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2008年4月30日 (水)

一眸の荒野

大石政則日記を打ち込みながら思っていたのは、若さの盛りで、どうやって死への恐怖を克服していったのか。覚悟はどうすわっていったのか。ということだった。

いちど出撃して引き返したとき。
そのときはまだ、彼のきもちは定まっていなかった。日記のことばのはしばしに表れていることである。

だが、二度目に出撃したときは、きっちりと死へむけて、肚が座っている。

武士のしにざまをおもう。
同時に芭蕉の猿蓑歌仙がなぜかふっと思い出される。
恋句から戦いにのぞむ武士の雄心の句へと転じている。

うき人を枳殻垣よりくぐらせん  芭蕉
 いまや別(わかれ)の刀さし出す 去来
せはしげに櫛でかしらをかきちらし  凡兆
 おもひ切(きつ)たる死にぐるひ見よ 史邦

「おもひきったるしにぐるひみよ。」

そんな極度にはりつめた状態で突入していったんじゃないだろうか。
ひすてりーおんなのようなはがみをして、おたけびをあげながら。

きのう夜、乙四郎の句につける句を案じるとき、本を開いて言葉をさがした。よくやる方法だ。核になることばを一つ引いてくる。

すぐみつけた。
こういうときはぱっと目にとまるからふしぎだ。
飢えたけものが一瞥でえものを捕らえるように。
三十代のころ大好きだった小野十三郎の詩集『大阪』から「白い炎」。

白い炎

   小野十三郎

風は強く
泥濘(どぶ)川に薄氷浮き
十三年春の天球は  火を噴いて
高い巻雲(シーラス)のへりに光つてゐる。
枯れみだれた葦(あし)の穂波
ごうごうと鳴りひびく一眸(いちぼう)の原。
セメント
鉄鋼
電気
マグネシユウムら
寂寞として地平にゐならび
蒼天下(さうてんか)
終日人影(じんえい)なし。

2008年4月29日 (火)

生後3ヶ月

生後3ヶ月

きょうも仕事。連休あけまでに「ことを終わらせておく」ことを合言葉に、事務所の全員が一丸となって書類整理をしてます。
別にあやしい事はしておりませんので、ご安心ください。ただ書類に記載があると違法になるものを消したり隠したりしているだけです。

1月30日に生まれた犬の子、社犬です。
手前右の白がラッキー、左のこでぶがハッピー、背後でがさこそしてるやせぎすはさくらです。さくらはメスですが、一番うごきが荒くて、根性がわるいです。笑(さくらさんごめんなさい。)

帰るとき、ボスに「途中やろ。持ってって」と八女市今福の造園業者のとこへ、警備契約書を持参する役をおおせつかる。地図を焼いてくれたけど、はじめてのところで、さっぱりわからない。迷った。だいたい福島高校の西。茶畑のさみどりが延々と続く中。遠回りもいいところ。がおー!!

2008年4月28日 (月)

海軍少尉大石政則 その人格と品格

      須崎 勝彌

歴史とは連環である。環の一つが抜け落ちても歴史は断絶する。国の同一性は保てない。滅んだも同じだ。だから同義地に墜ちた昨今の日本に絶望することはやめよう。それにしてもひどい世の中になったものだ。徒(いたずら)に警鐘を鳴らして空騒ぎするよりは、日本人の理想像はこれだと示す方が世直しの効果は大きいのかもしれない。
澆季(ぎょうき)の時をかい潜(くぐ)って六十余年を遡(さかのぼ)ろう。昭和二十年(1945年)四月二十八日、朝まだき大隈半島のシラス台地にひれ伏す若者の姿があった。

 たらちねのいませし空を伏し拝み
   別れの言葉告げ奉る


その日の夜を待たずに、彼は二十二歳の若い命を沖縄に断った。
詮(せん)なき仮定と知りながら、あえて言おう。もし戦争が起きなかったら昭和二十年四月二十八日はどうなっていただろう。大石政則は東大法学部を卒業して念願通りに外交官としての一歩を踏み出していたはずだ。
しかし彼は豊かな未来を祖国のためになげうった。ぎりぎりのその日まで彼は克明に心の軌跡を書き綴っている。知性に裏打ちされた勇気がなくてはとてもできることではない。日本民族には死にたじろがない男をサムライと呼ぶ伝統がある。大石政則はサムライである。
出撃が相次ぐ串良基地で、明日はわが身と皆が極度に緊張していたとき、渡辺信彦が語りかけた。

「大石はいつもと変わらんな。他の者は目の色が変わったりそわそわしてるのに、やはり純な人は違うんだな」

とんでもないと照れて笑ってごまかすのが普通だが大石は違う。自分が本当に純な人なら、明日は必ず体当たり攻撃に成功して戦果を挙げるはずだと決意を固めた。
しかし戦場の現実は思うに任せない。大石は四機編隊の一番機として発進したが高度をとるにつれて潤滑油が漏れだした。風防はべっとり黒く汚れた。これでは体当たりするにも目標をつかめない。やむなく爆弾を投棄して反転した。帰投するなり司令室に出頭を命ぜられた。延々と一時間近くも何を追及されたか、おおよその見当はつく。優等生であり続けた大石には絶えがたい屈辱であっただろう。初めて舐めた挫折の苦汁からか、その夜は三十八度の高熱に喘いだ。
わが子はまだ生きていると伝え聞いた両親は、基地へ駆けつけた。親の愛は強い。おかげで大石は挫折感から抜け出した。生気を蘇らせた姿に親は錯覚した。子の命を取り戻したのではないかと。子は感謝した。

「ありがとう」

しかしそれは今生(こんじょう)の訣別の言葉だった。
親と子の間で生と死がすれ違っている。聞く者は粛然と涙するだろう。
危急存亡のとき祖国への献身こそは至高の行為、先だった不幸は却って大孝となる。
大石が到達した究極の境地である。
身辺整理はすべて終わった。しかし乗機三○三号に不安があった。
地上の試運転に異常はないが、離陸して高度をとると油が漏れてエンジンに不調を来す。整備員にも原因が分からなかった。このままでは再度の出撃も失敗するおそれがある。大石はこの難問をどのように処理したのだろう。
戦後四十余年も過ぎてからようやくその全容が判明した。二番機の操縦員船川睦夫二飛曹が発表した手記の一部を引用させてもらう。

「作戦会議が終わり宿舎に帰って身の周りの整理に掛かろうとしたとき、隊長機の操縦員大石少尉が近づき、搭乗機を代わってくれないかと相談が始まった。いくら何でも心血を注いだ愛機を交換することはできない。『代わってくれ』だめ、『たのむ』だめ。繰り返すこと一時間、ついに私も根負けして愛機三五三号を大石少尉に譲ることにした」

同じ九七式艦上攻撃機にも形式が異なる一号艦攻と三号艦攻があって、大石の三○三号は一号艦攻、船川の三五三号は三号艦攻である。三号艦攻の方がカッコいいし性能もいい。船川が交換を渋ったのも当然だ。
船川が串良へ進出したのは菊水二号作戦の後だから、大石がエンジン不調で心ならずも反転帰投した事実を知らない。大石は三○三号機の欠陥を船川に告げるわけにいかなかった。正直に言ってしまうと交換話は初めから成り立たなくなる。大石に他意はない。ただただわが命を敵艦に砕くためである。だからといって欠陥機を押しつけることが正当化されるわけがない。大石は良心の呵責に苦しんだだろう。しかし確実に任務を遂行するためにはなんとしても三号艦攻が欲しかった。もちろん交換は無条件ではない。大石は心中秘かに船川への見返りを用意することで、我とわが無法を許した。しかしそれを口にできる時でもなく、所でもない。大石はひたすら頭を下げて頼むしかなかった。

船川はついに根負けしたと記しているが、その気にさせた何かがあったはずだ。船川がペアを組んだ偵察員はO少尉である。上級者であり機長でもあるO少尉に、船川は電信員の佐藤二飛曹と連れだって挨拶をしたであろうそのとき、あまり良い印象を受けなかったのではないか。もし頼もしい機長だと思ったら、大石に難題を持ちかけられたとき助けを求めたはずである。しかし一言も相談していない。大石の印象はどうだったのか。士官の身分をかなぐり捨てて、年若い下士官にただただ叩頭(こうとう)する姿に、人間的な誠意を感じたのではないか。根負けしたとはそういうことだと思う。
船川はさらに重大な事実を記している。

「搭乗員整列、出撃前の訓辞があり、別れのサカズキを飲み干し、出撃の命令で機に搭乗するとき、偵察員のO少尉が急病とかで出撃できず、二番機は電信員と二名の搭乗となった。そんなことはどうでもよかった

予科練出身の十代の若者たちは、O少尉のあまりにもタイムリーな急病など意にも介さなかったが、偵察員を欠いたまま発進を命じた司令部には大いに問題がある。偵察員はいなくてもいいということか。しかし複座機には必ず偵察員を配置した。旧式の水上機や練習機の特攻には無線機を積まなくても偵察員という命は必ず積んだ。未帰還機の備考欄に「電信機ヲ有セズ戦果不明」の文字を見ると悲憤を禁じえない。

四月二十八日、宇佐八幡神忠隊の四機は、薄暮攻撃を企図して串良基地を発進した。船川が操縦する二番機は、大石の操縦する一番機を懸命に追った。交換した三○三機にも船川はすでになじんでいた。敵機を警戒しつつ編隊の間隔を開けて飛んだ。上昇する一番機に引っ張り上げられるようにして高度二千メートル、翼下に屋久島の宮之浦岳を見た。
その頃から風防に点々と油が付着しはじめた。油漏れはひどくなるばかりで、機は黒煙を曳き始めた。船川は一番機に翼を連ねてエンジン不調を伝えた。大石が「帰レ、帰レ」と何度も手を振った。一番機は「無事ヲ祈ル」の文字を示すと、訣別のバンクを振って速度を上げた。機影はたちまち南へ消えた。

「船川兵曹、貴様は死ぬことはない。生き残れ」

大石が心中秘かに用意した見返りとはこれである。

戦後になっても船川は大石の心を知らなかったが、いつとはなく「もしあのとき三号艦攻を譲らなかったら」という仮定が脳裏にこびりついてきた。そして譲ったために大石少尉、清水少尉、犬童二飛曹の三人を死なせてしまったという悔悟の念に苛まれた。自分を責めることに急な彼もまた「純な人」である。戦後四十年も思い悩んだ末に串良町主催の慰霊祭に参列し、大石の遺書を眼にした。最初の出撃に挫折した大石の苦境を初めて知った。船川は記す。

「遺書を読んで、これほどまでに思い焦がれた気持ちならと”ホッ”とするとともに涙を禁じ得ません」

大石は二度目の出撃の前夜、すなわち搭乗機の交換を承諾してもらった後に最後の日記をしたためている。文中の一行に大石の人柄がにじんでいる。

「使用機が待望の三号艦攻(一度も乗りたることなけれども)なので本当にそれ丈でも心の弾むを覚えます

譲り受けた三号艦攻について「一度も乗ったことなけれども」と特に括弧の註をつけて船川への謝意を表明した。現世の縁(えにし)を何一つおろそかにしていない。そして翌昭和二十年四月二十八日の午後、串良を発進して四時間余を飛び、目標突入の長符を打電しながら、「純な人」大石政則の生涯を全うした。

須崎 勝彌
大正11年1月1日生。
学徒出陣の第十四期飛行予備学生。
大石政則とは宇佐海軍航空隊で操縦訓練を共にした間柄である。戦後は文章を業とし、映画『連合艦隊』などのシナリオを執筆し、『カミカゼの真実』(光人社刊)などの著作がある。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

2008年4月27日 (日)

大石政則日記  最後の遺書

昭和二十年四月二十七日

父上、母上

男子の最後の壮途に上るに際し、遥かに皆様に訣別の言葉を述べさせて頂きます。明二十八日の午後四時頃私は廿四歳を最後として散ります。決してお嘆き下さいますな。出撃前夜の私の心は平静沈着、少しも普段のそれと変る所はありません。むしろ去る十二日の第二次特攻にて引き返した不面目と責任とをこそ今こそ果たしうるという雄心に充ち溢れて居ます。
只今、最後の鬚(ひげ)剃りを鯉田少尉にやって貰い終ったので又続けます。三五三号(中間席小野寺少尉、電信員犬童二飛曹)で宇佐の区隊長機として行きますが、待望の三号艦攻(一度も乗りたることなけれども)なので、本当にそれだけでも心のはずむを覚えます。一二二○発進。(午前空襲あらば一五三○)沖縄周辺の敵輸送船に対して痛快なる突入を決行します。假令(たとえ)途中にて墜さるることあるも、戦果小なりとも二十代の若者が次から次へと特攻攻撃を連続し、ますらおの命を積み重ね積み重ねして大和島根(やまとしまね)を守り抜くことが出来れば幸ではありませんか。ここでしばし回顧させて頂きます。

