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2008年4月28日 (月)

海軍少尉大石政則 その人格と品格

      須崎 勝彌

歴史とは連環である。環の一つが抜け落ちても歴史は断絶する。国の同一性は保てない。滅んだも同じだ。だから同義地に墜ちた昨今の日本に絶望することはやめよう。それにしてもひどい世の中になったものだ。徒(いたずら)に警鐘を鳴らして空騒ぎするよりは、日本人の理想像はこれだと示す方が世直しの効果は大きいのかもしれない。
澆季(ぎょうき)の時をかい潜(くぐ)って六十余年を遡(さかのぼ)ろう。昭和二十年(1945年)四月二十八日、朝まだき大隈半島のシラス台地にひれ伏す若者の姿があった。

 たらちねのいませし空を伏し拝み
   別れの言葉告げ奉る


その日の夜を待たずに、彼は二十二歳の若い命を沖縄に断った。
詮(せん)なき仮定と知りながら、あえて言おう。もし戦争が起きなかったら昭和二十年四月二十八日はどうなっていただろう。大石政則は東大法学部を卒業して念願通りに外交官としての一歩を踏み出していたはずだ。
しかし彼は豊かな未来を祖国のためになげうった。ぎりぎりのその日まで彼は克明に心の軌跡を書き綴っている。知性に裏打ちされた勇気がなくてはとてもできることではない。日本民族には死にたじろがない男をサムライと呼ぶ伝統がある。大石政則はサムライである。
出撃が相次ぐ串良基地で、明日はわが身と皆が極度に緊張していたとき、渡辺信彦が語りかけた。

「大石はいつもと変わらんな。他の者は目の色が変わったりそわそわしてるのに、やはり純な人は違うんだな」

とんでもないと照れて笑ってごまかすのが普通だが大石は違う。自分が本当に純な人なら、明日は必ず体当たり攻撃に成功して戦果を挙げるはずだと決意を固めた。
しかし戦場の現実は思うに任せない。大石は四機編隊の一番機として発進したが高度をとるにつれて潤滑油が漏れだした。風防はべっとり黒く汚れた。これでは体当たりするにも目標をつかめない。やむなく爆弾を投棄して反転した。帰投するなり司令室に出頭を命ぜられた。延々と一時間近くも何を追及されたか、おおよその見当はつく。優等生であり続けた大石には絶えがたい屈辱であっただろう。初めて舐めた挫折の苦汁からか、その夜は三十八度の高熱に喘いだ。
わが子はまだ生きていると伝え聞いた両親は、基地へ駆けつけた。親の愛は強い。おかげで大石は挫折感から抜け出した。生気を蘇らせた姿に親は錯覚した。子の命を取り戻したのではないかと。子は感謝した。

「ありがとう」

しかしそれは今生(こんじょう)の訣別の言葉だった。
親と子の間で生と死がすれ違っている。聞く者は粛然と涙するだろう。
危急存亡のとき祖国への献身こそは至高の行為、先だった不幸は却って大孝となる。
大石が到達した究極の境地である。
身辺整理はすべて終わった。しかし乗機三○三号に不安があった。
地上の試運転に異常はないが、離陸して高度をとると油が漏れてエンジンに不調を来す。整備員にも原因が分からなかった。このままでは再度の出撃も失敗するおそれがある。大石はこの難問をどのように処理したのだろう。
戦後四十余年も過ぎてからようやくその全容が判明した。二番機の操縦員船川睦夫二飛曹が発表した手記の一部を引用させてもらう。

「作戦会議が終わり宿舎に帰って身の周りの整理に掛かろうとしたとき、隊長機の操縦員大石少尉が近づき、搭乗機を代わってくれないかと相談が始まった。いくら何でも心血を注いだ愛機を交換することはできない。『代わってくれ』だめ、『たのむ』だめ。繰り返すこと一時間、ついに私も根負けして愛機三五三号を大石少尉に譲ることにした」

