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2008年4月27日 (日)

大石政則日記  最後の遺書

昭和二十年四月二十七日

父上、母上

男子の最後の壮途に上るに際し、遥かに皆様に訣別の言葉を述べさせて頂きます。明二十八日の午後四時頃私は廿四歳を最後として散ります。決してお嘆き下さいますな。出撃前夜の私の心は平静沈着、少しも普段のそれと変る所はありません。むしろ去る十二日の第二次特攻にて引き返した不面目と責任とをこそ今こそ果たしうるという雄心に充ち溢れて居ます。
只今、最後の鬚(ひげ)剃りを鯉田少尉にやって貰い終ったので又続けます。三五三号(中間席小野寺少尉、電信員犬童二飛曹)で宇佐の区隊長機として行きますが、待望の三号艦攻(一度も乗りたることなけれども)なので、本当にそれだけでも心のはずむを覚えます。一二二○発進。(午前空襲あらば一五三○)沖縄周辺の敵輸送船に対して痛快なる突入を決行します。假令(たとえ)途中にて墜さるることあるも、戦果小なりとも二十代の若者が次から次へと特攻攻撃を連続し、ますらおの命を積み重ね積み重ねして大和島根(やまとしまね)を守り抜くことが出来れば幸ではありませんか。ここでしばし回顧させて頂きます。

一心館での面会が本当に最後の面会でしたね。
ご両親様の御顔を拝し、また竹内夫妻の消息、家の様子などうかがうことが出来、また心残りと思いし「荒波越えて」を一読するを得て、私の心には少しの心残りもありません。満足のみです。本当に出撃前にこの機会を与えられた運命の神秘*、神の御加護を畏(かしこ)む次第です。雨の日空襲で防空壕に入ったことや、かしわを喰いすぎたことなど・・・
お陰で風邪をひき胃をこわしましたがね。

二十有余年、並々ならぬ御苦労を以て育てられた御思を有難くいただきながら、最大の親孝行を尽くすべく行きます。少しでも御膝下(しっか)に帰って御面倒を見、万分の一でも報じたく思いましたが、それは日本の戦局が許しませんでした。若い者は皆皇国の捨て石たるべく運命づけられています。今になってこの運命の尊さを泌々(しみじみ)味わっています。
私が亡くなっても政隆の偉大なるあり、また竹内大尉あり、私一家のみにても後に才々たるものあり。後に心をやるなど毛頭ありません。政隆は私に優る者、将来は期して待つものあります。どうか政隆に全幅の愛情と期待をかけられて、これからをお送り下さい。

宇佐発進の折りの句を再び決意に示して

待ちわびし 身に甲斐ありて 大君の
  御楯と飛び立つ 今日のうれしさ

国体擁護の日本民族総力戦の真只中、神風特別攻撃隊の一員として敢然(かんぜん)沖縄の海に予は死す。身は敵艦諸共四散し去るとも魂魄(こんぱく)は国体擁護聖戦に永久に生き抜き以て日本の四海に神風を吹き起さなん。神州興隆、四夷撻伏(しいたっぷく。吉田松陰の言葉、外敵を叩き伏せること)の悲願を抱き戦死に至極する廿四の人生を終る。涛(きゅうとう)*を挽回し攻勢を移転の機の一日も速やかならんことを切に懇望す。

 天皇陛下万歳
二十、四、二十七、二○○○時

竹内夫妻*

一足お先に参りますよ。お二人の結婚生活の甘い所など拝見したく思いましたが、出来ず残念でした。もっとも父母から面白可笑しく聞きましたが、精々拙(つたな)い何も出来ぬ妹ですが可愛がって下さい。
「兄さん」とお呼び下さるには尤(もっと)もといえば尤もなんですが、でも一寸(ちょっと)照れくさく思いました。もう呼ばないで下さい。


一回目の出撃は潤滑油が風防に一杯かかったので途中から飛行場に向いましたが、小隊長機たる責任観念よりまた列機の後を追いましたが、ますますいけないので涙を呑んで爆弾を海に落として引き返しました。飛行機は地上と空中で故障具合の違うことをはっきりと知りました。

同じ出水七分隊出身では富士原少尉が十二日の特攻で死にました。また金田少尉は三月中、敵機来襲にて第二美保へ避退のとき離陸直後失速して死にました。飛行時間一○○時間、離陸と編隊、計器飛行、互乗二、三回やったきりの何とも青二才ですが、恐れを知らぬ図太さを以て我武者羅にやりますよ。私は最後まで正真正銘バーデス*。

