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2008年3月30日 (日)

いしをなげる。

九大法学部を途中でやめて、長崎の大学の医学部へ入りなおしたいとこの子がいました。かれはなぜそれほどまでして医師になりたかったのか。母(私の一つ上のいとこ)が原因不明の難病であったからではないかと思います。

では、竹橋乙四郎は、せっかくいろんな迷いの果てにたどりついた山口大学医学部を出ても、なぜ医師にならなかったのでしょうか。知りたいですね。

とおくで、石投げをしているかみさまがいます。石は水面をぴゅっぴゅっと切って辷(すべ)ります。

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コメント

乙四郎自伝の紹介の場を提供いただくにあたり、ありがたいタイトルをありがとう。
何がありがたいかというと、ちょっと長くなりますが、ありがたい法話を紹介することができるから。
曹洞宗(そうとうしゅう)という道元が始めた宗派があります。乙四郎は、中3と高1の夏休みを曹洞宗の寺で座禅修行したので、親近感ある宗派です(曹洞宗を道元が始めたことは、「えろうそうどうしゅうござるがどうげんしたと?」と覚えました)。禅問答もそうですが、禅宗一派は、自分で考えて、自分の言葉で語ることが多く、法話も、身近な出来事を題材にして、住職自身の言葉で綴られることが多く、文芸的です。
岩手県の曹洞宗和融山蟠龍寺のHPにアップされていた法話を紹介(全文引用)します。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~banryu/sub14.html
法話「石を投げるおばあさん」
 92歳の天寿を全うされたおばあさんがおりました。このおばあさんはいつも道路の脇に腰を掛け、通る人を眺めておりました。それがおばあさんの日課でしたので、誰も余り気にかけなかったのでした。
 実はある日、おばあさんが不思議な行動をしているのを見てしまったのです。そのことは、多分ご家族の方もご存じないことだと思うのですが。
 おばあさんは腰掛けながら、おぼつかない手で一生懸命周りの小石を拾って自分の足下に置き、やがて、その内の一個を手に持ち、道路の向かい側の方に投げるのでした。
 気になったものですから、おばあさんに近づき、耳が遠いものですから、大きな声で、「おばあさん、どうして石を投げるの」と尋ねました。
 すると、おばあさんの口から意外な言葉が返ってきたのです。「向かいのゴミに寄ってくるカラスばかりも、追払ってやりたいと思って・・・・・・・・」。 その日は生ゴミの収集日でした。
 そして、「もう年をとって、なかなか他の人のお役に立てなくなってしまったので、せめてこのくらいぐらいのことは・・・」と話されるのでした。
 普段からおばあさんは非常に信心のある方で、どこか違うと思っていたのですが、人の為に生きる事を喜びとして、年を重ねてこられたのです。なんと素晴らしい生き方かと、思わず頭が下がり手が合わさったのでした。
 その後、何回かお会いしたのですが、いつも口から出る言葉は「感謝!」、お嫁さんに感謝、家族に感謝、年を取ると、どうしても愚痴が多くなるのですが、いつもおばあさんから聞く言葉は感謝、感謝の言葉でした。
 年を取られ、杖をつき、歩くことも思うようにならない、おばあさんが、何とかして人様の為に尽くしたい、尽くさずにはいられない、尽くすことを喜びとして生きてこられたのです。
 おばあさんの生きている限りの願いであった「さりげなく、めだたなく、人様の為に生きる」ということを、これからの人生の指針として生きてゆきたいものであります。

久留米市にある梅林寺が、曹洞宗のお寺ではなかったでしょうか。我が家の(実家)お墓がそこにあります。乙さんのを読んで、こまばあちゃんのことを思い出しました。文に書かれているような人でした。ぐすん。あのころに戻ってみたい気がします。