同じ九七式艦上攻撃機にも形式が異なる一号艦攻と三号艦攻があって、大石の三○三号は一号艦攻、船川の三五三号は三号艦攻である。三号艦攻の方がカッコいいし性能もいい。船川が交換を渋ったのも当然だ。
船川が串良へ進出したのは菊水二号作戦の後だから、大石がエンジン不調で心ならずも反転帰投した事実を知らない。大石は三○三号機の欠陥を船川に告げるわけにいかなかった。正直に言ってしまうと交換話は初めから成り立たなくなる。大石に他意はない。ただただわが命を敵艦に砕くためである。だからといって欠陥機を押しつけることが正当化されるわけがない。大石は良心の呵責に苦しんだだろう。しかし確実に任務を遂行するためにはなんとしても三号艦攻が欲しかった。もちろん交換は無条件ではない。大石は心中秘かに船川への見返りを用意することで、我とわが無法を許した。しかしそれを口にできる時でもなく、所でもない。大石はひたすら頭を下げて頼むしかなかった。

船川はついに根負けしたと記しているが、その気にさせた何かがあったはずだ。船川がペアを組んだ偵察員はO少尉である。上級者であり機長でもあるO少尉に、船川は電信員の佐藤二飛曹と連れだって挨拶をしたであろうそのとき、あまり良い印象を受けなかったのではないか。もし頼もしい機長だと思ったら、大石に難題を持ちかけられたとき助けを求めたはずである。しかし一言も相談していない。大石の印象はどうだったのか。士官の身分をかなぐり捨てて、年若い下士官にただただ叩頭(こうとう)する姿に、人間的な誠意を感じたのではないか。根負けしたとはそういうことだと思う。
船川はさらに重大な事実を記している。

「搭乗員整列、出撃前の訓辞があり、別れのサカズキを飲み干し、出撃の命令で機に搭乗するとき、偵察員のO少尉が急病とかで出撃できず、二番機は電信員と二名の搭乗となった。そんなことはどうでもよかった

予科練出身の十代の若者たちは、O少尉のあまりにもタイムリーな急病など意にも介さなかったが、偵察員を欠いたまま発進を命じた司令部には大いに問題がある。偵察員はいなくてもいいということか。しかし複座機には必ず偵察員を配置した。旧式の水上機や練習機の特攻には無線機を積まなくても偵察員という命は必ず積んだ。未帰還機の備考欄に「電信機ヲ有セズ戦果不明」の文字を見ると悲憤を禁じえない。

四月二十八日、宇佐八幡神忠隊の四機は、薄暮攻撃を企図して串良基地を発進した。船川が操縦する二番機は、大石の操縦する一番機を懸命に追った。交換した三○三機にも船川はすでになじんでいた。敵機を警戒しつつ編隊の間隔を開けて飛んだ。上昇する一番機に引っ張り上げられるようにして高度二千メートル、翼下に屋久島の宮之浦岳を見た。
その頃から風防に点々と油が付着しはじめた。油漏れはひどくなるばかりで、機は黒煙を曳き始めた。船川は一番機に翼を連ねてエンジン不調を伝えた。大石が「帰レ、帰レ」と何度も手を振った。一番機は「無事ヲ祈ル」の文字を示すと、訣別のバンクを振って速度を上げた。機影はたちまち南へ消えた。

「船川兵曹、貴様は死ぬことはない。生き残れ」

大石が心中秘かに用意した見返りとはこれである。

戦後になっても船川は大石の心を知らなかったが、いつとはなく「もしあのとき三号艦攻を譲らなかったら」という仮定が脳裏にこびりついてきた。そして譲ったために大石少尉、清水少尉、犬童二飛曹の三人を死なせてしまったという悔悟の念に苛まれた。自分を責めることに急な彼もまた「純な人」である。戦後四十年も思い悩んだ末に串良町主催の慰霊祭に参列し、大石の遺書を眼にした。最初の出撃に挫折した大石の苦境を初めて知った。船川は記す。

「遺書を読んで、これほどまでに思い焦がれた気持ちならと”ホッ”とするとともに涙を禁じ得ません」

大石は二度目の出撃の前夜、すなわち搭乗機の交換を承諾してもらった後に最後の日記をしたためている。文中の一行に大石の人柄がにじんでいる。

「使用機が待望の三号艦攻(一度も乗りたることなけれども)なので本当にそれ丈でも心の弾むを覚えます

譲り受けた三号艦攻について「一度も乗ったことなけれども」と特に括弧の註をつけて船川への謝意を表明した。現世の縁(えにし)を何一つおろそかにしていない。そして翌昭和二十年四月二十八日の午後、串良を発進して四時間余を飛び、目標突入の長符を打電しながら、「純な人」大石政則の生涯を全うした。

