無料ブログはココログ

« 『忘れ雪』森林太郎の妻登志子 | トップページ | 俗の細道 17 »

2008年4月24日 (木)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

忘れ雪  その5

          鍬塚 聰子

明治三十二年一月末、わたくしは肺結核で死にました。
「嗚呼、是れ我が旧妻なり。於菟の母なり。赤松登志子は、眉目妍好ならずと雖も色白く丈高き女子なりき。和漢文を読むことを解し、その漢籍の如きは、未見の白文を誦すること流るる如くなりき。同棲一年の後、故ありて離別す。是日嶋根県人の小倉に在るもの、懇親会を米町住吉館に催す。予病と称して辞す

死去の報を受け取った林太郎さまは『小倉日記』の二月四日に書かれています。仮病を使い、わたくしを悼んで下さったのです。
林太郎さまは、小倉在住の終わり、明治三十五年一月四十一歳で再婚なさいました。美術品らしき妻、とお友達への手紙に書かれるくらいの美しい方だったそうですね。美貌が損なわれるから、子どもを産まないようにしていらしたそうですが、お子さんも次々お生まれになり、お名前は茉莉、杏奴、類と仏蘭西読みのお名前をつけられました。エリーゼ様への恋情は消えたのだと、鬼の首でもとったように喜ばれる方もおありでしょうが、林太郎さまは皇帝や女王の名前を拝借しただけだよと、うそぶかれることでしょう。
津和野の森家旧宅の庭園に『扣鈕(ぼたん)』の詩碑があるそうです。この詩は日露戦争従軍中に、エリーゼ様の思い出のカフス釦をなくされて作られたとのことです。

 南山の たたかひの日に
 袖口の こがねのぼたん
 ひとつおとしつ
 その扣鈕惜し
 べるりんの 都大路の
 ぱっさあじゅ  電燈あをき
 店にて買ひぬ
 はたとせまへに
 えぽれっと  かがやきし友
 こがね髪  ゆらぎし少女(をとめ)
 はや老いけん
 死にもやしけん

ただひたすら勉学に明け暮れた日本より、独逸がどれだけ素晴らしかったのか、どなたもお分かりでしょう。周囲の期待を一身に背負うのは、晴れがましさはあるにしても、重たさはいかばかりだったでしょう。その重荷が独逸では遠くにやることが出来ます。それに、林太郎さまは幼くして森家の大黒柱となってしまわれたので、お義父さまを含めて、お義母様、お妹の喜美子様、弟君の篤次郎様、潤三郎様への深い愛情は、無意識に林太郎さまを縛っていたことでしょう。その、いつも守らなければならない肉親は、いない。
こんな自由な環境の中で知り合った方は、当時興味をお持ちだった〈新しい女〉の方だったのです。惚れっぽい男だと周囲に陰口された林太郎さまですから、恋に落ちるのは、自明です。
出来ることなら独逸に住みたい。そう決心された日もあったでしょうが、全てを断ち切ってのご帰国。

エリーゼ様への愛よりも、体面よりも、名誉よりも、家の血がどれほど価値があるかを、自覚なさってのことです。峰子お義母様がかき口説かれる前に、林太郎さまはお決めになられていたはずです。そう、そんな時にも静男お義父様は、黙っていらっしゃるだけです。
そして、背が高いだけが取り柄のわたくしとの結婚。
ですからわたくしを見やりもなさらなかった林太郎さまの頑なさは、今にして思えば当然なのでしょうが、明るかった赤松の家から嫁いで間なしのわたくしには、大した威張った取っつきにくいおかたとしか映りませんでした。だから、林太郎さまが黙ってらっしゃれば、わたくしも黙ったまま。

林太郎さまが五十二歳で発表なさった『安井夫人』は幼児期に患った天然痘であばたがひどく、人から猿と嘲られた学者の安井息軒に自ら嫁した、美人のお佐代さんがモデルです。お佐代さんはたいそう愛らしく、なおかつ貞女の典型です。でもそれは林太郎さま好みの、意志ははっきりしているけれど、その意志は自分の人生のためでなく、男性のために使われる、そういう重宝な女性を理想となさっていらしたようです。ですから『山椒大夫』の安寿は弟のために明るく健気に死ぬのです。
わたくしも外国の女の方に負けまいなどと片意地を張らなければ良かったのでしょうか。お佐代さんのように明るく健気に、そして甲斐甲斐しく振る舞えば、林太郎さまは、少しは愛して下さったことでしょうか。

