無料ブログはココログ

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

2008年6月30日 (月)

梅雨の底から

連句がまきあがるととてもさみしくない。
「あいみっしゅ」のこころです。
思春期のころみたいにです。

太い縄になってたものが一本の藁しべに戻る。
そうだったのか。
Ⅰ miss you のこころが、うたの起動力なのだなあ。
戦国時代の武士たちも、大石政則日記の時代の武士たちも。
サムライドライブってのは、この「うたのこころ」なんだなあ。

きのう、二通のメールがとどきました。

ひとつは、頼んでいた乙四郎からの留書。
さすがに乙四郎だなと思うような内容でした。
これ、役得。だれより先によめるっていうのは。

もうひとつは、丸山消挙の四文字熟語通信。
なに。つまとえいがにいくって書いてある。
中山宙虫も丸山消挙も、妻と一緒、妻と一緒。
・・・・・ようちえんかい。
おかあさんと一緒みたいじゃないか。

なんの映画をみたんだかしらんが、
つまんねえだろうがよ。つまとみたって。

えいがはひとりで、またはあいじんとみるものさ。
おれさまは~いつのひか~あいじんと~

いくんだじぇ。えいがもやまのぼりもね!
しぬまでになすべきこと。
その一つが、これどす。へえ。そうどす。
ぜってえ実現するぞあいじん。いいなあ。ほしいなあ。
世の中年諸君。きみたちのつまはぜってえそう思ってるて。
なぜって、そんなこたぜってえできない娑婆であるがゆゑに。

がきのせわとおとしよりのおともでおはるがさみし
    さみどりのなかのまみどりかささぎのあを
                         西野いりひ

参照
娑婆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A8%91%E5%A9%86

天神で見上げる空は直線で仕切られていて何だか狭い

歳を取る足は上がらん目は見えんご飯はこぼす早よ目が覚める
バリウムを「一気に飲んで」と言われてもなかなか馴染めんあのドロッとした味
 「天下無縫」  水着はスピード社のシームレスに限る
 「高幻麗職」  「職業に貴賎なし」というが、みなさん望みは高いようで
 「食頻偽装」  食品偽装は頻繁に身近に起こってる 
以上は何時も職場で考えてるけど、なかなか「これっ」ていうのができません。(丸山消挙)
ほんとだね。
おおお。おもいだした。
おあずかりの俳句ふたつ。
福岡市職員のともだちから、赤ん坊誕生祝句を預かっていて、ずっと忘れていました。
ほんとにごめんなさい。ろくでもないことばかり考えてて、すっかり不義理をしてしまいました。
かばんから紙切れが出てき、思い出した次第です。赤面。
泣き顔も牡丹に見ゆる我子かな   勝本 秀
子を抱きてデジカメ片手春の縁    勝本 秀
このひとは、1月に女の子がうまれたのです。
なまえ、「桜子」。
さくらこ。すごいきれいな名まえ。
「うめこじゃなくてよかったな」。笑
子がハタチのとき、チチは七十三。
泣き顔も牡丹に見ゆる我子かな
吾子俳句や孫俳句はばかにされますが、ここまで堂々とよまれると、立派です。お産のときって痛みに集中していて父親のきもちなんてこれっぽちも思い及ばんのですが、そういや、男はどのように父親になっていったのだろう。かんがえたこともなかったな。この句をよんで、そんなことをおもった。
桜子に天から地から限りない祝福がありますように。
さいごに。
七月六日、連句会。かならずいこね。(いこね)

2008年6月29日 (日)

たちきの俳句から

笑ふてもよぎる想いや五月闇   久留米市 呆 夢

のどもとのいがら取り除く新茶かな  〃

電波時計よ狂ひたくはないか   〃

夏の雨掩体壕に苔立ちて    宇佐市 松本 茂

蜘蛛の巣のまるごと揺るる若楓  広川町 山下整子

青小梅はらひれほろと落ちてくる  〃

南天のさみしき花が咲きました   〃

南天の無口な花のかなしかり    〃

五月雨に皇太子妃の笑窪かな 日野市 依田しず子

母の手をとって蛍の宙に起つ  大分市  足立 攝

不如帰不眠不休の救助かな  川崎町  井塚 誠

人は前を蛍はうしろを照らすなり 北九州市 太田一明

麦秋の涯(きりぎし)へ割る握り飯 宇佐市 沖 隆史

腰太く足首太く五月の森  北九州市 鍬塚聰子

筍を食っちまった中年の輝き     〃

さなぼりや労り合いて老二人  玖珠町 合原正利

ホトトギス砲音の野に呼び交わす  〃

この村を抱くが如くに若葉かな  中津市 後藤愛子

犬ふぐりまだある余白をうめている 大分市 佐藤綾子

背なに陽をうけて苺箱洗い終え  九重町 佐藤いわお

見てごらんジャジャジャジャ雨降り芝が立つ 
                  日出町 佐藤 敏彦

風の少女葉っぱのような陰(ほと)をもち   
                  福岡市 鮫島康子

豪雨来る信号機みな魚のよう      〃

傷を舐めれば傷が癒えるか長崎忌   〃

皐咲く明日の愁いと今日の幸福   八女市 島 貞女

青嵐女の道は一本道   北九州市 末永晴海

ばば鶏の生みたる玉子春の月   中津市 宗 五朗

肉体を棒で支える豆に花  中津市 瀧 春樹

麦秋や鳥の棲む樹が高くなる  〃

昭和の日五徳七輪汀子兜太 北九州市 竹内卓二

初燕酒なみなみと馬上杯   〃

麦秋や一気に過ぎる無人駅   福岡市 田中 恵

名人と我(わが)で呼ぶなりらっきょ漬け 
                   八女市 東妙寺らん
雨蛙けふは何して過ごすやら   〃

ケロケロと話しかけらるかきつばた  〃

水無月や宮崎の空号泣す  〃  (宮崎にて)

日向夏通は醤油で頂きます  〃

照る月の峠黙々引揚列車   宮崎市  徳永義子

とかげさんあんたのお目々ちっちゃいね  
                    宮崎市 夏田風子
本をよむはえが一匹とびまわる  〃

あそぼうと空とぶ鳥に猫がいい   〃

一人身の満期退職夏の雲  北九州市 広重静澄

少年と老犬並ぶ夏の海   中津市  古永房代

三ヶ月、俳句を作っていない。
投句をはなれる。
よみに徹する。

気に入った句をひっぱった。
なかでも一番こころうばわれたのは、次の一句である。

蜘蛛の巣のまるごと揺るる若楓  山下整子

なんと動きのある、色彩感ゆたかな句であろう。
みなづきのみどりもの、みな勢いづき、うっそうと繁り始める、まさにその気息が一気に放出されたかのようで。
蜘蛛の巣がまるごと揺れる。それに配するに若楓の鮮やかなさみどり。一句に人の姿は何処にもないが、なにか濃いエネルギーの塊が下を通過していったのが見える。風とかではない何か。ひさしぶりに俳句らしい俳句に出偶った。山下整子、おそるべし。なんでこんなすごい句がさらさらっとできるのに、本職の歌ではいまひとつなんだろう。きっと俳句と短歌はちからのだしどころがちがふのね。世の中はそんな皮肉にみちている。

ひとつ、どうしても景がつかめぬ句がある。

デエーの室荷物の紐で金魚かな 川崎町 伊藤キクエ
夏風に転ぶ不覚を猫が見る      〃
翁草散歩のたびに銀髪み        〃

デエーの室というのは、デイケア施設のへやだろう。荷物の紐で金魚かな、ってのがわからん。紐で金魚を造るのかな?うん。きっとそうだ。そんな気がしてきた。おきなぐさの句も、さいごの「み」になんともいえない素朴なあじわいがある。いいなあ。

筍を食っちまった中年の輝き  鍬塚聰子

鍬塚聰子、本領発揮の一句。
エロスがある。うわエッチ!てなぜか思う、その文体。

伊丹三樹彦の俳句日記より抜粋

花に立ちん棒ながら あやしまれぬ齢

米寿には 米寿の桜があるような

花仰ぎ 花影踏んで立ち去りぬ

わが町もいま桜町 鳥影過ぐ

青木医師死す 最後の診察受けたとは

蒸せ返る花に囲まれ 主治医の家

それぞれに小花を捧げ 春の草

寝ね足りて 日の出の桜見盡して

おおとドライバァ 桜を擦過する度に

天覆う桜 地に沈む墓地

たんぽぽの絮を吹こうか吹こまいか

生き残る 梅を眺める 来年は

港都にも黄砂降る日の 風見鶏

晩年か最晩年か 福寿草

胃袋は薬曼荼羅 でも生きねば

垣間見を許す屋敷の 牡丹の緋

索道は一本きり 先細まりで見え

布引の滝ぬ 天女の眼以(も)て

芦屋奥池 憲吉句碑に見(まみ)えるとは

道行は 紅白交互の花水木

バイキングの卓を縫うのに 皿掲げ

スープにも落花一片 山のグリル

左右は池にて 黄泉への中道か

脚註:

掩体壕:http://album.nikon-image.com/nk/NK_AlbumPage.asp?key=1084778&un=14885

翁草:http://www5a.biglobe.ne.jp/~okina-ut/okinagusa1.html

索道=ロープウェイ。http://cable.cocolog-nifty.com/sakudo/憲吉=中村憲吉。http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/kanko/data_ono/l_yakata/nakamura.html

ありゃ。また、まちがえました。歌人じゃなく、俳人の楠本憲吉です。私の記憶にもちゃんのこっています。テレビに出られる人でしたから。

著名な俳人であるこの方(伊丹三樹彦氏)の句日記がだいぶ前から「樹」に掲載されるようになってた、毎回50句あまりがだーっと1ページに掲載される。それをいつも横目で見て通り過ぎてた、へえ元気のよいじいさんじゃねと思って。それが、なんだろう。無心なよみぶりに教えられるところがあり、写してみようと思った。写したら、知らないことばを教えてもらう。すごか。ほんなこてすごかとです。

「俳句通信 樹(たちき)」195号、2008・7より

バイキングの卓を縫うのに 皿掲げ   伊丹三樹彦

これ。たったこれだけのことばで、動きが見える。
こんなの報告句、あったりまえだと人はいうだろう。

港都にも黄砂降る日の 風見鶏    三樹彦

こうとにもこうさふるひのかざみどり。こうと、こうさ、このひびき。

垣間見を許す屋敷の 牡丹の緋   三樹彦

索道は一本きり 先細まりで見え    〃

どの句もどの句も、ごくまっとうなことをそのまま詠んでいるにすぎない。でありながら、思いがそこからあふれだす。いや、若い人の句みたいにことさらにはあふれない。でも、じわりとにじみだすものがある。じいさん、すげえな。やっぱ、俳句っていいよな。と、しみじみおもわせられるのであった。