違ってました。梅林寺は、臨済宗でした。

エピソード:山口福音教会

昭和49年春、乙四郎は山口線湯田温泉駅に降り立った。受験会場は医学部がある宇部市だったので、この駅は初めての下車。ここから南へ下れば、乙四郎がこれから通うことになる山口大学の教養部がある。この日、乙四郎は下宿さがしのために山口市へ来たのだ。
乙四郎は、迷わず北東方向へと歩いた。大学からは遠くなるが、山口の中心部の方向。真和中学、真和高校、気象大学校と寮生活が続いた。四六時中、学友と過ごすだけの生活に変化がほしかった。世の中にはいろんな出会いがあっていい。大学から離れて生活することで、また違った刺激を得ることもできよう。
ところが、歩けど歩けど、下宿生を受け入れてくれそうな空き物件は見つからない。大学の近辺(にき)には下宿屋もたくさんあるんだろうが、いまさら引き返す気にもならない。足が棒になり、疲れも極限という時、地獄に仏、空室ありの貼り紙。「ひかり寮」という板が掛かっていた。ごめんください、部屋を借りたいんですが。
そこは、山口福音教会というプロテスタント教会の敷地の一角。大家さんはここの牧師さんのご家族。どうぞ、どうぞ、歓迎いたします。迷える子羊が神に出会った。
ここの寮には、これまでの乙四郎の人生では親しく出会うことのなかった類の人たちが住んでいた。陽気な日雇い労働のおじさん。しばしば遠洋に出かけていなくなる漁師の青年。皆、人なつこくて話し好き。刺激的である。
日曜の朝は何もすることもないのでミサに出た。

天にまします我らの父よ。 
願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。
み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

牧師さんは毎週、福音書を読み説いてくださった。牧師さんご自身は、神によって、酒に溺れる日々から救い出されたのだとか。
乙四郎は聖歌隊で賛美歌も歌った。全然知らない人の結婚式にもかり出された。

大学では、第二外国語は独語。医学部生は選択の余地なし。今でこそカルテには英語で記載することが多いが、精神科用語をはじめ、我が国の医学に独語の影響は根強く残っている。独語の講師は、山口サビエル記念聖堂山口カトリック教会のルドルフ・プロット神父。これまた人間味溢れる人物で、乙四郎の魂を捉えた。カトリックとプロテスタントを往復する日々、それはそれで面白い日常。

なお、山口は、フランシスコ・サビエルに与えられた「大道寺」というお寺で、日本で最初のクリスマスが祝われ、初めてのラテン語の賛美歌が歌われたところ。 キリシタン禁止令が出されるまでに500人の市民がキリシタンとなり、迫害で、キリシタンたちは萩と山口の間の山奥に逃げ込んだ。

筍の ひとつ耶蘇墓 またひとつ   (乙)

乙四郎。

筍やひとつ耶蘇墓またひとつ 竹橋乙四郎

のほうがよくないか。

筍やひとつ耶蘇墓またひとつ   乙四郎
 くるす野あはきかぎろひの中  恭子

「くるす野」、巻きましょう。
第三はぼん。晩春の季語をいれて、「て、に、にて、もなし、らん」のうちのどれかでとめる。月の打ち越しになるから、天体や星、ひかりものは避けます。

こらこら、勝手に人の作品をいじるな。強固はんの悪い癖。
や、はやだ。どーして「や」>「の」なの?
とりあえず原作者の描いた情景です。
山口の奥地へ入ると、キリシタンの墓が人知れずあり、そんな山中で筍を採りに入った人を想像してください。
丈の高い竹の間で地面から短く頭を出している筍を探すのですが、筍じゃなくてキリシタンの墓が目に入ってしまった。やっと筍をひとつ見つけたら、またキリシタンの墓が近くにあった。
・・・そんな情景です。最初の「ひとつ」は筍なので、筍のひとつ、とした次第。
それでも「や」がよかと?強固はん。

ぼんさん
臨済宗と曹洞宗はどちらも禅宗の一派で、カトリックとプロテスタントの違いみたいなものです。歴史的には小乗仏教と大乗仏教(マハヤナ)の違いみたいなものがありますが、階級制度がほとんどなくなった現代においては、大差ないのでは。八女の無量寿院は臨済宗だったっけな。