須崎 勝彌
大正11年1月1日生。
学徒出陣の第十四期飛行予備学生。
大石政則とは宇佐海軍航空隊で操縦訓練を共にした間柄である。戦後は文章を業とし、映画『連合艦隊』などのシナリオを執筆し、『カミカゼの真実』(光人社刊)などの著作がある。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

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コメント

ここに犬童二飛曹がでておられます。

新聞の記事に祖父の写真を見ました。祖父が特攻隊だったことは聞いていましたが、こんな事実があったとは思っていませんでした。私の母や私が生まれたのは戦争によって色々な人々の運命が変えられてしまった中での命だと思います。本当にありがとうございました。そして、戦争亡くなられた方の御冥福をお祈りいたいます。

どなたか存じませんが、書き込みをいただき、まことにありがとうございました。

「海軍少尉大石政則 その人格と品格」を掲載ありがとうございました。

「永遠の0」見てきました。
乙四郎先生がおっしゃる、最後に大石機が故障のため引き返す場面、ここでの描写、そっくりでしたね。
過去の映画で同じような場面はありましたが、機体を交換したことと大石という役名が確信できますね。
かささぎさんがいうように余計な説明が全くなく、ひたすら宮部一家と大石の帰還後の生き方から現代を見る映画だと思います。
戦闘シーンはあっても零戦賞賛でも戦争映画でもありません。ヒューマンドラマだと思います。

一番感動したのは、大石が宮部母娘のところへせっせと通う切ない場面。
もうひとつ、戦争を調べ始めると戦争を知らない人たちとの会話がかみ合わず、いらだちと怒りにぶちきれて席を立つ孫の春馬君のシーンです。
全く同じ経験をしたのでものすごく共感しました。

今年、消えかけた日記の判読作業をしてくださる人たちがいらっしゃったり、かささぎさんと乙四郎先生からの連絡で、私がその日のうちに映画館に駆けつけるという、70年近く前に亡くなった人がここまで人の心を動かすってどういうことだろうと思わずにいられません。
あとがきにあるこの日記発行の発端となった大坂聡子さんという縁もゆかりもない一人の女性の存在も大きいと思います。

解読作業が終了したという新聞の切り抜きを送ってくださった福岡のHさん、大石のこととなるとなんでここまで人々が行動を起こすのでしょう。
長々とすみません。
ありがとうございました。

さくらさん
朝、ここに大量のコメントを書いたのですが、送信に失敗してしまいました。
それもまたよきかな。
もう一度見たい映画です。

私もすぐにでもまた見たいと思っています。

日本戦争映画数々見てきましたが、てか、戦争映画しか見ないという偏向振りですが、退屈な場面が1場面もなかったです。
ネットのレビューによると、家族のために絶対生きて帰ろうと誓っていた宮部が突然志願して特攻につき進んでいったのはなぜか?という部分が描かれてなくてわかりにくかった・・・という意見が多かったです。
私はその辺はさまざま想像できますが若い人にはもう少し丁寧な経過説明が必要なのかもわかりませんね。

わたしは、石橋秀野をよみといたときに、ノートにも書いたのですが、大鍋の底に手を突っ込んでかき混ぜられたような、雑然とした、混沌を味わった。日本の精神の、深みに、その真澄に出会う旅。
死んでも帰ってくる、といった人のことばから、上田秋成の菊花の約(ちぎり)を思い出しました。
また、ことばでの説明のないことではあるけれど、あんなにも飛行機のメカにうるさい宮部の乗る、それも生涯一度の霽れの日の機に、なぜよりによって油漏れが生じるような調整をしたのか。
これは整備士という裏方の仕事をする人も、人としての人情を殺すことができなかったのでは。というふうに受け取りました。
大石政則さんも油漏れで帰ってきたとき、非常に名誉を傷つけられる仕打ちを受けた。いのちが惜しかったんだろう、と。

宮部久蔵の落ち込みとその後の、晴れやかなしずかな決意をひめた表情は、「おとこの本懐を遂げる」と決めた人の顔だったんですね。
その話の転回、展開のネックにある部分が、大石政則日記に重なり、もうこれは、盗作ではなく、かさねという日本文化のれんく的手法そのものです。
作者は、竹橋乙四郎がさくらさんブログにもコメントしたように、肝心要の鍵を、特攻兵大石政則からもらったのだとかささぎの旗もうたがいません。