一心館での面会が本当に最後の面会でしたね。
ご両親様の御顔を拝し、また竹内夫妻の消息、家の様子などうかがうことが出来、また心残りと思いし「荒波越えて」を一読するを得て、私の心には少しの心残りもありません。満足のみです。本当に出撃前にこの機会を与えられた運命の神秘*、神の御加護を畏(かしこ)む次第です。雨の日空襲で防空壕に入ったことや、かしわを喰いすぎたことなど・・・
お陰で風邪をひき胃をこわしましたがね。

二十有余年、並々ならぬ御苦労を以て育てられた御思を有難くいただきながら、最大の親孝行を尽くすべく行きます。少しでも御膝下(しっか)に帰って御面倒を見、万分の一でも報じたく思いましたが、それは日本の戦局が許しませんでした。若い者は皆皇国の捨て石たるべく運命づけられています。今になってこの運命の尊さを泌々(しみじみ)味わっています。
私が亡くなっても政隆の偉大なるあり、また竹内大尉あり、私一家のみにても後に才々たるものあり。後に心をやるなど毛頭ありません。政隆は私に優る者、将来は期して待つものあります。どうか政隆に全幅の愛情と期待をかけられて、これからをお送り下さい。

宇佐発進の折りの句を再び決意に示して

待ちわびし 身に甲斐ありて 大君の
  御楯と飛び立つ 今日のうれしさ

国体擁護の日本民族総力戦の真只中、神風特別攻撃隊の一員として敢然(かんぜん)沖縄の海に予は死す。身は敵艦諸共四散し去るとも魂魄(こんぱく)は国体擁護聖戦に永久に生き抜き以て日本の四海に神風を吹き起さなん。神州興隆、四夷撻伏(しいたっぷく。吉田松陰の言葉、外敵を叩き伏せること)の悲願を抱き戦死に至極する廿四の人生を終る。涛(きゅうとう)*を挽回し攻勢を移転の機の一日も速やかならんことを切に懇望す。

 天皇陛下万歳
二十、四、二十七、二○○○時

竹内夫妻*

一足お先に参りますよ。お二人の結婚生活の甘い所など拝見したく思いましたが、出来ず残念でした。もっとも父母から面白可笑しく聞きましたが、精々拙(つたな)い何も出来ぬ妹ですが可愛がって下さい。
「兄さん」とお呼び下さるには尤(もっと)もといえば尤もなんですが、でも一寸(ちょっと)照れくさく思いました。もう呼ばないで下さい。


一回目の出撃は潤滑油が風防に一杯かかったので途中から飛行場に向いましたが、小隊長機たる責任観念よりまた列機の後を追いましたが、ますますいけないので涙を呑んで爆弾を海に落として引き返しました。飛行機は地上と空中で故障具合の違うことをはっきりと知りました。

同じ出水七分隊出身では富士原少尉が十二日の特攻で死にました。また金田少尉は三月中、敵機来襲にて第二美保へ避退のとき離陸直後失速して死にました。飛行時間一○○時間、離陸と編隊、計器飛行、互乗二、三回やったきりの何とも青二才ですが、恐れを知らぬ図太さを以て我武者羅にやりますよ。私は最後まで正真正銘バーデス*。

政隆君

よい弟だったな。本当に君が可愛くてなりません。兄さんは大尉で結構です。早く行かぬと獲物がなくなりますからね。ヤンキーの恐怖におびえた顔また痛快です。
兄さんが居なくても、もっと大きい兄さんが出来たわけだから元気で暮らしなさい。お母さんのお手伝いはよくやるように。一目可愛い中学生姿を見たかったですね。一種軍装を残して行きます。

許斐(このみ)先生 鯰田中学校恩師
藤井先生       竹田中学校恩師
菊池先生       富山高校恩師
植木先生       富山高校恩師

私の学生生活を通じてこの四先生には特に御高恩を賜りました。厚く御礼申し上げます
子弟教育に愈々御精励、皇国守護の基礎たる有為の人材を育成して下さい。今更何も思い残すことはありません。
四ツ谷巌兄(東大法)
学生時代無二の親友
元気で信念に直進してください。

編集者註:

*竹内忠治氏は出水空時代の大石君の分隊長で、その縁で大石君の妹の禎子さんと結婚された。

*後述。

記録では大石機からの電信は次の通りであった。

一九一三  ヒ ヒ ヒ ヒ・・・(敵戦闘機の襲撃を受く)
二○○九  敵艦船見ゆ
二○一八  長符十秒(体当りに突き進んでいる)

なおペアは清水吉一少尉(立大・十三期)
       犬童憲太郎二飛曹(甲飛十二期)

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

大石政則母刀自・大石トク『想いで草』より引用します。

任官を祝う母子の酌みかわす
     琥珀の酒の味わい深し    大石トク

二十年四月のある日、ある方から、「至急、大石少尉に面会に行かれるように」と内密の連絡をいただきまして、私ども夫婦は何事であろうかと、やっと手に入れた切符で電車に乗り、宇佐航空隊に向かいました。
「まさか、政則が特別攻撃隊で出撃するのではないでしょうね」
満員の電車の中で、私が主人の耳許で申しますと、
「几帳面な政則のことだから親に黙って行ってしまうはずはない」
主人は不安を隠すように言いました。
列車の走り方さえもどかしく感じられる思いで、ようやく航空隊に駆けつけました。
昭和二十年四月七日のことでございます。
「大石少尉に面会をお願いいたします。」
隊門でそう申し出ますと、
「大石少尉は昨日出撃されました。もうこの世には居られませんー」
受付の兵隊さんが静かに言われました。
電気に撃たれたようにその言葉が私の体を突き抜け、体中の血が地のなかに吸い込まれてゆくようでしたが、
「士官の母としてまさかの時にも涙を見せてはいけません」
と申しておりました政則の言葉をしっかりと噛みしめ、私は葉隠れ武士の母らしく涙をこらえておりました。
せめて息子のお友達にお会いして出撃の様子をお聞かせいただきたいとお願いしまして、五、六名の同期生の方々にお会いすることが出来ました。私ども夫婦はその同期の戦友方と昼食を共にしながら皆様から政則の想い出をあれこれと際限がないほどお聞かせ願い、政則が目の前にいるようにしっかりとその姿を想い浮かべることができました。
その日の午後も特攻隊の出撃がありますとのことで、特攻隊の遺族として是非それを見送って息子さんの出撃の姿と思って下さいとの温かいお許しを隊からいただきまして、私ども夫婦はしっかりと自分の目で特攻隊出撃の様子を見届けることが出来ました。

出撃される勇士達は皆様、桜の小枝を襟に飾って水杯を交わされておられましたが、
「先に往くから、あとは頼むぞ」
「必中を願う、あとから往くからな」
と、見送られる戦友、見送る戦友は交々、明るい笑みをたたえながら語り合っておられました。
やがて、一番機を先頭に次々と滑走路を離れた特攻機は飛行場の上で編隊を組み、大きくお別れの翼を振って南の方へ向かいました。
これが政則の姿だったのだと、私はいつまでも涙を拭わずに機影に手を合わせておりました。私どもは政則が残した鞄をしっかり抱いてその地を後にしました。

それから十日程後のことでございます。
「マサノリオル、クシラニイケ」
謎のような電報が、思い当たりのない方ーあとで、このお方は政則の戦友の親御さん*と分かりましたがーから届きました。
まさか政則がまだこの世に居るとは、と半信半疑の気持ちで、主人と私は宇佐より遥か南の鹿児島県串良に急ぎ参りました。
串良航空隊は一望の藷畑の中にあって宇佐航空隊のような立派な建物は一つとしてありません。
ようやく見つけた隊門で、またも「大石少尉は昨日ー」の言葉を聞くのではないかとの不安にかられながらも、恐る恐る政則の名前を申しますと、
「大石少尉は只今作業中です。しばらくお待ち下さい」
との返事が返ってまいりました。
”政則が生きていた、まだこの地にいるー”
私の顔に一度に血が上ってまいりましたが、まだ半信半疑の夢のような気持でございました。神仏の御加護があって、私は我が子に再び会うことが出来ました。
その晩は隊の近くの「一心館」という旅館に三人で泊まり、夜の更けるのも忘れて語り合いました。
宇佐を飛び立った政則の飛行機は、潤滑油が漏れて風防にかかり、前方が見えなくなったので一旦は引き返しかけたが、責任ある一番機であることから再び進路を南に向けたものの、どうしてもそれ以上の前進が出来ず、戻ったとのことでございました。
命が惜しくて引き返したと思われるのが辛い、と政則は唇を噛んで申しました。
私は「立派に整備された飛行機がそうした故障を起こしたのは、お母さんがあなたに会いたいと思う一念が天に通じて引き戻して下さったのです、ご奉公はいつでも出来るのですから決して死に急ぐことはありません」と申しました。
その夜と明くる日の夜、「久しぶりだからお母さんの懐(ふところ)で寝るよ」と申す息子の体をしっかり抱いて、私達親子三人は「川」の字になって眠りました。ようやく這い這いをしだした頃と同じ政則の温もりが私の体中に伝わってまいりました。
いま思いますと、こうして最後にわが子を二晩も抱きしめて寝ることが出来ました私は、他の特攻隊員のお母さま方には申し訳ないほど幸せであったわけでございます。
幸い、政則はまだすぐに出撃する様子ではありませんでした。
朝になると隊に向かい、夕方は旅館に戻って来るという、まるで政則が学校に通っていた頃と同じように、親子が朝夕に顔を合わせるという日が二日続きました。
丁度その折、娘、禎子の夫、竹内大尉が朝鮮光州航空隊から諫早航空隊に転勤になり、夫婦で私の家に立ち寄っておりましたので、
「政則ちゃん、あなたの居場所が分かったのでちょっと竹内夫妻に会って来て、すぐに戻りますからね」と、出撃の気配を感じなかった私はうっかり申しました。
政則はそうしなさいと言うように、黙って深く肯きました。
私は後に知ったのでございますが、竹内大尉は特攻隊長を命ぜられておりました。
同じ海軍軍人であった政則はこうなることを早々と予想していたのでございましょうか、自分の妹に軍人の妻としての万一の時の心がまえを、その遺書となりました日記にも書き記してございました。
妹思いの政則は、娘が私と久々の対面をどれほど楽しみにしているかを心の底で思っていたのでございます。
それが「お母さん、行ってらっしゃい」と無言の返事だったのです。
そのとき、政則は自分が「明日、出撃」と知っていたはずですが、私には一言もそのことを申しませんでした。
おそらく、自分と両親との別れの悲しさよりも自分の妹が親に会う喜びの方を考えていたのでございましょう。その朝、私達は前の日と同じように旅館の玄関へ隊に向かう政則を見送りに出ました。
外は霧雨でした。
「お母さん、雨が降っているから此処まででいいよ」
道まで出ようとする私達を、政則は手で押さえるようにして言いました。
「お母さんはまたすぐここへ戻って来ますからね」

これが私が息子にかけた最後の言葉になりました。
そのとき、「お母さん、明日は出撃です」と一言漏らしてくれれば、私は何事を措いてもそれを見送るまで居たのでございますが、息子は私の嘆き悲しむことを心配し、また、妹を喜ばせて上げたいとだけ考えていたのでございましょう。

旅館の道をまっすぐに歩いた政則は曲がり角に着いたとき、初めて私達の方を振り返り、煙るような雨のなかで長い長い挙手の礼をいたしました。
軍服の肩に雨が粒になって光っているのが私の目に映りました。
これが、私達が息子政則を見た最後の姿でした。   

「神風特別攻撃隊八幡神忠隊、昭和二十年、四月二十八日、沖縄周辺ノ敵艦船群ニ体当リ攻撃ヲ決行ス」
息子、大石政則海軍大尉の戦死は、海軍布告にこのように記されております。

