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2008年3月17日 (月)

大石政則日記 その11

三月十七日

日は我等にとり最後の上陸日なり。如何にすべきと思考せしが結局○三三○起床。○四三八の汽車にて行橋乗換え、後藤寺乗換え、(一時間待ち合せ)にて新飯塚駅に着す。同僚渋谷幽哉少尉の妹の嫁入先*を二人して訪れしなり。丁度彼岸の三日目にて馳走になり、一五時の汽車にて発ち、無事帰隊す。

編集者脚注

谷少尉の妹の嫁入先 :渋谷幽哉少尉は大石政則の同期生であり、訓練を共にする艦攻操縦員である。二人は休日を使って、渋谷少尉の妹さんの嫁ぎ先の飯塚のお寺を尋ねた。飯塚は、大石少尉にとっては生まれ故郷であり、中学一年秋までここで育った。渋谷幽哉君の妹さんは曄子(ようこ)さんで、嫁ぎ先のお寺は飯塚市川島八一四番地所在の正恩寺、ご主人は住職の井上啓一師であった。喜びの訪問であったが、今はご夫妻とも故人となられ、現在は啓一さんの子息正見(しょうけん)師が住職を継いでおられる。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

参照)

筑豊の路線:http://hp1.cyberstation.ne.jp/nishimoto/yamaguchifukuoka-5.html
       : http://www.geocities.jp/ohori_models_travel/15/account_6.html

正恩寺

http://homepage1.nifty.com/hiro-sentoku/2004/20041016.htm 

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コメント

いやあ、お寺のサイトを探してくれたとね。
正見住職の写真が見られました。
ありがたい。

渋谷幽哉少尉は、政則少尉が一回目の出撃で飛行機の故障で引き返し、落胆のあまりその夜は発熱したそうですが、寝ずに看病してくれた人です。

その心。
乙骨一族の誌「円交五号」にあった「生死のこと」をよんだとき、生きて帰れるのは六四の確率であると知ってなお、それにかけようとする外交官の決意をすごかとおもった(しかも淡々とかかれてたのでなおさら)のですが、特攻隊は限りなく十にちかい。なのに。おもてにあらわれる文章。

またもや場外投稿です。

「渋谷幽哉」という名が飛び込んできたので。
思い違いかもしれませんし、同姓同名かもしれませんが、確か、乙四郎の真和高校の友人のお父さんの名前だったような。友人は熊本の芦北郡の出身でした。住職やってらしてPTAの役員でもありました。息子さんとかなり親しかったもので、お父さん(幽哉?)さんとも面識があります。すごく穏やかで優しい方でした。友人の名は「展太」(テンダ)。名前通りの優しい(テンダー)人物でした。

展太とはまた酔狂な。
その名付けには、乙骨一族の一人で早世なさった惇(とむ)さんの名付けに似たものを感じます。敵国アメリカを憎んではおられなかったのでしょう。
ふしぎですね。
全然関係ないんですが、おととい会社の隊員さんで熊本の芦北出身のかたのことを役場に尋ねたのを思い出しました。あしきた、とよむんでした。

乙四郎は被爆者対策の仕事を通算5年くらいやってました(被爆者援護法制定時の厚生省担当課長補佐、援護法施行時の広島市担当局長)。広島や長崎の人々は、アメリカナイズされながらも、アメリカを許せない気持ちは別次元で共存できるようです。乙四郎は、アメリカが原爆投下を反省し核放棄するまで、アメリカを許せません。原爆投下した時点のアメリカではなく、現在のアメリカが許せない。そんなこだわりを持っているのですが、思考パターンがアメリカナイズしている自分を許せたりもします。(「原爆」についての持論は、機会あれば書きたく思いますが、元担当という立場もあり後輩たちに迷惑をかけてもいけないので筆が鈍ります。乙四郎ではない別人格の者が書いたほうがいいかもしれません。)
テンダ君は、宗教部の部長・副部長の間柄。幽哉氏の思想を直接・間接に伺う機会も多々あり、テンダ父子は乙四郎の人格形成に影響を与えています。
「縁」はいろんなところに転がっているようです。乙骨一族の家計図の中にも、ベトナム出張をご一緒させていただいた方の名前を発見しました。