政隆君

よい弟だったな。本当に君が可愛くてなりません。兄さんは大尉で結構です。早く行かぬと獲物がなくなりますからね。ヤンキーの恐怖におびえた顔また痛快です。
兄さんが居なくても、もっと大きい兄さんが出来たわけだから元気で暮らしなさい。お母さんのお手伝いはよくやるように。一目可愛い中学生姿を見たかったですね。一種軍装を残して行きます。

許斐(このみ)先生 鯰田中学校恩師
藤井先生       竹田中学校恩師
菊池先生       富山高校恩師
植木先生       富山高校恩師

私の学生生活を通じてこの四先生には特に御高恩を賜りました。厚く御礼申し上げます
子弟教育に愈々御精励、皇国守護の基礎たる有為の人材を育成して下さい。今更何も思い残すことはありません。
四ツ谷巌兄(東大法)
学生時代無二の親友
元気で信念に直進してください。

編集者註:

*竹内忠治氏は出水空時代の大石君の分隊長で、その縁で大石君の妹の禎子さんと結婚された。

*後述。

記録では大石機からの電信は次の通りであった。

一九一三  ヒ ヒ ヒ ヒ・・・(敵戦闘機の襲撃を受く)
二○○九  敵艦船見ゆ
二○一八  長符十秒(体当りに突き進んでいる)

なおペアは清水吉一少尉(立大・十三期)
       犬童憲太郎二飛曹(甲飛十二期)

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

大石政則母刀自・大石トク『想いで草』より引用します。

任官を祝う母子の酌みかわす
     琥珀の酒の味わい深し    大石トク

二十年四月のある日、ある方から、「至急、大石少尉に面会に行かれるように」と内密の連絡をいただきまして、私ども夫婦は何事であろうかと、やっと手に入れた切符で電車に乗り、宇佐航空隊に向かいました。
「まさか、政則が特別攻撃隊で出撃するのではないでしょうね」
満員の電車の中で、私が主人の耳許で申しますと、
「几帳面な政則のことだから親に黙って行ってしまうはずはない」
主人は不安を隠すように言いました。
列車の走り方さえもどかしく感じられる思いで、ようやく航空隊に駆けつけました。
昭和二十年四月七日のことでございます。
「大石少尉に面会をお願いいたします。」
隊門でそう申し出ますと、
「大石少尉は昨日出撃されました。もうこの世には居られませんー」
受付の兵隊さんが静かに言われました。
電気に撃たれたようにその言葉が私の体を突き抜け、体中の血が地のなかに吸い込まれてゆくようでしたが、
「士官の母としてまさかの時にも涙を見せてはいけません」
と申しておりました政則の言葉をしっかりと噛みしめ、私は葉隠れ武士の母らしく涙をこらえておりました。
せめて息子のお友達にお会いして出撃の様子をお聞かせいただきたいとお願いしまして、五、六名の同期生の方々にお会いすることが出来ました。私ども夫婦はその同期の戦友方と昼食を共にしながら皆様から政則の想い出をあれこれと際限がないほどお聞かせ願い、政則が目の前にいるようにしっかりとその姿を想い浮かべることができました。
その日の午後も特攻隊の出撃がありますとのことで、特攻隊の遺族として是非それを見送って息子さんの出撃の姿と思って下さいとの温かいお許しを隊からいただきまして、私ども夫婦はしっかりと自分の目で特攻隊出撃の様子を見届けることが出来ました。

出撃される勇士達は皆様、桜の小枝を襟に飾って水杯を交わされておられましたが、
「先に往くから、あとは頼むぞ」
「必中を願う、あとから往くからな」
と、見送られる戦友、見送る戦友は交々、明るい笑みをたたえながら語り合っておられました。
やがて、一番機を先頭に次々と滑走路を離れた特攻機は飛行場の上で編隊を組み、大きくお別れの翼を振って南の方へ向かいました。
これが政則の姿だったのだと、私はいつまでも涙を拭わずに機影に手を合わせておりました。私どもは政則が残した鞄をしっかり抱いてその地を後にしました。