2008年4月26日 (土)

筍の

いつもなら、もう今時分は、くるめのおばが甥とともに笠原の竹林にのぼって、たくさんたけのこを掘り出し、うちあたりにも、とうまいぶくろ二つぶんほども分けてくれてた。でも、ことしはそれがまだ。

星野の山に母の父の名前で猫のひたいよりも狭い土地がまだ残っていたらしく、こんど道がはしるので、その土地を公道にするには、一族の承認がいるというので、去年の暮れからずううっと何度もなんども星野村のお役人さまが、わがやにいらして(なにしろ、母が子孫の最長老になっていたので右代表のかたち)は、手続きをなさろうとしますが、二十数人の子孫、そのうちの若い一人からどうしてもまだ印鑑証明がもらえずに、往生しているようです。

母の父は、山口朝次といったようです。笠原のまえは星野にいたようです。見た目、笠置衆みたいでした。炭焼き小屋のまえでいとこと写っている写真をみたことがあります。私が五つの四月八日、くるめの娘のうちでご馳走をたべて、厠にいき、脳溢血で大往生したそうです。
こんどのことで、ながながしい系図をみることができました。星野だったとは知らなかったなあ。

棋譜

棋譜

四月から競輪場の警備がまわってきました。
まさに、まわってくる・・としかいえない状況での入札、ウンがそうなっていた。棋譜のようなこのスケジュール表が編成室に張り出されています。
地名はみな、競輪場のある地です。
これを見ますと、ほぼ連日どこかで開催されていますね。競輪場警備隊長にいろいろ説明をしていただきましたが、サテライトとか何度聞いても何のことかわかりません。行ったことないし。そのうちわかるでしょうか。とりあえずは、営業の人たちが挨拶回りに行った感想で印象にのこったひとことを。「武雄(競輪場)はとても手入れが行き届いていて、きれいかった。」はい、そんだけ。

それと、最近入社した若い子が競輪場にまわされて、数日出てから事務所に帰ってきた日にぼそりと言ってたことば。「今日は朝すくなかったのに昼になると倍になり、八百人くらい入ってた。でも昔は多いと四千人くらい来てたらしいですね」。へえ。へえー。常務にきけば、いまも二千人くらいは来場しているとの話です。ただ、車券は一枚百円?の低価格だから、かける金額は少なくて、収益はあまりあがっていないとのこと。

俗の細道 17

山本健吉は、秀野が昭和二十二年に亡くなって、二十四年に再婚するまでの期間、なにをしていたのだろうか。彼本人は、親友だった遠藤周作との対談で、当時をこう振り返っている。

山本「戦後は、左翼運動をやったということは、自慢の種になるんです。僕は全然そういうことを自慢する気はありませんでした。もう思い出すのも嫌だという感じがしていたわけです。政治と文学、民主主義文学ですね、非常に何か、ほとんどそれでないとね。」
遠藤「人にあらず。」
山本「人じゃない。あの後しばらく、数年は私の出る場というのがなかったですよ。」
遠藤「そう、あの頃しばらく筆を折っておられましたね。昭和二十年の終戦から、二十三年ぐらいまで山本さん、ほとんど何も書いておられない。」

          ◇

私が遠藤周作に出会ったのは、短大生だった十八のころだ。当時の遠藤周作は狐狸庵先生として髄分若い人達に人気があった。『沈黙』になぜあんなにも感動したのだろう。いま思えば、あの転びキリシタンの話は、日本的情緒の極めて濃い、たとえていえば、親鸞聖人の悪人正機説と軌を一にするような、ゆるい思想の物語だったようにしか思えない。日本だから受けたのだ。

          ◇

自分の不幸な体験を告白する趣味は、私にはない。健吉は、そう言っている。その最も痛い時期が、秀野と二人でマルキシズムにかぶれ、非合法活動をして特高に捕まり、ひとつき近い拘留を強いられた昭和七年から九年にかけてと、秀野が結核死する前後の昭和二十年から二十三年にかけてである。

          ◇

健吉が遠藤周作に出会ったのは、その二度目の思い出したくない体験直後のことである。妻秀野を亡くした健吉は、京都の新聞社の職も辞めて、秀野の忘れ形見のまだ幼い娘とともに東京の姉の家に転がり込む。それが経堂のころだ。健吉という人は学生時代に折口信夫に心酔したのち、若気の至りのような(と本人は書く)結婚をして、そしてすぐ左翼思想にかぶれてとことんまで突っ走り、その後見るべきは見つというかんじでまた折口学に戻っている。その人のいたところが、古典の世界であり、理知とはまったく異なることばで示される信仰じみた世界だった。

         ◇

秀野の随筆にも「恋愛結婚するひとを軽蔑する」という激しい言葉が出てくる。自分たちは学生結婚をしたくせに、これから恋愛結婚しようという人たちを前にしてのこの台詞であるから、随分と自分の結婚生活についても、葛藤や苦悩があったのだろうと思わせる。だが、だからこそ逆に、健吉との暮らしが彼女にもたらしたものの大きさ、あるいは健吉に秀野の死がもたらしたものの深さを思わずにはいられない。書かれざるからこその真理というものが、ここには見えないかたちで横たわっている。

連句誌『れぎおん』2000年春・29号より部分引用。

2008年4月24日 (木)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

忘れ雪  その5

          鍬塚 聰子

明治三十二年一月末、わたくしは肺結核で死にました。
「嗚呼、是れ我が旧妻なり。於菟の母なり。赤松登志子は、眉目妍好ならずと雖も色白く丈高き女子なりき。和漢文を読むことを解し、その漢籍の如きは、未見の白文を誦すること流るる如くなりき。同棲一年の後、故ありて離別す。是日嶋根県人の小倉に在るもの、懇親会を米町住吉館に催す。予病と称して辞す

死去の報を受け取った林太郎さまは『小倉日記』の二月四日に書かれています。仮病を使い、わたくしを悼んで下さったのです。
林太郎さまは、小倉在住の終わり、明治三十五年一月四十一歳で再婚なさいました。美術品らしき妻、とお友達への手紙に書かれるくらいの美しい方だったそうですね。美貌が損なわれるから、子どもを産まないようにしていらしたそうですが、お子さんも次々お生まれになり、お名前は茉莉、杏奴、類と仏蘭西読みのお名前をつけられました。エリーゼ様への恋情は消えたのだと、鬼の首でもとったように喜ばれる方もおありでしょうが、林太郎さまは皇帝や女王の名前を拝借しただけだよと、うそぶかれることでしょう。
津和野の森家旧宅の庭園に『扣鈕(ぼたん)』の詩碑があるそうです。この詩は日露戦争従軍中に、エリーゼ様の思い出のカフス釦をなくされて作られたとのことです。

 南山の たたかひの日に
 袖口の こがねのぼたん
 ひとつおとしつ
 その扣鈕惜し
 べるりんの 都大路の
 ぱっさあじゅ  電燈あをき
 店にて買ひぬ
 はたとせまへに
 えぽれっと  かがやきし友
 こがね髪  ゆらぎし少女(をとめ)
 はや老いけん
 死にもやしけん

ただひたすら勉学に明け暮れた日本より、独逸がどれだけ素晴らしかったのか、どなたもお分かりでしょう。周囲の期待を一身に背負うのは、晴れがましさはあるにしても、重たさはいかばかりだったでしょう。その重荷が独逸では遠くにやることが出来ます。それに、林太郎さまは幼くして森家の大黒柱となってしまわれたので、お義父さまを含めて、お義母様、お妹の喜美子様、弟君の篤次郎様、潤三郎様への深い愛情は、無意識に林太郎さまを縛っていたことでしょう。その、いつも守らなければならない肉親は、いない。
こんな自由な環境の中で知り合った方は、当時興味をお持ちだった〈新しい女〉の方だったのです。惚れっぽい男だと周囲に陰口された林太郎さまですから、恋に落ちるのは、自明です。
出来ることなら独逸に住みたい。そう決心された日もあったでしょうが、全てを断ち切ってのご帰国。

エリーゼ様への愛よりも、体面よりも、名誉よりも、家の血がどれほど価値があるかを、自覚なさってのことです。峰子お義母様がかき口説かれる前に、林太郎さまはお決めになられていたはずです。そう、そんな時にも静男お義父様は、黙っていらっしゃるだけです。
そして、背が高いだけが取り柄のわたくしとの結婚。
ですからわたくしを見やりもなさらなかった林太郎さまの頑なさは、今にして思えば当然なのでしょうが、明るかった赤松の家から嫁いで間なしのわたくしには、大した威張った取っつきにくいおかたとしか映りませんでした。だから、林太郎さまが黙ってらっしゃれば、わたくしも黙ったまま。

林太郎さまが五十二歳で発表なさった『安井夫人』は幼児期に患った天然痘であばたがひどく、人から猿と嘲られた学者の安井息軒に自ら嫁した、美人のお佐代さんがモデルです。お佐代さんはたいそう愛らしく、なおかつ貞女の典型です。でもそれは林太郎さま好みの、意志ははっきりしているけれど、その意志は自分の人生のためでなく、男性のために使われる、そういう重宝な女性を理想となさっていらしたようです。ですから『山椒大夫』の安寿は弟のために明るく健気に死ぬのです。
わたくしも外国の女の方に負けまいなどと片意地を張らなければ良かったのでしょうか。お佐代さんのように明るく健気に、そして甲斐甲斐しく振る舞えば、林太郎さまは、少しは愛して下さったことでしょうか。

でも、わたくしは日本の女で、独逸人ではありません。お佐代さんは小町娘で、わたくしはそうではありません。そして最大の理由は、林太郎さまが俗に言う面食いだったということです。

頭のなかでは、人間としての尊厳は女も男も変わりないという思想が存在していても、女性の好悪は、それ以前のものだったのでしょう。
それにしても林太郎さまが、小説の言葉の百万分の一でもわたくしにお話下さっていたら・・・・でも、それでは後の世に傑作は残りませんね、わたくしは悪妻として残りましょう。わたくしと同じ肺結核でお亡くなりになったのですから、林太郎さまの冷たさを忘れることにいたしましょう。(完)

参考資料:

 『鷗外百話』吉野俊彦・徳間書店
 北九州に強くなろうシリーズ№11
 「小倉日記」時代の森鷗外
 『女々しい漱石、雄々しい鷗外』渡邊澄子
          (世界思想社)

連句誌『れぎおん』2000年冬28号より引用 

  はたとせの  身のうきしずみ
  よろこびも  かなしびも知る
  袖のぼたんよ
  かたはとなりぬ
  ますらおの  玉と砕けし
  ももちたり  それも惜しけど
  こも惜し扣鈕
  身に添ふ扣鈕

