本店がいくらかましかな。次女は何故かここのうどんが苦手です。私と長男はJR駅前のグルメシティによくいきます。大龍は花畑駅の中にはいっているそうですが、もう20年以上いっていません。護国神社前の大砲ラーメンの支店がかみつバイパスにできているので、そちらによく行っています。「昭和亭」といいます。長女はここのラーメンが好きなので、青森に戻るときはいつもかって行きます。

ゆめタウン前の大砲ラーメンで撮った写真があります。加山雄三のふるい映画ポスター。なつかしい。
うどんやさん、東合川に「立花うどん」ってのがあります。昼時行くととっても多い!サラリーマンが。かささぎの感想、日によって味にばらつきあり。だしが超うすかったり(塩味はきいてる、薄めたんだ)めんがくたびれてたり。でもおいしいときは起ってる。柳川にもあるってやながわの子がいった。
昭和亭、三年前の正月4日の夜、むすこといったら、長蛇の列、外で待つ。寒かった、火鉢と熱いお茶の紙コップサービスがあった。客がにげないように!

あそこはいつも並ぶんです。入れたと思っても、中で待たされる。時間に余裕があるときでないといけないところです。

 仕事と交通機関の関係で今日早めに帰ることになりました。親族会議?とかいろいろあって、その後久留米探索もあまり行けずに残念!井筒屋の見納めにも行きたかったのに。あけぼの通りも一番街も今回はパス(毎年よく通ってるからいいけど)。食い処といえば、父とヨメの3人で「しげなが」に行こうとしたら年末休業で、この系列の回転寿司店に行ってきました。普通の回転寿司より高いけど、本当の板さんが握っているので味はグ~!
 大龍の花畑本店は正直言って今イチ、30年前はおいしかった記憶があるのに…数年前に行ったバイパス店のほうが良かった。「立花うどん」は結構有名で、私も数度行ったことがあります。「昭和亭」はどこにあるのでしょう。
 さて、今度帰省するのは8月か、でも親の都合によってはGWになるかも。

くるめびとさん。
しょうわていは、昇和亭、上津ちかくの新バイパスにあります。三号線から209号へ出る途上です。

いろいろとご報告ありがとうございました。
帰郷は楽しかったみたいで何よりでした。
ではお元気で。

 上津ちかくの新バイパス!そうか、うちの実家(櫛原1丁目)からヨメの実家(藤光町)に行く途中で、前はバイパス沿いにあるネットカフェを使っていました。かささぎさんのブログの主旨とは少し違うかもしれないけど、もっと久留米について語り合いたかね。そしてぼんさんと同じく、いつかは久留米の(知る人ぞ知るディープな、特に1950年代後半~1970年頃の)昔を書き残したいと思っています。
 井筒屋の見納め、できなくて残念でした。ゲゲッ、今「井筒屋」で検索したら、1/24に鮎川誠が来るじゃんね、私の小学校・高校の4つ?先輩で、間接的な知り合い、わ~、行こうごたる。何っ?久留米と全然関係ないけど、元憂歌団の内田勘太郎も来る!!クックッ悔しかばってん、今住んでいる東京の離島からではそれもかなわず!誰か行って、その時のことを教えて欲しか!なおこのことは、「ナカジー・けいすけのゲバゲバサタデー 久留米井筒屋スペシャル|KBC九州朝日放送」で知りました。鮎川さんの久留米に対する思い、ぜひ見て、聞いてください。

知る人ぞ知る、くるめのディープな60年代から70年代にかけてを文章で再現したい・・・という久留米人さん。
すごかです。
鮎川誠。私はよくしりません。あの顔の細くて長い、バタ臭いくせにちっごべんしゃべる人。そしたら、父親はアメリカ軍人、会ったことはない。と書かれていました。ああ、だからなのか。昔のスターたちが書いた文章をよんでますと、みな戦争の陰をしょってます。ショーケンは父親を戦争でなくしてるし、九州少年を書いた甲斐よしひろの父も戦争から帰ってきたもと軍人。もと軍人はどこか壊れてる。
東京の離島ってどこどす。八丈島。小豆島。
さしさわりのない範囲でいずれおしえてください。
鮎川誠は1948年生まれ。・・・
ではながいきをしてください。ははは。

同じ思いの人がおられることに感激しました。うちは小頭町3丁目だったので、花畑駅周辺の記憶(大谷幼稚園からの)が消えつつあります。早く文章化したいと思いながらできずにおります。久留米人さんと協力したらできそうですね。帰省されたとき連絡ください。

