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2008年4月22日 (火)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

忘れ雪  その3

     鍬塚聰子

隅田川には、文禄三年(1594)に千住大橋が、安永三年(1774)には吾妻橋が架けられましたが、その間には沢山の渡しがありました。そのひとつが鷗の渡しです。林太郎さまの医学生時代に、その外に住んでいるからと俳号を「鷗外」と称されたお友達がいらしたそうで、最初の著書である『舞姫』はそれを拝借して森鴎外として出されたのだそうです。
でも、洩れ聞えたのはそうではありません。周様がお話になったと、母が老女に可笑しそうに喋っていました。
林太郎様が周様のお屋敷の居候でいらした時分のことです。お屋敷にはお梅さんというそれはそれは可愛らしい小間使いがいて、その子に林太郎様は夢中。学問だけをしていた十二、三歳の男の子の、初恋でしょうか。そのお梅さんが住んでいたのが鷗の渡し。思いが届かないから、鷗外なんて、林太郎様には相応しくありません。
林太郎様より二つ年若の長谷川辰之介といわれる江戸市ヶ谷生まれのお方は、同じく江戸生まれの父上が露西亜外交官に仕立て上げるのが夢だったのに、戯文書き、つまり小説家というのですか、なんぞになるなんて親不幸め、くたばってしめぇ、と怒鳴られたのをそのまま筆名になさったと老女が教えてくれましたが、その二葉亭四迷に劣らぬ無意味なお名前と、今でも口惜しい思いなのです。

わたくしは国民之友に発表された『舞姫』は読んではおりません。林太郎さまもなにも仰いません。仰らないどころか、わたくしの顔をご覧になることもないのです。
いつも正面を向かれ、わたくしがわざと正面へ立ちますと、わたくしが透明人間でもあるかのように遠い目をなさるのです。わたくしが色は白すぎるほと白いとはいえ、なんとか小町と呼ばれるにはほど遠い器量であることは仕方ないとあきらめてはおりますが、常の女性よりは丈が高いことが秘かな自慢でした。
坂本龍馬の姉上は人並みはずれて大女でしたが、たいそう龍馬は姉上を慕っていたそうだと、赤松の母から聞きまして、そう思うようになったのです。外国の女のかたは、お背が高いとのことですが、林太郎さまは、いっそわたくしが日本女性一般の小柄な女で有れば良かったと、わたくしが目に入るたびにそう思われていたに違いありません。

林太郎さまの妹の喜美子様は、すでに小金井良精様の妻でいらっしゃいましたが、何かの折り、あなたは少し似てらっしゃるわと仰いました。わたくしはどなたに似ているのかしらとそのときは詮索する気もありませんでしたが、離縁された今、ああ、エリゼというお方にわたしのどこか似ているところがあり、それが林太郎さまにはとうてい我慢できないことなのだったと思い至りました。

森家の跡取り息子をわたくしは産みました。その子に林太郎さまは於菟という変わった、でも日本で言えば太郎というくらいのありふれた独逸名をつけられました。
峰子お義母様は、そんな毛唐の名前を、と色をなして反対なさいましたが、林太郎さまがこれは神聖羅馬帝国の皇帝の名前なのですよと一蹴なさいました。


離婚されて赤松家に戻り、ひっそりと暮らす間に、そしてあの老女のイサも亡くなりまして、わたくしは『舞姫』をこっそり読みました。主人公の太田豊太郎は踊り子であるエリスと恋仲になり、エリスは彼の子を産み落としたのですが、豊太郎が彼女を捨てて帰国したので精神に変調を来たしたというのが粗筋でした。草紙ものによくある話で、お話としては詰まらぬものですし、判りにくかったのですが、が、豊太郎は林太郎さまであることが、その言葉、仕草に如実に表れていて、わたくしは切なくなってしまいました。
                            (つづく)

『連句誌れぎおん』
      2000年冬28号より引用

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