それから十日程後のことでございます。
「マサノリオル、クシラニイケ」
謎のような電報が、思い当たりのない方ーあとで、このお方は政則の戦友の親御さん*と分かりましたがーから届きました。
まさか政則がまだこの世に居るとは、と半信半疑の気持ちで、主人と私は宇佐より遥か南の鹿児島県串良に急ぎ参りました。
串良航空隊は一望の藷畑の中にあって宇佐航空隊のような立派な建物は一つとしてありません。
ようやく見つけた隊門で、またも「大石少尉は昨日ー」の言葉を聞くのではないかとの不安にかられながらも、恐る恐る政則の名前を申しますと、
「大石少尉は只今作業中です。しばらくお待ち下さい」
との返事が返ってまいりました。
”政則が生きていた、まだこの地にいるー”
私の顔に一度に血が上ってまいりましたが、まだ半信半疑の夢のような気持でございました。神仏の御加護があって、私は我が子に再び会うことが出来ました。
その晩は隊の近くの「一心館」という旅館に三人で泊まり、夜の更けるのも忘れて語り合いました。
宇佐を飛び立った政則の飛行機は、潤滑油が漏れて風防にかかり、前方が見えなくなったので一旦は引き返しかけたが、責任ある一番機であることから再び進路を南に向けたものの、どうしてもそれ以上の前進が出来ず、戻ったとのことでございました。
命が惜しくて引き返したと思われるのが辛い、と政則は唇を噛んで申しました。
私は「立派に整備された飛行機がそうした故障を起こしたのは、お母さんがあなたに会いたいと思う一念が天に通じて引き戻して下さったのです、ご奉公はいつでも出来るのですから決して死に急ぐことはありません」と申しました。
その夜と明くる日の夜、「久しぶりだからお母さんの懐(ふところ)で寝るよ」と申す息子の体をしっかり抱いて、私達親子三人は「川」の字になって眠りました。ようやく這い這いをしだした頃と同じ政則の温もりが私の体中に伝わってまいりました。
いま思いますと、こうして最後にわが子を二晩も抱きしめて寝ることが出来ました私は、他の特攻隊員のお母さま方には申し訳ないほど幸せであったわけでございます。
幸い、政則はまだすぐに出撃する様子ではありませんでした。
朝になると隊に向かい、夕方は旅館に戻って来るという、まるで政則が学校に通っていた頃と同じように、親子が朝夕に顔を合わせるという日が二日続きました。
丁度その折、娘、禎子の夫、竹内大尉が朝鮮光州航空隊から諫早航空隊に転勤になり、夫婦で私の家に立ち寄っておりましたので、
「政則ちゃん、あなたの居場所が分かったのでちょっと竹内夫妻に会って来て、すぐに戻りますからね」と、出撃の気配を感じなかった私はうっかり申しました。
政則はそうしなさいと言うように、黙って深く肯きました。
私は後に知ったのでございますが、竹内大尉は特攻隊長を命ぜられておりました。
同じ海軍軍人であった政則はこうなることを早々と予想していたのでございましょうか、自分の妹に軍人の妻としての万一の時の心がまえを、その遺書となりました日記にも書き記してございました。
妹思いの政則は、娘が私と久々の対面をどれほど楽しみにしているかを心の底で思っていたのでございます。
それが「お母さん、行ってらっしゃい」と無言の返事だったのです。
そのとき、政則は自分が「明日、出撃」と知っていたはずですが、私には一言もそのことを申しませんでした。
おそらく、自分と両親との別れの悲しさよりも自分の妹が親に会う喜びの方を考えていたのでございましょう。その朝、私達は前の日と同じように旅館の玄関へ隊に向かう政則を見送りに出ました。
外は霧雨でした。
「お母さん、雨が降っているから此処まででいいよ」
道まで出ようとする私達を、政則は手で押さえるようにして言いました。
「お母さんはまたすぐここへ戻って来ますからね」

これが私が息子にかけた最後の言葉になりました。
そのとき、「お母さん、明日は出撃です」と一言漏らしてくれれば、私は何事を措いてもそれを見送るまで居たのでございますが、息子は私の嘆き悲しむことを心配し、また、妹を喜ばせて上げたいとだけ考えていたのでございましょう。

旅館の道をまっすぐに歩いた政則は曲がり角に着いたとき、初めて私達の方を振り返り、煙るような雨のなかで長い長い挙手の礼をいたしました。
軍服の肩に雨が粒になって光っているのが私の目に映りました。
これが、私達が息子政則を見た最後の姿でした。   

「神風特別攻撃隊八幡神忠隊、昭和二十年、四月二十八日、沖縄周辺ノ敵艦船群ニ体当リ攻撃ヲ決行ス」
息子、大石政則海軍大尉の戦死は、海軍布告にこのように記されております。

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コメント

おのれの感情というものをこうまで見事に裡に秘めることができる。これが六十年前の日本人の姿であったのです。
じぶんのことしか考えない自己中心的で軽薄な人間ばかりが闊歩しているこの国の姿を、かれらはどんな思いで見ているのでしょう。
彼らが身をとして守ってくれた「やまとしまね」にわたしたちはいかほどの愛情を持ち得ているのか。