かってにすれば。
もうねむい。きのう、なぜか二時半ころ眼がさめた。

おや。おつしろうが上記を打ち込んだ時間と私が耶蘇文を書いてアップした時間が重なる。がちゃがちゃいわんといて。ちゃんと、乙四郎のとおりにもどしとるやん。別に権力ぶんまわしたわけじゃありません。

なんということ。天才お二人の後に凡才のわたくしでよろしいのでしょうか。しばらく考えます。

エピソード:軽音楽部

大学入ったら、クラブ活動。ともだちの中にはどのクラブにも入部しない者もいるので無所属という選択もあり得たのだろうが、乙四郎の思考回路は、大学入ったらクラブ活動。
乙四郎は軽音楽部と文芸部に入った。厳密には、医学部軽音楽部と医学部文芸部。山口大学は総合大学とはいえ、医学部は本拠地が宇部市にあるため、クラブ活動は独立している。小学校の鼓笛隊以来、音楽はいつも乙四郎の傍らにあった。ただし、常に傍ら。世の中には人生の中心に音楽が居座っている人も多いが、乙四郎の場合は、中心近くを既にいろんなものがうじゃうじゃと占めていたので、音楽が入り込む余地はなかった。
これまで乙四郎の人生には、いろんなエピソードが大なり小なり影響を与えてきたが、音楽はどうだろう。強いていえば、軽音楽部に入部したがために、ひかり寮、すなわち山口福音教会を一年で去ることになったことくらいか。以後、乙四郎とキリスト教との縁は、これっきりしばらく途絶えてしまう。BGMいえども、結構大きな影響力があったといえないこともない。
山口大学医学部のクラブ活動の本拠地は宇部市。放課後は山口線に乗り、宇部線に乗り継いで、宇部市で合同練習。練習が終わったら、宇部線に乗り、山口線に乗り継いでひかり寮へ帰る。こんな毎日。往復三時間以上。教養部二年生へ進級して授業のコマ数がぐっと少なくなると、宇部市に下宿して山口市へ通うほうが合理的である。乙四郎は進級とともにひかり寮を去った。

神桜 散らす風乗り トロンボン  (乙)

トロンボーンをふいていたのですか。

エピソード:山岳部

大学二年生になると、重要な任務がある。新入生のクラブ勧誘。乙四郎の軽音楽部はジャズとラテンがメインのフルバンド。特定のパートが欠落すると演奏のレパートリーが狭まる。ピアノのパートが卒業間際の一人だけだったので、この年の至上命題はピアノ奏者の獲得だった。新入生にジャズピアノができる女性がいるというので、乙四郎は、この女性に狙いを定めた。彼女は既に山岳部に入部していた。
来る日も来る日も乙四郎のアタックは続いた。まるでストーカー。本性は引っ込み思案の乙四郎、おそらく片思いの恋人に対してはシャイで口もろくに利けないであろうこの男が、こういう時にはやたら図々しくなれるのはなぜだろう。
そんなある日、彼女はこう言う。
山岳部の夏山行、参加してくれたら考えてもいいよ。
よっしゃぁ、登ったろうじゃないか。山登りの装備は気象大学校の時に揃えてる。
いやしくも 南極崩れの 乙四郎。

その夏、乙四郎は北アルプスにいた。槍、穂高と一体化。山というのは、人を哲学者にも詩人にもする。乙四郎の心が揺れた。山が好きだ。乙四郎は山岳部に入部した。そして、やはり彼女は軽音楽部には入部しなかった。
やがて、乙四郎は軽音楽部を退部した。山岳部と軽音楽部との両立は無理なのだ。音楽は乙四郎にとって脇役にしかすぎなかった。
その後、剣岳のオーバーハングで宙ぶらりんになったり、視界数メートルの吹雪の八ヶ岳でアイゼンを絡めて転落したりと、死神とのニアミスを何度か繰り返した末、乙四郎は遂に山岳部長にまで登りつめることとなった。山では、なぜか「死」に鈍感になる。難易度の高いコースに挑む時、生きて帰れないかもしれないな、との思いが頭を掠めるが、それでも登りたい気分を抑えられない。山は宗教的である。山は人の魂を揺さぶる。宗教的な気分が高揚すれば、戦場に向う若人だって「死」に鈍感になるのかも。