2008年6月27日 (金)

植え田

植え田
植え田
植え田

旗崎の踏切で

旗先の踏切で

八時四十分すぎ、電車が通過します。んで、この時間帯、この道は一方通行になるのです。ところが、あちら側から知らずにこっちへ進入してくる車があり、対面したところで、↓の写真のバイクのおじさんがなにやらすごい剣幕で「おらび」まくりまして、それで初めてハッと失態にきづいた車が方向転換してるという写真です。はい、わたしも過去におなじ失態をしたことあり。
旗先の踏切で

旗先の踏切で

2008年6月26日 (木)

達するを恐れる

   暦論  その十三(むすび)

夏日待  雑の部

八十  暁    鑑述

あかつきの枕の夢の覚ぬるは
八こゑの鳥のつげわたる空

八十一  松   弘智

得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ

八十二   竹    宗房

きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思

八十三   苔    鑑栄

千代をかね松の下蔭苔むして
雨にいづれも色ぞまされる

八十四   猿(ましら)  覚元

秋の夜の月さへをそき山の端に
慰めとてやましらなくらむ

八十五   山     鑑實

ますらをが山分衣うちきつヽ
渡るや寒き岨の架け橋

八十六   川     鎮光

いかにせん河瀬のなみの色々に
月のさそへる船の行末

八十七   野     鑑栄

見渡せば移りにけりな春の野の
風より他に訪ふ人もなし

八十八    関     通次

せきもりの厳しく見ゆる陰ながら
行き過ぎ難き山さくらかな

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

九十      海路    鑑實

うなばらや浪路はる/\旅だちて
いづくを船のとまりなるらん

九十一    旅     鎮時

明更の空にひかれて旅衣
いく野山をか越してきぬらん

九十二    離別    覚元

中々にうき旅人にともなひて
わかるヽときの袖のくやしき

九十三    山家水    述秀

すみなれて結ぶもいざや流れては
世にいづるてふ山川の水

九十四    樵夫     宗房

けふは又山路の雪を知りそめて
かはる嘆きの袖のくやしき

九十五    懐旧    宗右

古をつみてや誰もしのぶ草
しげる軒端の見しこともなき

九十六    述懐    鑑教

かへりてもおなじ憂世とおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

九十七    夢     廣吉

待人はよもきが宿のよるの夢
さむるまくらに風ぞ声する

九十八    尺教(釈教)  宗右

岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ

九十九   祝言    塩亀

なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん

天文廿四年癸卯 * 卯月廿五日

長々と紹介した百首和歌もこれで満尾する。
完成を拒むかたちとして、百首目は、ない。
行き着いてしまえば、崩壊が始まるからだ。

さてここまで来て、ようやくこの歌に付されている年号が判明した。湯浅吉美編『日本暦便覧』 によると天文24年乙卯四月二十五日己丑小満、となっている。*

この時代は宣明暦が使われており、前年は355日、この年は384日、つまりひと月多い閏年である。十月が二回ある。(改元は十月二十三日)。

いまのところ私の浅学では、当時の人たちが実際にどんな暦を用いて時を知ったのか、見当もつかない。この史料の干支が間違っていることから、戦国の世の慌しさを推察するのみである。それにしても、九十六番さばきのつぎに名のある武士と思える、鑑教という人の述懐、

かへりてもおなじ憂世をおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

この歌の深い諦念が胸をうがつ。前へ進んでも憂世、うしろへ退いても憂世。どこにも逃げ場はないのだ。だからこそ、うたを残したともいえる。

一昨年、たまたま八女市役所の学芸員赤崎さんに見せて貰った戦国時代の貴重な和歌を、たまたま通ってた柳川古文書館の解読講座のおかげと連句を通じて知ることができた俳諧学者の東明雅先生と連歌の光田和伸先生のわかりやすい講釈のおかげでなんとか読み解くことが出来た。この誌上で公開し終えた今、大きな荷をおろした気分だ。

これまで江戸末期の久留米の考古学者・矢野一貞(この人は、岩戸山古墳の周りを測量して、八女岩戸山が古事記や風土記に記載のある筑紫の磐井の墳墓であると初めて看破した人である)の『筑後國史ー筑後将士軍談』 の第四十四巻に「天文歌人」 の見出しで鑑述と鑑教の歌のみが紹介されているだけで、まだどこにも発表されていない。そんな貴重な史料を九州俳句という場で発表できたことがうれしい。

それにしても、なぜ、「今」だったのだろう。

        ◇

前回とんでもないミスをしてしまった。
それは、東明雅著『芭蕉の恋句』 からの引用で「一巻に恋句がなければハンパモノ」といって、芭蕉が昔の事例を引いて、門人達に教えた、その昔とは、当時よりも500年昔のことだ。・・と、まるで見てきたかのように書いてしまったことだ。間違いである。

「えっ。連歌は平安時代に始まったの」とたまげた人もいらっしゃるだろう。たしかに芭蕉にとっての憧れの歌人である西行は五百年ほど前の人だが、連歌形式が確立するのはそれより二百年ほどあとの戦国時代である。ということは、この百首和歌は連歌が生まれる端境期のころの作品といえるのではないか。ともあれ、素人のわたしには、なにをもって連歌というのかがよく見えないまま、古今集の紀貫之にも連歌(短連歌というのだろうか、一句のみのかたち)があるものだから、適当に書いてしまった。申し訳ない。

        ◇

さすがに、東明雅先生には、「私生活でとちめんぼうを振っていたため、まちがえました。すみませんでした。」と正直にわびた。すると熊本出身のこの高名な先生は、「五百年にはびっくりしましたが、運悪く貴方の振った栃麺棒に当たったのでしょう。今後はお手柔らかに」と寛大な返信を下さった。

            ◇

「俳諧は歌なり。歌は天地開闢の時よりあり。」 で始まる服部土芳の『三冊子』 にはきちんと歌の歴史が書かれており、初めて連歌の式目書を著したのは、後鳥羽院のころの善阿弥法師だといっている。だが、これも間違いらしい。のりかかった船とばかり、ほんとうはどうだったのかと堅苦しい歌論俳論集をあたってみる。興味のあるかたは、どうぞご自分でお調べください。和歌の始まりは、「連歌」つまり唱和のかたちだったことに気付かれ、目からうろこでありましょう。

論は最後まで書けなかったけれども、この拙い文章を読んで下さったあなたには、私の伝えたいことは行間から見えてきたにちがいない。時間、時代というのは生きていて、それ自体澄明な意志をもっている一つのカラダである。私たちの先祖はそれを霊的に知っており、だからこそ「形(フォルム)の文化」と三島由紀夫が呼ぶところの表現形式を古より営営と練り上げてはそれに同調し、果ては乗りこなそうとすらしてきたのであった。

    『九州俳句』129号平成十五年冬号より引用 

*  天文歌人の残した百首和歌の干支が実際の年号のえととは違っていることについて、矢野一貞はこう書いていました。

 ほかの同時代の史料をあたると鑑教という名の人が没した年は天文○○年であるようだから、この和歌の年号を記載どおり天文24年だとすると、その人はすでに生きてはおらず、おかしなことになる。であるから干支が正しいとすれば、癸卯は天文19年となり、その間違いかもしれない。・・・・(これは十年前くらいに読んだ記憶から書き出しましたので、かっちり正確ではないかもしれませんが、だいたいそのようなことをかれは書いていました。)で、いまふっと思ったのですけど、この奉納歌はじっさいの天文年間のものを後世の人が写本して伝えてきたものかもしれない。だから年号と干支とが合致しないというミスが起きたのではないでしょうか。 

ほかに、「豊饒美濃守」という尊称ですけれども、これはいったいなんなのでありましょう。ほうじょうみののかみ。役職を指すことばだろうか。まったくの無知であります。

吉永正春という人の書かれたお城の本に、、「豊饒美濃守」という名前の武将がちらりと出てた気もしますが。ごぞんじのかた、ご一報いただければ幸いです。  

2008年6月25日 (水)

天と地をつなぐもの

  暦論   その十二

夏日侍

    恋歌

七十   初恋     鑑述

見初つるその面影の身にそひて
わすれもやらぬおもひとぞなる

七十一  纔見恋 *  宗房

ほの見てし人に想ひをかけ初て
打いでぬ間の身をいかにせん

* 纔見恋・・わずかに見たる恋

七十二  不逢恋   鑑冨

今は我見る目も隠す言ふ甲斐も
なく/\袖のうらなみぞたつ

七十三  来不逢恋  嵐竹

とひきてもねぬときなれやくやしくて
おもひわすれじ庚申かな

七十四   度ゝ思恋   塩龜

ついにきてとはぬ仲かな花の春
もみぢの秋の空頼めして

七十五   片思     宗右

雨となり露とみだれて松の葉の
なびかぬ色にとしはへにけり

七十六   恨恋    鑑述

中々に身こそつらけれ今はたゞ
うらむるすぢをいふよしもなし

七十七  祈身恋   鑑秀

色かへぬ槇の下葉に立そひて
祈るこころも誰ゆへの身ぞ

七十八   後朝    藤次

とはぬ間を待ちならひたる夕より
わかれし今朝ぞしづ心なき

七十九   契恋    鑑述

黒かみの雪となるとも契りしは
かはりかはらじ頼むわが中

(※恋の字、実際は正字です)

君が代の歌に始まり、春夏秋冬の伝統的季題の歌が69首続いた後、恋がくる。この位置、この数。いかに恋が尊ばれたか。前回言及した二条良基の連歌式目での恋の扱いについて、昨春日本青年館での光田和伸国際日本文化研究センター助教授の講演の際に頂いた資料を基に、簡単に説明してみる。
天然界人間界のすべてが、人倫(ひと)を中心にして、合わせ鏡のように部立構成される。ぶだては具象抽象を含む森羅万象の分類だ。

天然界

1 天・・・光物(日月星)と時分

2 地・・・山類、水辺(海や川)

3 媒(なかだち)・・聳物(そびきもの。霞霧等)
                   降物(ふりもの。雨雪等)

4 飾・・・動物(うごきもの。獣鳥虫)植物(うえもの)

人倫・・・・我汝君人身友父母主誰彼某関守等

人間界

1天・・・神祇(神事)と釈教(仏教)

2 地・・・旅と名所(などころ) 

3 媒・・・恋と述懐(しゅっかい。懐旧、無常等)

