無料ブログはココログ

« 「肥後飢餓講」星永文夫初期作品集Ⅱ | トップページ | 光のかささぎ »

2008年6月 9日 (月)

渋谷幽哉師を偲ぶ

渋谷幽哉師を偲ぶ

[道端での立ち話]   道川内  宮内 春樹

平成七年三月十五日の午前十一時ごろだったか、肥後銀行の駐車場前で先生とばったり会った。

宮内  アラ銀行でしたか。

先生  今済んだ。時にアンタ身体の方はどうな。

宮内  肝臓は良くなったといわれましたが、血圧と胃が不調で困ったもんです。まあ、七十ぐらいまでいったら上々だと思ってはいますが。

先生  なんばいうとな。アンタ今幾つな。

宮内  六十九です。

先生  私は七十四バイ。七十ぐらいでどげんするな。まだまだ頑張らんば。時に今の日本についてアンタどげん思うな。

宮内  そうですな、私の十六、七のころは陸軍の幹部候補を目指して、学校の勉強はそっち除けで陸軍の勉強に熱中していましたが、昭和十九年になっていよいよ国が危ない、陸軍になって、たとえ将校になっても三銭五厘の鉄砲ん弾一発で死ぬことになる。
     国家、国民を守るためには、自分たち若い者がその防波堤となって死んでゆかねばならぬだろう。どうせ死ぬなら飛行機に乗って魚雷を抱いて敵艦に突っ込み、一対千、一対二千と刺し違えて死んだ方が、より効率的だと考えて予科練に行きましたが、本当に純粋でしたなあ。(中略)
            戦後も五十年を経過し、国際、国内の情勢、国の将来あるべき姿を考慮した日本という国に相応しい憲法に見直し、特に教育の面では人間教育とともに日本の鎖国時代以降の世界史を学校教育に取り込む必要がありはしないでしょうか。いたずらに国民が萎縮し、卑下し、祖国に希望を見失うことなく、誇りと親愛感を持つようにしなければならないと思います。(中略)

先生  私たちが生きているうちに、この国が正常な、本来の姿に建て直されるのを見届けてから逝きたいと思うナ。

以上のような立ち話をして別れましたが、その時点では健康そのものの先生が、間を置かず同期の桜の待つお浄土にと旅立っていかれました。この国の姿がさぞかし心残りであったろうなァ、と返すがえすも無念の思いでいっぱいです。(同誌より引用)

※ ほかに、渋谷幽哉師自身の書かれた「ノーマライゼーション」、「”教育”の字義に思う」をここに引きたいと強く思いました。

連句的参照

http://www.randdmanagement.com/c_seiji/se_230.htm

« 「肥後飢餓講」星永文夫初期作品集Ⅱ | トップページ | 光のかささぎ »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 渋谷幽哉師を偲ぶ:

« 「肥後飢餓講」星永文夫初期作品集Ⅱ | トップページ | 光のかささぎ »

最近のトラックバック

2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29