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2008年4月23日 (水)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

忘れ雪  その4

      鍬塚 聰子

この『舞姫』を読んで初めて判ったのですが、林太郎さまは想像で物はお書きにならない。全て事実を、あるべき事実をお書きになられるのです。後に歴史物を沢山書かれた林太郎さまは、四時間しかお休みにならずにお勉強なさって、あの素晴らしい頭脳に知識を蓄えになり、そして、お書きになったのです、事実を。
わたくしが産んだ子に於菟と名付けられましたことは先ほど申し上げましたが、エリーゼという方が林太郎さまのお子をお産みになられたとしたらオットーとお付けになったことでしょう。
エリーゼ様は、帰国された林太郎さまを追って、すぐに来日なさったとか。森家では、妹の喜美子様の夫君良精様が、処置に当たられたと、イサが赤松家に戻ったわたくしのつれづれを慰めるつもりか、あれこれ林太郎さまのことを話してくれました。
林太郎さまが御寝みなされないものですから、わたくしもひっそりと起きておりました。林太郎さまがお勉強なさっているというのに、わたくしが休むわけにはまいりません。僅か一年八ヶ月のことでしたが、それが積もったのでしょうか、病を得、はかばかしくない日常をイサは少しでも慰めようとしたのです。
独逸からお手紙もしばしば届いていたらしく、また、十二歳から独逸語を勉強なさって、独逸のお言葉が堪能な林太郎さまは、お返事を出されたことでしょう。
林太郎さまは、峰子お義母様の説得で結婚なさったものの、胸の中にはエリーゼさましか住まわせなかったのでしょうか。
結婚の際、明治天皇のご裁可を戴いたことも、西周様の仲立ちであることも、離縁を決意する何の妨げにならなかったというのは、想像を絶することです。独逸の合理主義を身をもって実行なされたのでしょうか。
離縁されて、林太郎さまにそっくりの凛々しい目許の於菟とも引き離されて、ずいぶん恨みました。なんと自分勝手なお方かと。幼く天童と呼ばれた方は、情も何もお判りにならないかと。
世間体を気にしない赤松家ですが、親がいなくなったあと一人では寂しかろうと、嫌がるわたくしを宮崎道三郎という方に相応の持参金で嫁がせました。優しい方で、咳をすれば、寒いのではと気を使う、それはそれは林太郎さまとは段違いのいたわりを受けました。でも、そういう優しさを受けるたびに、嬉しさとは別の戸惑いを感じました。林太郎さまの冷たさ、肉親以外は目を見ようともしないまっすぐさが思いだされるのです。
林太郎さまは、まっすぐ前を向かれていました。どのように噂されようと、圧迫されようと。
陸軍内では、あいつは文士だ、文壇からは、あいつは小説を書く軍医だ。伊曾保物語にありますね、蝙蝠の物語。鳥でも獣でもないと仲間外れにされる。あの蝙蝠と林太郎さまの違いは、軍医であることも、小説書きであることも、それは天命なのだと考えていらしたところです。
その真っ直ぐさが明治三十二年の小倉への左遷をもたらしたのでしょう。わたしを離縁したのもその真っ直ぐさではないかと、時には血を吐き、熱の下がらぬこの頃になって、あれだけ恨みに思った林太郎さまのことが懐かしくてなりません。
再婚して半年後のことです。
三月の忘れ雪が降りました。微熱続きの身に、冷たさが快く、ひらひらと舞い落ちる雪を掌に受けました。その雪が次々に溶けて水の粒になり、掌が凍えそうになりながら、疼くように熱くなりました。そのとき判りました。林太郎さまはご自分の血だけを愛していらしたのだと。
でも、捨てられた妻としての汚名は受けるとして、一分の理屈を言わせて下さい。
ご自分の体面を守るのならば、エリーゼ様の面影を抱いたままわたくしと生活することは出来ないことではありません。でも、『舞姫』を発表した上は、わたくしと結婚生活を続けることは出来ないとご判断なさったのでしょう。それは、わたくしが世間の非難と林太郎さまへの板挟みになるのが目に見えたからです。僅かの同居であっても、心が自分に傾いているわたくしに、独逸の女性と競うことはさせたくなかった。そうわたくしが受けとるのは、自惚れでしょうか。
離縁の理由を一言も書かれなかったのは、わたくしへの憐憫と世間は受け取るでしょうが、それは林太郎さまのわたくしへの唯一の愛だと信じます。(つづく。)

『連句誌れぎおん』
      2000年冬28号より引用

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