この国の礎となった若者たちに、わたしたちは、この国は、どんな言い訳をすることもできないのです。

今日は天長節(戦前の天皇誕生日)。
リアルタイムに配信された日記だったので気付いたのだけれど、日記に天長節を目前にしていることの記載がないのですね。戦前、天長節はお正月に匹敵するお祭りごとだったそうですが、お正月が近づいた日々の、もういくつ寝ると・・・のそわそわ感みたいなのがなかったのでしょうか?
日記に言葉として綴られたもの、今日的には狂信的とも思える天皇崇拝と、政則氏の深層心理あるいは潜在意識とは、ひょっとしてずいぶん乖離していたのではないか、という疑問を持ちました。本当は、すごく醒めていたのではないか。日本人は誰も彼も。だからこそ、戦後、日本人は人間宣言をあんなにも素直に受け入れれたのでは。
政則氏の国を愛する心には偽りがないにせよ、天皇陛下に対しては、心底からの万歳ではなかったのかも。崇拝はしていても、決してこの現人神の為に命を差し出すのではなく、もっと大切な何かのためにこの命を捧げるのだと。

今読んでいる「八女を歩く」の中に硫黄島決戦の話題があり、その中に「オレは天皇陛下のために死ぬのではない。老父と愛する妻と可愛い子供たちを鬼畜米兵の手から守るために・・・」という一節がありました。さきほどNHK特集「昭和が終わった日」を見ていたら、特攻生存者本人の述懐で、実は天皇陛下のために死ぬなんてことは思ってなかった、家族のために戦っていた、と同じようなことをおっしゃってました。別の方は、以前、正直な思いを吐露したらもの凄いバッシングを受けたからという理由で、インタビューに答えること自体を拒否されていました。
自分自身がそうなのですが、日記なり、手紙なり、物を書くときには自分自身とは微妙に異なる人格を創造し、その人格に物を言わせています。自分自身の本音とは背反することを言わせたりすることもしばしば。もし政則氏の日記が、後日、第三者の目に触れることを想定して綴られているのだとしたら、がちがちの天皇崇拝者としての人格を「演じ」られていたとしても不思議ではありません。乙四郎があの状況に置かれていたとしたら、きっと、そんな日記を残していたことでしょう。政則氏には不思議なシンパシーを感じながら日記を読ませていただいたのですが、だからこそ、人間の弱さを覆い隠そうとする「強がり」が乙四郎には見えました。強がりの表現を丁寧に剥がしてゆくと、22歳の若者の本当の気持ちを知ることができるかもしれません。どんなに強がっていても深層心理は裏切れません。政則氏にもトクさんにも、天長節を愛でる気分など毛頭なかったのではと思います。僅かなりともそんな気持ちがあれば、乙四郎だったら、天皇陛下万歳の添え書きに天長節へ花を添えれる喜びを書き残します。

そうですね。そうでしょうとも。
松田久彦さんはすごいなあと私も思います。よく調べてかかれてますもの。足で調べた文は違います。さすが、もと新聞記者。「八女手仕事の道」っていう本はいい本でした。愛情が感じられた。

きょう、岡山の茶畑のなかの道を走りながら、みどりの日だって思った。昭和天皇誕生日ってことより、甲四郎先生の奥様みどりさんの命日だって思い出した。行けなかったけれど、ご冥福をお祈りしました。

私は、政則さんは、とてもしあわせな
軍人さんだったんだなあと思って、うらやましい。何のために死ぬのか、が、ちゃんと見えていて、それを感謝してくれ、霊を手あつく弔ってくれる人たちがたくさんいて。これ以上の軍人の冥福はない。

しあわせ、って何だっけ。何のために死ぬのかがちゃんと見えているからこそ、いたたまれないこともあります。
以下、乙四郎の創作です。

深層心理(昭和二十年四月二十七日)

