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2008年4月21日 (月)

『忘れ雪』森林太郎の妻登志子

忘れ雪   その2

      鍬塚 聰子

話が逸れましたが、そういう名誉ではなく、阿蘭陀語という懐かしさで、この婚儀を承諾なさったのだなと、そう思いましたとき、林太郎さまの温もりを感じました。もうこの時は、離縁を考えていらした時なのかもしれませんが、そのためにいささかの引け目が林太郎さまにあり、その上でのお言葉だったのかと今になって気付くと、なまじのお情けが恨みに思われてなりません。
表面上は何の波乱もない結婚生活ですし、しかし何をお考えになられているのか窺いしれないほど厳しい御表情の林太郎さまは、どちらかというと、父の、お殿様時代そのままに闊達な性格に慣れているわたくしには、身分が違うとこうも、という違和感が当初からつきまといました。
もちろん母からは、あなたは、軍医森林太郎殿の妻になるのです。実家をひけらかしては成りません、と言われておりました。
イサはわたくしと二人になると、世が世ならばと繰り言を述べます。閉口しながらも、あの婚礼化粧の襟足の冷たさをいつも思い出しておりましたので、林太郎さまの口から洩れた一言はたいそう嬉しく響いたのです。
独逸留学中の行動に逐一目を光らせ、口を挟み、自制を促す陸軍の了見の狭さが、優秀な林太郎さまにはお嫌だったのでしょう。それでこの縁談をご承知なさったんでしょうという母上のお言葉に、父上が海軍をお選びになったことを誇らしく思っていました。
しかしそれよりも林太郎さまのぽろりと零された一言は、もうすぐ子どもが生まれるわたくしへの思いやりと信じ、林太郎さまのお子を産むのだという喜びへと変わりました。それまでわたくしの胸中にあった不安は、それで消えたというのに、森家の跡継ぎ息子を産み手柄だと誉められこそすれ、離縁などとは思ってもみないことでした。

津和野藩のご典医であった森家は、どういうわけか女系家族で、婿を迎えて家督を継いでいかなければならなかったとか、しかも典医というのは藩士の中でも低い身分なので藩内からは来手がなく、やむなく他藩から婿を迎え入れていたと、これもひそひそ話が洩れ聞こえたのですが・・・そこに生まれた林太郎さまが、待望の男子であり、しかも秀才の誉れ高いとあれば、森のお父上が十歳の林太郎さまと共に、縁戚である周様、旧幕府時代は徳川慶喜さまの顧問役をなさって、新政府では軍人勅諭の起草に当たられるなどのご活躍がめざましかった、周様の勧めで上京なさったのも、明治の御代ならではのことでしょう。

ところで、林太郎さまの林は、杏林に由来するのではないかとわたくしは考えます。
なんでも、廬山の仙人である董奉は、その術で重病人をたちどころに治しますが、礼金を取りません。人々が困りますと、そんなに嬉しいのなら杏を記念に植えるがよいと勧めたので、数年で杏の林が出来たと、神仙伝には書かれています。林太郎さまの弟君のお名は篤次郎、潤三郎であられることを考えますと、うなづけるのです。
その立派なお名前を使わずに『舞姫』は鷗外などという軽々しい筆名をお使いになられるとは、わたくしには驚きでした。(つづく。)

『連句誌れぎおん』      2000年冬28号より引用

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コメント

八年前のれぎおんでこれを再び読み、以前とは違った感慨を抱いた。このブログを始めたころ、沼津に一人で行ったのですよね。なぜそんなとこへ行ったのか、なぜ乙骨太郎乙だったんだろうって自分がわからなかった。いまもよくわからないんですが、ただ繋がってることだけは痛烈に感じます。
上記の森鴎外の家の事情、わたしはすぐ山本健吉(石橋貞吉)の八女の実家のことを連想せずにはおれない。典医は身分が低かったとありますが、石橋家も四百年も続く代々の医師の家ですが、迎えた妻(健吉の母)は金沢藩の家老のおひめさまで、おつきのばあやがつきしたがってきていた。そういうことを重ねつつ、近代と現代と中世がごっちゃになって、おもしろいなあとおもう。
大石政則日記を引用しおえたわけでもないけれど、もし自分が28日に死ぬとしたら、あと何がしたいだろうか。などとぼんやり考えてました。考えなければいけないような気がした。ところが、ここが私のいいかげんなとこなんですが、あと一人の大石さん(大石内蔵助)のことまで思い出してしまい、この人は切腹までの期間をあそびくらしたよなあ。とふっとおもって。
どっちにしろ、はらのなかまでは、みえない。

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