花畑はむかしほんとうに花畑があったんですって。
おとのさまの花畑?
久留米からバスに乗ると、花畑経由と諏訪野町経由があって、花畑経由はのろのろとしてせからしかった。笑
電車の駅のところで二つ踏み切りがあったよね。
で、柔道着を着たにいちゃんのおおきな古い看板が出ていて、それがなつかしかとです。

 花畑周辺は本当に変わりましたね。小頭町三丁目ってどの辺でしょう?私はヨメの実家に行く時、小頭町公園の近くからバスに乗ります。また、30年前には六軒屋で1人暮らししたこともあります。ぼんさんは1学期間だけ諏訪中だったそうですが、私は日吉小→諏訪中卒業です。うちの弟(1955年生まれ)と諏訪中で一緒かも。いや、もっと若い?ちなみに私の実家は床屋で、父が昔理容組合長をしていたので、今回の帰省で「平井床屋」のことを聞こうと思って、つい忘れていました、ごめんなさい。
 弟は今久留米に住んでますが、私は神津島という、東京都民でさえあまり知らない所に住んでいます。八丈島に行きたかったのに騙されてしまいました。生まれてずっと「市民」だったのに、最初で最後の?「村民」生活をしています。 
 「柔道着を着たにいちゃん」の看板って、たぶん私が高校の空手部に入った時空手着を買いに行ったところだと思います。

久留米に住んでいたわけでもなく、子供時代の久留米に記憶なし。そんなわたしが一番、変貌ぶりを感じるのは、久留米市役所界隈。三本松公園も含めて。
仕事柄、なんどか古い久留米市役所に出向いたことがあるけど、木造の暗い4階建てか3階建ての建物だったように思います。いまはもう面影もない変わりようです。公園もへんにこじゃれてしまって。

それと一番街の覇気のなさ。
10代後半から二十代前半まで、つまり花の独身時代、週末になると一番街を闊歩しておりました。二番街にある「モダン」「J&R」「yamashita」などのお店を覗くのが好きでした。「yamashita」はニュートラファッションの草分け的老舗で、わたしの憧れのお店でもありました。そういえば、そのころよく食べた「インドカレー」の店(名前がわからんちゃん)ももうなくなってたみたいです。

「モダン」はものすごく古い洋品店だと思います。
なにしろ83歳の例の手芸叔母が常連でしたから。
「とよしま」も。
随分前にネットで、女房は「とよしま」の店員でした・・と言うコメントもらったことあります。

「J&R」は、もしかしてまえは「とよしま」では?
私の頃はトラディショナルのはしりは「アンネマツモト」でした。
ここのはどれもステキでした。
Tシャツと言うものがここで初めて売られていました。(前にも書いたかも)
Tシャツがなかった時代をしっとる 、おっほん。

「新世界」って名前がたびたびでてきますが久留米人さん!
第一病院のほうへ行くあたりに川があってその脇にあった怖いような歓楽街のことですか?
国鉄久留米駅の前あたりに花馬車って言うキャバレーありませんでした?

コンタクトレンズを初めて作ってもらったのは文化街の中の眼鏡屋さんでした。

小学校時代の友達よしこちゃんに電話したら、まだ井筒屋の配送センターに勤めているって言ってた。
その前は久留米がすりのお店に勤めていたよしこちゃん。

アンネマツモト。わたしもそこに行ってましたよ!
西鉄名店街のなかに姉妹店があって、そこにもよく行ったものです。そうそう。とよしま。ニューとよしまってのもありましたね。高級な外来生地などが並んでいて。ここには縁がなかったなあ。

新世界って、ショッパーズがあったあたりの飲み屋街のことではないでしょうか?行ったことはないけど、若い頃、職場のおとこどもが楽しんでいたのではなかったか。名前を聞いたことがあります。

そん、ショッパーズはわからん!

紳士服のフタタのあたり?

