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2008年6月16日 (月)

源鑑述百首和歌 春の部

    暦論  その六

                姫野恭子

俳諧が息を吹き返した。三月二十日お彼岸中日に、八女で連句興行が叶ったのである。
場所は八女福島の堺屋(もと造り酒屋)の石庭。そこに緋毛氈を敷いて、五つの座を拵え、それぞれの座を客人で埋めることができた。
迎える捌はすべて連句会亜の会(前田圭衛子代表)の面々だ。みな若く、座での捌の経験は無きに等しかった。しかし気合だけは充分あり、ひるむことなく半歌仙を二時間弱で満尾することができた。例年ならこの日は雨の天気も晴れてくれたし、立案から興行まで正味二ヶ月の準備期間しかなかったけれども、私達捌に、初心者相手の歌仙の巻き方(ことにいかなる地位の人が同座したとて座では平等、ゆめ臆するなかれ)等々、懇々と助言して下さった前田師の俳諧に賭ける情熱。この人ありて初めて、九州の地に俳諧の灯をともすことができた。
まるでつむじ風に巻き込まれたかのような日々の後、興行は大成功した。まだ当の私達にすら自覚はないけれども、もしやこれは俳諧復興への第一歩だ。

         ◇

八女市の北西部になだらかな丘陵がある。
ここを貫く古い国道三号沿いに、岩戸山古墳筑紫の磐井の寿陵があるが、さらにそこには二つのお宮が祀られている。二つの宮とも南面し、西の宮は松尾神社、東の宮は伊勢宮と言う。さてそこで、初めて松尾神社とは何か調べて驚く。なんと酒の神様だったのだ。最終的に件の有明の主水句は、捌の松尾芭蕉に対しても荷兮が挨拶をしていたことになる。

         ◇

松尾宮も伊勢宮も全国各地にある。けれども、神道が戦後地下に潜ってしまってからは興味を持つ人もない。日本の暦は明治維新直後に、西洋の暦に均された。俗にいえば、明治政府は果敢にもそれまでの歴史を全消去するに等しきことをやったのである。この事は誰の意識にも上がらぬが、昭和の大戦後の意識の断絶以上の亀裂を私たちの精神に刻印した。だから、古典作品を読むに際しても、いにしえびとと同じ無意識の層に立てない。

今年(2001年)の元旦、この八女岩戸山の伊勢宮に神事能である『翁の舞』が奉納された。昨年この宮に五百年近くも眠っていた天文年間の百首和歌を読み解くのに熱中したこともあり、見えない糸に導かれるようにして、能を観にいく。そこでまた新たな発見をした。
やはり易・五行だった。本舞台や橋掛かりにある松。松は能に欠かせぬ呪物でもともと十八公と書く。公の部分の異体字は八白で、九星のうち八白土星に重ねられ、その性質を象徴させられた。易での八白は、艮=ウシトラ。意味するものは、時のあわいである。昨日と今日の境、去年と今年の境、千年紀と二千年紀の境、彼岸と此岸の境である。
吉野裕子の『易・五行と源氏の世界』 には、松の役目について、こう書かれている。

この世のすべては有限で「終り」があるが、その有限を無限に転ずるのは、その「終り」を「始め」につなぐ処にある。したがってものの「終始」を象る「継目」は、ものごとの永遠性を保証するものであって、限りある生命体の人間にとってもっとも重視された。

          

早く源鑑述百首和歌に入りたかったが、次々に周りで起きる現実の出来事が、今から紹介する戦国時代のうたに出合ったことから派生しているような気がして、これら現実ごと書いた。このさき何が飛び出すか起きるかわからぬ。だが、裏ではたらく大いなるものの力を信じる。

          ◇

 豊饒美濃守源鑑述奉納百首和歌

         第一次解読  松崎英一(故人)
         第二次解読   姫野恭子
         協力      東 明雅(故人)
          〃       前田 亜弥
 