4 飾・・・居所(家)と衣裳

この部立が、いまの歳時記の基層部にある事を記憶したい。

      ◇ 

七十三番「来て逢はざる恋」の面白さ。

訪ひ来ても寝ぬときなれや悔しくて
想ひ忘れじ庚申(かのえさる)かな

庚申の夜は、眠ると体内に住む三尸の虫(さんしのむし)が天に昇ってその人の悪事を天帝に告げ口すると信じられていたため、寝ないで起きていた。せっかく想い人を訪ねていったのに、みな起きている庚申待ちの夜であった。

恋句の伝統について調べていると、東明雅著『芭蕉の恋句』(岩波書店刊)と出合った。主として蕉門俳諧における芭蕉と門弟との恋句のさまざまを紹介されている。そのなかの一節。

・・・お前たちは知るまいが、昔は恋の句が出ると、相手の作者は恋をしかけられましたと挨拶したものであった。また五十韻・百韻の作品でも、その中に恋句がなければ、一巻とは言わず、半端ものとした。(「恋句の伝統」の章の芭蕉のことば)。
三百年前の俳諧師芭蕉が話している昔とは当時より五百年ほど前の連歌の伝統 *である。

      ◇

佐賀市立図書館で、本をみつける。『人は月に生かされている』(志賀勝 著、中公文庫)。三年前、暦論を書き始めたきっかけを思い出してしまった。グレゴリオ暦が均してしまった時空間への怒りや懐疑を捨てて、旧暦のゆったりとしたこよみがきざむリズムへ回帰する。
日本の歌垣に似た中国の伝統行事を同著に見つけたので、引用したいと思う。

月と女性の神話に、中国『淮南子』(えなんじ、紀元前二世紀前漢、劉安編)にも記載がある嫦娥(じょうが)伝説がある。
日本の月はうさぎが餅つきをしてるが、中国の月はうさぎが杵で薬をつくる。嫦娥は女神だったが、地上の暮らしがいやで天に戻りたがっていた。彼女は夫が異形の女神西王母から盗んだ薬を飲み、月にのぼる。嫦娥は月に着くとヒキガエルになっていた。この嫦娥は12の月を生んだ月神である。毎年二月から三月にかけて、桃や李の花が咲くころになると、あらかじめ田畑の畔の平坦な地をえらんで「月場」とし、晴天で雲ひとつなく、月光がうららかに照る夜に、お祭りの盛装に身をつつんだ若者と乙女が集まって、蘆笙を吹き鳴らしながら、輪になって踊る。これが「跳月」で、この場で意気投合した男女は合体にいたる。・・・恋に月が同座する。

       ◇

戦前の「大東亞鳥瞰絵地図」の嬉々とした陣取り野望図を笑いものにしたけれど、結果論でしか語れないのが歴史である。いま現在の刹那享楽主義ともいえる生き方も、のちの時代の人たちに厳しく糾弾されるのであろう。

横光利一の『旅愁』にこんな件りがある。

「今はむかし、といふ言葉があるでせう。僕らは何げなくいつも使つてゐるが、どうも恐ろしい言葉ですよ、これがね」
「何のこと、今はむかしつて?」
「今がつまりむかしで、今かうしてゐることが、むかしもかうしてゐたといふことですがね。きつと僕らの大むかしにもあなたと僕とのやうに、こんなにして帰つて来た先祖たちがゐたのですよ。むかし日本にお社が沢山建つて、今の人が淫祠といつてゐるのがあるでせう。その淫祠の本體は非常にもう幾何学に似てるんですよ。それも球体の幾何学の非ユークリッドに似てゐて、ギリシャのユークリッドみたいなあんな平面幾何学ぢやない、もつと高級なものがご本体になつてゐたんですね。つまり、アインスタインの相対性原理の根幹みたいなものですよ。それもアインスタインのは、ただの無機物の世界としてより生かしてゐないところを、日本の淫祠のは、音波といふ四次元の世界を象徴した、つまり音波のひろがりのさまを、人間の生命力のシンボルとして解してゐるんですね。それも函数で出てるんだから、自然科学も大昔の日本ではそこまで行つてゐたとは云はなくとも、そんなに非科学的なものではない。妙なものだ。今はむかしといふのは。」

この長い台詞を吐く主人公の名は矢代という。社であり、利一の言霊学(波動学)の一端がうかがえる。利一は宇佐を父の郷とするが、しかり利一は憂鬱な先学者だった。利一も芭蕉同様、五十そこそこで没した。

  『九州俳句』誌128号、平成14年秋号より引用

リンク:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_26e2.html

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_c273.html

「太宰府」http://kotomachi.exblog.jp/3206008/

太宰府のこの紹介ブログは、大きな写真がすばらしいです!じっさいに参詣した気分になれますので、ぜひご覧下さい。観世音寺の鐘のところに菅原道真の歌がふされていまして、その歌に、「纔見恋」(八女天文百首和歌・夏日待71)とおなじ文字「纔」が出てます。鐘、必見です。後鳥羽院とも遠くひびきあっています。後鳥羽院は新古今集の歌を選定するとき、菅原道真の歌もたくさんいれました。

ここまで打ち込んで、はたと思い出す。
この文章を書いたときに、連句会の仲間だった生石の貞永まことは亡くなったんだなあって。52歳、早すぎる死だった。
ことし七月三十日が七回忌です。(七回忌、私は来年だとばかり思っていました。それと、命日も三十一日とばかり思っていました。でも、メモを見ますと、三十日です。まことさんがなくなった翌年の七月三十一日に知人の少年野球監督が四十代で亡くなったものですから、記憶が重なっている。)

2008年6月23日 (月)

田植えまぢか

土曜、夫が帰らなかった。
虫コナーズ、おもいだした。

どこにいってたの。どことまったの。

「おれをほたっといてくれ」

やまかさがちかづきました。

けさ五時半。
田まわりから帰った父がとうまるごえで電話してる。

「おたくから側溝工事ばしてもろてから、田に水がかからんごとなっとりますと。すぐなんとかしてくれんとどうもこうも田植えのできまっせんばい」

たうえがちかづきました。

* とうまるごえとは

唐丸聲。ひろーいたんぼのあっちがわからでもじゅうぶんよくとおるような聲。やかましい。

2008年6月22日 (日)

臺上の蟻

    暦論  その十一


臺上に餓ゑて
月高し    

            横光利一

石橋秀野が一時小説の師と仰いだ横光の句だ。昭和初期の句である。現在は台という字をこの旧字にあてるが、台と臺では印象がまったく異なる。
前回文末に引用した大伴部博麻呂の美談は日本書紀本体からの引用ではなく、荒金卓也著『九州古代史の謎』(海鳥社)からの孫引きである。邪馬壹国(魏志倭人伝表記、臺タイでなく壹イチ)の本はたくさんあるけれども、これがいちばんおもしろかった。

著者は古田武彦を師とする在野の研究家である。冒頭にこのタイとイチの字の混同を糺すために古田武彦氏がなさったことを紹介されている。魏志倭人伝が記載された本編の三国志(小説とは別)全六十五巻にすべて目を通して、その用い方を調べたという。するとこの二つの漢字、壹と臺はきっちり使い分けがされており、誤記されている箇所はなかった。

臺は皇帝の宮殿を指すことばらしい。邪馬台国が邪馬臺国ではなかったことにまず驚き、大和朝廷の日本国統一以前にすでに太宰府を都とする九州王朝(倭国)があったとする論の建て方に、あらがいがたい魅力を感じた。

そして私は連句的にこの横光の蟻の句を考えずにはおれなくなる。臺上の蟻句は、時代霊への存問の句だ。芭蕉の血をひくと信じて疑わなかった、昭和初期を代表する作家の句である。この「臺」一字に、かれはどんな想いをこめていたのだろう。もしも彼と同時代の人に聞けるものなら、尋ねてみたい。思えば昭和の大戦後、国語の表記はあっけなく変革された。敗戦の体験が痛ましすぎて、すべての記憶を一度無にせねば耐えられなかったかのように。だがなにか肝腎なものを取りこぼしてしまったのもまた、事実だ。

ほんとうは邪馬壹国なのに邪馬台国とよびならわしてしまったような間違いを、ほかにもたくさんしているにちがいない。

      ◇

亡き祖母の箪笥から、昭和十三年師走の「家の光」誌付録の「大東亜鳥瞰絵地圖」が出てきた。大判の絵地図で、日本列島は右端にちいさく描かれ、中央にはでんと中国大陸がある。大陸各地の特産品が絵で描かれ、別枠で「皇軍占領區域」を赤で色分けしてみせている。当時は大日本帝国だったのだ。まるで陣取り図のように、牧歌的ともいえる欲望をまるだしにした地図が、全国の農家に届いていたのかと思うと、時代を支配するモノの存在、時代霊ともいうべき実在の通過がふっと感知され何やらおそろしい。

この恐れはまた、歌仙を座でさばくときのおそれにも通じる。みえない糸を見ることにおいて。

去年、日本青年館で『芭蕉俳諧の真価』 と題して熱のこもった講演をなさった光田和伸氏の「わたしたちは、二条良基という天才が作ってくれた連歌式目を、世界に誇ってよい」 ということばが突然記憶によみがえる。現在の連句式目や俳句歳時記の源には、この式目がある。天然界と人間界のすべてを整然と分類し緻密に秩序だてた、うたの哲学。

源鑑述百首和歌の冬の部に入る。
それにしてもこの百首和歌に名を連ねている武士たちは、うたの教養を身につけた当時の文化人であった。いまだに私はこの24人のうち、ひとりの素性すらわからない。だが「柳川市史」「大和町史」*などで当時の古文書に似た名前の武士をみつけると、みな弘治~天正年間に戦死している。佐賀で、あるいは豊後で討ち死にしている。当時は九州の広範囲が豊後大友氏に制圧されていて名前に鑑と鎮がつく武士がやたらと多い。だからこのなかの連衆だと確認することはとうてい不可能だが、骨肉相食む戦国の世に、かくも優雅な歌を残した二十四人の天文歌人を、わたしはこころから尊敬する。