さくらさんの「そん」が気に入った。笑
孫正義かとおもった。(このひと、とすのひとではなかった。)
はあ~ねむてえ~もうかしゃしゃぎはねましゅ
あさがはやいので なぜかしらんけど
せいこさん ぼんしゃん 日曜よろひく
おれはキドにきてほしかった キドコーイン
けどさそえんかった  なんでかていうとだな
めんどうだったんだよ案内状だすのが 
はあ~まだ年賀状かいてねえ 一枚しか

きぼうという名の 
あなたをたずねて  
さむいよふけに
またきしゃにのる
かなしみだけが
わたしのみちづれ
となりのせきに
あなたがいれば
なみだぐむとき
そのとききこえる
きぼうと
いう名の
あなたのあのうた
そうよあなたに
またあうために
あたしのたびは
いままたはじまる

そうだ!
希望ってのは
まず「癸卯」というのがあって
その音に合う漢字を
あとからくっつけたのかもしれない
じゃおやしゅみ~

ショッパーズはそごうストア、もしくは最初のタイホーの事です。久留米人さんがよくいかれていたえいがかんがあったところ。さすがの私も、飲み屋街のことはよくしらない。
小学生時代、六つ門地区に遊びにいく子は不良だった。日吉小の前にあった文房具屋さんに、紙石鹸やリリアンを買いに行っていた。六つ門は都会で、小頭町は田舎だった。境目に池があって、そこでザリガニつりをよくやっていた。今はだいしょうえん(かな?)という焼肉屋になっていると思う。

 3連休で「島抜け」している間に、久留米関係のコメントいっぱい入ってうれしいです。それにしても「新世界」に悪いイメージ持ってた方多いんですね。確かに近くの銭湯「大黒湯」は、水商売系の人のためか夜12時頃まで開いていたし、刺青の入ったお兄さん(おじさん?)もよく見かけたし。でも、飲み屋だけではなく、貸本屋や雑貨屋もあり、ちょっとした文房具もここで買っていました(もっと本格的な文房具店は六角堂に)。
 seikoさんへ。今の市役所はバブルの象徴ですね。IT時代に入ったから仕方ないとはいえ、昔の市役所のレトロっぽいところが良かった。二番街というのは「一番街」ができた後にいつの間にか付けられた名前です。「インドカレー」の店、堀川酒屋の近くにあったけど、そうか、もうないのか。一番街(アーケード)ができる1970年までは今の一番街・二番街を「西鉄通り」と言ってたと思います。ちなみに一番街ができた記念にロマンビルの前に仮設ステージが作られて、高校生の私はそこでギター弾いて歌い小遣い稼ぎしました。「一番街は若い町」というご当地ソングも作られたけど、今知ってる人はどれだけいることか?その1年後ぐらいに「池町川夜曲」というレコードも発売されたけど、これについてはまた後日。
 さくらさんへ。「花馬車」の名前だけは覚えています。でもキャバレーと言えばやはり池町川沿いの「火の鳥」?だったかな?それと、「とよしま」は私の幼友達の嫁入り先かも?「アンネマツモト」は覚えとらんけど「マツモト」はVANとか売ってた店では?これまた同い年の知り合いが一時期そこで働いていました。「新世界」はseikoさんやぼんさんがおっしゃるとおりで、元々「大勝館」という東宝系映画館(若大将シリーズなど)があり、1971年頃にスーパーマーケットに変わったところ~そごうストアからタイホーからショッパーズへ?もうその頃は大学生で久留米を離れていたので記憶不鮮明。その前の国道を挟んだ向かい側が「新世界」の一方の入口で、もう一方の入口が私が昔住んでいた所、ぼんさんも行ったことのある「ロイリー」などの前です。今でも残っている「三好電気店」の向かい側から入ったところになります。
 ぼんさんへ。私は六ツ門や新世界の近く(ロイリー映画館の隣)に住んでいたけど、幸か不幸か不良になりきれなかった。日吉小の前の「文房具屋」は私が小学生の頃、「あだち」「原口」の2件があり、駄菓子屋も兼営、10円のお好み焼き食ってました。そのうちの1件は、今年34歳になる甥が小学生の時代にもあったそうです。小頭町が田舎??いやいや、私のイメージでは櫛原の方がもっと田舎でした~今のバイパス入口あたりには蓮根堀があった時代なので。
 六ツ門町いう町名は1972年頃の町名変更でできたので、昔の私の家(井筒屋裏、ロイリー近辺)は東町でした。両替町も紺屋町も細工町も、今やみんな無粋な城南町に。
 かささぎさんへ。長々と昔の久留米の話でごめんなさい。そしてそして「希望」という歌の歌詞ありがとう。岸洋子でヒットしたけど、その前に「フォー・セインツ」というフォーク・グループが歌った歌ですね。次は高良山のコーナーにワープするかも知れません。

