無料ブログはココログ

« 天と地をつなぐもの | トップページ | 旗崎の踏切で »

2008年6月26日 (木)

達するを恐れる

   暦論  その十三(むすび)

夏日待  雑の部

八十  暁    鑑述

あかつきの枕の夢の覚ぬるは
八こゑの鳥のつげわたる空

八十一  松   弘智

得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ

八十二   竹    宗房

きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思

八十三   苔    鑑栄

千代をかね松の下蔭苔むして
雨にいづれも色ぞまされる

八十四   猿(ましら)  覚元

秋の夜の月さへをそき山の端に
慰めとてやましらなくらむ

八十五   山     鑑實

ますらをが山分衣うちきつヽ
渡るや寒き岨の架け橋

八十六   川     鎮光

いかにせん河瀬のなみの色々に
月のさそへる船の行末

八十七   野     鑑栄

見渡せば移りにけりな春の野の
風より他に訪ふ人もなし

八十八    関     通次

せきもりの厳しく見ゆる陰ながら
行き過ぎ難き山さくらかな

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

九十      海路    鑑實

うなばらや浪路はる/\旅だちて
いづくを船のとまりなるらん

九十一    旅     鎮時

明更の空にひかれて旅衣
いく野山をか越してきぬらん

九十二    離別    覚元

中々にうき旅人にともなひて
わかるヽときの袖のくやしき

九十三    山家水    述秀

すみなれて結ぶもいざや流れては
世にいづるてふ山川の水

九十四    樵夫     宗房

けふは又山路の雪を知りそめて
かはる嘆きの袖のくやしき

九十五    懐旧    宗右

古をつみてや誰もしのぶ草
しげる軒端の見しこともなき

九十六    述懐    鑑教

かへりてもおなじ憂世とおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

九十七    夢     廣吉

待人はよもきが宿のよるの夢
さむるまくらに風ぞ声する

九十八    尺教(釈教)  宗右

岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ

九十九   祝言    塩亀

なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん

天文廿四年癸卯 * 卯月廿五日

長々と紹介した百首和歌もこれで満尾する。
完成を拒むかたちとして、百首目は、ない。
行き着いてしまえば、崩壊が始まるからだ。

さてここまで来て、ようやくこの歌に付されている年号が判明した。湯浅吉美編『日本暦便覧』 によると天文24年乙卯四月二十五日己丑小満、となっている。*

この時代は宣明暦が使われており、前年は355日、この年は384日、つまりひと月多い閏年である。十月が二回ある。(改元は十月二十三日)。

いまのところ私の浅学では、当時の人たちが実際にどんな暦を用いて時を知ったのか、見当もつかない。この史料の干支が間違っていることから、戦国の世の慌しさを推察するのみである。それにしても、九十六番さばきのつぎに名のある武士と思える、鑑教という人の述懐、

かへりてもおなじ憂世をおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

この歌の深い諦念が胸をうがつ。前へ進んでも憂世、うしろへ退いても憂世。どこにも逃げ場はないのだ。だからこそ、うたを残したともいえる。

一昨年、たまたま八女市役所の学芸員赤崎さんに見せて貰った戦国時代の貴重な和歌を、たまたま通ってた柳川古文書館の解読講座のおかげと連句を通じて知ることができた俳諧学者の東明雅先生と連歌の光田和伸先生のわかりやすい講釈のおかげでなんとか読み解くことが出来た。この誌上で公開し終えた今、大きな荷をおろした気分だ。

これまで江戸末期の久留米の考古学者・矢野一貞(この人は、岩戸山古墳の周りを測量して、八女岩戸山が古事記や風土記に記載のある筑紫の磐井の墳墓であると初めて看破した人である)の『筑後國史ー筑後将士軍談』 の第四十四巻に「天文歌人」 の見出しで鑑述と鑑教の歌のみが紹介されているだけで、まだどこにも発表されていない。そんな貴重な史料を九州俳句という場で発表できたことがうれしい。

それにしても、なぜ、「今」だったのだろう。

        ◇

前回とんでもないミスをしてしまった。
それは、東明雅著『芭蕉の恋句』 からの引用で「一巻に恋句がなければハンパモノ」といって、芭蕉が昔の事例を引いて、門人達に教えた、その昔とは、当時よりも500年昔のことだ。・・と、まるで見てきたかのように書いてしまったことだ。間違いである。

