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2008年4月26日 (土)

俗の細道 17

山本健吉は、秀野が昭和二十二年に亡くなって、二十四年に再婚するまでの期間、なにをしていたのだろうか。彼本人は、親友だった遠藤周作との対談で、当時をこう振り返っている。

山本「戦後は、左翼運動をやったということは、自慢の種になるんです。僕は全然そういうことを自慢する気はありませんでした。もう思い出すのも嫌だという感じがしていたわけです。政治と文学、民主主義文学ですね、非常に何か、ほとんどそれでないとね。」
遠藤「人にあらず。」
山本「人じゃない。あの後しばらく、数年は私の出る場というのがなかったですよ。」
遠藤「そう、あの頃しばらく筆を折っておられましたね。昭和二十年の終戦から、二十三年ぐらいまで山本さん、ほとんど何も書いておられない。」

          ◇

私が遠藤周作に出会ったのは、短大生だった十八のころだ。当時の遠藤周作は狐狸庵先生として髄分若い人達に人気があった。『沈黙』になぜあんなにも感動したのだろう。いま思えば、あの転びキリシタンの話は、日本的情緒の極めて濃い、たとえていえば、親鸞聖人の悪人正機説と軌を一にするような、ゆるい思想の物語だったようにしか思えない。日本だから受けたのだ。

          ◇

自分の不幸な体験を告白する趣味は、私にはない。健吉は、そう言っている。その最も痛い時期が、秀野と二人でマルキシズムにかぶれ、非合法活動をして特高に捕まり、ひとつき近い拘留を強いられた昭和七年から九年にかけてと、秀野が結核死する前後の昭和二十年から二十三年にかけてである。

          ◇

健吉が遠藤周作に出会ったのは、その二度目の思い出したくない体験直後のことである。妻秀野を亡くした健吉は、京都の新聞社の職も辞めて、秀野の忘れ形見のまだ幼い娘とともに東京の姉の家に転がり込む。それが経堂のころだ。健吉という人は学生時代に折口信夫に心酔したのち、若気の至りのような(と本人は書く)結婚をして、そしてすぐ左翼思想にかぶれてとことんまで突っ走り、その後見るべきは見つというかんじでまた折口学に戻っている。その人のいたところが、古典の世界であり、理知とはまったく異なることばで示される信仰じみた世界だった。

         ◇

秀野の随筆にも「恋愛結婚するひとを軽蔑する」という激しい言葉が出てくる。自分たちは学生結婚をしたくせに、これから恋愛結婚しようという人たちを前にしてのこの台詞であるから、随分と自分の結婚生活についても、葛藤や苦悩があったのだろうと思わせる。だが、だからこそ逆に、健吉との暮らしが彼女にもたらしたものの大きさ、あるいは健吉に秀野の死がもたらしたものの深さを思わずにはいられない。書かれざるからこその真理というものが、ここには見えないかたちで横たわっている。

連句誌『れぎおん』2000年春・29号より部分引用。

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