http://homepage3.nifty.com/TAD/poems_2/poem_16.htm

2008年4月23日 (水)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

忘れ雪  その4

      鍬塚 聰子

この『舞姫』を読んで初めて判ったのですが、林太郎さまは想像で物はお書きにならない。全て事実を、あるべき事実をお書きになられるのです。後に歴史物を沢山書かれた林太郎さまは、四時間しかお休みにならずにお勉強なさって、あの素晴らしい頭脳に知識を蓄えになり、そして、お書きになったのです、事実を。
わたくしが産んだ子に於菟と名付けられましたことは先ほど申し上げましたが、エリーゼという方が林太郎さまのお子をお産みになられたとしたらオットーとお付けになったことでしょう。
エリーゼ様は、帰国された林太郎さまを追って、すぐに来日なさったとか。森家では、妹の喜美子様の夫君良精様が、処置に当たられたと、イサが赤松家に戻ったわたくしのつれづれを慰めるつもりか、あれこれ林太郎さまのことを話してくれました。
林太郎さまが御寝みなされないものですから、わたくしもひっそりと起きておりました。林太郎さまがお勉強なさっているというのに、わたくしが休むわけにはまいりません。僅か一年八ヶ月のことでしたが、それが積もったのでしょうか、病を得、はかばかしくない日常をイサは少しでも慰めようとしたのです。
独逸からお手紙もしばしば届いていたらしく、また、十二歳から独逸語を勉強なさって、独逸のお言葉が堪能な林太郎さまは、お返事を出されたことでしょう。
林太郎さまは、峰子お義母様の説得で結婚なさったものの、胸の中にはエリーゼさましか住まわせなかったのでしょうか。
結婚の際、明治天皇のご裁可を戴いたことも、西周様の仲立ちであることも、離縁を決意する何の妨げにならなかったというのは、想像を絶することです。独逸の合理主義を身をもって実行なされたのでしょうか。
離縁されて、林太郎さまにそっくりの凛々しい目許の於菟とも引き離されて、ずいぶん恨みました。なんと自分勝手なお方かと。幼く天童と呼ばれた方は、情も何もお判りにならないかと。
世間体を気にしない赤松家ですが、親がいなくなったあと一人では寂しかろうと、嫌がるわたくしを宮崎道三郎という方に相応の持参金で嫁がせました。優しい方で、咳をすれば、寒いのではと気を使う、それはそれは林太郎さまとは段違いのいたわりを受けました。でも、そういう優しさを受けるたびに、嬉しさとは別の戸惑いを感じました。林太郎さまの冷たさ、肉親以外は目を見ようともしないまっすぐさが思いだされるのです。
林太郎さまは、まっすぐ前を向かれていました。どのように噂されようと、圧迫されようと。
陸軍内では、あいつは文士だ、文壇からは、あいつは小説を書く軍医だ。伊曾保物語にありますね、蝙蝠の物語。鳥でも獣でもないと仲間外れにされる。あの蝙蝠と林太郎さまの違いは、軍医であることも、小説書きであることも、それは天命なのだと考えていらしたところです。
その真っ直ぐさが明治三十二年の小倉への左遷をもたらしたのでしょう。わたしを離縁したのもその真っ直ぐさではないかと、時には血を吐き、熱の下がらぬこの頃になって、あれだけ恨みに思った林太郎さまのことが懐かしくてなりません。
再婚して半年後のことです。
三月の忘れ雪が降りました。微熱続きの身に、冷たさが快く、ひらひらと舞い落ちる雪を掌に受けました。その雪が次々に溶けて水の粒になり、掌が凍えそうになりながら、疼くように熱くなりました。そのとき判りました。林太郎さまはご自分の血だけを愛していらしたのだと。
でも、捨てられた妻としての汚名は受けるとして、一分の理屈を言わせて下さい。
ご自分の体面を守るのならば、エリーゼ様の面影を抱いたままわたくしと生活することは出来ないことではありません。でも、『舞姫』を発表した上は、わたくしと結婚生活を続けることは出来ないとご判断なさったのでしょう。それは、わたくしが世間の非難と林太郎さまへの板挟みになるのが目に見えたからです。僅かの同居であっても、心が自分に傾いているわたくしに、独逸の女性と競うことはさせたくなかった。そうわたくしが受けとるのは、自惚れでしょうか。
離縁の理由を一言も書かれなかったのは、わたくしへの憐憫と世間は受け取るでしょうが、それは林太郎さまのわたくしへの唯一の愛だと信じます。(つづく。)

『連句誌れぎおん』
      2000年冬28号より引用

2008年4月22日 (火)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

忘れ雪  その3

     鍬塚聰子

隅田川には、文禄三年(1594)に千住大橋が、安永三年(1774)には吾妻橋が架けられましたが、その間には沢山の渡しがありました。そのひとつが鷗の渡しです。林太郎さまの医学生時代に、その外に住んでいるからと俳号を「鷗外」と称されたお友達がいらしたそうで、最初の著書である『舞姫』はそれを拝借して森鴎外として出されたのだそうです。
でも、洩れ聞えたのはそうではありません。周様がお話になったと、母が老女に可笑しそうに喋っていました。
林太郎様が周様のお屋敷の居候でいらした時分のことです。お屋敷にはお梅さんというそれはそれは可愛らしい小間使いがいて、その子に林太郎様は夢中。学問だけをしていた十二、三歳の男の子の、初恋でしょうか。そのお梅さんが住んでいたのが鷗の渡し。思いが届かないから、鷗外なんて、林太郎様には相応しくありません。
林太郎様より二つ年若の長谷川辰之介といわれる江戸市ヶ谷生まれのお方は、同じく江戸生まれの父上が露西亜外交官に仕立て上げるのが夢だったのに、戯文書き、つまり小説家というのですか、なんぞになるなんて親不幸め、くたばってしめぇ、と怒鳴られたのをそのまま筆名になさったと老女が教えてくれましたが、その二葉亭四迷に劣らぬ無意味なお名前と、今でも口惜しい思いなのです。

わたくしは国民之友に発表された『舞姫』は読んではおりません。林太郎さまもなにも仰いません。仰らないどころか、わたくしの顔をご覧になることもないのです。
いつも正面を向かれ、わたくしがわざと正面へ立ちますと、わたくしが透明人間でもあるかのように遠い目をなさるのです。わたくしが色は白すぎるほと白いとはいえ、なんとか小町と呼ばれるにはほど遠い器量であることは仕方ないとあきらめてはおりますが、常の女性よりは丈が高いことが秘かな自慢でした。
坂本龍馬の姉上は人並みはずれて大女でしたが、たいそう龍馬は姉上を慕っていたそうだと、赤松の母から聞きまして、そう思うようになったのです。外国の女のかたは、お背が高いとのことですが、林太郎さまは、いっそわたくしが日本女性一般の小柄な女で有れば良かったと、わたくしが目に入るたびにそう思われていたに違いありません。

林太郎さまの妹の喜美子様は、すでに小金井良精様の妻でいらっしゃいましたが、何かの折り、あなたは少し似てらっしゃるわと仰いました。わたくしはどなたに似ているのかしらとそのときは詮索する気もありませんでしたが、離縁された今、ああ、エリゼというお方にわたしのどこか似ているところがあり、それが林太郎さまにはとうてい我慢できないことなのだったと思い至りました。

森家の跡取り息子をわたくしは産みました。その子に林太郎さまは於菟という変わった、でも日本で言えば太郎というくらいのありふれた独逸名をつけられました。
峰子お義母様は、そんな毛唐の名前を、と色をなして反対なさいましたが、林太郎さまがこれは神聖羅馬帝国の皇帝の名前なのですよと一蹴なさいました。


離婚されて赤松家に戻り、ひっそりと暮らす間に、そしてあの老女のイサも亡くなりまして、わたくしは『舞姫』をこっそり読みました。主人公の太田豊太郎は踊り子であるエリスと恋仲になり、エリスは彼の子を産み落としたのですが、豊太郎が彼女を捨てて帰国したので精神に変調を来たしたというのが粗筋でした。草紙ものによくある話で、お話としては詰まらぬものですし、判りにくかったのですが、が、豊太郎は林太郎さまであることが、その言葉、仕草に如実に表れていて、わたくしは切なくなってしまいました。
                            (つづく)

『連句誌れぎおん』
      2000年冬28号より引用

2008年4月21日 (月)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

忘れ雪   その2

      鍬塚 聰子

話が逸れましたが、そういう名誉ではなく、阿蘭陀語という懐かしさで、この婚儀を承諾なさったのだなと、そう思いましたとき、林太郎さまの温もりを感じました。もうこの時は、離縁を考えていらした時なのかもしれませんが、そのためにいささかの引け目が林太郎さまにあり、その上でのお言葉だったのかと今になって気付くと、なまじのお情けが恨みに思われてなりません。
表面上は何の波乱もない結婚生活ですし、しかし何をお考えになられているのか窺いしれないほど厳しい御表情の林太郎さまは、どちらかというと、父の、お殿様時代そのままに闊達な性格に慣れているわたくしには、身分が違うとこうも、という違和感が当初からつきまといました。
もちろん母からは、あなたは、軍医森林太郎殿の妻になるのです。実家をひけらかしては成りません、と言われておりました。
イサはわたくしと二人になると、世が世ならばと繰り言を述べます。閉口しながらも、あの婚礼化粧の襟足の冷たさをいつも思い出しておりましたので、林太郎さまの口から洩れた一言はたいそう嬉しく響いたのです。
独逸留学中の行動に逐一目を光らせ、口を挟み、自制を促す陸軍の了見の狭さが、優秀な林太郎さまにはお嫌だったのでしょう。それでこの縁談をご承知なさったんでしょうという母上のお言葉に、父上が海軍をお選びになったことを誇らしく思っていました。
しかしそれよりも林太郎さまのぽろりと零された一言は、もうすぐ子どもが生まれるわたくしへの思いやりと信じ、林太郎さまのお子を産むのだという喜びへと変わりました。それまでわたくしの胸中にあった不安は、それで消えたというのに、森家の跡継ぎ息子を産み手柄だと誉められこそすれ、離縁などとは思ってもみないことでした。

津和野藩のご典医であった森家は、どういうわけか女系家族で、婿を迎えて家督を継いでいかなければならなかったとか、しかも典医というのは藩士の中でも低い身分なので藩内からは来手がなく、やむなく他藩から婿を迎え入れていたと、これもひそひそ話が洩れ聞こえたのですが・・・そこに生まれた林太郎さまが、待望の男子であり、しかも秀才の誉れ高いとあれば、森のお父上が十歳の林太郎さまと共に、縁戚である周様、旧幕府時代は徳川慶喜さまの顧問役をなさって、新政府では軍人勅諭の起草に当たられるなどのご活躍がめざましかった、周様の勧めで上京なさったのも、明治の御代ならではのことでしょう。

ところで、林太郎さまの林は、杏林に由来するのではないかとわたくしは考えます。
なんでも、廬山の仙人である董奉は、その術で重病人をたちどころに治しますが、礼金を取りません。人々が困りますと、そんなに嬉しいのなら杏を記念に植えるがよいと勧めたので、数年で杏の林が出来たと、神仙伝には書かれています。林太郎さまの弟君のお名は篤次郎、潤三郎であられることを考えますと、うなづけるのです。
その立派なお名前を使わずに『舞姫』は鷗外などという軽々しい筆名をお使いになられるとは、わたくしには驚きでした。(つづく。)

『連句誌れぎおん』      2000年冬28号より引用

2008年4月20日 (日)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

  ー森林太郎の妻登志子ー

   忘れ雪 その1

       鍬塚 聰子

わたくしが林太郎さまのもとへ嫁いだのは、明治二十二年三月でした。僅か十二歳の若さで、いえ幼さで第一大学区医学校予科、今の東京大学医学部に、入学許可年齢である十四歳と偽って入学なさいました林太郎さまが、二十二歳の八月から四年一ヶ月の独逸留学を終えられて半年後のことです。
三月の忘れ雪とか申すとおり、まだ暗い内よりちらちらと降りだし、うっすらと雪明かりの中、襟足へ塗られる花嫁化粧の冷たさに奥歯を噛みしめながら、でも、この雪の清らかさはわたくしにとって何よりの餞(はなむけ)と、世間の林太郎さまへの風評を漏れ聞いていたわたくしはかえって凛とした空気に立ち向かっていく気持ちでした。
大和撫子として、外国の女のかたに負けまいとの気持ちがあったことは否めません。
ただ、風評といっても、独逸の女のかたに懸想されて、それで帰国を早められたとかいうだけで、全部を知っていたわけではありません。ひそひそとささやく声から、わたくしがそう思っていたのです。
仲人である西周(にし・あまね)先生ご夫妻はもちろん、父の海軍中将男爵の赤松則良も母も、そして、林太郎さまのお母さまの峰子さまも、前代未聞の弱冠十九歳で医学部を卒業し、陸軍衛生制度調査および陸軍衛生学研究で独逸留学なさった林太郎さまは、軍医として最高の地位につくはずだとの誉め言葉しか口に出されません。しかし、陸軍のお方がなぜ海軍中将の娘と、という疑念はありました。
あれは、『舞姫』をご発表なさった頃だったのでしょう。常になくご機嫌のご表情にわたくしも何かしら心躍りを感じた折りでしたが、林太郎さまが父上の森静男様にはじめて習われた異国語が阿蘭陀語であったとか、独り言のようにお話しなさいました。
赤松の父は旧幕臣であった時に、阿蘭陀へ留学して造船学を学び、沼津兵学校の教授をいたしましたし、軍艦「磐城」の設計者で、近代造船学の第一人者でした。いわでもがなのことですが、母の兄弟の一人が函館の五稜郭で勇をならした榎本武揚です。このことは特に興味を持たれたご様子ではありませんでした。わたくしは自分から話しかけるのははしたないと分をわきまえておりましたので、伯父上の幼女のわたくしに注ぐ優しい微笑みと、一度だけでしたが、その強い腕で、ふわっと宙に抱きかかえられた心地よさの記憶をお話しすることもありませんでした。
赤松家よりわたくしに従ってきた老女イサが、伯父の武勇を自慢げに申し上げかけましたが、「茶を」と、いつもは一服で、書斎にお籠もりになる林太郎さまが、話を遮るように鋭く仰って二服目を所望されたことがあり、お養母さまよりわたくしは、イサに伯父上のお話はお食事の際には申し上げぬように言いわたされました。
イサは心外の顔でしたが、不承不承言うことを聞きました。しかし、イサは旧幕臣時代の物言いが抜けず「お殿様」と申し上げるものですから、林太郎さまは抑えてはいらっしゃいますが、わたくしにだけ判るお嫌なお顔をなさっていらっしゃいました。赤松の父は、誰からもそう呼ばれていましたので、夫となる人はそう呼ばれて当然と、何故なら、とてもお偉いお方ですからと思っておりましたので、お慣れになるだろうと、イサにも他の召使いにも注意もいたしませんでした。