父さん、母さん

父さん母さんが皇国軍人の親として恥ずかしい思いをなされないよう、精一杯の強がった遺書を記しましたが、小さい頃からの私を知っている父さん母さんにはすべてお見通しのことと思います。心にぶれがあればあるほど、あえてそれを感じさせないよう冷静沈着を演じきる性癖。さきほど一心館を去られる折に、それを父さん母さんに見破られなかったのは幸いでした。もし見破られてたら、私は取り乱していたことでしょう。父さん母さんに隠し事はできないとなれば、まだ、千倍も万倍もお話ししたいことがありますので。
出撃前夜の私の心は、雄心に充ち溢れなければならぬところでしょうが、なかなか平静を保つことができません。途中にて墜さるることがあるかもしれません。このように二十代の若者が次から次へと特攻攻撃を連続し、ますらおの命を積み重ね積み重ねしていますが、正直、戦果は微々たるもののようです。こんなことで大和島根を守り抜くことが出来るのでしょうか。守れるのであれば幸せですが、守れないのであれば空しいです。
父さん母さんの御顔を拝しながら、竹内夫妻の消息、家の様子などをもっともっとうかがいたいです。読みたい書物もたくさんあります。私の心には心残りがたっぷりです。思い出話もたくさんしたく存じます。二十有余年、並々ならぬ御苦労を以て育てられた御思を、少しでも御膝下に帰って御面倒を見、万分の一でも報じたいのです。
日本の戦局が苦しいのはよくわかっています。若い者は皆皇国の捨て石たるべく運命づけられています。今になってこの運命を「尊いこと」と教えられてきたことについて泌々考えています。

待ちわびし 身に甲斐ありて 大君の
  御楯と飛び立つ 今日のうれしさ

と決意を表明しましたが、父さん母さんは、私が感情を露骨にあらわす人間でないことをご承知なので、「うれしさ」と歯の浮くような語彙を選んだ私の真意をすぐに読み取られるかもしれませんね。でも、どうか嘆き悲しまないでください。私は良き皇国軍人を演じきって死にたく存じますので、父さんも母さんも皇国軍人の親を演じていただければありがたいです。

竹内夫妻へ
「私は最後まで正真正銘バーデス。」の意がわからなかったかもしれませんね。バーデスって何だろうと。遺書を書き進むうちに多少は落ち着いてきました。焦りがある時には体言止めで文尾を省略したりしますが、今は大丈夫です。この文だけが体言止めということはないですよ。こういう時にはできるだけ良い日本語を使いたいです。でも、焦りがないと言えば嘘になりますね。「です」を、ついカタカナで書いてしまいました。バーはパーと書いたつもりです。先に死んだ二人のがむしゃらな若者もそうですが、私は最後まで正真正銘愚か者です。

乙四郎。

まってください。
さいごの部分は、そうじゃない。
バーですのバーは、virginityのことだろうと思う。

謎のバーデス。そのような解釈も書いてありましたが、違うと思います。竹内夫妻あての最後の一文です。そこに込めるメッセージとして何を伝えたいのか。文脈としては、若者ふたりの報われない死に続く一文。
妹夫婦あての手紙に、調べないとわからない語彙(この場合、調べてもわからない語彙)を使うのは考えがたいので、誤記と考えるのが妥当でしょう。体言止めで締めくくるのはおかしいし、文章作法としては、何らかのへりくだった内容で締めるところでしょう。自分自身のVirginityの強調は、この位置では座りがきわめて悪い。

それもそうだ。

とはいえ、
バーデスが意味するものは、virginity であってほしい。
名越二荒之助著、『大東亜戦争を見直そう』という本に書かれていたことで、似た話があります。それを引用したいのですが、例によってどこにいったのか状態です。出てきたら、きっとそうします。
生きることだけに価値があるとは全然思わない。

そもそも第一音節しか共通性のないバーデスからvirginityを読者に連想させるなんてことはあり得ないでしょう。もしそういう意味で使うのなら、政則氏ほどの文章構成力の持ち主なら段落分けをしているはずです。段落の締めとしては、青二才、我武者羅、という語彙を引き摺った概念の文だとうまく纏まります。いくらなんでもパーはあんまりだろう、という気持ちはわかりますが、もし仮に、政則氏が、心底自分はどうしようもない馬鹿だった、と述懐しているのであれば、自分の知っている語彙の中から最も侮蔑的な語を用いて卑下するだろうな、というのが乙四郎の仮説です。日本軍の影響で、南の国々では日本語のスラングがいまだに現地語化して残っているそうで、「パー」(侮蔑語)もそのような語のひとつみたいです。
ずっとバーデスが引っ掛かっていました。これをどう解釈するかで、政則氏の戦争観、人生観の捉え方が異なってきます。

おっしゃるとおりです。

今日、まえがきの註のところ、編集者三人のやりかたを書かれているところをもう一度よみました。そうしたら、原文はひらかなではなくカタカナに漢字まじり文だったとあります。
あれはいつでしたか、もう十年前くらい、文藝春秋誌にのった東条英機の獄中手記を読みました。それは漢字とカタカナだけの文章でした。あの時代はそういう時代だったんですね。すべてが硬直している。緊張しきっている。