久留米人さん。以前書かれてた事を教えて下さい。

「替え玉の老舗で坂本繁二郎とも関係のある丸星」

丸星ラーメンと繁二郎、どういう関係があるのです。知らないので教えてください。
八女に生まれ育った者にとって、坂本繁二郎は、なんといいますか「聖なる君子」であり、あおげば尊しと仰ぎすぎた結果首が凝るみたいな人なんです。ですが、それは知りません。

いれずみ。
むかし、共同風呂というのがありました。そこで、一度だけ、みたことがあります。あれはわすれられない。龍。背中一面。こどもごころにも、ことばを、なくした。一瞬。一瞬しかみてはいけない。とおもった。

いれずみ。若い頃の思い出があります。
おしごとに関連して、某組系某組の組長さんちに印鑑をもらいうけに行かねばならなくなり、行きました。うらわかき乙女が勇気を出して、それもたったひとりで。
玄関で奥に声をかけますと、野太い返事とともに若い衆がでてこられました。半そでのちりめんしゃつ。じいちゃんたちが真夏に着るような。そのうす~いシャツに透けて、からじしぼたんだったか、のぼりりゅうだったか、さくらふぶきだったか、わからんけれどもご立派な彫り物が見えました。下腹に力が入った自分を感じたできごとでありました。あの若い衆は、組長夫人を「あねさん」と呼んでありました。テレビで見た岩下志摩さんみたいじゃろ?

 丸星ラーメンと坂本繁二郎の関係、そう言えばまだ坂本繁二郎が生きていた頃、この画家と当時の店主は交友関係にあり、店内に作品が飾ってあるとかいうことを、諏訪中の教師から聞いたのをうろ覚えしていただけでした。そこで、あれこれ検索してみたところ、次のようなことがわかったのでお知らせします。

 丸星ラーメンの奥、右上の壁に2枚の油彩画レプリカが掲っています。そのうち1枚はダルマを描いたもの。かの坂本繁二郎画伯が丸星ラーメンの裏に住んでいたのですが、画伯の引っ越しを丸星ラーメンのご主人が手伝った際に画伯から贈られたものです。実物は、久留米市内の石橋美術館に預託されています。画伯は、丸星ラーメンのご主人が、毎朝、店の前の地蔵に願をかけているのを気に懸けていたそうです。引っ越しの際の雑談で、「毎朝、何を地蔵に頼んでいる?」と尋ねた画伯にご主人は「なかなか商売がうまくいきませんが、頑張っとります、と拝んでいます。」と応えたそうです。画伯は、それでは七転び八起きで頑張るようにとダルマの絵をご主人にあげたのだそうです。

 以上です。ところでかささぎさんは、八女のどちらのご出身でしょうか。私の父は広川町出身です。また現在住んでいる島の住宅の隣には、奇遇なことに御夫婦とも立花町出身の方がいます(うちは両方とも久留米)。八女高卒業で、今はなき矢部線で通学したそうです。そういえば、私がまだ小学生にもならない頃、東町公園の前を路面電車が走っていたような記憶があり、先日父に訊いたら、日吉町から八女の福島まで通っている三井電車というのがあったそうですが、どこをどう走っとったつやら?ご存じの方いたら教えて下さい。
 それにしても、たまに久留米がニュースになると、犯罪関係か暴力団関係かで、知らない人だったら危険な町だと思うでしょうね。「新世界」だって、銭湯での「刺青もの」だって、幼心にそんなに恐いというイメージではなかったけど…「新世界」にはまだ父の行きつけだった小料理屋が残っているみたいです。機会があったら誰か一緒に行きませんか?

私の母は八女出身です。母の実家に行く時電車で行ったことがあります。広又から一丁田を経由して電車は行ってました。小3の時二つ下の妹と二人で行ったのですが、車掌さんに「終点で降ろしてください。」と母がお願いしていた事を覚えています。『土橋」まででした。
両親はもう他界したので、兄にきいてみます。兄は昭和20年生まれ、諏訪中出身です。

久留米人さんへ

そうだったんですか。
これでよくわかりました。ありがとうございました。
いまは、どんなかな。いまも繁盛してるかな。丸星ラーメン。いつか絵をみにいこうっと。お昼に。

三井電車といってたのですか。
久留米から八女まで電車が通っていたのは聞いたことがありますが、乗ったことはない。伯父がその車掌をしていた話をきいたんだった。もっとよく聞いておけばよかった。それにしても、ぼんは乗ったことがあるんだね。そんな化石みたいに古い時代を生きてきたのけ。げげげ。おないどしだった!