        つづく。
『連句誌れぎおん』
      2000年冬28号より引用

筆者紹介:

鍬塚聰子(くわつかさとこ)
昭和十九年旧満州生まれ。
俳人、連句人。
こどもの日記のひろば主宰。北九州市在住。
2000年当時、連句会『亜の会』所属。

    

本
本

夫が買って読んでた本。

下の写真は八女市役所前庭のものです。

半歌仙『乳の匂いの』

  独吟半歌仙『乳の匂いの』

        前田 亜弥

春風(しゅんぷう)のとろりと溶ける町をゆく
 箱の中には海峡の蝶
告白は朧月夜にさらされて
 シナプス繋ぐ固い長椅子
駆け続けなお泣きながら駆け続け
 万年筆の頼りなきこと

ウラ 
たのしみをつらねてみせる午餐なり
 きつく帯しめ蘭鋳(らんちゅう)になる
明け易しそろそろ川を渡ろうか
 肢へとつづく赤い発疹
身の内に黙示の月が二つあり
 洋書の上に点る鬼灯
冷や冷やと寝返りをうつ薄曇り
 酒蔵前のバス停留所
色褪せた戸棚の奥のクリームパン
 震える時計掌(てのひら)の中
祝福は一日遅れの凍(いて)し花
 乳の匂いの雪が舞い来ぬ

  留書

祖母は明治の女であった。
いつも背筋を伸ばし、きっとしたところがあった。平家落人伝説のある地方の豪農の家に生まれた。美しい清流を見下す山の中腹に白壁が続いている、その家で生まれ育った。
曾祖母は養子娘であり、いつも座敷の奥に床を背にして座り、家を取りしきっていた。老いても、毎朝陽のあたる納戸に鏡を置き、薄化粧をし髪を梳いていたそうだ。
一族は皆美形であったそうで、親類が集まると面長で鼻筋が通り、大きな二重瞼(眼疾の血筋である)の者ばかりで壮観であったらしい。以前、古いアルバムの中に若かりし祖母とその姉妹たちの写真を見たことがある。当時の写真は多少の手が入っていたとはいえ、一幅の美人画のようであった。祖母は七十を過ぎてもその容貌を窺うことができた。
ただ、子供にとっては窮屈な人であった。
高等女学校卒業後、教鞭を取っていたという姿が常ににじみ出ていた。私は幼い頃から物の名前等を言い換えたり、愛称をつける癖があった。ある時、祖母のことを「おばあこちゃん」と呼んだ。幼稚な愛情表現である。しかし、祖母にはピシャリと拒絶された。
また、大学院の合格を知らせた私の手紙に対する返事には、「もうそろそろ良い知らせが来るころだと思っていました。」とあり、苦笑した。あらゆる意味で毅然とした人であった。
そんな女性を妻に持った祖父は大阪商家の次男坊、日本画家であった。美意識の強い、天衣無縫、自由奔放の人であった。それでも祖母は変わらず祖母であった。相容れぬままに明治の賢女でありつづけた。
母は祖母よりも祖父から多くのものを受け継いだ。
恥ずかしい話だが、私は成人してから『細雪』を読んだ。
読み始めて息をのんだ。そこに描かれている世界は、母からしばしば聞かされていた昔語りとそっくりであった。『細雪』は決して上流志向の虚飾ではなく、あの時代にこそなりたった、関西のある種の人々の華麗な日常であった。母から聞かされ、私が憧れていた耽美的なあやうさの世界の具現である。
二十代の終わり頃のことである。夏の夜、大阪の角座の前を通って道頓堀を渡った。貼りつくような湿気を含んだ空気の中で、川面に映る灯りに、母の過ごした青春を羨望した。

そして、母は私にとっては果てしなく慈母である。辛かろうと言っては胸を痛め、痛かろうと言っては涙ぐむ。いい年をした私のために、まだ母は胸を痛め、涙ぐむ。母の手は小さく丸く、いつも温かい。
同時に、人としてどう考えるか、どう生きるかについて考えることを教えた。私が行き詰った時に「自分が正しいと思うことは胸を張って主張しなさい。そして、その結果受ける不利益は甘んじて受けなさい。世界中を敵にまわしても、私はあなたの味方だから」と言った。
初めて教壇にたつ前夜、母から「大丈夫だとは思うけれど。これから大勢の人があなたのことを先生、先生と呼ぶでしょう。けれど、ゆめ心得違いのないように。」と電話があった。
母は私の生きる力である。同時に十九の娘のように
気まぐれで繊細で優しすぎる。
有吉玉青の『身がわり』という本のあとがきに林真理子が引用している一文がある。
She's survived by her daughter.
(作家はその娘によって生きながらえる。)
おそらく、私達は一編の叙事詩を記すこともなければ、物語を著すこともないだろう。しかし、この華麗で波乱に満ちた彼女達は凡庸な私の記憶の中で鮮やかに描かれ、生き続ける。娘と、その娘の娘と、その娘の娘の娘と。娘達が受け継いできたものを、娘として受け継いでいく。

連句誌れぎおん2000・春 29号より引用

筆者紹介:

前田亜弥(まえだ・あや)
連句誌れぎおん所属  連句会『亜の会』所属
井原西鶴研究家。
母は俳諧師・前田圭衛子。

2008年4月18日 (金)

月の座

竹橋乙四郎の筍の発句でまき始めた歌仙ですが、ながれのままに巻き進んでいるうち、困ったことに気づく。それは月の座です。これをみてください。

発句 春
脇   春
第三 春
四  雑
五  夏月
六  夏


一 雑
二 雑(恋前)
三 恋
四 恋
五 冬月
六 雑
七 雑
八 雑
九 新年
十 新年
十一 花
十二 春
 
名残おもて
一 春
二 雑

中略

十一 月の定座 
十二 秋

一秋

、の予定です。
平常は季順をことさら考えることもなく、おしきせ「型」のなかにすっぽりおさめて、その通りにやっておりましたので、これまであまり月について真剣に思いをいたすことはありませんでした。(いや、一度だけありました。いずれ書きます。)
なにが問題かといえば、歌仙一巻のなかに、他季の月が二つもあることです。そんなこと、月はそれぞれちがっていいじゃない。と思ったりもするのですけど、連句辞典では他季の月(秋以外の月)は一つとなっていますし蕉風の凡例をみても、ふたつも他季の月のあるものはありませんでした。月といえば、古来「秋」の景物なんです。逆に言えば、秋をだすときは、必ず一句は月の句を詠まねばならない。今更アンタ何を言うのと言われそうですが、これは意外な発見でした。みな、秋の月が一巻に二つあがっている。

では、どうする。このたけのこ歌仙。
どうもこうもしない。このまま続ける。らしくっていい。私も八女の人間です。
今ひとつの気がかりである、新年に春をすりつけるのは、べつに珍しくもないことのようで、実例はいくつかありました。

2008年4月16日 (水)

大石政則日記 その31

「大石政則日記」編集者(伊東一義*)註

私が大石家よりお借りした大石君の日記(原本ノートは傷みが甚だしく、コピーしたもの)はここまでである。従って十四期会が遺稿集「同期の桜」 を編集した頃は、四月十二日出撃前の文章が遺書として扱われたようだが、昭和五十一年頃次の遺書が出て来た。

後掲のお母様の手記にあるように、ご両親は四月二十五日に串良を訪れ二泊する。その際持参して大石君に読ませたお父様の一代記「荒波越えて」 のノートの末尾に、この最終の遺書は書き込まれてあった。

四月十二日の菊水二号作戦に参加し、引き返した大石君が、十六日の三号作戦には下命なく、四月二十七日に翌日の出撃を命ぜられるまでの十数日は長い長い苦悩の日々であったろう。「さすがの大石君も最後は乱れた」 という同僚の話を聞いたこともあり、私にはそれで当然と思えるのだが、しかし最後の遺書は晴れ晴れとしている。

昭和二十年四月二十七日最後の遺書

(最後の遺書は四月二十七日に打ち込みます。)

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

伊東一義氏:

大正11年11月21日生まれ
東京帝国大学法学部並びに第十四期海軍飛行科予備学生で大石政則と同期生。(渋谷幽哉氏も同期生でしたよね。これで「九州十四期会報」の十四期の意味がわかりました。

水仙

水仙

事務室の机です。
さる隊員が親切にしてあげた現場近くの人からもらってきた水仙です。
ふすまのむこうは研修室です。教官がDVDやテキストを使って新人教育をなさいます。

今月の給料計算、とても困ったことがあります。
隊員全員の編成表(どこの現場にだれが何時から何時までいったかの一覧表)、出勤表(一人ひとりの出勤状況を表にしたもの)、受託表(請負先ごとにまとめた出勤表の一種)を毎朝確認しながら、手書きで記入するのですが、その集計をしていると、同一隊員が別々の場所に二時間ほど出現していることに気づきました。ということは、どちらかが間違っているわけで、それを確認しようとしても、時間がたちすぎて、確認のしようがないのでした。

うーん。どうしよう。
ボスにたずねました。
しかたないよ。いそがしかったんだもんね。顧みるひまもないくらい。こんなときは、給料支払いが済んで、あちらから一日分たりないと言って来るまで待つしかない。

なるほど。

そういうところで、私は真剣にしごとをしておりますです。

ではいってきます。

2008年4月15日 (火)

大石政則日記 その30

昭和二十年 四月十五日

グラマン、ボートシコルスキー、数十機の来襲。ロケット弾発射、機銃掃射をなす。一式陸攻、天山撃破さる。六二三号焼失。空襲直前に宇佐より五機来り一機被弾す。尾沢の操縦し来たる三号艦攻。菊水三号作戦発令さる。

大石政則日記はこれにて閉じられている。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

2008年4月14日 (月)

大石政則日記 その29

昭和二十年 四月十四日

宇佐空四機偽交信及電探偽瞞に出発。
全機帰投。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

2008年4月13日 (日)

大石政則日記 その28

昭和二十年 四月十三日

昨夜、第三次攻撃隊の編成発表さる。
宇佐四機、予は洩れる。
特攻を改め電探偽瞞(でんたんぎまん*)とす。
遂に待機のまま一日を送る。

* 電探偽瞞:敵機の電波探知を妨害するため、アルミ箔をばらまきこちらの行動をだますこと。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

恋の歌三つ

春に聴きたい恋の歌

木蘭の涙

   佐藤竹善 with  コブクロ

http://jp.youtube.com/watch?v=7qiwmBtcnH4&feature=related

片想い

   浜田省吾

http://jp.youtube.com/watch?v=iXaQHkxDYYU

長い間

   kiroro

http://jp.youtube.com/watch?v=RS7T0NdJBWE

「片想い」は、浜田省吾より夫のほうがギターも歌もうまい。
「木蓮の涙」はスターダストレビューより竹善のほうがいい。

http://jp.youtube.com/watch?v=brgeEJ-CggY&feature=related

(こんなにはりつけて、つかまらないかな。)