そんで、きのうの朝かいたのは、こういうことでした。
ちょうど映画を見た日の次の夜、残業をうんとした日、まったりとぐたっとなって夜遅いテレビをみてた。たまたま中国語講座をやっていて、それがユニークだったんでつい。北乃きいちゃん、中国語がとてもじょうずで。
中国人の一家がすむマンションに日本人の若い生徒が訪れて、いろんなことを習うスタイル。
生徒二人は男子、一人は北乃きい(たしか「ハルフウェイ」のヒロインだった!)。
中国人夫妻は三四十代、こどもが小学生男女二人。
謎解きスタイルで、普段の暮らしがのぞけるような、そんな作り方をしていた。
こどもたちがいう、
おとうさん、もっとぼくとお話の時間をとってよ。いろいろとはなしたいことがあるんだよ。
こないだ中国にいったときはとっても楽しかった。もう一度行きたい。こんどはお父さんもいっしょにいこうよ。

こんな会話がなぜか心に残って。
在日のこどもたちにとって、日本はたのしい国であろうかな、どうなんだろう、と、ふっと立ち止まらせられる番組だった。

>なぜよりによって油漏れが生じるような調整をし>たのか。

飛行機故障で帰還、不時着の例は無数にあります。
これは単純な話で、調整不足は部品不足や粗悪品のため、普通にあったことなんです。
異常にもののない時代で飛行機を飛ばしていた、搭乗員とともに苦労し涙したのは整備員です。

そうですね。
ひともひこうきも確実にうしなわれるのが特攻でした。

>一番感動したのは、大石が宮部母娘のところへせっせと通う切ない場面。
もうひとつ、戦争を調べ始めると戦争を知らない人たちとの会話がかみ合わず、いらだちと怒りにぶちきれて席を立つ孫の春馬君のシーンです。
全く同じ経験をしたのでものすごく共感しました。


三浦春馬くんはいつもイケメンの二枚目役ばかり。その人がこの役をしたことはおおきい。
とくに、特攻とテロとはどう違うか、ちゃんと説明してくれたのが、よく響きました。

一般人を巻き込まない。

これです。

ところで。
昨夜、『最後の忠臣蔵』
を母とみました。役所広司・桜庭ななみ主演。
実話みたいによく出来た物語でした。
人形浄瑠璃曽根崎心中が出てきました。
また、京都みたいな竹林がみごとだった。
武士の生き方。武家の女に生まれるということ。

夜の婚儀があった。
花嫁道中が面白い。
まるで、桃太郎。
道中、わたしも祝わせてください、わたしも、わたしも。と次々に大石内蔵助一家が降って湧いたように増えてきて、花嫁行列に付き従うんです。
それにしても、夜の嫁入りって珍しいなあ。
と思ってみていると、よこで見ていた母が、
矢部の姉さんの嫁入りが夜じゃった。
という。昔の矢部はそうじゃったよ、と。

驚いた!
大石を演じた染谷将太さんの誕生日が私と同じだった。


私の叔母、生きてれば86歳が鰺坂にお嫁に行った夜の提灯のあかりをよくおぼています。
家では夜遅くまでどんちゃん宴会が行われていたと思います。

さくらさん、
コメントありがとうございます。

それが、この夜の婚礼ってのは、昔の日本はそうだったんだそうです。
ネットで検索しても出てきませんでしたが、昨夜、高校時代の級友との忘年会が八時にはねたあと、東妙寺らんを送って古賀邸(標高五千メートルの山間のへき地)までいき、そこでどてら姿のくたびれたおっさんになっとった音彦どんから聴いた。
こんなことには妙に詳しい。
花嫁が夜にとついできて、それから夜中どんちゃん騒ぎをして、三日三晩眠らずに飲み明かすような祝儀。うそっぽいけど。
あたしは、たぶん、農閑期の夜だと労働がないから、その隙に婚儀をするのだろうか、と思っていたのですが、そうではなかったみたいだ。
最後の忠臣蔵を見ていて、母が言った言葉には、まだ未婚の少女だった母たち小姑がたくさんいる家に嫁入りしてきた人は、母たちがいるところよりもさらに山のなかの人で、いつまで待ってもこらっしゃれん、もう眠くなってしまった、と思っていたら、やっとこらしゃった。式のときは三々九度の杯とかあるから、うちたちも出番があったけん、待っとったとよ。と。
ということは、笠原あたりではもう夜の婚礼ではなくなっていたってことです。
夜の式が普通だった、というはなし、全く知らなかったので、最後の忠臣蔵を見れて良かった。
ちなみにうちの近くにも、赤穂浪士の寺坂きちえもんが来て、ここで死んだとする御墓があります。☟八女、寺坂吉右衛門の墓、一念寺。