      ◇

 「夏日侍」  冬の部

五十五   初冬   鎮續

山姫や手染の色を白妙の
雲の衣にかへてたつらむ*

五十六   時雨    鑑教

むすぶてふ柴の庵のとこの上に
まなくしぐるヽ雲のよな/\

五十七   霜    鎮時

天つ星ひかりつつゆくあかつきの
空よりやがて霜やをくらむ

五十八  霰    鑑実

閨近き楢の枯葉の玉あられ
音してかへす夜半の夢かな

五十九  雪   鑑述

かきくもる雪に出で立つ朝あけや
枩に花さく岡の辺の山*

六十   千鳥   鑑教

霜さむきよるはすがらのうらなみに
なきたつちどりいづち行くらむ

六十一  氷    牧也

氷るかとかけひの水のたえ/\に
寝覚めさびしきあかつきのとこ

六十二  水鳥   鑑実

打羽ぶくこゑこそたゝね池にすむ
をし明かたの霜やさゆらむ

六十三  網代    鎮續

氷魚のよるながれも見えて田ノ上や
まもるあじろのとこはなれせぬ*

六十四  神楽     覚元

祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽

六十五  鷹狩    鑑栄

ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る

六十六  炭竈     鎮時

さしこもる小野の炭がま都にも
こころしられて立つけぶりかな*

六十七   埋火    宗右

さゆる月の老のおもひを埋づますは
何にかからむ夕べならまし

六十八   寒梅    廣吉

木ヽにつむ雪をはらへばはるをまつ
むめの匂ひにをどろかれけり

六十九  歳暮      鑑栄

忘めやあか井の水にとし暮て
わが身のかげをなにとくむらん*

冬の歌はここで終り、恋の歌が始まる。

「九州俳句」誌127号より引用

*  当時柳川古文書館で月二回無料の古文書解読講座がひらかれていて、八女市民にも開かれていました。初級と中級、二年ほど通いまして、実際のテキストをなんとなく読めるようになるまで指導していただきました。先生は九大の教授と古文書館の学芸員さんでした。その当時は柳川市史編纂中で、ちょうど大和町史が出来上がったばかり、四千円で買わされた記憶があります。もんんんのすごく分厚い!つけもの石にできる重さ。内容はふつう。が、相撲の歴史というのがついていて、それはおもしろかった。雲龍ってひとがでているんですよね、この地からは。

2008年6月21日 (土)

保健医療経営大学のたてもの

保健医療経営大学のたてもの

お祝いのお花が陰になってしまいました
建物が輪になってましてストーンサークルを連想します

保健医療経営大学のたてもの

樋の口は地下へ潜っています

なぜ六月に開学記念式。と疑問に思ったのですが、一年前に起工式の杭がこの広大な地に打たれたからとのことでした。
じつはあまり開学にまつわる苦労話をぞんじません。
昨日この式典に父兄として参加しまして、話しやすそうなかたとお話をしてましたら、そのおかたはなんと聖マリアの学校の学長さんだったみたい。おおお。おそれおおし。でもほんとにマザーテレサみたいなかんじのおばさんでした・・。おおお。すみませぬ。うちのむすこを他の大学からここへ移したのは、学長が同窓生でこの人なら安心と思ったからです。というような話をそのおかたとしました。子はおかげでだいぶ安定してきました、と。

グランドの鳥の巣をみたかったのですが、懇親会ころに時間切れ、ざんねんでした。

保健医療経営大学

保健医療経営大学

みやま市と大学との連携調印式
保健医療経営大学

手前の建物はジム、奥は学食
保健医療経営大学

校庭の全貌は撮れません
川にみえますが校庭の一部です
30万坪とかかいてありましたなあ

古の闇を漂う

   暦論    その十

はなはだ私的な事だが、家業の苺出荷で二月~四月はしぬほど忙しい。本稿のために集めた本が十分よめぬ。それが最も辛い。
最初に前言訂正。まだツバル島は水没していない。読んだ記事は幻だったのだろうか。自分が季節を人工的に操る現代農業に携わる一員であるため、温暖化が気になり、良心の呵責がある。
まぼろしといえば、前回書いたサンカこそは幻の漂泊民である。先が読めない時代にはどうしても不確かなもの謎めいたものに心が動く。陰陽師しかりサンカしかり。

        ◇

時代が動く前には、先ず底辺で闇が蠢く。この闇は太古の闇と通じている。闇の世界にはなにがあるか。前号で紹介した岩明均の漫画『七夕の国』にはその窓がある。
では、七夕とは何かご存知だろうか。歳時記類やインターネット検索で得る知識は、画一的な死んだ動かぬ知識だ。だがこの漫画には、その原型のような祭りが生きて提示され、私のなかのなにものかがしきりに扇動される。この物語の中の七夕は、夏至の瞬間をはさんで前後七日間の夕方、ある山の山頂で村人が行う祭りである。私はこの祭りに、岩戸山の伊勢宮の夏日侍を重ねたり、白夜の国フィンランドが生んだ童話ムーミンに描かれた夏至の夜の火祭りを重ねたり、最後にはアイルランドのストーンサークルまでが浮かんできた。岩明均はどこでこの発想を得たのだろう。彼の漫画はスプラッタ趣味で残虐で非情だが、なぜか琴線に触れるものが私にはある。想像力だけで描いているのか、もし史料があるのなら、知りたい。

        ◇

天文廿四年卯月廿五日の日付は、いまに置き換えたら夏至のころだ*。この時代の陽暦換算表が入手できておらず、断言できぬが、想像でものをかけば、祀りに奉納せんとして、和歌を年号である年玉の数の二十四人に割り振って詠み、連句でいえば捌(さばき)にして執筆(しゅひつ)の源鑑述(みなもとのあきのぶ、と仮に読んでおく)がまとめた。夏至の日が昇るのを夜通し起きて「お待ち受け」したのだ。マツリのことたまの正体を。

        ◇

わたしは岩戸山古墳の伊勢宮跡に、ハルマゲドンの語源でもあるメギドの丘の面影を重ねる。ハルとは牛の角をもつ神の名であると同時に、日の当たる丘の意味をもつ言葉だと、以前ユダヤ物のとんでも本で読んだ。ハル=牛神=キリスト=弥勒と、日本語ハル=春とが同音なのは偶然であろうはずがない。そして九州島では原を「はる」となまる。これもまた偶然ではない。九州は源(ハル)だ。

        ◇

源鑑述奉納百首和歌「夏日侍」

龝*の部

四十一   萩    鑑述

龝の野や千草の色にひきかへて
錦をかざす萩の白露

四十二    鴈(雁)   弘智

いつもきくここちこそせで玉手箱
二見の浦をわたる雁

四十三     鹿     鑑実

さをしかの妻こふ野路の朝な/\
咲ける小萩の露こぼるらん

四十四     雰(霧)   鎮光

明更を遠方人のこころとや
雰うちはらふ袖のゆきかひ

四十五     露      鑑實

をく露は萩の上葉にとヽまらで
つれなく残る秋風のこゑ

四十六    槿(あさがほ)  嵐竹

あだなりと見しは残らじ槿は
世にはてしなき秋ごとの花

四十七    駒牽       松寿

今しばしかげを留よる望月の
駒の行辺も走り井の水

四十八    月         塩亀

あまてらす月を清水にうつしきて
猶かけまつる伊勢の神垣

四十九    擣衣(とうい)   宗房

秋といへばさびしかりけりむば玉の
夜わたる月に衣打つなり

五十     虫      鑑栄

女郎花露にやどりやかしつらん
こころのかぎりしのぶ虫の音

五十一    菊     鑑述

作りなす砌の菊のした水は
くむともつきじ万代のかげ

五十二    紅葉     頼運

玉鉾の道の山かげふきおちて
をらぬ紅葉を袖に見るかな

五十三    秋田     鑑教

種まきし難波の小田は夢なれや
をどろきあへぬ秋かぜの音

五十四    九月尽    通次

長月もけふにうつろふもみじ葉の
かぜの跡とふ友のうれしさ

         ◇

秋の部はこれで全部である。
今はない珍しい字の季題がいくつかあり、槿はあさがほと読みつつも、今のむくげだと言う。四十番目の蘭が藤袴だったように、詠まれている植物が今のものに当てはめると違うものがある。
江戸中期の芭蕉捌「冬の日」第二歌仙、杜國の脇句、

雪にまた見る蕣の食  杜國

蕣はあさがほとよみ、今の朝顔だそう。同歌仙にはむくげも木槿の文字で出ている。
駒牽(こまひき)は八月に諸国の牧場から献上された馬を天皇がご覧になる儀式と出ている。
擣衣(とうい)は寒さに備えて砧で衣を打つこと。
漢詩に槝歌として多く見られる。李白の『子夜呉歌』「長安一片の月  万戸衣を擣つ声」は有名だ。(連句誌れぎおん・光田和伸の「冬の日」参照)

       ◇

八女は摩訶不思議な地だ。さびれた小さな町を豊かな農林業の郡部が三方からかこみ、唯一山に遮られず視野が開けるのが西の有明海に向く方面だ。筑紫の君磐井がなぜこの地に生前墓を造営したのか、この地から古代ははるかに海も海にそそぐ矢部川も見えたのだろうか。
陰陽五行や風水の思想もずいぶん古い時代から入っていたはずだ。墓地をこの地にきめるためにはどんな条件が必要だったろう。まず、自分の住居の子(ね)の方にあること。だが磐井の居城跡といわれる久留米高良山から八女は裏鬼門にあたる。八女が子(というよりウシトラ)の方角にくる地を地図でさがすと、山門郡(現みやま市)なのだが・・。

前回のオホトモ、大伴氏(大伴家持、大友能直)だが、八女の古代史料での初出は古事記の継体天皇紀で、石井(磐井)を殺すために大和の継体から物部氏とともに派遣された氏族としてだ。継体22年西暦528年だとされる。
次が書記の、持統四年(690)九月二十三日に筑後の国、上陽咩(かみつやめ)郡出身の兵士・大伴博麻の美談。かれは白村江の戦い(百済救援戦争)において唐側の捕虜になったが、同じく捕虜として唐に抑留された主君・筑紫の君薩夜麻(さちやま)を祖国日本へ帰すため、みずからを奴隷として売り、十年間路銀をためて主君を祖国へ帰した。のち自らも帰国したが、すでに三十年がたっており、「九州古代王朝説」などの説ではその間に祖国の倭国は大和にほぼ吸収されたという。

八女郡上陽(じょうよう)町にこの忠君の士の碑はある。

尊朝愛国 賣身輸忠 大伴博麻呂碑

「九州俳句」誌126号より引用

*

秋の字は、のぎへんに亀のややこしい正字でやっとりますが、実物はのぎへんに亀のすっきりした字でした。ふしぎなことにこの変換しかできなかった。どこかにさがせばあるのでしょうが。

七年まえのものながら、いつ、と表記しないのは、じつは手もとに九州俳句誌がないからです。コピーしたものがあるだけで。わたしはほんとにずさんです。

2008年6月20日 (金)

サンカの血をゆりおこす

     暦論  その九

  皇孫御誕生を喜びたてまつりて

大宮のかたよりひびく號砲に
   なみだぐましき喜びをする

いと殊に近くかがやく星のあり
   めでたき宵をことほぐがごと

   文化學院中學部四年生  藪 秀野

大正十四年十二月九日、国民新聞に掲載された、当時大正天皇の摂政であったのちの昭和天皇に、第一皇女照宮が誕生した祝意をうたった十六歳の少女(のちの石橋秀野)の歌である。