白尾根の 岩にしみ入る 木乃伊取り  (乙)

うーん。
このぶぶんは、乙四郎の青春物語だな。
裏に恋愛があるんだろうな。恋がきっちり書けてなんぼなんだろうね、きっとほんものの小説家ってさ。
こないだ、眞鍋呉夫を何と呼ぶかがわからず、小説家と書いておったら、前田圭衛子先生が、「作家、でしょうね」とおっしゃった。小説家と作家。たしかにことばはちがふね。ニュアンスもね。

色恋をまったく書かずに感動大作を創作しちゃう小説家もいます。たとえば北杜夫の「白きたおやかな峰」。この作品は、まさに山に恋してしまった主人公の物語。そういう意味では恋をきっちり書いているのかも。
乙四郎がここで発表しているような私小説もどきノンフィクションエッセイの場合、恋は書けませんよね。相手がある話なので。

淡雪の 恋はフィクション 姫のごと (乙)
  

乙四郎。
今日、そちらへもらんちゃんと広告をとりにあがろうかとおもいましたが、時間切れでございました。

「死海のほとり」
滅多にあけない天袋をあけたら、背表紙が真っ先に見えた。まるで、読んでといわんばかり。しかたなく手に取り、箱から取り出し、染みだらけの古い本をひらく。さいごに昭和四十八年八月十三日姫の恭こって文字があった。女学院に入った年。この本はこの年の六月に出て、私が魚町のナガリ書店でかったのは三刷。なぜよみたくなくなったのかも判明。しおりが入ってた。江藤淳と遠藤周作の対談。それ読んだだけで、もうじゅうぶんって感じたんだった。読んでもいないのにわかった気がしたんだ。そういう横着なとこがあるんですよね。

「死海のほとり」
乙四郎の場合、江藤淳と遠藤周作の対談を読んで、なおさら早く読み上げたい気になるタイプのようです。
遠藤周作は「おバカさん」で衝撃を得て以来、キリスト教との距離の置き方に妙なシンパシーを感じる存在でした。ガンジス河の支流の川岸のあちこちで死体を焼いているなまなましいところを出張先で目撃した時期と「深い河」を読んだ時期も重なります。
すべての作品を読みつくすほどの遠藤ファンではないのですが、読んだ作品に関しては、外れはなかったので、きっと死海のほとりも感動するのではと思う。今、読書中。できれば明日、仕事をさぼってでも読了したい気分。

乙四郎。
ゆうがたのテレビニュースで、入学式の映像をみました。たのしかった。あなたはいつもにこにこしてる。それでほっとします。どんなときもだいじょうぶなきがする。なんか「のび太くん」みたいでした。
ところで、むすこにきいたら、がちんがちんに緊張していたので、学長のはなしは全く覚えてないってさ。報道陣がきてたからじゃなくて、同年代の人たちがまわりにいたからだって。・・純情なやつだな。

週何時間かの社会人コースとかあると、私も行きたいなあ。

夕方のNHKニュース、乙四郎が出ていた・・・といっても大学のニュースじゃなくって、3月の福島小学校生による白壁の町案内のニュース。結構、露出度が高かった。

あ、やはり。ごはんをつくりながら、ちらちらみてた。連句した日に乙四郎が教えてくれた、八女サロン虹の前にあったかまぼこやさんがちょこっと写ったね。ん、乙四郎みたいなおっさんやとおもったら、やはりそうだったんだ。笑
まりさん。そういうクラスも将来できるんでしょうね。あの学校へいってみて、「拓」とか「展」とか、未来への種子がうまっていると感じた。ストーンサークルみたいな原石みたいな地。