甲四郎先生

昨夜、五月十八日の福島高校大同窓会のための準備会議へ出た。クラス写真をみていると、五組の担任だった高橋甲四郎先生のことがしきりに思い出された。(私は四組でした)。みな、先生の偉業をまったく知らないのが不満なのだ。親不孝というのがあるなら、師不幸ってのもあるだろう。そこで会議のおわりがけに、総会で先生の偉業を紹介すべきではありませんか。とおそるおそる提案してみる。随筆集『バルビゾンの道』は日本随筆家協会の賞を受賞しているし、父上の仕事の集大成である『朝鮮半島の農法と農民』は共同編集作業から大著を世に出すという仕事をなさった。せめて一言だけでも、紹介すべきではないだろうか。というのがかささぎのきもちです。

「ほかの先生達とのかねあいもありますからねえ。」

といわれる。そういうことなのか。
先日友とふたりで回った広告とりも、ご協力頂いた二十軒の広告主をブログでていねいに紹介しようと思っていたのですが、ほかのところとのかねあいを考えると、二の足を踏まざるをえませんでした。

なんだかなあ。と一人ごちているところへ、ひさしぶりで先生からメールがとどく。上陽町の春の山公園でのお花見の集合写真つきのお便りです。

二分咲きの桜仰ぎて土筆摘む
    肌寒きかなはるやまの春
  
               甲四郎

こんな歌が一首添えられています。
師の毅然とした風格のにじみ出た、見事なうただと思います。

    
                        

2008年4月12日 (土)

大石政則日記 その27

昭和二十年四月十二日

六日の菊水一号作戦に続き第二回総攻撃たる菊水二号作戦の日なり。即ち海軍少尉大石政則、この日二十四歳を最後として皇国のため沖縄沖にて玉砕す。今更遺言めきたるものなし。普段の言行、手紙みなこれならざるはなし。二十有四年慈しみを受けし父母に対し何らなすべきなきは恥ずべきなりと雖(いえど)も、皇国危急の折り、この一大作戦において特攻隊員として死するは一大名誉にして、また大孝なりと言うをうべし。父の心血を注ぎたる「一代記」を一読しえざりしことは残念なり。
予の二番機操縦員は水上義明二飛曹にて鯰田時代に記憶ある人なり。父宗義氏は死亡せられし由、氏は中学四年で乙飛に入りしとのことなり。今になりて奇遇を驚くと共に、共に死するを喜ぶ。
また富高時代の藤田氏に会う。氏は二五一の用務士。予は大日本帝国の永生不滅と必勝を信ず。かく信ずればこそ喜びて死につくなり。今次の沖縄沖航空戦をして、皇国攻勢移転、進攻への転機となさばなおなお本望なり。

天皇陛下万歳
政隆元気で
禎子よき妻であれ、夫君に万一あるは覚悟のこと
藤井、菊池の諸恩師に謝す。

父上、母上、
幸か不幸か、今日一日生き長らえて、またペンをとることとなりました。今日の次第を記します。
朝八時、芳井中尉を囲んで作戦上の打合せを行ない、十時、指揮所に整列、先ず司令から「宇佐特攻隊を第二八幡護皇隊と命名す」と命名ありて、それより出陣前の酒を、ペア三名にて一つコップで少しずつ呑みました。しかも大好物の羊羹に寒天がつき、実に嬉しく思いました。と共に、家で母や妹が何かといえば寒天をよく作ってくれたことを懐かしく思い返しました。それより出撃順に報道班員により撮影をしました。一一三○ 先ず百里の六機発進、次に宇佐の十二機が区隊で発進、私達は三区隊一番機として三○三機にて離陸しました。しかるに誘導コースを廻る頃より風防に油がかかりだし、飛行場上空を過ぎて益々風防にかかるので、列機に「油洩れ、飛行場に向う」と黒板にて教え、飛行場に向って旋回、振り返ると列機はそのまま進撃して行くので、一番機として、このまま帰るも本意なしとて、再び列機のあとを追いゆくに全然前方が見透かせなくなったので、やむなく爆弾を投下し(一、○○○メートルより)帰投しました。

会う人毎に声を掛けられるのが身を切られるようで、まして一番機のこと故、一層であります。私の区隊では、あとで二番機が引返し、二機のみで向いました。今日の攻撃は途中にて敵戦闘機に喰われたものが多いらしく「ヒ連送*のもの相当あり。また攻撃目標まで打電し来るものは数機に過ぎず、三時以後は全然打電入らず。多くは空(むな)しく、海中に突入せしに非ずやと思われます。
戦友たりし、村瀬、富士原、堀之内三少尉も遂に死に、自分一人また生き永らえ、ペンをとっております。私の心中なんとも表現するを得ません。
明日は田平少尉が出る。残るは小生のみ。
今日感じたこと、飛行機の整備を心がけること、三○三号機は風防にかかる外筩(とう)温度計不良一○○度~一五○度の間を振る。計器飛行は絶対うまくなければならぬ。高度も大切なれど、保針を第一とす。次に列機の誘導、今日は一番まずかった。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

「ヒ」連送の者・・・前回出てきたとき、なんなのだろうと思ったのですが、今回の文章で、被弾したときの合図だったのかとやっと分りました。なんとなく、飛行機に火のついた悲鳴のヒのように感じていました。どんなに恐ろしかったろう。

(この日の日記が二段構えになっている意味は、渋谷幽哉氏の追悼文 http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_363f.html に詳しいです。)

2008年4月11日 (金)

大石政則日記 その26

昭和二十年四月十一日

○六三○ 士官室に集合、司令と共に会食。八時過ぎ発進、本田氏母堂外見送りくださる。三○三号偵察は小野寺少尉、一区隊の三番機なり。
行くに従い雲益々多く、一番機の変針甚だし。また長い間飛行機に乗らざりしため技倆(技量) にだれあり。久留米・出水の上空を通る。
途中潤滑油風防にべっとりかかりて良く見えず。南九州に入るや視界・気流よし。無事到着。エプロンに帰着するに甚だしく横風に左に回される。初めての経験なり。
一三○○より明日の攻撃予定者に対し飛行長、山田大尉より話あり。予は第三区隊長機にて責任極めて重し。予一人死するは易し、されど列機あり。明午前○時を期し菊水第二号作戦開始。
和気部隊は十一時より発進、味方戦闘機の前路掃蕩中に突撃。
目標はA(空母)またはB(戦艦)、輸送船は多くは空(から)なる故、満載状態のものを選んで突撃するように、他に操縦上全般的なる話あり、山田大尉は航法に関して話す。予は眠くてならぬ故、居眠りせしため如何なることを言われしや知らず。
十六時に天山、九七艦攻の雷撃隊発進、見送りをなす。それより宇佐空、姫路空の特攻隊員に対し、十航艦長官の視閲あり。一人々々官と氏名を名乗りて敬礼を行う。夜七時より士官室にて宴あり。早
めに休む。入浴、着替えは言うも更なり。
渡辺少尉曰く「大石は何時もと少しも変わらんな。他の者は目の色が違ったり、そわそわしているのにな。やはり純な人は違うんだな」と。果してしからば予の明日の必中や更なりというべし。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

2008年4月10日 (木)

大石政則日記 その25

昭和二十年四月十日

特攻訓練を受けたる者にて飛行機の割当てのなき学生六名、練習生約十名陸行にて串良に向う。○七四五見送りをなす。
宇佐神宮参拝をなす。バスにて向うときあれほど盛に降りたる雨も、着するや上がりて帰隊するまで雨降らず。神の加護と感謝す。午後尾沢の本田(医院)氏宅に行き盛大な送別の宴をなして下さる。有難しとも有難し。一泊す。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

以下、同期生・渋谷幽哉氏(故人)の追悼文の続きです。

二度の出撃日記に綴る苦衷

四月十日には、小生・渡辺・十河(特攻戦死)ら六名は「串良基地に行け」の司令の命令があって、二十分後には、取るものも取りあえず串良基地に向った。そして翌十一日に大石君らは搭乗機を受領して再度串良に向い、先に着いた小生等と合流したのも束の間、翌四月十二日には、菊水二号作戦発令で大石君は第二次八幡護皇隊の一員として正午串良基地より出撃した。ほんとうに「アッ」という間のことだった。然るに彼の搭乗機は離陸直後から潤滑油洩れが甚だしく、遂に彼は八十番爆弾を海上投棄して、基地に帰投せざるを得ないというハプニングに見舞われた。彼はそのことを「会う人ごとに声をかけられるのが、身を切られるようで、まして一番機故、更に辛かった。戦友たりし、村瀬、富士原、堀之内三少尉も遂に突入し、自分一人、また生き永らえ、私の心中何とも表現するを得ません」と更に「翌十三日、第三次攻撃隊出撃で田平少尉も行く、予はもれる」とその苦衷を日記に記しています。
実際彼の焦燥は見るにしのびないものがありました。それから十六日後の四月二十八日、彼は八幡盡忠隊として、小生と共にここに来た十河君らと出撃して見事突入に成功した。

彼の辞世

○待ちわびし 身に甲斐ありて大君の
 御盾ととびたつ今日のうれしさ
○もろもろのよそほひつけて國のため
 いで立つ姿母に見せばや

(渋谷氏追悼文の参考文献)大石政則日記・吉井巌君日記
(平成三年十二月十日付けの九州十四期会報への寄稿文)

広告とり

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2005/7/8久留米聖マリア病院裏のマリア像。
広告とり

2008/4/9八女蒲原近松いわきち仏壇店。

きのう会社をやすみ、元行員のともだちと二人で、同窓会パンフの広告とりに八女市内を終日ぐるぐる回った。前回とあわせ回った数は19件、ご協力いただいた金額は十万円ほどになる。みなさま、いろいろと事多い中のご寄付、まことにありがとうございました。営業はたいへんな仕事ですね。

参照:八女市の仏壇店http://www.yamep.net/town_com/tradition001.html

写真、全部を撮るつもりだったのですが、最初に行ったいわきちさんとこで観音さまを撮っただけで、携帯の電池切れとなりました。(上のマリア様はデータの一番古いものです。連句的なので、ここにおきます。)

寄付をいただいたご芳名をここに挙げたほうがいいんじゃないかと思うのですが・・。いずれのちほど。

2008年4月 9日 (水)

大石政則日記 その24

昭和二十年 四月九日

○七二六にて亀川発帰隊す。午前、午後、即時待機。また飛行機の風房を拭(ぬぐ)う。飛行機は格納庫内にあるも連日グラマンの銃撃による穴より雨漏りして不都合なり。夜、伊藤博明少尉の下宿の上野氏宅におもむきご馳走になる。予の外に伊藤、尾沢、和泉なり。「あなた方神様のために家の産を傾け尽くすも本望なり云々」愛国熱血の士なり。所論一々尤(もっと)もなり。「攻撃に行っても必ず帰って来い。そして元気なあなた方とまた飲み明かそうではないか。決して死に急ぐな」と。
同夜は一泊する予定なりしも隊より電話あり、帰隊す。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

ましん対策

乙四郎の一本勝ち。

勝負する前からのび太くんの勝ちだった。
えへらえへらしてたら勝負する気にはならないもの。
乙四郎の大學の入学式、西日本新聞報道、最初の記事とはトーンが明らかに違っていました。好意的になってた。すごいもんだなあっておもった。

いまだに大學のなまえをおぼえきれません。うちのよかむすこ(ばかむすこあらため)がいうには、入学式でえむしんぶんの記者から、どうしてこの学校を知ったのかを聞かれたそうな。(で、あんたなんて答えた。)親からすすめられたてゆうた。そりゃそうだけど、自分なら恥ずかしくてそんなことはいわない。子は新宮の大學に復学することを決めてたのですが、どうも今一気がのらなかった親は、ふと目にとまった乙四郎の大學の何次目かの追加募集にぎりぎりで応募、間に合ったというわけです。うざい母のいうことには絶対従わない子が、父までもがここへ行ったほうがよくないかといったので、素直に聞きました。うちの子はみな、父に従順です。笑

大學への提出書類のなかに、抗体検査結果調べみたいなのがありました。各種伝染病についてこどものときに受けた予防接種の記録を書くのです。ましんとかいろいろ。母子手帳を出してみると、受けてましたね、ほとんど。注射ひとつ受けさせるのもたいへんな苦労でしたよね、世のお母様がた。

連句に付き合ってくださってる「連句誌れぎおん」同人で北海道教育大学副学長の杉浦教授のブログを今朝のぞいたら、麻しん患者が入学生にいて、新学期早々大わらわになったことがかかれています。知りませんでしたが、ほんとにはやってるのです。

2008年4月 8日 (火)