和歌は与謝野晶子に、俳句は高濱虚子について学んだ秀野の記念すべき作品デビューは、今の時代とも共時性をもつこの和歌だった。関東大震災から二年ほどしかたっておらず、国際政治においても米英にうとまれてゆく暗い世相の中で、唯一の光明がこの件だった。
そして平成十三年十二月一日、今上天皇に皇孫・敬宮愛子内親王が誕生した。

      ◇

この冬もまた、有明海のバゲことたいらぎのわた入りのだごじるを食べ損ねる。海苔はめぐみの雨に救われたようだが、諫早湾干拓の行方が思われる。ダム建造もはやらなくなった。新聞では太平洋上の島ツバル(なんて象徴的な言霊)が温暖化で水没したため一万二千人の島民が難民化したと伝えている*。
転換の時代に来合わせ、九州という日本のもっとも基底部の島で、服わぬ民の子孫である血を強く意識しながら暦論を書くことは、いったい何からのEXODUSになるのだろうか。

      ◇

源鑑述百首和歌の続きにはいる。私はふしぎでたまらない。何も知らずにこの和歌を始めたのに、つぎつぎに面白い発見がある。「天文年間」まずこの元号にしてからが謎だ。いったいどこからこのような元号はふってくるのだろう。時代につく名、それらはみな、カミの領域からおりてくるのだと思いたくもなる。

大友能直(12~13世紀)が次なる謎だ。この人こそ豊後大友氏の祖であり、うまれは関東相模の一豪族ながら源頼朝落胤説がつきまとう伝説の人である。外山幹夫『大友宗麟』 をよむと、それは怪しく、おそらくは能直がみめうるわしく病弱な頼朝の愛童だったから生まれた伝説だろうという。しかし彼はこのお陰で頼朝の無双の寵仁となり、豊後・筑後の守護職ほか、鎮西奉行職まで任されていた。
この異能の人、大友能直(大伴と記す史料もある)が著したとされる『上記(うえつふみ)』 は、神代文字の一つ豊国文字で書かれている。それは漂泊の民・山窩=縄文人ののこした文字だ。

       ◇

九州というでかい島を横断するには山又山を踏破するしかない。それは昔も今も同じである。昔は馬で、今は電車や車で大山脈を人が往来する。その際きっといたであろう、いまもいるにちがいないサンカに出会い、自分たちとは全く違う文化に触れたのだ。けっして時の支配者にまつろわぬ民。大和朝廷に支配される前の永い民族の記憶。サンカの血よ、蘇れ。

        ◇

三十四    荒和祓(あらにこのはらひ) 鑑栄

月すヽし川瀬のなみの夕はらへ
こひをせましと人はいふとも

前々回(九州俳句誌123号)は、ここまで紹介した。
この歌はもっと深く読まねばならぬ。
荒和祓は別名、六月祓(みなづきはらへ)、夏越祓(なごしのはらへ、名越祓)とも言い、陰暦六月末日に神社で行われた。茅の輪くぐりやひとがたをつくって川へ流した。夏祓。-これが歳時記や辞典のもっとも簡単な説明。陰暦六月末は陽暦の八月中旬頃になる。
これについて考えてみたい。
手もとに伊勢神宮司廳が発行している神宮暦がある。神道では年二回の大祓があり、夏至から十日後、冬至から十日後。陽暦は六月末、十二月末。

この年に二度のみそぎは何を意味しているのだろうか。
もしかして、古代の1年は今の半年だったのかもしれぬ。なぜなら「年とは稔りのこと」だからである。つい近年まで「みのり」は米と麦の二毛作だった。豊作を祈って、あらたな年玉=年の霊をおむかえするために身をきよめたのだろう。

ところで、この荒和祓の歌だが、どんな意味だろう。月の涼しい夜、河瀬でみそぎをしている。恋をしてはいけないと人はいうけれど・・・。「こひをせまし」が「すまじ」か「なさいませ」なのかよくわからない。方言なのかも。博多祇園山笠の期間中は禁欲し潔斎することからもわかるように、たぶん、そういう意味だと思う。恋の歌でありつつ神祇の歌でもあるが、夏の歌に入っている。

       ◇

最初は夏日待(なつひまち)を九州に昭和四十年代まで続いていた夏休みにこどもたちだけで一晩お宮におこもりする祭りの原型かと考えた。あるいは荒和祓は九州の割にひろい範囲の地方に残る「よどまつり」の原型かもしれないと。新聞の投書欄でときどきヨドについて綴った文をみかける。熊本の主婦が九月のよどまつりについて書いてる文章を先日みかけたが、筑後のよどと同じだった。夜店もなにもない鎮守の杜に筵をしいて、くるま座になって村人が歓談するだけの祭り。小さい子達にとっては闇のこわさを知る機会であり、大人たちにとっては自分の中の縄文人の血を確認するようなそんな宵祭りである。 

       ◇

三十五  立龝    嵐竹

昨日までふくとも見えぬ秋風の
簾にさはる初秋の空

三十六   七夕    弘俊

七夕のあふ夜のとこは天の戸を
をし明かたもいそがさらなん

三十七    萩     覚元

ほのめかす軒端の萩を来てみれば
露うちなびく秋の初風

三十八   女郎花    鑑述

ひとしくも手ふれてやみむ女郎花
をなじ花野の秋はあれども

三十九   薄       鑑栄

花すヽき音信わたる秋風に
あだにやなびくゆふ暮の空

四十     蘭       宗右

秋の野に主あればこそふぢはかま
色香を露のやつさざるらめ

七夕のうたはなんとまっすぐな恋の歌だろう。
七夕の夜は牽牛と織姫の年に一度の逢瀬だから、夜が明けるのをせかさないでおくれ。

このうたをよんだとき、ふっと岩明均の漫画『七夕の国』を思い出した。かれの漫画は霊的示唆にみちており、かささぎと太宰府と大伴家持とはるかむかしの九州王朝説とをなぜか思い起こさせる。

かささぎの渡せる橋に置く霜の
白きをみれば夜ぞ更けにける  家持

(新古今・冬・620)

かささぎは、佐賀・福岡、長崎など西日本の一部にしか見られない。なぜ、昔の鳥とかくのだろう。

   『九州俳句』誌125号より引用

この前号124号の暦論八は省略。
ちょうどアメリカで9・11事件がおきた時だったため、そっちに気をとられ百首和歌にはふれていない。それでもやや面白いところもあるので、引用しようとしたが、半分入力したところでとんでしまった。イスラム暦(回教暦)とグレゴリオ暦とユダヤ暦との違いと関連(和歌俳句川柳みたいなかんじといえばもっともわかりやすい。基底部にユダヤ教がまずあり、それを批評するかたちであとの暦が生まれた)を書き、それに「くるす野」で引用した後ろ半分。

9・11事件:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%8C%E6%99%82%E5%A4%9A%E7%99%BA%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

追伸:

あれから「スーチー女史は善人か」を読んだ。
「包茎が世界を揺るがす」の題の最終章、それ一文をよむためだけに本を買った。アメリカは多民族国家だが陰で国を動かしているのはユダヤ暦だと思っていたので、そのことがこの題をみて、瞬間的に浮かんだからだ。政治思想にもキリスト教の慈悲はないように思えるし、九月に始まる新学期、新年度といい、ユダヤ暦だ(陽暦九月がユダヤ暦の1月)。数年前聖マリアの小児外科医の先生からきいた、白人はみな手術します、との一言が謎として胸に残っていて、割礼という宗教儀式をもつのはユダヤ人だけだったはずなのにいったいそれはどういうことなのかと知りたかった。これでよくわかった。著者の高山さんありがとう。教えてくださった東京のさくらさん、ありがとう。内容は教えません。しりたいひとはお買い求めください。

2008年6月19日 (木)

あぢさゐ

ほんとはあおかったあぢさゐ。御井町。

最近「水前寺海苔」でこのブログにたどり着いてくださるかたが多いです。すいぜんじのりから新物質が発見されたみたい。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_ad72.html

水前寺海苔から新物質:http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20080613-OYT1T00680.htm

雨

八女市矢原町、仏壇やさん近く。
雨

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_8728.html

↑この場所、ひさしぶりだったので、記念に一枚。
雨

ここはどこだろう。・・・わからん。笑

2008年6月18日 (水)

はじまりはいつも雨

梅雨にきく歌。

http://jp.youtube.com/watch?v=sUyoduLl40c&feature=related

二番をうたっているひとが竹善さん。
作った人は飛鳥諒。歌詞がすばらしい。

梅雨におもいだす句。

暗緑の雨冠の山懐史   瀧 春樹

あんりょくのあめかんむりのさんかいし。
ういるすのように意識せずともしのびこんでくる俳句のちから、むいしきにはたらきかけることだま。

瀧 春樹と冬樹 蛉。どちらとも険悪な関係である。はげしく怒らせ嫌われている。しかしじぶんにはここちよい。名前、二つならべるとわかるが、シノニムになっている。ペアで補い合っている。(こんなこというから火に油を注ぐのだ)。ほんにほんにすみませなんだ。わるぎはてんでないんですがの。

高貴高齢者

さいしょにきいたのは、長男の口から。

こうきこうれいしゃいりょう。
高貴な高齢者の医療だから高くつくのかと思った。

老いしものを如何やうに扱ふにしても後期高齢者などと束ねるな
   やまなみ  水落 博

やまなみ歌人せいこさんの短歌ブログでとりあげていた。
私も新聞でよんだ。破調はこんなときのためにあるんだな。

山下整子、31文字倉庫 http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_f06b.html 

2008年6月17日 (火)

源鑑述百首和歌 夏の部

    暦論  その七

               

  元禄十一年七月二十日久留米
名月はふたつこそあれ一夜川   各務支考

     ※ 一夜川・・・千年川。筑後川。

芭蕉没後、その俳諧を全国に広めた一番の功労者各務支考。かれは芭蕉の意思を継ぎ、あちこちを精力的に歩き廻った。芭蕉は九州の地を踏むことはなかったが、支考は元禄十一年に筑後、中津、日田、熊本、長崎、博多、北九州・・・とその足跡をいまにのこしている。
活動拠点が故郷美濃だったため彼の俳諧は美濃派と呼ばれ現在もその俳諧の灯は獅子門が守り続けている。
四月、俳句文学館に調べものをするため上京し、翌日、連句協会主催の全国連句大会に参加した。広い会場に三十の座が設えられており、参加者は籤引きでどの座に入るかが決まる。私は美濃獅子門・本屋良子捌の座にあたった。