乙四郎です。

以前、タイの田舎町に赴任してた頃、「のび太」と言われてました。

あはは。みんなおもうことはおなじだね。

今日のニュース:「しらせ」航海終える
乙四郎が南極を目指していた頃は「ふじ」で、「しらせ」は昭和58年に進水したばかりの新鋭船だった。光陰矢のごとし。
乙四郎は、数年前、「しらせ」で旅立つ観測隊員の壮行会に出席したことがあります。家族と隊員との別れを惜しむシーンがあちこちで。こどもを抱いた奥様もいます。
毎朝の いってらっしゃい なぜ夜に  (乙)

壮行会に参加してわかったこと。壮行されるのは報道される約60名の観測隊員ばかりではないということ。氷に閉ざされた海で「しらせ」を安全に航海させる重要な役割を担っているのは大勢の若い自衛隊員でした。こちらの家族でも、あちこちにミニドラマが展開されていることでしょう。

はい。九時に帰りました。
そうでしたか。
いま、打ち込ませていただいている特攻隊員の記録、をよみ、おなじような感慨をもちました。はじめて知ることがたくさんあります。

エピソード:露語 - 山口大学編(1)

大学というところには、どこにも、ひとりふたりは超がつくほどのユニークな先生が棲息する。山口大学では、保健体育のW助教授がそうだった。東京外語大ロシア語科を卒業後、東京大学へ学士入学して体育学を修めたという変り種。授業では、時折、ソビエト連邦の話題が登場したりした。
一年生の正月明けに、レポート提出の課題があったので、レポートの冒頭に“С Новым годом!”(あけましておめでとう)という露語を、露語を学んだものにしか書けない筆記体で書いて提出した。当時は、NHKの語学講座でも露語は扱われておらず、外語大にでも通わない限り露語を学ぶ機会はないので、田舎大学の学生の一人がレポートの一角に露語を書いたのは驚きだったに違いない。乙四郎とW助教授との交流が始まった。
乙四郎には、気象大学校でせっかく学んだ露語が中途半端に終わったことが心残りだった。W助教授の教室に通うことで、再び、露語の世界に浸ることができた。
二年生になると、新たな夢が。W助教授はモスクワに知己が豊富である。モスクワに短期語学留学しよう! 大学を一年間休学するくらい、ソビエト連邦の異文化体験ができることに比べれば、何の抵抗もない。
ひとたびモスクワ留学という目標を定めると、居ても立ってもおれなくなる。イズベスチア(Известия:ソビエト連邦の日刊紙)を定期購読した。日刊紙だが船便で1~2週分がまとめて届く。日本の日刊紙を購読するよりはるかに安いのが驚き。
ところで、昭和50年当時の日ソ関係は、田中首相の中国接近で険悪化。首脳会談は途絶え、昭和55年のモスクワオリンピック参加ボイコットにまで至るとことん冷えた関係は既に始まっていた。気軽に誰でも研修留学ができるような時代ではなくなっていた。実際上、日ソ交流協会員以外がビザを取得することは困難な情勢となっていた。乙四郎の夢を叶えるためには、日ソ交流協会に加入するしかなかった。乙四郎は、入会金を振り込んだ。
                                    (つづく)

固雪に 夢封じ込め 待つ日和  (乙)

へえ。露語って反逆的なひんまがった字ですね。かがみ字みたい。

エピソード:露語 - 山口大学編(2)

乙四郎の熱意空しく、その後、日ソ関係は悪化の一途を辿り、日ソ交流協会員なれども留学ままならぬ情勢となった。乙四郎の束の間の夢は消えた。後には何も残らなかった・・・ということはない。とんでもない事実だけが残された。

ここに一人の未成年大学生がいる。
彼には大学中退歴がある。
彼は、関東の大学で○○派系新聞の編集に携わっていた。
彼は、法を犯して国外脱出した前科がある。
彼は、立て看書体が書ける。
彼は、ソビエト政府発行の新聞を購読している。
彼は、日ソ交流協会員である。