大石政則日記 その23

昭和二十年 四月八日

○七三○泊地発、一八時柳浦着。
昨日、父母来隊せし由。急ぎ亀川に赴きしも既に帰られしあとなりき。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

春の寺田村

弥生の寺田村

寺田天満宮遠景。桜が満開です。
藪秀野の実家があった辺りを四年前に訪れたことがあります。天理市西井戸堂(にしいどんど)。記憶では、近鉄二階堂駅*で下りて、そこから地図をみながらせっせと小一時間も歩き、とうとう位置が分らずに天理市街まで出てしまって、そこからタクシーで西井戸堂まで行ってもらいました。藪姓の近縁のかたがお住いで、おうちに上げてくださって、いろんな話をしてくださいましたっけ。そこからわずかに離れた墓地へもまいりました。

(* 前栽駅で下りると近くだった。)

その記憶を、じぶんの村のお宮をこの位置から見ながら、ふっと思い出しました。なぜかといいますと、似ていたからです。村の雰囲気、お宮が家の近くにあったこと(そこのお宮には万葉歌碑がありましたけど)、道をたづねた農家の人が農小屋で米を精白している途中を休んで、連れて行ってくださったことなど。いっぺんに蘇りました。よい土地でした。懐かしい土地でした。
弥生の寺田村

この写真は光が明るすぎて暗い写真になりました。家のうらのほうから写したものですが、二人の男の子が土筆をたくさんつんで、ぽっちらぽっちら歩いてくるのに出会いました。私達のこどものころは、暖かくなると、家人におべんとをつめてもらって、「おべんともっだし」っていうピクニックを遊び仲間とよくやりました。野原のなかでお弁当をたべるだけなんですが、これがとても楽しかった。思い出せば、自然はいつも身近で、意識するまでもなくそこにあり、こころは満ち足りていて、とっても幸せな少女時代を送っていたんだなあって、敬虔なきもちになります。

2008年4月 7日 (月)

大石政則日記 その22

昭和二十年 四月七日

第一配備となる。敵機動部隊よりの艦上機宮崎を空襲。六一八号宇佐まで要務飛行(○八○○発)の予定なりしもそのため見合せとなる。昨日雷撃隊は全機帰還せり。
死するときは黙って死ぬことなく、一言でも別れの言葉を言って死ぬべきなりだから電信機の整備には注意を要す。姫空の通信状況不良なりき。また、列機には電信機なかりしため戦果は確認すること能(あた)はず。従って第一次総攻撃の戦訓にかんがみ、列機たる飛行機にも電信機を搭載することとせり。電信機をダグラスに搭載し、直ちに串良に向はしむること。
昨日ダグラスに乗りて串良に来りしため飛行機なき予ら五機のものは、宇佐に帰ることとなる。されど天気悪化し、雨も降り来り、この分にてはダグラスも望み薄きを以て、陸行を以て飛行機をとりに帰ることに決定。十九時串良駅発、都城に一泊す。鯉田少尉のペアは一機(六二三号)スペアありしため戻らず、四組なり。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

2008年4月 6日 (日)

大石政則日記 その21

昭和二十年四月六日

○四○○起床。心づくしの寒天*に、「おはぎ」をいただき、トミエ(富恵)さんより香水も頂く。○四五○の列車で帰隊す。
なお、前夜四ッ谷、藤井校長、許斐(このみ)先生、西野氏、広澤氏五名に訣別をほのめかして認(したた)む。
艦爆隊、艦攻隊(第三次)本日出撃を急に決す。予定は八日朝のつもりなりしかば、ややゆっくり構え、久恒さんにまた今晩伺えるかも知れぬと言い置きし程なれば、急に慌てて準備す。されど飛行機の整備間に合わず、五機出撃。五機分(十四名)はダグラスにて発進す。飛行帽の上に日の丸をつけ、桜を胸に差し、軍刀を持ちしいでたちなれば、我ながら古の若武者似たる姿なるを心喜ばし。戦友ら握手をもって訣別をつぐ。予科練の某(なにがし)に形見をくれとせがまれ、禎子より貰いしマスコット人形をやる。裁縫具入れは最後まで身につけて行く。
○九○○出撃搭乗員士官室に集合す。司令来場の上、乾杯す。司令より「今次天一号作戦発動につき、天皇陛下より畏(かしこ)き勅語を賜りたり。しっかりやるように」 と述べられ、愈々(いよいよ)決意を確めたり。
発進前にふと和歌をよむ。写真帖に貼りおくよう戦友に頼む(鉛筆走り書き)

待ちわびし 身に甲斐ありて 大君の
   御盾と飛び立つ 今日の嬉しさ

ダグラスは宇佐ー熊本と南下して串良に着く。
本日一三○○を期し総攻撃開始され、第一次と第二次護皇隊は姫空と共に八○○瓩(kg)爆弾をしっかと抱き、土煙を上げて四小隊に分れ出撃せり。貴島中尉のチョークをとる。総計三十機。次いで天山の特攻機出撃、次いで二五一空の天山隊、夜間雷撃発進。
宇佐護皇隊より電信続々来り、体当り成功、貴島中尉、成田大尉の電に曰く、「我に天佑*あり士気旺盛」、「突撃準備隊形作れ」「攻撃目標B(戦艦)
」また藤井大尉機は「ヒ」連送の後、六時すぎA(空母)に突入す。その他「我突入す」を打電し来る者多し。
政隆、中学入学につき喜びにたえず。特別に何かを祝品と思いしも多忙の折柄不可、本日日記帳に挿入の金子を以て祝す。よく許されよ。

*「心づくしの寒天」紅白の寒天が、お箸をはさんで据えられた。
日の丸の旗にみたてたもの。
挿絵にやっと今朝(七月七日朝)気付きました。
政則さん自ら絵を添えた肉筆書牘(しょとく)。
*天佑・・・天のたすけ。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

参照)

昨日の渋谷幽哉氏(特攻隊生存者・故人)の大石政則追悼文のつづきです。

特攻出撃決まる

四月二日、遂に特攻訓練も緒についたばかりの艦攻隊の第一陣八幡護皇隊の出撃が決定し、宇佐を発進し大隈の串良基地に向かい、そこから南西諸島方面への敵機動部隊に攻撃をかける態勢に入った。大石君ら五人の搭乗員も四月六日、他の偵察、電信の十四名と出撃することになったが、所要の艦攻五機の整備が間に合わず、一応一式輸送機(ダグラスDC3)で串良へ向かった。然し串良に着いたばかりの彼等の使用機がなくてはどうにもならず、翌々八日には搭乗機受領のため宇佐に引き返して来た。そんなことなら、わざわざ串良まで何のために行ったのか、燃料がないと言うのに、この期に及んで統帥のみだれが情けなかった。正にテンヤワンヤの状態だったに違いない。(つづく)

ダグラスDC3: http://www001.upp.so-net.ne.jp/shirataki/eagle/ref/dc3.html
  同 : http://www3.ocn.ne.jp/~hiraoka3/nikki_6.htm

「チョークをとる」とは・・・チョークchoke 内燃機関で、燃料の混合比を高めるため、吸入空気を絞る装置。空気吸入調節弁。(大辞泉) イメージ的に、これをとっぱずすということは、「いざ出陣」 との奮い立つ魂魄の象徴として書かれている気がする。同期の桜だけに許される行為であったと思われる。

串良基地http://www1.neweb.ne.jp/wa/yamaki/sennsouisekikenngaku-kagoshima-a-kushira.htm

赤とんぼ

 赤とんぼ 

        沢 都

意識はすでに、この世の人ではなくなっている義母の病室に義姉二人と私、そして義父が、ベッドの傍らに立っていた。義母の命を辛うじて繋いでいる酸素吸入と点滴を気遣いながら、義父が突然、五十数年前のことを話し始める。

「ばあさんと命からがら満洲から引き揚げて来た時、ワシらには何もなかった。蒲団ひとつ・・・何もなかった。」

石川県の山村に次男として生まれ、人生の大半を九州のこの地(管理人註・八女市)で過ごしてきた義父の語り口には、独特の癖がある。


「満洲でワシは、赤とんぼ(陸軍双発機)の整備をやっておった。日本に帰ってそれが役に立った。」 山間部の多いこの地で普及し始めた車のエンジン部分が、赤とんぼと同種であったという。「それで整備工場を始めたんですね。軍隊で習った技術が役に立ったんですね。」 誰もが初めて聞く話であった。義父が自ら、戦争当時の話をすることはめったにない。「誰からも習っとらん。そんなことは誰も教えてはくれんかった。ワシは学校も行っとらん。字もろくに読めん。けれどもなんとかやってこれた。町内会長も老人会の世話もした。息子三人、ばあさんとがんばって大学までやった。」

十七歳の少年が映像にある。少年は刃物を振り上げている。我が子も十七歳である。昭和の高度成長に私は生まれ育った。偏差値という言葉を耳にし始めたのは、いつの頃からだっただろうか。個性と多様性が謳われだした頃、私は親になる。個性という言葉が空回りし、本当のやさしさや真面目さが通じない世の中になったということに気づいた時、私のなかの昭和も遥か彼方のものになった。長かったあの時代が、いまだに未熟な親である私に問いかけながら、消えていく。

「ばあさん、がんばったな。」 無骨な義父が、薄くなった義母の髪にそっと触れた。半開きの義母の口が一瞬、少女のようにあどけなく見えた。義母は翌日この世を去り、義父は二度と赤とんぼのことを口にすることはなかった。

日本陸軍機 
立川九五式1型練習機  通称  赤とんぼ
 

http://mokei-albion.net/page_thumb934.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F

連句誌れぎおん2000年夏30号より引用。

筆者紹介:

沢 都

さわ みやこ。八女市在住。連句誌れぎおん同人、連句人。
連句会「亜の会」所属。

2008年4月 5日 (土)

大石政則日記 その20

昭和二十年四月五日

・・・・・・・・・・・・(ノート破損で読めず)、予は特に貴島中尉との縁深ければチョークを自ら拂(はら)い、また寫眞(しゃしん)を撮影す。宇佐空十機、姫空白鷺隊は十四機なり。一七三○第三次特攻隊編成発表され、予もまたその一に加わり得るの光栄を有す。偵察員小野寺少尉(十三期)、電信員久保田二飛曹、共に死を同じくするペアなり。山田大尉指揮官、学生の加わる者四名、即ち村瀬、田平、富士原、大石少尉なり。日の丸入りの鉢巻、お守り等を頂く。上陸許可となりしを以て一九四九の汽車にて亀川の久恒氏宅に赴く。すでにご就寝中なりしを起こして一泊す。当日中垣少尉も艦爆第三次特攻に加わりしを以て一五○○頃来たり、一九四七にて帰隊せし由。「大石さんも来る頃だが」 としきりに待ちありし由なり。○時に床に就く。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

参照)

亀川駅 http://www5e.biglobe.ne.jp/~ekisya/kamegawast.htm 
     http://www.excite.co.jp/transfer/station/7521.html

参照記事:

姫野が縁によりいただいた資料を抄出のかたちで添付します。

同期の桜

       渋谷 幽哉

政則君と小生の縁は、相浦海兵団、土浦海軍航空隊、出水海軍航空隊と一緒であったが、夫々(それぞれ)分隊が異なっていたので親しく話をすることもなかった。昭和十九年九月二十八日、共に宇佐海軍航空隊の艦攻隊(操縦)に入って「同期の桜」としての強い絆に結ばれるようになった。「艦攻」総勢六十四名で「艦爆」と板壁一枚の隣り合わせであった。攻も爆も夫々、だだっ広い一間に雑然と入居していた様子は、海兵団と大差なく、その上、依然として「つり床」であったから、お世辞にも指令室とかガンルームとか言える代物ではなく、要するに兵舎であったのである。まあそんなことからも、第十四期飛行専修予備学生の海軍における処遇がわかろうというものである。

飛行作業始まる

そんな中で飛行作業の滑り出しは比較的順調かのように思えたが、入隊間もない十月三日、突如、艦攻(九七式艦上攻撃機)慣熟飛行*において、岡田、疋田両学生が墜死するという思わざる事故に遭遇した。覚悟はしていたものの、つい先程まで其処に居た二人が急にいなくなってしまう、そしてそれが当然視されるような特殊な雰囲気の中で、ただ飛ぶこと以外に考えられない日が続いた。