顕在意識でなく意識下にあるものたちが出てきます。
はんぶんよりもっと、あけているんだろうとおもう。

渋谷氏について、特攻隊員だった事には間違いないのですが、この方が戦死なさったのか生還されたのかは聞いておりません。
早速弟さんに聞いてみます。
私より詳しいニューヨークさんにもメールしました。
ご住職をなさっていて、妹さんがお寺に嫁しておられたことなど、もしやと思われます。

渋谷氏がその方なら大正11年生まれのはず
、息子さんが乙四郎さんのご友人なら年齢的にもちょうど合いますね。

すごいことになってきましたねえ。
きのう、八女サロン「虹」で連句会をしました。その場所、その家、たぶんわが祖父の手によるものだとおもった。左官だった。町家だった。
壁にはられていた。
かささぎの渡せる橋に置く霜の・・の歌。
約束の場所であった。
中山宙虫 が熊本から来てくれた。嬉しかった。
乙四郎ぼたもちもってきてくれた。すぐ帰った。

そ、ぼたもち。

勉強しました。おはぎとぼたもちの違い。
同じものが食べる時期によって名前が変わるのだそうで、やはり日本語って面白い。
「牡丹餅」は、牡丹の季節、春のお彼岸に食べる。「お萩」は、萩の季節、秋のお彼岸に食べる。

お彼岸に ぼたもちどうぞ 竹節目  (乙)

うわ、おもしろい!
牡丹とお萩だなんて。
これなら誰にも教えてあげられます。

宗教部

実験小説の中ではさらっとしか触れなかったので、ここで補足します。鎮西学園は宗教教育を重点としているので、クラブ活動の中でも宗教部は別格。歴史が違う。宗教部なんてのを持っている高校はほとんどないので、事実上、鎮西学園宗教部が全国高校の宗教界のトップに君臨・・・はちょっと言い過ぎですね、増上慢、増上慢・・・熊本県の高校生の宗教界に君臨・・・くらいならバチは当たらないでしょうか・・・していました。熊本県内で発行されていた某思想誌に、高校生の意見として、毎号、乙四郎たちのオピニオンが紹介されていました。なお、そのネタ元は、例の福島高校で紛失した幻の乙四郎手書きエッセイ集。そのエッセイ集は、いっとき、姫野さんと同じ教室で同じ空気を吸っていたかも。当時、姫野さんのともだちで、さも乙四郎が言いそうなフーチゲな意見を口走っている者がいたら、それは乙四郎エッセイ集の読者だったかもしれません。福島高校に流れ着いた経緯、「ともだち」の名など、詳しくはここでは書けません。紛失した後、その分厚いノートはどうなったんでしょうね。拾わなかった? 姫野さん、フーチゲさにおいて乙四郎が憑依してるような気もせんでもない。
さて、その宗教部ですが、生徒の人気はほとんどなくて廃部危うし状態だったところで立ち上がったのが、乙四郎・テンダのコンビ。好き放題やらさせていただきました。宗教部には「マハヤナ部」という別名もありました。マハヤナは大乗仏教の意。
ところで、死刑囚として収監中の松本君も、熊本の盲学校の「ともだち」です。同い年だけど、当時、全くその存在を知りませんでした。熊本の宗教界において、松本君は乙四郎の君臨下どころか埒外。彼は後に教団で「マハヤナ」という雑誌を発行しているけど、冗談じゃない!

そうでしたか。同い年とは存じ上げませんでした。まつもとちづおさんでしょ。
博多にいたころ、住んでたコーポの郵便受けにビラが入ってたことがあった。それと、空中浮遊してるいんちき写真をみた。夢でうなされた。あのころはひまだったのか、なんだったのか、いろんな宗教にはまりました。だれにもいってないが、乙骨○○さんが敵代表を勤めておられる○○学会にもひと月所属したっけ。夫がりこんだ!と叫んだ。で、ご本尊をさっさと戻しに行った。すーっとやめさせてくれたのが、いまもとてもふしぎ。あれはいったいなんだったんだろう。いま、会社にも一人その宗教の幹部がいます。大好きです。はなしがあいますし、深みがある。ユーモアもあり、とても気が若い。72歳の教官。あんまり宗教で偏見をもちたくないです。
エホバだけは何度聞いてもわかりませんでした。あと、なんだっけな。あそうそう。韓国に本部がある宗教。おどすの、あれはすぐたちのわるさに気づきました。統一教会。天理教は、むかしの恋敵が入信していて、独特の苦労をしてた。こうしてみると、そのひとのえらぶ宗教は、そのひとの苦労になんとなくマッチしていることに気づきます。