永遠の0は、本でも映画でも観ましたが、
読み終わった時、「これは実話なのかな?」
「宮部久蔵にモデルはいるのかな?」と
思ったのが最初の印象でした。
どういうわけか、このサイトに行き付き、
思いがけず、ここに参考にしたと思しき実話が
あり、びっくりしました。
永遠の0は、色んな人の話の継ぎ合わせだと
酷評する人もいるようですが、これだけ
心を揺すぶられる映画に出会ったことはありません。

ちゃんもさん。コメントありがとう!!
わたしの同級生に公立中学校の校長先生がいまして、その人はとてもしっかりした政治信条を持っているので、教えられることが多いのですけれど、ひとつ、それはちがうよと思ったのは、「戦争を美化しているから、このような映画は見ない」というのです。
美化しているとは思わなかった。ただ、これまでの戦争映画のどれとも違っていた。
どんな小さな縁も無駄にしなかった、という須崎さんの大石政則日記への評言がございますが、まさにそんなことばが宮部久蔵の物語にも最もふさわしい。極限におかれたとき、人がとる行動のなかには、あとうかぎりの最上があるような気がする。
ちゃんもさんがここへきてくださったことにも、感謝いたします。

ふしぎね。

追伸
公教育を預かるものとして、美化していなくても、結果的に美化していることになるのを心配なさっているのだとおもうんです。それなら、同感です。
映画の影響のすごさははかりしれないですから。

いずれにしろ、逃れられないことだとおもう。
だからこそ、どんな感情からも離れて、みなければいかんのではなかろうか。

大石 政則 船川睦夫

検索で最近よく見えていまして、。
船川睦夫さんって誰だっけ。
と、ボケかささぎは咄嗟に思い出せず、函館の杉浦教授が最近紹介されていた、南北朝時代の光厳天皇を書かれた学者さんのお名前ではなかったかな。と思って、古典研究室へ行って確認しますとそれは「深津睦夫」さんでした。あまり見かけないお名前で、なんとなく似ていたものですから、すみません。
船川睦夫兵曹、ここに記載がございました。
とっても重要な役どころの人で、映画での役名は大石であったことは、さくらさんも書かれているとおりです。
(これもなにかのご縁、こうごんてんのうを紹介してある杉浦先生のブログ☟)

[ぼくも似たようなことを勧めたい。自分でタブーにしてしまったり、リスクだと決め込んできたことをあえて覗いてみることだ。純文学をタブーにしてきたのなら純文学を覗き、ロックが食わず嫌いだったのならロックコンサートに行って、革ジャンを避けていたのならレザーパンツを穿いて、茶会や三味線を封印していたのならそういう場に足を運ぶことである。
 ポールが書いているように、共感能力を失っているということは、知性の最もナイーブなものを身につけていないということなのだ。](

これ。
中学校長の「僕は見たくない永遠の0」という声に対し、もやもやとしたものがありましたが、☝こういうことかもしれないです。

今朝、男たちの旅路という昔のドラマを見ました。
空港警備の任にあたる警備士のドラマで、特攻生き残りの過去をもつボス役が、実際もそうだった鶴田浩二でした。
当時みたくなく、はじめて見たのですが、水谷豊や桃井かおりが若きガードマン役で出ていて、複雑な郷愁を味わった。(かささぎの初めての職場が同じだったからなんだけどね。福岡空港だったけど)