でてきました。
『大東亜戦争を見直そう』名越二荒之助著、原書房刊、昭和59年増補十四刷。
おもえば戦争に関する本の中でもっとも心動かされた本です。二十数年前博多での新婚時代、夫がひとつきも会社から出向させられた東京の学校から帰ってきたとき、荷物の中にあった資料(今にして思えば、何の学校だったのか、職業能力学校っていうか、サラリーマンの幹部候補生用の知識を教える授業だったような。たしかガレニストスクールとかいう名前でしたが)にこの本からの引用がまじっていました。
興味をもったので、買い求めたのです。たまたま同じビルの育児仲間が、おなじようなはなしをたくさんわたしにしてくださったのもあります。
悠久の大義、英霊と戦争、武士道と日本の母。
なんともいえず、新鮮でありがたかった。夢中になった。

きになっていたのは、勇敢な戦死を遂げた松尾大尉(熊本山鹿出身)が婚約者の未来を思い、婚約を破棄してから出征したというエピソードのなかで、婚約者のことをカタカナで呼んでいたようだけど、あれはなんだったかなと記憶を確認したかったのです。
こんな表記です。
松尾大尉の級友だった人との会話。

「(前省)それから松尾と二人で水交社を出た。歩き歩き互に話しあったが
「貴様はエンゲはあるか」と尋ねた。
「あるよ」と松尾は言った。俺はまた何の気はなしに
「何時マリヂするか」と尋ねた。松尾は
「俺はマリヂはせん」と淋しく笑って言った。
熱と意気に燃え、義に強い松尾の此の一言は、現に彼が直面しつつある重大責務を思い、悠久の大義に生きるべく人間としての一切の情愛をも全て投げ棄てた決意の表明であった。それはまた、大愛に生きんとする苦悩をこめた一言であったと思う。俺は彼の心中を察し、再びこの事に関しては話さなかった。やがて桟橋の所で別れたが、それ以後遂に松尾とは再び会うことが出来なかった。」

当時の男達は、英語を略して、はじらいをもって、こういう話題をさりげなくさりげなくしたんだろうなあと印象深いです。
ということは、政則さんの「バーデス」のバーも、バージンのバーにおもえるではありませんか。

最後の遺書についてお二人の解説をじっくりと読みたいと思いながらつい時間がたってしまいました。

本当はどんな気持ちだったのか、乙四郎さんの解釈にほぼ近いのではないかと私も思っております。
本音が許されない時代だったということですよね。
須崎勝弥氏に昨年会いました。物静かな老紳士でした。
戦争中の事を、明治以来日本人の道徳体系が成長してモラルが最紅潮に達した時代であった。
「自分の環境の中での秩序を忠実に守った人達である・・・」と言ったような事を言われました。
私は父も戦死してるわけですは、最初はひたすらなんてかわいそうな死に方なんだと思いましたが、当時の世界情勢、国民の熱狂振りなどよくわかるとそうせざるを得ない時代だった、男としてそれが全うな生き方だったとはっきり思えるようになりました。

須崎氏は昭和40年ころ夢中で見ていた青春ドラマ「青春とはなんだ!」の脚本家です。
あのドラマが非常に胸を打ったのは、二度とかえらなかった自分の仲間達の青春に、思いのたけを込めて書いておられたのかなと思いました。

「バーデス」は、海軍は特に英語を使った隠語がたくさんあってこういう表現は良く使っていたようです。
下記の海軍用語集の中に「バー」があります。
http://nypl.gooside.com/page417.html

名越二荒之助先生の本読んでいたとはすごいですね。
名越二荒之助先生はどちらかと言うと右よりの方なので学校の本には絶対登場されないと思うけど、幹部候補生のための本に引用ねぇ。なるほど。
特に南方の全戦場を大学生を引き連れて調査しておられた方ですよね。昨年かな、亡くなられたの。
先生の講演会聞きに行った事あります。戦艦大和の大砲の音の録音版を聞かせて貰いました。
耳を劈くような号砲で、会場一同肝を抜かれ、体中がしびれたような表情だったです。

60年以上たってこれほどまでに皆さんに深層を探って貰えるなんて、山本五十六さんより幸せな軍人です、大石政則は。

>それでも登りたい気分を抑えられない。山>は宗教的である。山は人の魂を揺さぶる。>宗教的な気分が高揚すれば、戦場に向う若>人だって「死」に鈍感になるのかも。

こういう一面も確かにあったと思っています。
男の子は飛行機に乗って空を飛びたいという野望がある。
戦場とはいえその一部を叶えている、零戦に乗っていた方たちの話を聞くと、大空を飛んだ話を生き生きと楽しかった話としてされる事があります。
戦場といえども青春なんですよね。