ぼんよ。ぼん。その記憶はちょっと違う気がする。
わたしのばあちゃんは川瀬出身で、3号線のすぐそばが実家でね、ばあちゃんについてお盆やお正月は泊まりに行くのがたのしみやった。で、わたしの記憶では、小学校1年生のころ、すでに3号線にはバスが走っていたよ。
電車が小学校3年生のときまで走ってたのなら、いくらなんでも、電車の記憶がわたしにないはずなかろうう?広川生れ広川育ちのわたしに電車の記憶はなかよ。

電車のはなし。わたしも姑に聞いてみるね。
姑はいまの八女学、つまり八女津出身。
女学校のころ、川瀬から土橋まで電車通学してたらしい。いまの福島高校がある坂道になると、客の重みで電車がスピードがぐんと落ちてたんだって。坂道になったら、若い人は降りて電車の後押しをしてたと前に話してくれたことがあった。

三井電車。いつまで走ってたのかなあ。

http://www.catv296.ne.jp/~sensyo/tetudou.htm

今朝、こんなのを発見した。
日吉町から土橋まで走っていた三井電車。
どうやら昭和33年11月で廃線になったもよう。

おや、そうかい。
じゃああの記憶はバスのものだったんだね。ずーっと電車とばかり思っていた。ごめんごめん。
広又を走っていたのは間違いないようですね。

 「三井電車」についていろいろありがとうございました。私もネットで調べてみたけど、何と1912年(明治45!)に甘木から福島まで開通したのだそうです。その後紆余曲折を経て、完全に廃線になったのがS33年、その時は日吉町から広又ー花畑ー一丁田経由で福島(「土橋」?)という路線で、正式名称は「西鉄福島線」、ちなみに西鉄甘木線は昔の「三井電車」の名残らしいです。ぼんさんの記憶は、S33年に小3だったのなら、あるいはその記憶がもっと小さい時のことだったのなら正しいことになりますね。私は小学校に上がる前なので、路面電車の線路があった記憶しかありません。
 seikoさんは広川生まれで広川育ちとか。でも「三井電車」はやはり、S33年までは国道3号線を走っていたようです。ところで数年前まで私の旧友が、広川町で「木下塾」という学習塾を開いていて、結構評判良かったらしいし、何回か遊びにも行ったけど、ワケありで潰れてしまいました。
 かささぎさんへ。私が丸星ラーメンを「替玉の老舗」と言ったのは、1970年代まで久留米のラーメン屋で「替玉」やってるところは珍しかったと思ったからですが、果たしてホントのところはどうでしょうか?

私が久留米に通勤していたのは昭和37年~43年までのたった6年間だけどその後東京に住み始めてから、帰省するたびに必ず久留米には行っっていたことと、一緒に働いた職場の人たちが、久留米は勿論、八女、広川、筑後、甘木、大牟田、柳川、吉井田主丸からの通勤者だったので、ここで登場する地名がただただもう懐かしいのです。
(前にも言ったような気がする)

なんだか、「あそこにあれがあったねぇ、じいさんや」「はぁはぁ、そういうやあそこにもあったねぇ、ばあさんや」のような会話になって、同じこと何べんも聞いたり言ったりしてるような気がしてきましたね。
特に私が。
新世界が大勝館の付近だった・・・・目を閉じてみたら映画館裏のあたりの路地が浮かんできたような消えたような・・・。
新世界付近行って記憶を確かめたい衝動にかられました。

最近まで町名聞いたらあの辺だ・・・と思い出すこと出来たのにこの数年ですっかり記憶が薄くなった。
でも広又は思い出した。
広又材木店があった。

西鉄福島線は初耳。
福岡行きの電車が宮の陣で分かれる甘木線も西鉄三井線だったなんて初耳。
あの辺は最近まで三井郡(みいぐん)だもんね。

メインストリートの郵便局交差点を一番街商店街を突き抜けてまっすぐ南の方へ行くとボーリング場あったよね。
残業ばかりで明るいとき退社したことなかったけどたまーに仕事が早く終わるとみんなでボーリング行ったよ。