うーん。
なんなんだろう。どうしてこうつぎつぎにシンクロ。

ゆかりさんのおじいさんの追悼文集にも、鶴田浩二さんと会見している写真が載っていましたっけ。つながっているんですねえ。まっすぐに。

「戦争を実際に体験した世代と戦後生まれ世代との価値観の違いに対する戦中派の強い憤りがドラマ制作の大きな原動力となっている。また、実際に戦争の惨禍を体験した世代で、自身も特攻機の整備士であった鶴田浩二が主人公に選ばれている。鶴田は一度はこの仕事の依頼を断ったが、山田太一との面会をプロデューサーに求め、山田に特攻崩れとしての自分の経験・思いを脚本に投影するよう求めた。出来上がった脚本を見て、鶴田はこの仕事の依頼を快諾した。当時、鶴田とNHKは絶縁状態にあったが、本作への出演を機に再びNHKの番組に出演する様になった。」

鶴田浩二は特攻機にのりこむほうではなく、整備士だったのですね。
今日見た、「シルバーシート」、肉声のようなうめきをきちんと老人たちにむけて発していましたね。
まだまったくこなれていないままの、時代への問いかけ。
オブラートにくるまず、そのままをまっすぐ。

もう一点、かささぎとしては気になるシンクロが、宮部久蔵と宮部鼎蔵(みやべていぞう)。
だれかおなじこと思った人はいないか?
さがしたら、あった。☟

熊本の俳人で、宮部鼎蔵直系の子孫である方の遺された宮部鼎蔵ノート。☟

映像で見て初めて分かることが沢山あった。
渋谷幽哉師遺稿集も、今なら前より理解できる。

アクセスを見ておりましたら、知恵袋サイトで、映画永遠の0に実在のモデルがいたのか?という疑問への解答の一つとして、このページをどなたかがご紹介くださっておりました。
いま、よみました。どなたか存じませんが、ご紹介ありがとうございました。

ここがよく読まれています。
考えさせられます。

テレビドラマ化されるんでしょ。

本屋さんやいろんなところにポスターが氾濫してますからね。最近特にまた多いように思います。

あら?
朝送信したのが、ない!

又かきます、三時に
すんまっせん

政治状況が変化するに連れ、意識も変わってゆきますね。
原爆忌一つとっても、しかりです。

昨日、今日と、トップページの次に読まれています。

テレビの主演はだれかなあ。
向井くん?

三回連続ドラマだそうです
大石役、あのそっくりな中村蒼くんだわ。

お久しぶりです。ゆかりです。
お盆で乙四郎さんの同級生だった展太おじも帰省しており、お寺が賑やかです(^-^)

このお話…本当に「永遠の0」とほとんど同じですよね!
きっときっと参考になってるのではないかと思います。

今日は終戦の日。

生きて帰ってくれた祖父に…あらためて感謝です。
出撃していたら私は生まれていませんから。

うわ、ゆかりさん

コメントありがとうございます!

お盆、パソコンを開く余裕がありませんでした。
盆客を迎えたり、自分がお参りに行ったりで。
それ以外の時間は普段読めない本を読んでた。
返信がおくれてごめんなさい。
そうですか、テンダおじさんがかえってみえたんだ。
還暦ですからね。同級生だし、一度もお会いしたことは無けれど、同時代を生きてきたというだけで親近感あります。

ゆかりさんは原作を読んでおられるのですよね。

テレビドラマのほう、お盆にあるのかと思っていたら、来年だそうですね。笑
うちの母も楽しみにしています。

よく、読まれています。

使用言語フランス語のかたが見えていました

テレビ放映後、とても沢山の人がこちらに見えました。

わたしもみた。二度目でしたが、やはり感動しました。
コマーシャルで度々中断したにもかかわらず。
あれは曰く言い難い魔力がある。

年末にテレビ版永遠の零、再放送していましたね。
今回もじっくりみることができなかった。
だけど、印象に残った場面がいくつか。
ひとつはパラシュートで脱出をはかった米兵をなんども撃って殺した場面と、その理由を説明した場面。
ちょうど、きょうよんだ、このISへの記事↓のなかの一文を連想させた。