ブログで宗教を論じると炎上しやすいので深くは書きませんが、そこそこ信者数の多い宗教には何らかの興味深い魅力も。天理教の場合、そのそもそもの教義が万人平等志向であるために本部(天理市)レベルでは上下関係での締め付けは他の新興宗教ほど強くなく、それが実は組織の統制のなさにもなっています。そのため地方教団レベルでは勝手な解釈で上下関係も強化され、時に検挙されるような信じがたい事件を起こすようなところもあるようです。これが同じ宗教か、と思うほど地方差、教団差が大きいのがこの宗教の特色でもあります。イスラム教も同じで、イスラム国はあまたありますが、国によっててんで違います。女性が黒づくめのイスラム国(たとえばサウジアラビア)があるかと思えば、ビキニ姿にも寛容なイスラム国(たとえばチュニジア)もあります。宗教の根っこのところの教義の良し悪しと、その宗教を信じる人たちの行動様式とは別なのでしょう。どんな世界(宗教)にも善人がおり、悪人がいます。悪人が多いことをもって世界を否定しなくてもいいし、善人が多いことをもって世界を肯定しなくてもいい。乙四郎はイスラム国を訪問して協議することが比較的多かったのですが、イスラム国に底抜けに“善い人”が多いことを肌で感じています。だからといって乙四郎自身がイスラム教に改宗するのは気乗りがしません。それとこれとは別。
さて、ここで問題です。乙四郎の宗教基盤は何でしょう。
おいおい書いてゆきます。つまるところ自分でもよくわからないのですが。

五体当地。じがちがふ。

聖地どこ 五体投地も ナンセンス   (乙)

中国で、乙四郎は五体投地の方を車で追い抜いてゆきました。特定の目的を目指して一心不乱に突き進む姿は神々しくもあります。目的が定まっていること、それは尊いことです。乙四郎は人生の目的がふらふらしてるので五体投地には縁遠い。
その昔、玄装法師は、経典を求め命懸けで天竺をめざしています。乙四郎は、平成18年3月にるんるん気分で天竺へ行きました。
パキスタン出張の際、仕事先のペシャワール(アフガニスタンとの国境地域)から首都イスラマバードへの帰路のことです。
「ここらへんが天竺だったそうですよ。仏教遺跡があります。立ち寄ってみますか?」
「いいっすね。寄ってみまひょ。」
天竺=インドという印象が強いですが、1947年にインドから東西パキスタンが別れています。ガンダーラは今のパキスタン北西部です。
パキスタンは今や仏教国ではないので、仏教遺跡はないがしろにされています。かつての聖地が、観光地にすらなっていません。人の訪れは稀。八女の無量寿院のほうがはるかに賑わっています。

当時の出張記録ファイルから、乙四郎が詠んだ歌が出てきました。出張用務は感染症対策の体制強化(人材育成)のためのプロジェクト起こし。夥しい数の乳幼児が予防接種で予防できるような病気で命を失っています。命が軽い、これが現実。

この国の 人をつくりて ともに見む
    軽き命の ひとつひとつを
  (インダス彼岸にて)

わらわらと孑孑(ボウフラ)のごと湧き出づる命わらわら死にゆくを見し 乙四郎

わたしはいちども国外にでたことがありません。ですから、乙四郎の話をきいていると、とてもおもしろい。視野がひろがります。歌はいまいち。笑。そこがご愛嬌。ほっとします。連句には、人のモノがよめる才能が必要で、乙四郎は本をばさらか読みまくっているけん、できるんじゃないかとおもった。あとは「こりかたまらない・めげない」ってことだけ。変化へんか変化。
また、こりずにしつこく誘います。
男性の捌きを育成したいからです。圧倒的に少ない。俳諧は文学ではなく数学だと思うきょうこのごろ。最初の私の俳諧の師は、数学と地学の教授だった。(札幌の故・窪田薫師)

