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2008年4月20日 (日)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

  ー森林太郎の妻登志子ー

   忘れ雪 その1

       鍬塚 聰子

わたくしが林太郎さまのもとへ嫁いだのは、明治二十二年三月でした。僅か十二歳の若さで、いえ幼さで第一大学区医学校予科、今の東京大学医学部に、入学許可年齢である十四歳と偽って入学なさいました林太郎さまが、二十二歳の八月から四年一ヶ月の独逸留学を終えられて半年後のことです。
三月の忘れ雪とか申すとおり、まだ暗い内よりちらちらと降りだし、うっすらと雪明かりの中、襟足へ塗られる花嫁化粧の冷たさに奥歯を噛みしめながら、でも、この雪の清らかさはわたくしにとって何よりの餞(はなむけ)と、世間の林太郎さまへの風評を漏れ聞いていたわたくしはかえって凛とした空気に立ち向かっていく気持ちでした。
大和撫子として、外国の女のかたに負けまいとの気持ちがあったことは否めません。
ただ、風評といっても、独逸の女のかたに懸想されて、それで帰国を早められたとかいうだけで、全部を知っていたわけではありません。ひそひそとささやく声から、わたくしがそう思っていたのです。
仲人である西周(にし・あまね)先生ご夫妻はもちろん、父の海軍中将男爵の赤松則良も母も、そして、林太郎さまのお母さまの峰子さまも、前代未聞の弱冠十九歳で医学部を卒業し、陸軍衛生制度調査および陸軍衛生学研究で独逸留学なさった林太郎さまは、軍医として最高の地位につくはずだとの誉め言葉しか口に出されません。しかし、陸軍のお方がなぜ海軍中将の娘と、という疑念はありました。
あれは、『舞姫』をご発表なさった頃だったのでしょう。常になくご機嫌のご表情にわたくしも何かしら心躍りを感じた折りでしたが、林太郎さまが父上の森静男様にはじめて習われた異国語が阿蘭陀語であったとか、独り言のようにお話しなさいました。
赤松の父は旧幕臣であった時に、阿蘭陀へ留学して造船学を学び、沼津兵学校の教授をいたしましたし、軍艦「磐城」の設計者で、近代造船学の第一人者でした。いわでもがなのことですが、母の兄弟の一人が函館の五稜郭で勇をならした榎本武揚です。このことは特に興味を持たれたご様子ではありませんでした。わたくしは自分から話しかけるのははしたないと分をわきまえておりましたので、伯父上の幼女のわたくしに注ぐ優しい微笑みと、一度だけでしたが、その強い腕で、ふわっと宙に抱きかかえられた心地よさの記憶をお話しすることもありませんでした。
赤松家よりわたくしに従ってきた老女イサが、伯父の武勇を自慢げに申し上げかけましたが、「茶を」と、いつもは一服で、書斎にお籠もりになる林太郎さまが、話を遮るように鋭く仰って二服目を所望されたことがあり、お養母さまよりわたくしは、イサに伯父上のお話はお食事の際には申し上げぬように言いわたされました。
イサは心外の顔でしたが、不承不承言うことを聞きました。しかし、イサは旧幕臣時代の物言いが抜けず「お殿様」と申し上げるものですから、林太郎さまは抑えてはいらっしゃいますが、わたくしにだけ判るお嫌なお顔をなさっていらっしゃいました。赤松の父は、誰からもそう呼ばれていましたので、夫となる人はそう呼ばれて当然と、何故なら、とてもお偉いお方ですからと思っておりましたので、お慣れになるだろうと、イサにも他の召使いにも注意もいたしませんでした。

        つづく。
『連句誌れぎおん』
      2000年冬28号より引用

筆者紹介:

鍬塚聰子(くわつかさとこ)
昭和十九年旧満州生まれ。
俳人、連句人。
こどもの日記のひろば主宰。北九州市在住。
2000年当時、連句会『亜の会』所属。

    

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