「えっ。連歌は平安時代に始まったの」とたまげた人もいらっしゃるだろう。たしかに芭蕉にとっての憧れの歌人である西行は五百年ほど前の人だが、連歌形式が確立するのはそれより二百年ほどあとの戦国時代である。ということは、この百首和歌は連歌が生まれる端境期のころの作品といえるのではないか。ともあれ、素人のわたしには、なにをもって連歌というのかがよく見えないまま、古今集の紀貫之にも連歌(短連歌というのだろうか、一句のみのかたち)があるものだから、適当に書いてしまった。申し訳ない。

        ◇

さすがに、東明雅先生には、「私生活でとちめんぼうを振っていたため、まちがえました。すみませんでした。」と正直にわびた。すると熊本出身のこの高名な先生は、「五百年にはびっくりしましたが、運悪く貴方の振った栃麺棒に当たったのでしょう。今後はお手柔らかに」と寛大な返信を下さった。

            ◇

「俳諧は歌なり。歌は天地開闢の時よりあり。」 で始まる服部土芳の『三冊子』 にはきちんと歌の歴史が書かれており、初めて連歌の式目書を著したのは、後鳥羽院のころの善阿弥法師だといっている。だが、これも間違いらしい。のりかかった船とばかり、ほんとうはどうだったのかと堅苦しい歌論俳論集をあたってみる。興味のあるかたは、どうぞご自分でお調べください。和歌の始まりは、「連歌」つまり唱和のかたちだったことに気付かれ、目からうろこでありましょう。

論は最後まで書けなかったけれども、この拙い文章を読んで下さったあなたには、私の伝えたいことは行間から見えてきたにちがいない。時間、時代というのは生きていて、それ自体澄明な意志をもっている一つのカラダである。私たちの先祖はそれを霊的に知っており、だからこそ「形(フォルム)の文化」と三島由紀夫が呼ぶところの表現形式を古より営営と練り上げてはそれに同調し、果ては乗りこなそうとすらしてきたのであった。

    『九州俳句』129号平成十五年冬号より引用 

*  天文歌人の残した百首和歌の干支が実際の年号のえととは違っていることについて、矢野一貞はこう書いていました。

 ほかの同時代の史料をあたると鑑教という名の人が没した年は天文○○年であるようだから、この和歌の年号を記載どおり天文24年だとすると、その人はすでに生きてはおらず、おかしなことになる。であるから干支が正しいとすれば、癸卯は天文19年となり、その間違いかもしれない。・・・・(これは十年前くらいに読んだ記憶から書き出しましたので、かっちり正確ではないかもしれませんが、だいたいそのようなことをかれは書いていました。)で、いまふっと思ったのですけど、この奉納歌はじっさいの天文年間のものを後世の人が写本して伝えてきたものかもしれない。だから年号と干支とが合致しないというミスが起きたのではないでしょうか。 

ほかに、「豊饒美濃守」という尊称ですけれども、これはいったいなんなのでありましょう。ほうじょうみののかみ。役職を指すことばだろうか。まったくの無知であります。

吉永正春という人の書かれたお城の本に、、「豊饒美濃守」という名前の武将がちらりと出てた気もしますが。ごぞんじのかた、ご一報いただければ幸いです。  

« 天と地をつなぐもの | トップページ | 旗崎の踏切で »