海外旅行気分が味わえるおすすめスポット

くどいようだけど、天理市。
乙四郎は35か国くらいの異文化を見聞していますが、異文化体験という意味では、それらの国を凌ぐインパクトがありました。
たとえば、普通は旅先の駅を降りると、「ようこそ」とか「いらっしゃい」という言葉が溢れていますが、天理では「おかえり」。世界中の天理教会の祈りの方向である、聖地中の聖地といわれるスポットに乙四郎のような異教徒がわーわーきゃーきゃーいいながら至近距離まで近づける寛容さ。メッカには非イスラム教徒は決して近づけないのとは大違い。
何より、ガウディも真っ青の世紀越しの都市計画がすごい。病院だろうが橋だろうが大学だろうがホテルだろうが、すべて、都市計画にのっとった位置に、統一建築様式で作られている。
「あの建物は何?」
「う~ん、大学かな、いやホテルかな、それとも病院かな、いや、下に川が流れてるから橋だ!」

想像できますか?
こんな環境で幼小児期を過ごせば、ちょっとユニークな人格が形成されると思いませんか。天理の朝の人間模様も面白いですよ。ツッパリ兄ちゃん姉ちゃんみたいな若者がいっぱい修業してる。統制があまりとれてないようなのも、いとおかし。

はじめまして。

映画「永遠の0」を観て胸を打たれ。
祖父の事はインターネットで出てくるかな…と。簡単な気持ちで検索していたら、ここに来ました。
私は幽哉の孫です。
祖父が亡くなってから18年が経ちましたが、海軍の話や特攻隊の話をいつもしてくれていた祖父の姿…しっかりと覚えています。
しかし、当時は私はまだ小さく。
本当に貴重な話を聞いていたはずなのに…話の内容に関する記憶は薄れてしまってます。

大石さんも映画ご覧になったんですね。
あの映画を観て、私はまた祖父の話が聞きたくなりました。
ですが、祖父はもういないので。
今年92になる祖母(施設に入っていますが元気なんです!)に、話を聞きに行こうと思います。

祖父の事を書いて頂きありがとうございます!

スミマセン!大石政則日記とあったので、大石さんと書きましたが間違えてますね((((;゜Д゜)))失礼しました!

ゆかりさん。
コメントいただき、ありがとうございました。
じつは、なぜこういうことをやっているのか、自分でもよくわからないところがありまして、しかし、映画を見て、あまりにも大石政則日記を思い出させる物語なのに驚き、何か時代のなかで自分の果たすべき役割というのがあって、それをやらせていただいているのかもしれない、と思うようになりました。著作権をおかしているのでは、ともあんじつつ。
ネットはまるでアカシックレコードみたいです。

あなたのコメントのおかげで、ハッとしました。

大石政則日記を編集なさった弟の政隆さんは、映画を見たくても見れないのだと気づくことができました。(事故の後遺症で目が不自由であられるそうです。)
目の不自由な方でも見ることのできる、そのような技術をやがて編み出してほしいものです。

あなたのおじいさまを存じ上げませんが、ブログ管理人として次のことを伝えたいと思います。
アクセスを見ているとき、「慰霊祭追悼文」検索でおじいさまの書かれた追悼文がトップに出るようで、以下☟のところにつながります。

ゆかりさん
おじいさま(幽哉氏)とのご縁で6年前におばあさま(月子さま・・・でしたっけ?うろ覚えですみません)にお会いしました。
御健在とのこと、嬉しく思います。

ひめのさん☆

コメントありがとうございました!

てっきり祖父の事を知っていらっしゃる方のブログだとばかり思いこみ、全体を見てからコメントすべきだったと反省でした。すみません!

しかし、ここで祖母に会ったことのある乙四郎さんからもコメントしていただき。ご縁だなぁ。と、ありがたい気持ちです。

永遠の0は。
それまで学校で「戦争は繰り返してはいけない。」とか、「もっと戦争の事を知らないといけない」とか。テキストの様に…台詞の様に…教えてもらっていたことを、初めて自分の心から、「本当にそうだ!!」思えた映画でした。

乙四郎さん☆

お返事いただきありがとうございました!