でも、わたくしは日本の女で、独逸人ではありません。お佐代さんは小町娘で、わたくしはそうではありません。そして最大の理由は、林太郎さまが俗に言う面食いだったということです。

頭のなかでは、人間としての尊厳は女も男も変わりないという思想が存在していても、女性の好悪は、それ以前のものだったのでしょう。
それにしても林太郎さまが、小説の言葉の百万分の一でもわたくしにお話下さっていたら・・・・でも、それでは後の世に傑作は残りませんね、わたくしは悪妻として残りましょう。わたくしと同じ肺結核でお亡くなりになったのですから、林太郎さまの冷たさを忘れることにいたしましょう。(完)

参考資料:

 『鷗外百話』吉野俊彦・徳間書店
 北九州に強くなろうシリーズ№11
 「小倉日記」時代の森鷗外
 『女々しい漱石、雄々しい鷗外』渡邊澄子
          (世界思想社)

連句誌『れぎおん』2000年冬28号より引用 

  はたとせの  身のうきしずみ
  よろこびも  かなしびも知る
  袖のぼたんよ
  かたはとなりぬ
  ますらおの  玉と砕けし
  ももちたり  それも惜しけど
  こも惜し扣鈕
  身に添ふ扣鈕

http://homepage3.nifty.com/TAD/poems_2/poem_16.htm

« 『忘れ雪』森林太郎の妻登志子 | トップページ | 俗の細道 17 »

コメント

恭子さん
ありがとうございます。
久しぶりに読み返して、本当に私がこれを書いたのだろうかと不思議でなりません。
雄々しい鴎外さんがどうして登志子さんを離縁したのか誰も何も言っていなくて、調査不足かもしれませんが、腑に落ちなくて・・・・でもそこからどぷしてこういう展開になったか記憶にないのです。
誰かが乗り移ったのかもしれませんね。

そういうたぐいの文章ですよね。
女の情念がこもっとる。
なんか、秀野さんの文章よんでいると、彼女にしかわかんない流れで激しくうったえているところが出たりして、しばらく考えるのです、あちこち。それと似てる部分がたぶんにあります。入り込んで書いている。深層意識にまで入り込んで。それがいたくて、残ります。

恐れ入ります。

『忘れ雪』は創作ということですが、以下の「帰国を予定より早められた」という部分も創作でしょうか?。創作ではなく、事実だとしたら、舞姫を考える上で大きな材料となりますので、出典元を教えていただければ有り難いです。

『ただ、風評といっても、独逸の女のかたに懸想されて、それで帰国を早められたとかいうだけで、全部を知っていたわけではありません。ひそひそとささやく声から、わたくしがそう思っていたのです。』

鴎外研究者さま
コメントありがとうございます。
お待ちください。
これから、ご本人に尋ねてみます。

鴎外研究者さまへ
国会答弁のようで恥ずかしいのですが
「記憶にございません」

たぶん、参考資料のどこかにそういうたぐいのことが書かれてあったので、憶測して書いたのだと思います。

himenoさんがここに打ち込んでくださって読み返しましたが、本当に私が書いたの?です。

鍬塚さん、そういうものなのでしょうね。
研究家の引用なさったおことばは、第一回の分の冒頭ちかくにあることばです。私のなまえにはりつけました。

[ 赤松登志子]
検索で10位です。
内容からいって、1位になれるものだと思います。
この小説を書かれた鍬塚聰子さんは戸畑の俳人です。
現在、『豈(あに)』『樹(たちき)』『連衆』に所属、活躍されていますほか、こどもの日記教室主宰でもあらせられます。

ここよまれています。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/6513/20509178

この記事へのトラックバック一覧です: 『忘れ雪』森林太郎の妻登志子:

« 『忘れ雪』森林太郎の妻登志子 | トップページ | 俗の細道 17 »

最近のトラックバック

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31