 夏日待   

          今伊勢寶前同
                    詠百首和哥 
          美濃守源鑑述

一    立春

君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ

      子日        鑑教

さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め

三    霞         鑑實 

朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき

    鶯        鎮時

春立は谷のつらゝもうぐひすの
こゑうちとけて軒ぞながるゝ

五    若菜       鑑秀

わかなゆへとしとし*分てくるす野に
おほくのはるを我もつミけり

六    殘雪       鑑實 

をそくとく消るや野辺の白雪の
跡まで見ゆる草のしたもえ 

七     梅        覚元

心ある友としミばや難波津の
花もさかりの香に匂ふころ

八    柳        弘俊

夜るの雨の晴てやなびく春柳の
露の玉ちるあさ明の庭

九    蕨        孫七

もえわたる野辺のさわらび影は見ねど
あたりの草ハけぶり合けり

十    桜        鑑述

さくら花けふより千ゝの色はへて
いく春までかさかへさかへむ

十一  春駒       嵐竹

つながでも放れぞやらぬ春駒の
野をわかくさや綱手なからむ

十二  帰鳫(帰雁)      鑑冨

見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん

十三    呼子鳥     鑑教

春の日もよぶこ鳥ゆへくれはとり
あやしきまでにまよひこし山

十四    苗代      鎮續

言葉の花の種まで桜田の
苗代水にまかせてやミむ

十五    菫       鑑栄

むらさきのゆかりにさける菫草
野をなつかしミくらすけふかな

十六    蛙       牧也

雨はるゝ田面の原のゆふぐれを
なくや蛙のこころなるらむ

十七    藤       宗右

岩に生ふる松にかゝれる藤なみも
をのれくだけて春ぞ暮けり

十八    款冬(山吹)   鑑栄

足曳の山吹さきてたそかれの
春をのこせる色にこそあれ

十九    三月盡      孫七

伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春

   

※ 原文には番号はない。万葉仮名はひらかなにしたが独特の表現(「み」がカタカナになっていることなど)はそのままにした。また、清音は濁点をほどこした。*としとしは濁るのか濁らぬのか不明。年々かどしどしか。おそらくその両方にかけるのだと思う。

和歌は立春で始まる。国歌「君が代」のこころである。
君が代は千代に八千代にさざれ石の。ここまでが和歌で言えば上の句であり、巌となりて苔の産すまで、が下の句だ。
司馬遼太郎の随筆に、この国歌誕生の面白いいきさつを綴ったものがある。古今集にもあるこの歌は、江戸末期まで大奥で実務的に歌われていたものだ。元旦、四時に起きた御台所は身支度を整えると廊下に出る。そこには石が三つ入った盥があって、その向こうに中臈が着座している。御台所も座り一礼のあと、おもむろに「君が代は・・」とまずは中臈から上の句を吟ずる。それを受けて御台所が下の句を唱え、朝一番の井華水で手を洗って、この「おさざれ石の儀」は終わる。

面白いのはここからで、明治二年に英国から貴賓が来て、もてなすのにあちらの流儀を取り入れねばとあたまを悩ました接待役人達は、向こうでは国歌を演奏して客人をもてなすらしいと知る。そこで急遽、国歌を仕立てるというか選抜するのであるが、その最大の功労者は、乙骨太郎乙という英語のできる旧幕臣だった。
この人は大奥の儀式で歌われる君が代の歌を咄嗟に思い出し、提案すると、同座していた薩摩の接待役も、その歌ならわしの国の琵琶歌にもあるといって賛成し、英国人が多少節回しをかえて、当座の間に合わせたという。
司馬はなにげなくこの挿話を書いているが、国歌君が代は陰陽五行そのものの歌であった。

平成十三年の『九州俳句』誌123号より引用。

考えたのですが、本の出版はできず、かといってこのままこの歌たちを見殺しには出来ず、悩んだ末、ブログ上に引用しようと決めました。七年ほど前に書いたものでありまして、当時は生存されていた二人の方が、いまは故人になられてしまったことが、かえすがえすも悔やまれます。一度もお会いできませんでした、一次解読をなさった松崎英一氏、歌用語の読みを懇切丁寧にお教えくださった俳諧学者の東明雅氏に、深い感謝の意を捧げます。八女の松崎氏にはこの歌の背景などをたずねにいこうと思っていたのですが、もはや何の資料もない状態になりました。不慮の事故でなくなっておられたからです。残るは矢野一貞の『筑後志』のみか。

稿にわからぬ点がでてくるかと思いますが、それは流れの途中の稿であるためで、全12回通せばくっきりとみえてきます。というわけで、歌をひっぱった回からアップします。

2001年のぼんぼり連句、けっきょく一回きりの興行でしたが、そのとき五つの座でさばきをやったのは、前田圭衛子師、鍬塚聰子、沢 都、山本伽具耶、姫野でした。天野おとめは裏方に徹しお茶くみを懸命にしてくれました。まるで天女のようにです。このとき、貞永まことも大分からかけつけてくれたのですが、。

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コメント

またまた強固半の博学の一端を知ることが出来ました。貴方を通じて、勉強させていただきます。

ぼん。ほんとうにありがとう。ひとりで熱くなったって厚かましいっておもわれるだけなんだけど、八女にはもっとずっとすごい寶がうもれていると信じている。

博学じゃない唯単にしりたがりなだけ。こころがからっぽなんだよいつも。ひもじいかんじでうつのけもうつけのけもあるし。

いいじゃん。まだ30年も生きなきゃならないんだよ。こだわるもんがあるって素敵なことジャン。さげもんに挑戦してるけど、娘に子ができたわけじゃなし、店のためというのも、きつい。でも、乗りかかった船だ。岸までたどり着きたい。

そうだね。のりかかったふね、いいこというねえ。かめのこうよりとしのこうってほんとだ。
まだ30ねん・・おそろしいことだねえ。ちきゅう、もつ?

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