日本は平和な国家であるが、その裏社会には、この平和を守っているのは自分たちだと信じて疑わない公認の巨大組織がある。その組織の名前は書くことができない。書いたが最後、彼らの検索エンジンが直ちにこのブログを突き止め、監視する。そのくらいの強力な諜報能力を有する巨大組織が、その未成年大学生をマークしないはずがない。
その大学生は、ある日、近所に住む下級生からこう囁かれた。あそこに下宿してる学生のことを訊きたい、と、先輩のことを根掘り葉掘り聞き込みに来た人がいますよ、と。
その後、何かことあるごとに、乙四郎の周辺には黒い影が付きまとった。国家的重要イベント、たとえば東京サミットだとかやんごとなき方の在位○○年記念式典だとかの時には、ひと月ちかく、職場の廊下に、街中に、終電の車内に、同じ顔を見かけた。休日には必ず間違い電話がかかり、乙四郎が家に居ることがわかると、切れた。

昭和も終わりに近づいた頃、ある事件を境に、黒い影は消えた。そのイキサツについては、残念ながらここでは書けない。書けば、また、黒い影が現れる。

菊色に アカ交われば 刈り取らむ  (乙)

今、NHKの露語講座を漫然と眺めながら書いています。平和な世の中になったものです。露語もタイ語も響きがいいので好きです。

何の接点もない乙四郎であったが、ここにきてちょこっと接近。わたくしはノンポリ三無主義いまだにではありまするが、上記の文の一点に関して圧倒的共感をおぼえた。笑

警備会社の教官には警察obが多い。大手門のビルの屋上で、警棒術とか敬礼の仕方とか教わった春の日のことをいまだに忘れない。サツ用語はひびきがいいのですきです。がさいれ、とか、いいたくないならいわなくていいですよ、とか慈悲深いです。

「サワッディー、カ」(合掌)
世界には、知らないことが多い。
思わぬ怖いことになるものですね。
その経歴では、さもありなん(笑)
ハワイ旅行→国外脱出

エピソード:露語 

すごい話ですね。

テレビや新聞に現れる出来事と言うのは、
水面下でいろんなことがあったあとのほんのうわずみだけだと思います。
特に戦争の事を少々勉強してからそう思います。
現在起きている国際間の出来事でも、ことごとく60年前の世界大戦、日清日露戦争、明治維新までさかのぼって引きずっている事を知りました。

エピソード:コンピュータ - 山口大学編

気象大学校のコンピュータは紙テープにプログラムを打ち込む面倒臭いものだった。それでもタイガー計算機よりはるかに早く計算結果を打ち出してくれた。山口大学では、プログラムをパンチしたカードの束を工学部の電算機センターに提出すると翌週には計算結果が打ち出されてきた。フェルマーの最終定理の検証の真似事ができた。
医学部というところは学年が進むにつれ勉強が忙しくなって、余計なことに時間を割く余裕などないのだが、悪いことに、基礎医学を終えて臨床医学を学ぼうかという大事な時期に、「マイコン」なるものが新発売となった。個人で所有できるコンピュータ。ものすごく高価だったが、飛びついた。臨床医学の勉強もそこそこに、下宿へ帰るとプログラミング三昧の日々。精神科医になりたいという強い意志が揺らぐことはなかったが、考え方の筋道をプログラムとしてセットし、そこにデータを与えると何らかのアウトプットが出てくるところに、人間の精神構造を探るヒントがありそうな気がした。面白かった。
パソコン時代の黎明期のことなので、自作プログラムを投稿するとコンピュータ雑誌にほとんど掲載してもらえた。業界ではそこそこ名も売れた。当時の投稿常連は、その後、どんどんメジャーとなり大富豪への道まっしぐら。ビルゲイツも西和彦も同時代のライバル。ひとり乙四郎のみ、医師国家試験が迫るにつれ、さすがにそれどころではなくなり、大金持ち路線から脱落した。まさに時代変革の主役にならんとしているコンピュータ業界に身を投じることよりも、乙四郎は精神科医になるという初心を貫徹するほうを選んだ。生身の人間を選ぶか無機質な機械を選ぶかの究極の選択における、乙四郎なりの結論だった。