       ◇

大発見だ。筑後一の宮・久留米高良山のふもとに芭蕉の霊を祀る「松尾桃青霊神社」があった!この事に気付いたのは例の有明の主水と岩戸山古墳や磐井や美濃守源鑑述について調べていた時で、『筑後志』という古文書に松尾桃青霊神社として出ていた。高良大社社務所に伺うと、霊社ではなくて、格が一ランク上の霊神社だとの由。社の名前には格があるのだった。

芭蕉霊神社は全国でもここにしかないと思える。なぜ高良山なのか。

それは寛政三年田主丸の其角門の俳人・岡良山(七十歳)がはるばる上京し桃青霊を勧請して帰り、清らかな湧き水の里であり豊媛命のおわす久留米は御井(みい)の地に祀ったからだ。それほどまでに芭蕉が敬慕されたのは、支考や志田野坡(しだ・やば)、榎本其角(きかく)、服部嵐雪ら弟子の顕彰のはたらきがあったからである。ちなみに支考は元禄十一年初秋、野坡(樗子)は同十五年と享保二年に筑後の門人指導に来たことが、久留米市史等に記載されていた。

はじめに大発見などと書いたことが恥ずかしい。わたしが単に自らの地の俳諧史にうとかっただけだ。

ちょうど今年五月八女市福島町の祇園社境内に、享保元年1716、野坡が当地の若林旦夕を訪ねた際に目にした魚市の様子を詠んだ、

 麦の穂に烏賊の雫や市戻り  志田野坡

が句碑として建立されたニュースを新聞で読んだ。野坡は八女に来ていたのだ。あのかまぼこやさんが軒をならべる古い町並みが髣髴とする。長崎出身の向井去来が八女吉田の岩戸山古墳を詠んだ句、

 稲妻や人形原の魂よばい 去来

は、ある医師の日記に書かれていたから残った句だとか。

高良山の桃青霊神社には案内板もなく宣伝もされず、参詣者はないようだ。ほんとに目立たぬすみれ草のような可憐な祠、芭蕉にはふさわしい。

            ◇

 豊饒美濃守源鑑述百首和歌 

     夏の部

二十  更衣     鑑實

たちきつる春の袂のおしければ
ぬぎかへがたき夏ころもかな

二十一   卯花   鑑述

曇なき月のひかりや卯花の
かきほあらたにかくるしらゆふ

二十二   葵     鑑教

詠(ながめ)よとおもはす露やかヽるらむ
おりにあふひの花の朝更

二十三   郭公(ほととぎす)  鑑述

ほとヽぎす心づくしの空音とも
また聞あへず夜半の一こゑ

二十四  菖蒲       覚元

えにしなき身ハあだ波の菖蒲草
たが家づとのつまとならまし

二十五  早苗       鑑述

小山田の早苗むらむら色つきて
秋にまぢかきかぜそよぐ也

二十六  照射(ともし)   鑑栄

夏山のしげみを頼む小牡鹿の
ともしさすてふいる影はいざ

二十七  五月雨      嵐竹

山川のあさせも此の五月雨に
よしあだなミはたヽじとぞおもふ

二十八  盧橘(ろきつ)   宗右

夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花

二十九  蛍        鑑教

うき草にやどる蛍の影もいま
なえをはなるヽゆふ暮の空

三十  蚊遣火      鑑實

まバらなる賎が伏屋のかやり火の
軒よりもるヽ夕けぶりかな

三十一 蝉    鎮時

木間より時雨こヽろになく蝉の
こゑも夕日にほすかとぞ思  *

三十二  氷室     松寿

春秋をわけぬはかりか松がさき
氷室も夏をほかにこそもれ

三十三  泉   宗房

をのずからまたこぬ秋の初かぜや
わきていづみのゆふ暮の空

三十四  荒和祓(あらにこはらひ) 鑑栄

月すゞし川瀬のなミの夕はらへ
こひをせまじと人はいふとも

1 郭公の歌。
むかしの歌には郭公とかいてホトトギスと読ませる物が多い。夏の代表的な季題であり、春の花さくらもそうだったが、このほととぎすも一座のボスである鑑述という捌が詠んでいることに注目したい。

山本健吉に「初夏の野鳥」の名文がある。

 いつきの昔を思ひ出でて 式子内親王

郭公(ほととぎす)そのかみ山のたび枕
   ほのかたらひし空ぞ忘れぬ

健吉はこの歌に源氏物語の花散里の面影とともに内親王の秘めやかな恋情をよみとっている。時鳥の歌には恋にまつわるものが多い。時鳥の名告りは夜のむつごとを連想させるとも言っている。俳諧では其角に吉原遊郭での早朝吟がある。

暁のヘドや隣のほとヽぎす  榎本其角

2 卯月という月の和名と卯花はどちらが古いか。

波流花さかりにひらくる故にうの花月と云ー『俳諧歳時記栞草』に出ている卯花月の説明文である。漢書の『釈名』の読み下しらしいのだが、波流花に「うのはな」のるびは強引すぎないか。もしや「はるははながさかりと開くゆえ、卯の花の月という」とよみ、古代中国のこよみの卯月、すなわち波流(春)二月の説明ではないのだろうか。中国古代の卯月→十二支の四番目→日本には古来四月にウヅキなる和名があり、それは空木の花盛り頃だった。→こじつけたのだろうか。和名卯月の起源、それを知りたい。

            引用『九州俳句』誌124号

*

思 

  
この歌の最後の字が謎だった。
田の下に横棒がいっぽんだけ。みたことない字だった。
読めずに、いろんな人に尋ねた。一人前田亜弥氏が「思うという字だとおもう」と示唆してくれる。たくさん古文書を読んできた人じゃないとわからない。東明雅先生からは冒頭の「夏日侍」という題は「夏日待」と読むのだとおしえていただいた。さむらいはまつ。

 http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_1ee5.html

貨幣論

『貨幣論』

岩井克人著

ていうむづかしそうな本、石がよんでた。

かきましたよね石のこと山という名前で。

かむあがる〈また〉のような石。はたまた山。

しごとをすればくれーむのやま。

でもだれより碁がうまい石。

黒体放射のきたないしゃついつもきてる。

にんげんはかねがからむといやらしいな。
しんせきはかねがからむとかなしいなあ。

と やにくさいてで ぼそぼそっという。

いさん、とりもどせるの。石。

するとちっともほしくもなさそなひとごとの目で

とりもどせるよ。いまちゃんとやってくれてるんだな。

という。

だからひほさにんなんだ石は。とふいに熱いものがこみあげて私はおもう、ばかばかばかばか。石のおおばか。

でも。

ほんとの大ばかはわたしなんだ。

貨幣論。よまないもの。

http://www.mayq.net/kaheiron.html

かむあがる〈また〉

星永文夫『肥後飢餓講』

2008年6月16日 (月)

源鑑述百首和歌 春の部

    暦論  その六

                姫野恭子

俳諧が息を吹き返した。三月二十日お彼岸中日に、八女で連句興行が叶ったのである。
場所は八女福島の堺屋(もと造り酒屋)の石庭。そこに緋毛氈を敷いて、五つの座を拵え、それぞれの座を客人で埋めることができた。
迎える捌はすべて連句会亜の会(前田圭衛子代表)の面々だ。みな若く、座での捌の経験は無きに等しかった。しかし気合だけは充分あり、ひるむことなく半歌仙を二時間弱で満尾することができた。例年ならこの日は雨の天気も晴れてくれたし、立案から興行まで正味二ヶ月の準備期間しかなかったけれども、私達捌に、初心者相手の歌仙の巻き方(ことにいかなる地位の人が同座したとて座では平等、ゆめ臆するなかれ)等々、懇々と助言して下さった前田師の俳諧に賭ける情熱。この人ありて初めて、九州の地に俳諧の灯をともすことができた。
まるでつむじ風に巻き込まれたかのような日々の後、興行は大成功した。まだ当の私達にすら自覚はないけれども、もしやこれは俳諧復興への第一歩だ。

         ◇

八女市の北西部になだらかな丘陵がある。
ここを貫く古い国道三号沿いに、岩戸山古墳筑紫の磐井の寿陵があるが、さらにそこには二つのお宮が祀られている。二つの宮とも南面し、西の宮は松尾神社、東の宮は伊勢宮と言う。さてそこで、初めて松尾神社とは何か調べて驚く。なんと酒の神様だったのだ。最終的に件の有明の主水句は、捌の松尾芭蕉に対しても荷兮が挨拶をしていたことになる。

         ◇

松尾宮も伊勢宮も全国各地にある。けれども、神道が戦後地下に潜ってしまってからは興味を持つ人もない。日本の暦は明治維新直後に、西洋の暦に均された。俗にいえば、明治政府は果敢にもそれまでの歴史を全消去するに等しきことをやったのである。この事は誰の意識にも上がらぬが、昭和の大戦後の意識の断絶以上の亀裂を私たちの精神に刻印した。だから、古典作品を読むに際しても、いにしえびとと同じ無意識の層に立てない。

今年(2001年)の元旦、この八女岩戸山の伊勢宮に神事能である『翁の舞』が奉納された。昨年この宮に五百年近くも眠っていた天文年間の百首和歌を読み解くのに熱中したこともあり、見えない糸に導かれるようにして、能を観にいく。そこでまた新たな発見をした。
やはり易・五行だった。本舞台や橋掛かりにある松。松は能に欠かせぬ呪物でもともと十八公と書く。公の部分の異体字は八白で、九星のうち八白土星に重ねられ、その性質を象徴させられた。易での八白は、艮=ウシトラ。意味するものは、時のあわいである。昨日と今日の境、去年と今年の境、千年紀と二千年紀の境、彼岸と此岸の境である。
吉野裕子の『易・五行と源氏の世界』 には、松の役目について、こう書かれている。

この世のすべては有限で「終り」があるが、その有限を無限に転ずるのは、その「終り」を「始め」につなぐ処にある。したがってものの「終始」を象る「継目」は、ものごとの永遠性を保証するものであって、限りある生命体の人間にとってもっとも重視された。

          

早く源鑑述百首和歌に入りたかったが、次々に周りで起きる現実の出来事が、今から紹介する戦国時代のうたに出合ったことから派生しているような気がして、これら現実ごと書いた。このさき何が飛び出すか起きるかわからぬ。だが、裏ではたらく大いなるものの力を信じる。

          ◇

 豊饒美濃守源鑑述奉納百首和歌

         第一次解読  松崎英一(故人)
         第二次解読   姫野恭子
         協力      東 明雅(故人)
          〃       前田 亜弥
 