アンネマツモト、そうそう、私が行っていたころの後の時代だけどVANを扱っていましたよ。
六つ門のロータリーの向こうと、明治通りの郵便局前と2箇所ありました。

私がじいさんばあさんの世間話調にしてしまてごめんだけど、とにかく久留米の話は楽しいよ。


久留米人さん。その「木下さん」なら存じ上げておりました。こわもてのお顔ながら誠実なきちんとした方だったと記憶しております。あまりお体が丈夫ではなかったようにお見受けいたしました。最近お見かけしませんね。お元気なんでしょうか。
わたしはどちらかというと筑後市に近いところに住んでいます。お父上の出身地は上、中、下、どちらなのでしょうか。

みいでんしゃって発音するんだ。シェー!ざんす。
三井、みつい財閥がやってたのかと思った。
ばあちゃんじいちゃんに聞いた。
父は小6の修学旅行でこの電車にのれるというので、夜眠れなかったそうです。八女三河小から福岡県庁と西日本新聞社へ行ったんだって。一方、八女の山奥の母は、高良山登山だったそうです。じぶんで編んだわらじを履いて。うーせつないねえ。
ちょっとコメント長すぎるね。紙面を改めましょうか。

三井電車は、ごくごくかすかに、記憶があります。昭和33年11月に廃線なので4歳になる前の記憶。夢のような記憶。夢かもしれない。
母に尋ねたら、三井電車は、上津(荒木)手前の坂道を、しばしば降車して押さなければならなかったとか。逆に、下り坂ではスピード制御ができなくて、しばしば人が跳ねられ、筵が掛けられていたとも。
かつて家の前を走っていた、自転車くらいのスピードしか出ない南筑軌道(昭和15年廃止)でも、どんどらの木下家(母方の姓)のすぐ近くで死亡事故があったと。南筑軌道は1903年に南筑馬車鉄道(1905年に動力を内燃に切替え、南筑軌道に改称)として羽犬塚-山内間を走っていたものが、黒木軌道と合併し、羽犬塚-黒木町間を結んでいた。「どんどら」の手前の停留所が「福島」、次の停留所が「後ノ江」。
平行して走っていた矢部線(昭和60年廃止)も羽犬塚と黒木を結ぶが、予定としては「羽犬塚ヨリ矢部ニ至ル鉄道」で、とうとう全線開通に至らずして廃線に至ったもの。将来的には大分県中津江村の鯛生を経て宮原線の肥後小国までを結ぶ計画だったが幻に。
沿線には軍事施設や関連の工場が多かったため、戦時中も建設工事が続行され、終戦後の1945年12月に開業した。日本の鉄道路線では終戦後初の開通路線。

ああ。それで堺屋とは親戚なのかもしれませんね。旧木下邸。
ぼんも乙四郎もごくちいさいときのきおくがちゃんとのこってる。すばらしい。
どんどら。
母が初めて勤めたのはどんどらのあだちさんというざいもくやさんだったそうです。とてもいいひとだったって。
おかげでそんな昔のはなしをきくことができました。

その材木屋さんの敷地の隅っこを売ってもらって、木下家が北川内から引っ越してきたとか。
南筑軌道が廃線になった後、御用済みのポンポン電車がずらーっと材木屋さんの敷地に並んだらしい。

こんにちは
映画館のことを調べていたらここにたどり着きました☆
時々のおじゃまだった頃なので、みなさんのおしゃべりを楽しく読ませていただきました^^♪
久留米の話、かなり盛り上がってますね~!
かささぎさんはこのころに丸星にある繁二郎氏の絵を見ようと思われたのね
叶ってよかったです^^

はい。ラーメン一杯380円には驚きました。

それと、もう一つ叶いました。
最近話題にのぼった片桐ユズルの詩が載っているやなせたかし著「だれでも詩人になれる本」が昨日入手できたことです。
あしたにでも引用いたします。お楽しみに。

はい。ラーメン一杯380円には驚きました。

それと、もう一つ叶いました。
最近話題にのぼった片桐ユズルの詩が載っているやなせたかし著「だれでも詩人になれる本」が昨日入手できたことです。
あしたにでも引用いたします。お楽しみに。

ただいま、帰りました。
うわ、びっくりした。ここ、長い長いコメント欄ですね。
ろいりさんが初登場されたところでした。
わたしは湘南の風が六角堂広場にきて、勤務先がイベント警備をしたことを書いていたっけ。と思って検索したら、ここにでました。
さくらさん、あそこ、2000人も入るのですよ。
すごいよね。でも、みんな素通りするのかな。
シャッター通りでは仕方ありません。
井筒屋までなくなったのだしね。

かなり時間かかりました。
金丸小 久留米
検索でみえていたから、読み返してました。
百近いコメント、懐かしい。
勉強になります

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