あー、でも、日本からビルマまで単独で飛んで、行けども行けども海の上空、ここで死んだら誰にも知られないなぁと思うととっても怖かった、大空を飛ぶ快感なんてものじゃ無かったという人もいたな~。

グリセードを平気でやってた頃の自分の「死」への鈍感さたるや相当なものでした。ベースキャンプからロッククライミングの標的岸壁へ向う時も、亡骸を引き摺ってそこから帰ってゆくパーティと擦れ違ったりもしましたが、それでもやはりその岸壁をアタックしました。
戦死者についても、宗教的に高揚した状態で死を迎えたのであれば、あの時代の常だったのだろうと納得できますが、死の直前にその宗教心が萎えてしまったとしたらどうだろう、というのが今回の解釈の問題提起です。例の「見返り」にプラスの価値を与えることなど、宗教的皇国観からは発想できないことです。
海軍用語集、見ました。でも、やはり場違いだと思います。妹夫婦にそんなことをわざわざ言わなくてもいいし、政則氏の文章傾向として、唐突に敵性用語(の略)が出てくるのも違和感があります。

雨が夜半降ってましたね。いまはあがってます。あおい麦の穂先がけむりのように揃って、畝の黒い筋もまだわずかに見える、五月はじめの眺め。小さな一枚の畠には一人の農夫がこのひと月ほどで、茄子をきっちり仕立てられました。毎日ずっとその仕事をされているのが窓から見えてました。広大な麦畑にはだれもこないしだれもいない、まいにちまいにち。

さくらさん。ありがとうございました。そうでしたか。海軍隠語集。さすが男ばかりの世界だなって感心しました。ところで、二十年も前に読んだ本の一部分をちゃんと記憶していたのは、何と申しましょうか、そこだけが妙に軽く浮いてみえた・・異質で唐突なかんじを受けたからなんだと思います。あらら、なんで武士道に英語の略語が出てくんの、っていう違和感。
だから、乙四郎が鋭く指摘した(敵国語をこんなところでつかう奇妙さと同時にこんなところで唐突に童貞を持ち出す不思議さ)に、かつて読んだ本が重なったというわけです。たしかに乙四郎のいうとおり、父母への遺書での本音はそうだったのだろう。でも、新婚の妹夫妻にあてたバーデスに関しては、「私は最後まで正真正銘バージンです。」でなければ、「パーです」では、武士として、感覚的にフィットしないと感じました。たぶん、あの時代のおとこにとっても、童貞であることは誇れるものではなく、男として1人前とはみなせない、かっこわるいものだったんじゃないでしょうか。+じゃなく、-。・・・こうしてみていきますと、政則さんの純情が胸にいたく残ります。トミコ(カタカナ表記になっていますが、もちろん漢字もしっていたはず)さんへのひめたるおもいも、回想文の寒天ひとつに凝縮して、ただそれだけで恋をおもいきる。
泣けます。

須崎勝哉氏は脚本家でございましたか。存じ上げませんでしつれいしました。でも、たしかに
一人突出してプロの文みたいだと思って打ち込みました。手慣れたこなれた文章です。無駄がなく、省きに省いて余韻をひびかせておられる。
渋谷幽哉氏の文章も大石トク氏の文章も伊東氏の文章も、また最後におかれた弟の政隆氏の文章も、いずれも思いの深いすぐれたりっぱな文章だと感心させられました。バーデスをよみとくとき、妹禎子さんもはっとなさって、ああそういえば・・とあとで思い当たることがあった。と書かれていますね。これはずっと後になってのはなしですが。ここのところをまだ引いてません。
きっと引用いたしますので。このタイミングをはかってたようにおもえることです。偶然ですが。乙四郎がきてくれて、ほんとうによかった。ひとりでは、たぶんできないことでした。

追伸
「青春とはなんだ」毎週たのしみにみてました。夏木陽介主演の。布施明が歌う主題歌、まだ歌えます。おおきなそーらに はしごをかけて でっかい太陽 両手でつかもう ほこりひとつを胸にかかげて おそれ知らないそれが若さだ そうともこれが青春だ。