飛べない日々

しかし年末が近づくにつれて、訓練の死命を制する「燃料不足」という泣くに泣けぬ難関にぶつかってしまった。亜号燃料(アルコール)が登場して来たのもそれを証明しているようなものだ。そして飛ぶことを渇望しながら、飛べない日が次第に多くなりはじめた。

特攻訓練

明けて昭和二十年二月二十日に至り、限りのある燃料を更に最大限に節約するため、艦攻隊から十六名の者を選び、急速養成して特攻に充当するという窮余の一策が実施された。大石君も小生も選ばれて、連日猛烈に飛んだ。飛べない同期に対しては誠に気の毒の限りである。おかげで、夜間飛行、夜間定着なども実施された。然しながら、三月に入ると、さながら爪に火をともす思いで続けられた飛行作業に、更に追い討ちをかける敵機動部隊艦載機群による九州各航空隊に対する攻撃が激化し、なけなしの飛行機を焼失したり、掩体壕にかくしたり、比較的安全な航空隊(第二美保)に退避するなど正常な訓練をするゆとりもなくなった。(つづく)。

* 慣熟飛行とは・・・飛行機に慣れるための飛行。

この十月三日の二名の学生の事故死については、大石政則日記にも詳しい記載がありますが、引用を控えます。(事故の前日、大石政則学生が使用した機、同機に添乗した教官と前日にペアを組んだ二人が、そっくりそのまま翌三日の事故で一瞬にして尊い一命を亡くされたことに、ふしぎな因縁みたいなものを感じ、感無量だったこと、ショックだったことを大石政則さんは同日の日記に綴っておられます。)

くるす野 その2

  歌仙「耶蘇墓」おもて六句  

    首 平成二十年四月一日

筍のひとつ耶蘇墓また一つ    乙四郎
 くるす野淡きかぎろひの中   恭子
ふらここへもつと高くと声かけて 呆 夢
 公園の道車椅子行く      兼坊
濯ぎもの干さるる先の月の舟   整子
 蝉取り網で海を捕らへる     宙虫  

ここまで五日、ファクス文韻より俄然速い。

つぎは雑の折立です。毅然とした品格をもった雑を。さてだれに頼もうか。
ああ。思い出したぞ。澄たから。隠れてないで出てこいよ。この部屋はだいじょうぶ。・・バンプオブチキンにこんな歌があったなあ。犬とぼくの歌なんですけど、ね。「ユグドラシル」に入ってた。たからさんもどうか入ってください。んで、作ってみて。季語はいりません。裏にはいるから、なんでもいいのですが、とりあえずは発句にある宗教的なものはさけ、月のうちこしですから、ひかりものや宇宙ものも避けてください。そのあと、最初にもどって乙四郎が短句をつけることにしますから。二順目は長短逆になります。

 虫取り網は夏ですよね。虫は秋ですが。ここらへんの季節感、微妙。

参照

ユグドラシル:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B0%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%AB

2008年4月 3日 (木)

母子手帳

母子手帳

なつかしき母子手帳。箪笥に三人の子の記念品をいれていました。卒業証書とか賞状とかアルバムとか。母子手帳も桐箱入りのへその緒もありました。長女は八女市で、長男は久留米市の御井町で、次男は博多の宇美町で生れました。
母子手帳

会社所有のミニダックスフントの兄弟。こんなに大きくなりました。仕事中、ひづめの音も高らかに子犬たちがじゃれあいます。室内で飼うのがだんだん大変になってきて、ついに社長が三匹とも人にあげようと。それを聴いた専務(マイボスで女性)が、しくしく泣きました。自分の子どもみたいに可愛がってますから。今日は一日、新ユニフォームにワッペンを縫いつける仕事を二人でやりました。

2008年4月 2日 (水)

大石政則日記 その19

昭和二十年四月二日

晴 ○七○○先ず艦攻、次いで艦爆の特攻隊発進す。総員飛行場にて見送りをなす。不帰還の門出に、日の丸を染めし鉢巻をしめ、日の丸を右腕及びライフジャケットに貼り、桜花を胸にさして、微笑して行きし、先輩達の神々しき勇姿よ。我も亦共に八十番をもちて突入せん。ただ時に差あるのみ。
間もなく艦攻のみ視界不良にて引返す。正午再び発進。高橋少尉、若麻績(わかおみ)少尉、教員一、計三機、発動機不具合につき、発進明日に延期さる。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

新聞記事

おお。乙四郎の大學が槍玉にあがっとる。

朝日新聞。きのうの。

定員150人に対し、20人しか集まらなかったらしい。
うーん。よかなあ!!わても行きたい。
こげんか大學がほかにあろうか。
生徒ひとりにつき先生がひとりの計算になる。
敷地は広いし、まわりはたんぼだし、あっちらへんには、きれいな菜の花ばたけがえんえんと続く。。。。
まるで見てきたように書いておりますが、はい、みてきましたとも。
みなさん一度は行くべきだ。
交通の便は悪いが、天国のようなところです。

くるしい立場にいたのか、乙四郎。

だが、めげるな。
まだひとりも卒業しとらんじゃないか。(ってかまだ入学式もあってないんだけど。)
大學のなまえもよく知らないまま、わたしたちはわたしたちの大事な大事な馬鹿息子を、あなたに預けました。それは何より、竹橋乙四郎に絶大な信頼を寄せているからであります。

2008年4月 1日 (火)

大石政則日記 その18

昭和二十年 四月一日

晴、十航艦和気(わけ)部隊(註・宇佐八幡宮にゆかりのある「和気清麻呂」にちなんで命名された部隊名)に愈々(いよいよ)出動の命下る。和気部隊八幡隊第一護皇攻撃隊誕生。明日出発の予定。藤井大尉(福田中尉操縦)指揮官、若麻績(わかおみ)、高橋少尉区隊長、教員三、合計六機。これに姫空の○機(不明)加わる。また艦爆の特攻隊に杉本、上野両少尉を我々の間より送りたり。老朽せりと雖(いえど)も、九七、九九の練習機に爆弾を抱き、必死必中の体当りを敢行するなり。夕食時、艦爆の両少尉のため乾杯を上ぐ。夜、艦攻学生ガンルームに赴き、教官の送別に列す。艦攻も爆撃も全部士官は予備学生にて我等の先輩教官なり。予備士官の実力を今ぞ発揚すべし。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

熊本の故・渋谷幽哉氏の追悼文のつづきを入力いたします。
ふしぎと大石政則日記に重なり、補ってくれます。
まったく時の経過がなかったかのように・・・。

串良基地慰霊祭における追悼文

       渋谷 幽哉
    
(生存者 元海軍第十四期予備学生)

突然「搭乗員整列」とスピーカーから流れると「すわ、出撃だ」と瞬時に廊下に飛び出す。横一列に並んでまつことしばし、コツコツという靴音が次第に近づいて、一片の紙片を持った飛行隊長の姿が見える。我々の前に立ちおもむろに「菊水二号作戦が発令された。本隊からも三名参加する。今から呼ばれた者は一歩前へ」。次々名前が呼ばれる。「堀之内少尉、富士原少尉、村瀬少尉、以上かかれ」。並んだ全員が「俺だ」と思う瞬間である。そして生死の別れる瞬間でもある。こんな光景が、作戦発令のたびに、何回も何回も繰り返されて行きましたね。出撃が決定したものは、別途命令の受領が終わると部屋に帰って、黙々と遺書や身の回りの整理に余念がない。そんな中で、堀之内少尉は「両親が台湾在住のため、東京帝大に在学以来もう何年も会っていない」と言う。まことに気の毒である。遺書をしたため、わずかばかりの身の周りの品を小包にして「どうかこれを送ってくれ」と言う。また、彼は、宇佐を出発する前日、いつも行きつけのN病院の小母さんが、出撃を察して「この人を連れて行って」と贈ってくれた可愛い日本人形を「おぶって行くんだ」と片時も離さない。

やがて、彼と同乗する偵察の予備学生出身の少尉と電信・機銃の本当に若い紅顔の予科練出身の飛曹が来て、地図を広げて出撃前の作戦が始まる。かくて、出撃命令を境に、征くあなた方と、残る私達との間にアッという間に、越えがたい永遠の空間が介在してしまうかのような、なんともたとえようのない気持ちが支配する。丁度、神聖な存在としてあなた方を俗界から見つめるような。何か手伝ってあげたいと思うのだが、全く手が出ないじれったさがありました。(平成四年十月十五日)

くるす野

筍のひとつ耶蘇墓またひとつ  竹橋乙四郎

この句をみたとき、愕然とした。
ヴィジョンがありありと蘇ったからである。
なにかつけねばとおもった。
くるす野だ。それしかない。

記憶に沈む文章から一つ取り出すことにする。

暦論   その八

       姫野 恭子

天文二十年二十二歳のころに初めて出遇ったフランシスコ・ザビエルにあやかり、洗礼名をフランシスコと自ら名乗った大友宗麟。天文二十四年の銘をもつ百首和歌(岩戸山古墳の今伊勢宮に残っていたという)は、八女市所蔵の文化財であるが、これまで公表はされてこなかった。縁あって、その解読にかかわってしまった者として、いつの日か世に出さねばと思いながら、くらしに追われ、いつのまにか流されかけている。竹橋乙四郎の句に、その怠慢を打たれた気がした。

天文二十四年の地方武士による百首和歌がなぜそんなに大事なのか。日本と西洋が邂逅して間もないころの作品であり、読んでいると、歌を連ねる間にひそむさまざまなモノが見えてくるからである。ひとり和歌史上の問題にはとどまらず、民俗学や心理学、ジェンダー学、九州と都との意識のずれなど、貴重な資料となってくるはずである。

当時の筑後は豊後の大友義鎮(のちに入道して宗麟)の麾下にあり、鉄砲が伝わったのもキリスト教が伝わったのも、この数年前のことであったのだから。私たちは確かに歴史の授業で日本史の出来事を学んだが、それが本当かどうかは誰にも証明できぬことだ。だが本物の史料には確かな人間の息吹が感じられる。たとえば、現代俳句で暗喩のヨミを鍛えられたあたまに、次の春の歌(五首目)は、なんと耶蘇臭く思えることか。

若菜

わかなゆゑとしとし分てくるす野に
  おほくの春を我もつみけり   鑑秀

この歌を読んだとき、私はなぜか十字架が野に立つ景色と罪の意識(この原罪という意識こそ日本になかったものだ)、瑞々しい若菜摘みをする乙女たち、そして合戦の戦利品として連れてゆかれる女たち・・を一瞬のうちに連想した。それは勿論正統な和歌の読みではない。しかし私にはそんな力を持った歌であった。

      ◇

『切支丹風土記』(宝文館版・九州編)は古い本だが、写真資料入りの詳細な研究書である。その巻頭には、わが国最初のポルトガル船入港地である薩摩藩・種子島への鉄砲伝来(天文十二年八月二十五日)と、初めての国産鉄砲の製造(天文十三年九月)が引かれているが、切支丹伝道で最初に登場するのはフランシスコ・ザビエルと薩摩の青年貿易商ヤジローである。ヤジローとくればすぐに遠藤周作の小説『沈黙』と、山本健吉の『きりしたん事始』という古い研究書を連想せざるを得ないのだが、それは措くとして、ヤジローとザビエルが出会うのは天文十六年のこと、入信したヤジローとザビエル一行が薩摩に上陸するのは同十八年である。

一方、半田康夫の書いた「豊後府内のキリシタン」の項に、次のような興味深い記事があった。以下同書より引用。

「いつのものか正確にはわからないが野津(大分から阿蘇へ向う現・大野市)に十四・五の十字架がある」と。伴天連のルイス・フロイスが天正十三(1585)年に耶蘇会総長に書き送った手紙であるが、他にも豊後には八十ほどのクルスが建てられていると報告している。もう少し詳しく見てみる。

        ◇

豊後に初めて布教の種が蒔かれるのは、天文二十年(1551)ザビエルによってだった。

と、ここまで必死で打ち込みましたが、時間がありませんので、続きはまたいずれ。「暦論」はジャンルとしては、一種の研究書なのですが、随想でもあり、空想も入ってるし、海のものとも山のものともつきかねます。だから、一流の歴史家からみれば、なんだこりゃ扱いのトンデモ本に分類されるんだろうなあ。乙が乙たるゆえんですね。

見直さず、アップします。

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