はい!祖母の名前は月子です。
今月で92歳になります。少し認知症を患っていますが元気にしております。

前回のコメントを書いたあと、さっそく祖母に会いに行ってきました。「戦争の話ね…。ばぁちゃんの知っとることやったら何でも話すよ…(^^)」と、微笑んでいましたが。
私も久しぶりに会ったのでお互いの話だけで時間が経ってしまい(笑)
次回こそは!と思っています。

ゆかりさま

こちらのブログがご縁でおじい様の追悼文集「至誠院釈幽哉師を偲ぶ」というご本を乙四郎さんからいただいて手元に置かせていただいているものです。
幽哉さんは、「大石政則日記」の中の大石が、一度目の出撃で飛行機の故障による生還後に発熱し寝込んでしまった、その時看病してくださった方だと認識しております。
映画を見てくださってありがとうございます。
ゆかりさんのコメントを読んで以来追悼文集を開いて家系図を拝見しておりました。

私は大石政則日記の大石の親戚にあたるものです。

ゆかりさん、
活きのいいコメント、どうもありがとう!
なにも説明文も添えておりませんで、たしかに知らない方が読まれたら、親族か知人だろうと思われるかもしれません。
そういうことを思ったこともなかったなんて、わたしはなんとめでたい人間だろう。ほんとに変ですね。

さくらさんのコメントを読み、そうだったと私も本を開いて、そうそうたる系図をみておりましたら、幽哉師の最愛の孫のゆかりさん=縁さん、五歳くらいのときのあどけない写真がのっておりました。あれが平成五年ですから、いまは芳紀25歳くらいになられるのでしょうか。うるわしき月子おばあさまのお孫さんであれば、さぞや綺麗になられたことでしょう。

>永遠の0は。
それまで学校で「戦争は繰り返してはいけない。」とか、「もっと戦争の事を知らないといけない」とか。テキストの様に…台詞の様に…教えてもらっていたことを、初めて自分の心から、「本当にそうだ!!」思えた映画でした。

これ、わたしも同感です。
いくら呪文のように教えられても、じっさいはどうなのか、経験してみないとわからないものね。
でも、あの映画がリアルだったのは、今をいきる若者を登場させて、その若者の視線で、ほんとうはどうだったのかを調べ追求していったところです。

月子おばあさん、いま92歳なんですね。
わたしの母がもうすぐ84になります。母の妹たちが82、80と二歳違いで二人いまして、その三人を連れて、永遠の0をみました。
みな、非常によかったと、また、懐かしかったと、喜んでくれました。
もう一度みたいと言っているほどです。
母たち老姉妹を映画に時々つれていくようになって、数年たちます。たのしみにしてくれています。
今時の映画館は車椅子でも入れるようになっているし、おばあさんに映画をみせてあげたら、きっとさまざまなことがフラッシュバックして、記憶の箱にスイッチが灯るかもしれませんね。
ひとつふしぎなことを。母のすぐ下のいもうとである82の叔母は相当目が悪くて、すぐ目の前のものも見えないといってるほどなのに、映画になるとみえるようなのはどうしてでしょう。
この叔母は目がみえないのに、だれより道をよく知っていて覚えています。

ゆかりさんのゆかりに感謝いたします。
しせいいんしゃくゆうさいしをしのぶ、のなかで、
さいごのほうに、たくさん、追悼文が収録されていますが、わたしは、仁智郎しゃん、というかたの、バイクをゆうさい師に教えた話が面白かったです。
方言が、八女のことばと一致していて。

ながながとかいてしまいましたが、どうもありがとう。
またおいでください。
きのうから、例の作曲家のうそで、きぶんが沈んでいたのですが、おかげでスッキリしました。ありがとうございました。

さくらさん☆
初めまして!ありがとうございます。
「釈幽哉師を偲ぶ」の本、色々な方に読んでいただいてるのですね…。
大石政則さんのことは、ここのblogを拝見したあとに、私の父(幽哉の長男)から少し聞きました。
我が家にも、『大石政則の日記』があると聞き、これから拝読させて頂こうと思っております。

映画の中の大石さん、やはり大石政則氏がモデルなのでしょうか。あまりにも共通点が多く驚きました!!