テレビでサトウハチローの特集やってて、
「めんこい仔馬」の歌詞を再認識。軍歌だったのですね。

作詩 サトウハチロー 作曲 仁木他喜雄
昭和16年
1 濡れた仔馬の たて髪を
  撫でりや両手に 朝の露
  呼べば答えて めんこいぞ オーラ
  駈けて行こかよ 丘の道
  ハイド ハイドウ 丘の道
2 藁の上から 育ててよ
  いまじゃ毛並も 光ってる
  お腹をこわすな 風邪ひくな オーラ
  元気に高く 嘶いてみろ
  ハイド ハイドウ 嘶いてみろ
3 紅い着物(べべ)より 大好きな
  仔馬にお話 してやろか
  遠い戦地で お仲間が オーラ
  手柄をたてた お話を
  ハイド ハイドウ お話を
4 西のお空は 夕やけだ
  仔馬かえろか おうちには
  お前の母さん 待っている オーラ
  唄ってやろかよ 山の唄
  ハイド ハイドウ 山の唄
5 明日は市場か お別れか
  泣いちゃいけない 泣かないぞ
  軍馬になって  行く日には オーラ
  みんなで万歳 してやるぞ
  ハイド ハイドウ してやるぞ   

つまるところ、これは日本人としての誇りの問題なんです。
いつの日か、東条英機も、天皇を一身にかばって死んだ英霊として、祀られる日がくるのだろうか。

「里の秋」や「我は海の子」なんかもそうですよ。
みんなメロディーもいいよね。

下記の頁の「№19軍馬よありがとう」もこれ書きながら泣けたよ。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/3222/ehagaki3.htm

私は例の二荒之助氏の著書を読んで以来、こころのなかに松尾敬宇中尉がすみついてしまって、菊池神社へもおびかれたほどです。
のち、さくらさんとブログで出会って、ひょんなことからこの絵の解説を書かれておられたと知って、たいそうおどろきました。なるほどそうか!ってかんじです。
縁のつながりは、もうずうっと前から繋がっていたのだろうと思うのですよね。出会う前から。さくらさんとも乙四郎とも、俳句や連句のみなさまとも。そういうふしぎがたくさんありすぎて、いちいちおどろく間もないくらいです、このところ。

つい一時間ほど前、ここへいらした方がいらっしゃいます。なぜ?
日付。

ここのコメント、あらためて読み返しました。
自分が書いたはずの文章が、自分の文章ではない。
いや、確かに自分が書いたのだけど、自分の自由意志で書いたのではなく、自分の指を使って誰かが黙々とタイプしていたみたいな感覚。
ユダヤ人捕虜の物語りを一気に書き上げたときも似たような感覚でした。

そうでしょうとも。
なにか、そんなとこ、あります。
ずうっと、そんなかんじがしている。
 なんなんでしょうか、これは。

突入時間に合わせてコメントします。
ちょうどこの時間です。

この記事をはじめからずーっと読み返しました。
コメントで「あら、ずいぶんいい文章が書かれてる、もしかしてあたし?あ、さくらとなっている、こんなことがよく書けたなぁ」と感心しました。
最後に全員がそう思ったことがわかりさらに驚きました。
命日の同時刻にこんな風に思ってもらえる政則君。
すごいです。
遠くニューヨークからも届けられていることと思います。


seikoさんのコメント単純明快の名文です。

突入時間に合わせてコメントします。
ちょうどこの時間です。

この記事をはじめからずーっと読み返しました。
コメントで「あら、ずいぶんいい文章が書かれてる、もしかしてあたし?あ、さくらとなっている、こんなことがよく書けたなぁ」と感心しました。
最後に全員がそう思ったことがわかりさらに驚きました。
命日の同時刻にこんな風に思ってもらえる政則君。
すごいです。
遠くニューヨークからも届けられていることと思います。


seikoさんのコメント単純明快の名文です。

わたしも同時刻におなじことをおもっていました。
政則さん、さくらさん、乙四郎さん、せいこさん、それぞれに御教えをありがとうございます。

初めてここを訪れたのは、この前の月はじめ。
大石政則日記の連載まっただなかでした。
まもなく渋谷幽哉氏の名が目にとまり、単なる通りすがりの読者でいられなくなってしまいました。
強い霊力に導かれたとしかいいようがない。

調べてみたところ・・・
大石政則日記(10)のあとに、ここを訪れています。
そして、渋谷幽哉氏が登場したのが大石政則日記(11)
タイミングが少しずれてたら見過ごすところでした。

かささぎはプライベートな事情と重なったことがなんともショックであった。

水面という一枚の境界に常にふれつつ水鳥の生
     松平盟子

縁をありがとうございました。

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