コメント

ありゃ、このまえseikoさんのブログ紹介されてたじゃん?
お気に入りに入れてなかったけんのうなった。今見つけたけどみつからん。
もういっちょおしえて。

さくらさん、おはようございます。
整子さんの「31文字倉庫」名前に貼り付けました。
いま、ひとやまこえたみたいです。

あら、さくらさん、ありがとうございます。
31文字倉庫なのに、短歌の出番が少ないブログです。笑
どうぞ、おでかけくだされ。

わたしも実はこっそりデジカメ日記にお邪魔しています。

<鑑術>
宇佐鑑術
永禄4年(1561)、 竈門右京亮 宇佐 鑑述(あきのぶ) は 阿南(あなん)荘 松武名 南北代官 角 伯耆守秀清(ほうきのかみひできよ) と共に、由原宮大神宝物を調進した。
<鑑教>
安武鑑教
天文三年大友義鑑公は子供等五人と共に筑後国安武城に居住。時の城主安武鑑教公は菅原家に編入。鑑教を鎮乗と改名。海津城と改む。
<鑑實>
一萬田鑑実 いちまたあきさね
一萬田 鑑実(いちまだ あきざね、天文_(元号) 天文2年(1533年) - 天正16年(1588年))は大友氏の家臣。
大友宗麟に仕え、1550年の菊池義武討伐や1557年の秋月文種討伐に功績があり、武名を挙げた。1578年の耳川の戦いでは、殿軍を務めている。それらの功績により、加判衆となって宗麟の側近として活躍する。1586年からの島津氏との戦いでも軍功を挙げた。しかし1588年、突如として大友義統より自害を命じられて死んだ。一族から謀反人が出て、その連座で巻き込まれたためだという。
智勇兼備の武将で、和歌や連歌にも優れていたという。
<鑑秀>
富来鑑秀
文亀元年(1501)ころ、 大友親治と大内義興の豊前争奪戦の最中、田原二郎親述が大友氏に叛いた。富来鑑秀は度牟礼城に籠城して田原軍に対峙し、大友本隊の来援を待つ功を立てた。のちにその功に対して来浦六十町分その他の地を預け置かれている。鑑秀の妻は大友義鑑の娘で、名乗りは義鑑から一字をもらったものである。
<鎮時>
戸次鎮時
刑部少輔
天正14年12月12日(1586)「戸次川の戦い」戦死
<弘俊>
右田弘俊
大内氏第16代貞成の時その異母弟盛長が右田氏の始祖になり4代目右田弘俊の2男弘賢が陶氏として分家する。

百首の登場人物たち。系図らしいがよくわからん。
  ↓

おお・・・
すばらしい。なんと感謝していいだろうか。
あきのぶ鑑述。宇佐姓でありますか。主君の一字をいただく時代ですから、同じような名前の武士であふれているのですけど、鑑述は珍しいから、この人かもしれませんね。安武鑑教は聖マリア付近の人です。この人のお墓はきちんとあるみたい、それで干支の誤りをどうのこうのと矢野一貞は推理していたような。ありがとうございました。

<鑑教>
安武鑑教が海津城に入ったのは1508年なので、天文24年には、おそらく死んでいる。別に利光鑑教という人がおり、この人の没年は1586年。珍しい名前だけど鑑教は二人いるようです。安武のほうは百首の頃は既に改名しているので、利光が正しいでしょう。
利光鑑教
豊後大友氏の一族で名は「かねのり」とも。大分郡鶴賀城(鶴ヶ城・利光城とも)主で武蔵守のち越前入道宗魚と号した。天正十三年には大友宗麟の薦めでキリシタンになったと伝えられる。天正十四年十二月、鶴賀城へ迫った島津家久は降伏勧告をするが宗魚はこれを拒否。壮絶な籠城戦となり、秀吉の援軍仙石・十河・長宗我部勢の到着寸前に敵の矢に射られて戦死した(一説に鉄砲で狙撃とも)。
墓は大分市の成大寺にあるそうです。

おつしろう。調べてくれてありがとう。
今はいろんな方法で調べられるけど、江戸末期にはなにもなかったろう。そんななか、こつこつと足で歩いて調べて回った矢野一貞はえらいよね。
その学者さんも似たようなことを書いていたので、暇があったらここで紹介している本を開いて見てください。八女図書館のは確か持ち出し禁止だったので、佐賀市民図書館から借りて読んだ記憶があります。二階の奥のほうの書架。あ、でももう市外者には貸し出してくれなくなったんだな。

やめの漫画倉庫で十年ほど前みかけたその矢野かずさだの本ですが、ぜんぶで四万五千円ほどした。へえ!!とおもってみただけ。ちなみに、石橋秀野の『櫻濃く』初版本も、やめの堺屋前に資料館があったのですが、館長さんが入手されたそれも、当時そのくらいしたのではとおもいます。かささぎはみせてもらっただ。

調べた理由。
兵六万、を契機に磐井の乱の真相に迫りたくなり、その流れで邪馬台国がしばらくマイブームになってしまいましたが、むしろ気になっているのは「君が代」。
「君が代」で始まる戦国百首が16世紀中頃に磐井の霊に捧げられた、ということ。これが面白い。君が代の「君」は磐井の君であるといわんばかり。東のほうの殿様ではない。
古田武彦氏の説がwikipediaに次のように紹介してあります。
=======================
「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。
「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。
この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載した。
=======================
・・・ということで、この戦国百首には、磐井に関する何か重要な鍵が隠されているのではないか、と乙の嗅覚がクンクンいってる。

荒木田守武翁 世の中百首の99番目に君が代がありました
世中に君は千代ませ千代ませと
直なる人にあるは天恩

この一巻には百首目があります

天照す神の教へをそむかずば
人は世中富貴繁昌

大永五年 1525 9月4日庚申待ちの夜に詠める53歳

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/6513/21888381

この記事へのトラックバック一覧です: 達するを恐れる:

« 天と地をつなぐもの | トップページ | 旗崎の踏切で »

最近のトラックバック

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30