エピソード:病理学特別実習(1)

「病理学」というのがある。病気の成り立ちを探る学問。解剖学や生理学・生化学で(正常な)人間の構造や体の営みを学修したら、次に病理学で人間の病変について学ぶ。病理学が身についているかどうかが試されるのが、病理学特別実習。亡くなった人の臓器標本が課題として与えられ、その死因を当てる。臓器標本を肉眼的に見ておおまかに病名を推定し、さらにその病名ならば変化が見られるであろう部位を顕微鏡的に見て病名を確定する。その病名が正解だったら、さらにその患者のカルテを参照することが許され、死に至るまでの経過を検証する機会が与えられる。死因として数が多い癌の場合、肉眼的にも病変がわかりやすいし病状進行の経過も短いので簡単だが、乙四郎のグループに与えられた課題標本は他のグループとは明らかに違うものだった。
乙四郎のグループには、解剖学実習の時にも、唯一、実習終了後にご遺族と面会することになっているご遺体があてがわれた。目の前に横たわっている「物」に対する余計な感情を消し去らねば、解剖学実習などやりきれない。淡々と「物」を切り刻んでスケッチしている他グループを横目に、乙四郎のグループだけは、感情のかけらがつきまとう「物」を相手に奮闘する日々を過ごした。顔を切り刻むことはできず、ロシア語の図譜(やらた詳しく、かつ安い!)を書き写すことで乗り切った。おかげで、ご遺族は火葬場で、棺桶の覗き窓から再会を果たすことができた。学友たちがスケッチブックに彩色しているとき、乙四郎は頭だけになったご遺体に死化粧をほどこしていた。おしろい顔に薄紅を入れた。瓜二つの妹さんを見て「復活」を感じた。
病理学特別実習で乙四郎のグループにあてがわれた臓器標本は若いものだった。二十歳代と推定された。肝臓が硬くなっていたが、それが死因となるほど進行した肝硬変でもなかった。他には肉眼的な異常はわからなかった。  (つづく)

おお。
リアルだ。
咄嗟にいろんなイメージがうかんだ。

いま読んでいるマンガ(ブラックジャックによろしく)のがんの巻や、父方の義理の祖母がすい臓がんでなくなり、その死因は解剖で判明したのですが、その解剖をやってる現場を偶然ぱっと開けてしまったこと、一瞬だったけど、血の色が飛びこんできてショックでうわっと。
安西均先生の晩年の詩に献体の詩がありまして、具体的なイメージとしてホルマリン漬けにされたじぶんのからだをだしておられる。それがじっさいにみてきたようにこころにのこる。
乙四郎。
全然関係ないんやけど、連句でこのあいだフェルマーの最終定理ってことばを使った。きれいなひびきのことばだったから。初裏の立て句。
フェルマーの最終定理梅雨長し(元句)
夏。前田先生が一直なさいまして、次のようにかわりました。
フェルマーの最終定理梅雨終る

じぶんはそれがどんな定理なのか知らんとです。でも、たしかに一直句のほうがすかっとしていいように感じました。

フェルマーの最終定理は360年もの長い間、世界中の数学者を悩ませてきた難問で、この360年というのは数学界の長梅雨みたいなもの。でも、十数年前、証明されてしまい、梅雨は終わってしまいました。

すみません、質問です。昔の病名で、「精神分裂症」は遺伝するものでしょうか。簡単なお答えでけっこうです。名前はふせさせてもらいます。

うわ。こんな重い問いかけがなぜこのサイトに?
竹橋乙四郎が答えるのはどうなんでしょう。
でも、しりたい気もする。それは最近、てんかんについて考えるからですが。あれは遺伝病と思ってきたのですが、家系に一人もいなくても突然てんかんになることはありうる。それと同じで、分裂病は遺伝すると考えられてきたが、そうではなく、気質や環境がおなじことによることが大きいということを、いつか専門書で読んだ記憶があります。・・・自分でかきながら、なにを言ってるのかさっぱりわかりません。いつものことですが。
名無しさん、きくところをまちがっておられますよ。ごめんなさいね。これがせいいっぱいです。