>また、「火の玉保守論客」の異名を持つ同紙のコラムニスト、ピーター・ヒッチェンズも11月29日付のコラムで、「自分は無抵抗主義者ではない。フォークランド紛争は支持したし、英海軍の活躍に心躍らせた」としながら、シリア空爆参加については「勇敢で使命感ある優れた軍の男性や女性たちが、虚栄心の強い無知な政治家たちのために、どうして命を落としたり、重傷を負ったりしなくてはならないのだ?」「キャメロン首相は7万人の『穏健派武装勢力』に愚かな信頼を寄せているが、ロシア機からパラシュートで降下したパイロットを残酷なやり方で殺害したのはその散在する「穏健派勢力」の一つだ」と書いた。 」

「船川睦夫」検索でみえております。

ここがまっさきにでるようです。
読売新聞や毎日新聞の、戦争の証言特集で記者による取材記事がよめます。
全文引用しようかとも考えましたが、控えます。

毎日新聞記事↓

千の証言
.
出撃前日に攻撃機交換 「少尉は私の身代わり」 鹿児島の元特攻隊員89歳、負い目捨て悲惨さ語り継ぐ

毎日新聞2015年7月26日 西部朝刊

開聞岳(鹿児島県指宿市)の上空200メートルに差し掛かったところで、19歳だった船川睦夫さん(89)=鹿児島市=は操縦する九七式艦上攻撃機の針路を西から南に変えた。1945年4月28日夕、串良基地(同県鹿屋市)を飛び立った特別攻撃隊「八幡神忠隊」の4機は、米軍が上陸した沖縄を目指していた。【関東晋慈】


 西日を右手に受けながら、「薩摩富士」と呼ばれ、鹿児島で愛される円すい形の美しい山容を目に焼き付けた。「何とかして敵をやっつけたい。自分はどうなってもいい」。操縦桿(かん)を握りながら改めて覚悟を決めた。

 トラブルが発生したのはその直後だった。突然、高度が上がらなくなった。エンジンから油漏れを起こしていたのだ。高度を上げて南へと急ぐ他の3機から離れ、船川さんは生まれ故郷でもある種子島に不時着した。

 この前日のことだった。基地の黒板に翌日の出撃者として自分の名前が書かれているのを見つけた船川さんが、宿舎で所持品の整理をしていると、22歳の大石政則少尉に声を掛けられた。「船川君、飛行機を替わってくれないか」。思いがけない申し出に困惑したが、年齢も階級も上の大石少尉から何度も「替わってほしい」と頼まれると断れなかった。

 佐賀県出身の大石少尉は東京帝大法学部で外交官を目指していたが、学徒出陣で入隊していた。既に出撃経験があったが、前回、古い攻撃機が油漏れを起こして引き返した。大石少尉は比較的新しい船川さんの攻撃機で、今度こそ敵艦への体当たりを成功させたかったのだった。

 船川さんの攻撃機で出撃した大石少尉は他の2機と共に敵艦目がけて突入し、命を落とした。一方、不時着した船川さんは、その後、再度の出撃命令がないまま終戦を迎えた。

 「特攻隊と言えば必ず死ぬと分かっていた。『俺も死ぬのかな』という気持ちの半面、優秀だったからこそ選ばれたんだという誇りもあった」。鹿児島市の自宅で船川さんは、特攻隊員に選ばれた45年2月当時の心境をこう振り返る。

 船川さんは「飛行機に乗れ、勉強もできる」と42年、土浦海軍航空隊(茨城県)の予科練に入った。2年後、飛行練習生となり、宮崎・日向で練習機を使った訓練に明け暮れた。厳しい訓練についていけなかったり、事故で死亡したりする同期も多かったが、船川さんは成績が良く、大分・宇佐航空隊に配属された42人の同期の中から10人の特攻隊員に選ばれた。

 もしあの時交換していなければ−−。「生き残った負い目」を長く引きずって生きてきた。戦後、遺族に見せてもらった大石少尉の日記には、1度目の出撃の時に引き返さざるを得なかったことを悔やむ心境や、船川さんに交換してもらった新しい攻撃機で出撃できる喜びがつづられていたという。

 船川さんは「大石少尉は私の身代わりになったようなもの。学業を捨てざるを得ず、限りない未来を戦争が摘んでしまった」と言う。自身の兄2人も戦死している。一度は国にささげたつもりの命を生き永らえた船川さんは戦後、農業で生計を立て、3人の子供を育て上げた。「戦争の悲惨さを語り継ぐことが生き残った者の務めだと思っている」と語った。

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