 夏日待   

          今伊勢寶前同
                    詠百首和哥 
          美濃守源鑑述

一    立春

君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ

      子日        鑑教

さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め

三    霞         鑑實 

朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき

    鶯        鎮時

春立は谷のつらゝもうぐひすの
こゑうちとけて軒ぞながるゝ

五    若菜       鑑秀

わかなゆへとしとし*分てくるす野に
おほくのはるを我もつミけり

六    殘雪       鑑實 

をそくとく消るや野辺の白雪の
跡まで見ゆる草のしたもえ 

七     梅        覚元

心ある友としミばや難波津の
花もさかりの香に匂ふころ

八    柳        弘俊

夜るの雨の晴てやなびく春柳の
露の玉ちるあさ明の庭

九    蕨        孫七

もえわたる野辺のさわらび影は見ねど
あたりの草ハけぶり合けり

十    桜        鑑述

さくら花けふより千ゝの色はへて
いく春までかさかへさかへむ

十一  春駒       嵐竹

つながでも放れぞやらぬ春駒の
野をわかくさや綱手なからむ

十二  帰鳫(帰雁)      鑑冨

見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん

十三    呼子鳥     鑑教

春の日もよぶこ鳥ゆへくれはとり
あやしきまでにまよひこし山

十四    苗代      鎮續

言葉の花の種まで桜田の
苗代水にまかせてやミむ

十五    菫       鑑栄

むらさきのゆかりにさける菫草
野をなつかしミくらすけふかな

十六    蛙       牧也

雨はるゝ田面の原のゆふぐれを
なくや蛙のこころなるらむ

十七    藤       宗右

岩に生ふる松にかゝれる藤なみも
をのれくだけて春ぞ暮けり

十八    款冬(山吹)   鑑栄

足曳の山吹さきてたそかれの
春をのこせる色にこそあれ

十九    三月盡      孫七

伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春

   

※ 原文には番号はない。万葉仮名はひらかなにしたが独特の表現(「み」がカタカナになっていることなど)はそのままにした。また、清音は濁点をほどこした。*としとしは濁るのか濁らぬのか不明。年々かどしどしか。おそらくその両方にかけるのだと思う。

和歌は立春で始まる。国歌「君が代」のこころである。
君が代は千代に八千代にさざれ石の。ここまでが和歌で言えば上の句であり、巌となりて苔の産すまで、が下の句だ。
司馬遼太郎の随筆に、この国歌誕生の面白いいきさつを綴ったものがある。古今集にもあるこの歌は、江戸末期まで大奥で実務的に歌われていたものだ。元旦、四時に起きた御台所は身支度を整えると廊下に出る。そこには石が三つ入った盥があって、その向こうに中臈が着座している。御台所も座り一礼のあと、おもむろに「君が代は・・」とまずは中臈から上の句を吟ずる。それを受けて御台所が下の句を唱え、朝一番の井華水で手を洗って、この「おさざれ石の儀」は終わる。

面白いのはここからで、明治二年に英国から貴賓が来て、もてなすのにあちらの流儀を取り入れねばとあたまを悩ました接待役人達は、向こうでは国歌を演奏して客人をもてなすらしいと知る。そこで急遽、国歌を仕立てるというか選抜するのであるが、その最大の功労者は、乙骨太郎乙という英語のできる旧幕臣だった。
この人は大奥の儀式で歌われる君が代の歌を咄嗟に思い出し、提案すると、同座していた薩摩の接待役も、その歌ならわしの国の琵琶歌にもあるといって賛成し、英国人が多少節回しをかえて、当座の間に合わせたという。
司馬はなにげなくこの挿話を書いているが、国歌君が代は陰陽五行そのものの歌であった。

平成十三年の『九州俳句』誌123号より引用。

考えたのですが、本の出版はできず、かといってこのままこの歌たちを見殺しには出来ず、悩んだ末、ブログ上に引用しようと決めました。七年ほど前に書いたものでありまして、当時は生存されていた二人の方が、いまは故人になられてしまったことが、かえすがえすも悔やまれます。一度もお会いできませんでした、一次解読をなさった松崎英一氏、歌用語の読みを懇切丁寧にお教えくださった俳諧学者の東明雅氏に、深い感謝の意を捧げます。八女の松崎氏にはこの歌の背景などをたずねにいこうと思っていたのですが、もはや何の資料もない状態になりました。不慮の事故でなくなっておられたからです。残るは矢野一貞の『筑後志』のみか。

稿にわからぬ点がでてくるかと思いますが、それは流れの途中の稿であるためで、全12回通せばくっきりとみえてきます。というわけで、歌をひっぱった回からアップします。

2001年のぼんぼり連句、けっきょく一回きりの興行でしたが、そのとき五つの座でさばきをやったのは、前田圭衛子師、鍬塚聰子、沢 都、山本伽具耶、姫野でした。天野おとめは裏方に徹しお茶くみを懸命にしてくれました。まるで天女のようにです。このとき、貞永まことも大分からかけつけてくれたのですが、。

2008年6月15日 (日)

天文歌人の難波津の歌

さいきんのニュースで歌木簡の発見があったでしょう。

そのニュースで特に眼をひいたのが、発見者のお名前(えーと)栄原永遠男(さかえはらとわお)・大阪市立大教授。さかえはら・とわお。と、歌の父母といわれる和歌が一本の木簡の裏とオモテに書かれていたことです。

<難波津の歌>

 難波津に咲くや(木こ)の花冬こもり今は春べと咲くや木の花

 (訳)難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たとて梅の花が咲いています

 <安積山の歌>

 安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに(安積香山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫国)

 (訳)安積山の影までも見える澄んだ山の井のように浅い心でわたしは思っておりませぬ

(いずれも「新編日本古典文学全集」小学館より。「安積香山」で始まる表記は、万葉集の原文)

(上記は下のサイトからの引用です。)

http://mainichi.jp/select/today/news/20080523k0000m040062000c.html/.http://mainichi.jp/select/today/new

これをよみまして、はっと気付いたことがあります。

あれは二千一年でしたか、もう七年たちましたが、岩戸山古墳のある磐井の寿陵にある伊勢宮で新千年紀を祝う神事能『翁の舞』が演じられたとき、赤崎学芸員さんからいただいた史料に天文年間の百首和歌という重要文化財がありました。それを季刊の九州俳句誌に連載していた『暦論』(全12回)で99首全てよみとき紹介しましたが、春の部七番目に、忘れもしない難波津のこのような歌がありました。

   梅

心ある友としミばや難波津の
  花もさかりの香に匂ふころ  覚元

十六世紀の筑後武士たちの歌の教養。この中の「難波津の花」は「梅」の代名詞として扱われているのがわかります。

こう書いてるそばから、読みを助けて頂いた東明雅先生のお声が聞えてくるようです。

なにをしてるの。はやく本にまとめなさい。とおっしゃっているお声が。

2008年6月14日 (土)

八女人

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080604-00000001-maip-soci

このニュース笑った。

どこのどいつだ。と思ってよめば、なんと近くじゃありませんか。
ははは。さすがまつろはぬ民。なんだかうれしい。

2008年6月13日 (金)

光のかささぎ

ってつい書いてみたかっただけ。

昨夜おそく無事シャバにけえってきやした。うう・・(感涙にむせびなく)

けっきょく、二週間ちかくネット不通でした。なにやってんだか。

おわっ。もうこんな時間。

ではいってきまっす!

追伸:

復帰した日が13日の金曜日だったとは。

2008年6月 9日 (月)

渋谷幽哉師を偲ぶ

渋谷幽哉師を偲ぶ

[道端での立ち話]   道川内  宮内 春樹

平成七年三月十五日の午前十一時ごろだったか、肥後銀行の駐車場前で先生とばったり会った。

宮内  アラ銀行でしたか。

先生  今済んだ。時にアンタ身体の方はどうな。

宮内  肝臓は良くなったといわれましたが、血圧と胃が不調で困ったもんです。まあ、七十ぐらいまでいったら上々だと思ってはいますが。

先生  なんばいうとな。アンタ今幾つな。

宮内  六十九です。

先生  私は七十四バイ。七十ぐらいでどげんするな。まだまだ頑張らんば。時に今の日本についてアンタどげん思うな。

宮内  そうですな、私の十六、七のころは陸軍の幹部候補を目指して、学校の勉強はそっち除けで陸軍の勉強に熱中していましたが、昭和十九年になっていよいよ国が危ない、陸軍になって、たとえ将校になっても三銭五厘の鉄砲ん弾一発で死ぬことになる。
     国家、国民を守るためには、自分たち若い者がその防波堤となって死んでゆかねばならぬだろう。どうせ死ぬなら飛行機に乗って魚雷を抱いて敵艦に突っ込み、一対千、一対二千と刺し違えて死んだ方が、より効率的だと考えて予科練に行きましたが、本当に純粋でしたなあ。(中略)
            戦後も五十年を経過し、国際、国内の情勢、国の将来あるべき姿を考慮した日本という国に相応しい憲法に見直し、特に教育の面では人間教育とともに日本の鎖国時代以降の世界史を学校教育に取り込む必要がありはしないでしょうか。いたずらに国民が萎縮し、卑下し、祖国に希望を見失うことなく、誇りと親愛感を持つようにしなければならないと思います。(中略)

先生  私たちが生きているうちに、この国が正常な、本来の姿に建て直されるのを見届けてから逝きたいと思うナ。

以上のような立ち話をして別れましたが、その時点では健康そのものの先生が、間を置かず同期の桜の待つお浄土にと旅立っていかれました。この国の姿がさぞかし心残りであったろうなァ、と返すがえすも無念の思いでいっぱいです。(同誌より引用)

※ ほかに、渋谷幽哉師自身の書かれた「ノーマライゼーション」、「”教育”の字義に思う」をここに引きたいと強く思いました。

連句的参照

http://www.randdmanagement.com/c_seiji/se_230.htm

「肥後飢餓講」星永文夫初期作品集Ⅱ

「肥後飢餓講」星永文夫初期作品集Ⅱ

がたみずのんだこんからだ
もいちどうみばみろごたる

      星永文夫

 この飢えはどこから来るのか。魚のように群れてひろがる。と、急に向きかえて尖る、このしたたかな不在。
 かつて馬に乗って来たはじめての父たち。彼等はいつか不知火の塩くみとなり、なりわいはふつふつと塩釜にたぎる、はなやかな喪失。
 私は知っているのだ。私の飢えの盆地に、冷たくたぎる火のあることを。それは決して連帯しないことを。

 今。街に出て、立てるべき幟(はた)を持たない。潮のようにながれる、自らの速さを知らない。黙ってよるべなく、壁に影する黄金(きん)のこおろぎ。こおろぎたち。
 私は見ていた。変容のとき。僥倖を得たのだ。自らの黄金のこおろぎ。
 
 飢えが武装する。飢えない昼に飢えて。ねずみ花火に火をつける。海が常にまるくひろがるから。

   本多企画 平成20年4月1日発行 

2008年6月 8日 (日)

