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2008年5月 6日 (火)

戀の座

連休中、折口信夫の『戀の座』を読んでいました。
しかし、雑用が多く、読めたのは20ページほどです。
芭蕉の俳諧での恋句が、なぜあんなにも生き生きとして色っぽく、こころを捉えて放さないのか、を、古代の歌の歴史からあかしていって、読ませます。ちょうどいま巻いている歌仙の恋の座で、感じたこと疑問におもったことが、これを読むと重なり、氷解するから不思議です。

昨年末に古書店で買っていた古本(和木書店、昭和二十四年発行)で、藁紙の粗悪な造本ながら、気魄を感じさせます。
おとこしか生涯愛さなかった複雑な古代人であり神官の折口信夫だからこそ見えた芭蕉の芸術が、愛情をこめて、ものがみえるひとの目でこまやかに解き明かしてある。

  足駄はかせぬ雨のあけぼの  越人
 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉
  かぜひきたまふ聲のうつくし   越人
 手もつかず昼の御膳もすべり来ぬ 芭蕉

この四連にはたして転じがあるのか、あまりわかりませんよね。四句がらみといえばいえないこともない。でも、連句の決まりごとをしっているのであれば、転じているという眼で読まねばなりません。(以下柳田國男の受け売りも入った折口説)
女君のもとに通ってきたおとこが雨の朝、帰ろうとする。女君のこころを察して、男の足駄を隠しはかせまいとする侍女たち。これが一句目の越人句。受けた芭蕉の句は、王朝の源氏物語風です。きぬぎぬという語は後朝と変換されますけれど、ひらかなでかくと、絹絹・・いろとりどりの絹の海が眼前にひろがり高貴な女性のあでやかな姿態がうかびます。それを風邪で臥せっている女の聲に転じたのが越人。鼻声もつやっぽいというのです。で、それを折口は古代から近代の景へ転じてみせた、とこう解釈します。風邪聲がうつくしいとする感性に新しさを感受するというのがその理由です。受けた芭蕉の昼の御膳に手をつけない恋わずらいの姿。

こんな付け合いでは、どこですぱっと恋を棄てればいいのかとさばきは悩ましいところです。あまりにも美しい句が出ていて、それを一句で棄てるには忍びないのです。でも、それはそれでいいんだと。
なるほどでした。

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