私の名前は、生まれてすぐ病気をした私に祖父が「仏様に、沢山の人々に、命に…ご縁があるように」と『縁』つけてくれました。ここで祖父のことを知る方々とお話することができ、この名前に感謝しております。

原作は大石政則日記が出版されるよりも早い時期に書かれたようです。けれども作者の目にとりこまれた資料のなかに、あったのではないかと思えてなりません。さくらさんも書かれていましたが、似たような例はいくつもあったそうですし。
偶然であるとしたら、とても意味のある偶然です。
現に、ゆかりさんにもあえたことですし、。
そうでしたか。
おじいさまがつけてくださったお名前でしたか。
真実の歴史って、きっといくつもいくつもプリズムの光のように多様にあるのかもしれません。
そのどれもが真実だと思えてならない。


さくらさんの住んでらっしゃる東京はすごい雪です。選挙、やはり舛添さんの勝利でしたね。
永遠の0作者の応援演説が過激だと問題視されていました。南京事件はなかったとする説を容易に喧伝するとは、。もっと慎重であってほしいです。その説をおおきくした一人に、キリスト者がいらして、おどろきました。今日の昼から、その関連の記事を読んでいました。
俳句でであった、父上が海軍のお偉いさんだったという人の話でも、南京事件はなかったと信じておられました。これはきれいにまっぷたつに分かれる話で、どちらを信じるかは読み手次第みたいなところがあります。
信じたくないけれど、東京裁判の記録を読んでいくと、それが嘘ではなかったことが感じ取れるんです。
そういうことはなかった、とおっしゃる方々は、東京裁判史観と唾棄する前にきっちり目を通すべきではないだろうかと思うのですが。
わたしたちにできること。
知らない次元の話のまえでは、何より謙虚であれ。
ということではないだろうか。

お若いかたが、こんな堅苦しい地味なブログにおいでくださって、ありがたし。
ゆかりさんありがとお!
いつかいっしょに連句したいなあ。

このブログに初めて訪れたのが2008年3月2日。
その前日に大石政則日記その10がアップされていましたが、乙四郎の目に初めて留まった大石政則日記が、この、「その11」でした。
そこに渋谷幽哉という人名があったので、おもわずコメントしたのを思い出します。
あとひとつき、このブログの発見が遅れていたら、これらのご縁は幻となっていたわけです。
これがきっかけで、幽哉師のご子息である友人の展太君へメールしたら、法事で帰省するのでその時に会おう、ということになり、熊本空港で再会し芦北までお送りした次第。
その折、芦北のご実家で月子おばあさまとお会いしました。
親族が大勢集まり、超いそがしのさ中での突然の訪問でご迷惑をおかけしましたが、その時にお茶を運んでいただいた二十歳前後のお嬢様は「ゆかり」さんだったかもしれませんね。

乙四郎という名前の出方もふしぎだった。
きのう、遡って読んでいたら、いろんなふしぎがつまっていますね。

また時間がたってよめば、あたらしいことがわかるのかもしれません。

縁に、ありがとうございます。

乙四郎さん

展太おじとお友達なのですね。
08年でしたら、確かに21歳でしたので…私だと思います。
知らないうちにお会いしていたのですね♪(*^^*)

昨日2月15日は祖母月子の92歳の誕生日でした。これからも長生きしてもらえるよう、祖母を大切にしたいと思います。
また是非、芦北へお越しくださいね。

ゆかりさん

あのご本には、大石政則さんの弟さんである大石政隆さんの一文もあります。
時代の記録としてもたいへん貴重なものをいただいていたのだと、あらためて読み直して想います。

それにしても、です。日曜日朝にテレビでみた、鶴田浩二主演の古いドラマから、幽哉師と対談しておられた鶴田浩二の写真を思い出しました。いつのものか、書かれていませんが、。

師が書かれた特攻の記憶、これもいつか打ち込まねばと思います。戦友を見送ったとき、どんなだったか、詳しく書かれています。

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