福岡市東区原田

福岡市東区原田

印鑑証明書、土曜日の役場にて

印鑑証明書、土曜日の役場にて

市役所の広い窓から見える景色。
広場のその先は西鉄天神駅。

印鑑証明書、土曜日の役場にて

土曜もちゃんとあいていたので、助かりました。

ちなみに佐賀市には市民用自動発券機がありました。時間外でも各種証明書を発行してくれます。その機械、韓国製の非常に安価(500万円ほど、日本製の三分の一)で性能も優れて評判がいいので、佐賀市はその会社を佐賀に誘致、いま日本全国に売り出しているというニュースを西日本新聞でよみました。

印鑑証明書、土曜日の役場にて

市役所の筋向いにあるアクロス福岡。
地下三階駐車場にとめました。以前、福岡連句会がここであったとき、使用したことがあったので、それだけの理由でここにとめました。が、二十分駐車しただけで400円とは。このぼったくり。http://www.takenaka.co.jp/enviro/env_pro/09_across/02.htm

2008年6月 7日 (土)

とび職人のいる風景

とび職人のいる風景

1月15日14時7分、靖国通り。
とび職人のいる風景

6月5日8時48分、勤務先事務所窓から。

警備士のいる風景 2

警備士のいる風景 2
警備士のいる風景 2
警備士のいる風景 2

ハローワークへ隊員さんの書類を届けた帰りに写す。
ここはとてもせまい割りに車の出入りの激しい所です。
しかも出入口のすぐ近くに国道三号があって。
こういうところにたつのは神経つかうだろうなあ。

2008年6月 5日 (木)

草思社

草思社
1月15日15時23分撮影
ネット不通なため 携帯写真整理してましたら こんな写真ありました 昨夜ニュースでやってましたね つぶれたって しらなかった 憧れの出版社だったなあ 日本青年館ホテルから千駄ヶ谷駅の途中にありました

http://www.soshisha.com/book_wadai/39kasuga/02.html

2008年6月 4日 (水)

宮崎

宮崎

サボテン公園ではなく県庁です。この花のつきかた!http://www4.ocn.ne.jp/~wakacha/kenntyou.htm

宮崎

一本の樹に大量の養生用土。これが、宮崎。
宮崎

次に向かった宮崎神宮で土砂振りの雨に遭いました。

九州俳句大会

九州俳句大会

九州俳句誌中村重義編集長(北九州市)

「愛という不確かなもの霜柱 中村重義」

九州俳句大会

『九州の脊梁と椎葉の四季-唄・芸能・食文化』
 講師・永松 敦 宮崎公立大学教授

講演中に一枚撮りたかった。音がしますから・・
九州俳句大会

中山宙虫さん(熊本)

「うららかやみんなが落ちる街の穴  中山宙虫 」

宮崎

宮崎

宮崎県庁。銅像の人物は・・。岸部一徳。なわけない。
宮崎
宮崎

目抜き通りの新駐車場ビルからの景。

2008年6月 3日 (火)

歌仙『筍の』上がりました。

歌仙「筍の」

    首 平成二十年四月一日
         尾   〃    六月一日

筍のひとつ耶蘇墓また一つ    乙四郎
 くるす野淡きかぎろひの中   恭子
ふらここへもつと高くと声かけて 呆 夢
 公園の道車椅子行く      兼坊
濯ぎもの干さるる先の月の舟   整子
 蝉取り網で海を捕らへる     宙虫

ウラ
白い時壊れた扉こぢ開ける   たから
 こちらへどうぞ主待つ椅子 乙四郎
足枷のごときぬかるみなにぬねの 整子
 レスキュー隊員みんなイケメン ぼん
雪鳴らし獣が月を食ひに来る 虫
  天の体と人の体と  恭
活火山怒れ吐き出せ反抗期 たから
  びつくり水をかける頃合  乙
年賀状とつくに松の内過ぎて   坊
  晴れたる空を連凧がゆく  ぼん
花守の役を負はせて石の馬  整
  肥後街道に太る蜂の巣   虫

ナオ
チヌ釣りが中止になつたと留守電に 
           丸山消挙 
  喫茶店名繰り返し聴き  乙
一眸の荒野を隠す君の肩   恭
  優しくもあり激しくもあり bud
ゆらゆらと音なく影なくカンナ燃ゆ ぼん

    リストの譜面めくる夕凪  虫 
まほろばは楽天的に陽がのぼる 整
  禁煙ガムがやまんないです 恭
香を残す無口な父の文机  たから 
  龍卵震え孵化も間近か  乙
月明かり電気灯らぬ避難所に 坊
    生者のこゑは野分のやうで 整

ナウ
ハンケチで林檎を磨く家系なり 宙虫
 新酒出揃ひ満ちるぐいのみ  ぼん
亀助け見返りなんぞ当てにせず 乙  
 あれやこれやと忘れるも良し たから 
天に向く花の哀れを言ひし人  挙 
 団子やありて雁帰るとか   坊

2008年6月 2日 (月)

九州俳句の野生 その2

うららかやみんなが落ちる街の穴 中山宙虫 

銃身磨くべし白葱になるまで  池田守一

生きるとは影をもつこと青あらし 松下けん

飾られて雲を見て居り祭馬  池内和子

春光や柩に未来あるごとし  山下惠子

野生馬も風読む都井の野焼きかな 日高二男

揚げひばり地獄見てきし高さかな 河野輝暉

母里の桜蕊降る古道かな  南 瑛子

天孫の楽師たるべし揚雲雀  布施伊夜子

批評をそれぞれの県の代表のかたがなさった。
うららかや。みんなが落ちる街の穴。
一人が落ちるのではない。みんなが落ちる穴。
その諧謔性と批評性とを買う。街の穴とはなにか。
マンホールやあなぽこではない。明るくさえある歪。

銃身磨くべし。白葱になるまで。
倒置法の強い響き。
身のどこかに銃身を蔵していなければならぬ。
そしてそれを常に磨いておかねばならぬ。
撃つべき時に撃つために。
たとえこの身が老人に成り果てても。
(これ、かささぎよみです。)
評者は、銃身を白葱のように柔らかく甘く無力化しよう
と、句の底にある反戦思想を読まれます。



2008年6月 1日 (日)

九州俳句の野生 その1

五時、夫が起こしてくれた。しまった。五時に東妙寺らんを迎えに行く約束だった。
夫にだけ行先を告げ、八女インターから高速道に乗ったのが五時十八分。二回の休憩をはさみ、無事に宮崎に着いた。ときに八時。少し橘橋を渡ったあたりで迷った。迷わねば二時間半で目的地、プラザ宮崎ホテルに着いていた。狭いんだな九州島は。

朝ごはん、聳え立つホテルのパン屋でごぼうとえびのサラダがはさまったパンを買って食べる。会場に着いたのは九時半近く。会はすぐ始まった。今期限りで九州俳句誌の編集を退かれる中村重義氏にお礼の挨拶をせねば・・と思っていたのだが、とうとうできなかった。わがままな文章をずっと載せていただいていたことが、ありがたく、一言お礼をいいたかったのだが。一度も九州俳句大会に出席したことがなかった。自分の不義理を恥じていた。中村編集長から、これが最後になるとお聞きしていたので、今日行かねば、会わす顔がないと思ってたのだった。
連句につきあって下さった熊本の中山宙虫さんが九州俳句大会賞の宮崎県知事賞を取られたとブログで読んだので、これも行かねばという気にさせた。

講演がおもしろかった。
『九州の脊梁と椎葉の四季ー唄・芸能・食文化』と題して、宮崎公立大学教授・永松敦氏が熱のこもったおはなしをなさった。民俗学の話である。興味深い話だったので、メモをとった。

椎葉村の民謡のいくつかを村人が唄ったものを聞くことができたし、歌詞もきっちりとプリントされたのを配布なさったので、意味が読めた。それが驚いたことに、なんと恋の歌なわけです。わたしはほんとうにびっくりしてしまいました。そこに聴衆がいなければ、講師にかけよって、質問攻めにしているところでした。

たとえば、労働唄とばかり思っていた「茶摘み唄」。歌詞をつらつら読みますに、合コン風、出会い系風の口説き唄なのです。すごい。こんな生き生きとした卑猥な歌詞を、なぜか微妙に哀調を帯びたメロディーにのせて、アラ、コライショなんて合いの手入りでうたう。
わたしは、これを聞いたときに(もっとも講師の先生はそれを口にはなさらず、すっとばされた。恥ずかしかったのだとお察しもうしあげる)、すぐ、八女市の老連広報に山内の木附大子氏(80代後半ぐらいか。従姉の姑です)が書かれていた、むかしむかしの茶つみ風景の点描を連想してしまいました。

周知のように、椎葉も奥八女も九州の脊梁ともいえる山脈上にあります。山の人であるマタギやキジシ(民芸品のきじ車は木地師からきている)は山の脊梁を驚くべきタフさで驚くべき距離、移動していたという。四季の仕事の移ろいにつれて、あちこちの山々を猿のように移動するおとこたち、またおんなたち。女たちは木こりをするのではなく、茶摘などの季節労働者として移動していました。そこで自然と出会い唄がうまれたのです。つらい労働を唄でもてなしていたのです。なるほどなあ。いつか私の暦論でもとりあげた、中国の雲南省に残る男女の唄の掛け合いも、これに繋がっていく、と先生はおっしゃいました。私は聞きながら、わくわくし、山人の血がさわぐのを自覚しました。どこかにまだ眠っている血があるのです。

先生はまた、稗と粟と米の殻について教えてくださいました。脱穀に最も労力を要するのは、稗である。3.5斗ついても、1斗しか取れないのがヒエだそう。米は6から7割。山の民は飢えない。川には魚が泳ぎ、山地には雑穀を蒔くからだ。焼畑農業がなぜいいのか。それは焼くことで土のちからをきよめるから。循環型焼畑農法は自然な農法である。焼いた畠はヤボといったりカンノ(刈野?)といったりするが、西米良ではこばといった。山の下のほうから火を放つとすごい勢いで火が燃え移るので、よその山まで延焼の恐れがある。だから、野焼きをするときは、なるべく山頂部から下へむけて焼く。火は下から上へあがるからだ。こうしないと、命があぶない。壮大な野焼きはまさに命がけの作業である。

もうすぐ麦畑が刈り取りされるのですが、では、八女で「コンノ」と呼ぶ刈り取り作業は、カンノの転なんだろうか、と、初めて納得がいった次第です。

はあ~民俗学はおもしろいなあ。まだ書きたいのですけど、きついし、もうやめましょう。あしたに続きます。

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

最近のトラックバック

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30