統合失調症(旧称:精神分裂病)

世の中には発病メカニズムが良くわかってない病気が多く、この病気もそんな病気のひとつ。遺伝性については諸説あります。結論は「わかりません」ですが、ネット上に氾濫している情報に惑わされないために、ここで読むのを止めず、続きを読んでください。

まず、まぎらわしいのが、家族性(家族集積性)と遺伝性との混同です。昔は、ハンセン氏病も遺伝するといわれていました。実際は、この病気は感染症で、遺伝性は全くありません。しかし、母子間くらいの濃厚な接触が続かないと感染しないくらい感染力が弱い病原菌だったために、あたかも母子間で遺伝するかのごとき誤解が広まりました。家族は共通の環境に晒される運命共同体なので、環境要因が強い病気の家族集積性は強くなります。親兄弟が生活習慣病だったら、自分も生活習慣病のハイリスクです。

次にわかりにくいのが、遺伝性/家族性による発病確率と偶然性(自然発生性)による発病確率との違いです。たとえば、癌には遺伝性がある(厳密には、発病しやすい遺伝子型がある)といわれていますが、そもそも、誰でも、一生のうちに2人に1人は癌になる可能性があるわけで、親ふたり子ふたりの家族で親のうちのひとりが癌になり、子のうちのひとりが癌になるというのは、遺伝性がなくても普通に起こり得ることなのです。
統合失調症の場合、臨床上の実感として、統合失調症と診断した患者に、数十人にひとりくらいの頻度で統合失調症に間違いなさそうな親がいます。強く遺伝性あるいは家族性を確信したくなるくらいの頻度ですが、冷静に考えると、そうはいいきれません。
統計的には統合失調症の発病確率は100人に1人です。50組の親(計100人)と50組の子(家族平均2人として計100人)がいるとしたら、親の集団の中に1人、子の集団の中に1人が発病するわけで、たまたま同一家族内に重なる確率は50分の1。数十人にひとりという臨床上の実感は、実はごく普通に起こり得ることなのです。

遺伝性が証明されている統合失調症もあります。特定の遺伝性疾患が基礎疾患としてある場合です。そのうちのひとつについては、エピソード:病理学特別実習(2)で書きます。

ありがとうございます。いつもは明るく振舞っていますが、常にこの問題が潜んでいます。親が精神病棟に入院していることは誰にもいえませんでした。偶然看護師をしている同級生とびょうとうであったときは、顔を伏せて行き過ぎるのがせいいっぱいでした。
兄弟とこの話をする機会も避けて通っているのが本当のところです。すこしあんしんできました。関係のないブログだから聞けるんです。突然お邪魔してごめんなさい。ほんとうにありがとう。

名無しさん
乙四郎の前職(国立精神・神経センター)付属の精神保健研究所では精神疾患の遺伝性について研究テーマにしていましたので、そこらの根拠のない情報よりはまっとうな回答ができるのではないかと思います。名無しさんがここに質問されたのも何かの縁でしょう。
精神科医療については、これからの乙四郎エピソードにしばしば書いてゆくことになりますので、いろんな疑問も生じてくるかと思います。ただ、ブログが炎上しやすい話題でもありますので、御質問を真っ正面からぶつけられないほうがありがたいです。こちらも、できれば、時間をかけて文章の中に小出しにしながら乙四郎の見解を書いてゆきたく思います。

エピソード:病理学特別実習(2)

乙四郎のグループの組織標本は、比較的若齢で肝硬変になる病気としてウィルソン病という遺伝性疾患が疑われた。銅がうまく代謝されなくて大便中に排泄されず、肝臓に蓄積して肝硬変をきたす。この病名に特徴的な病変を顕微鏡的に確認すると、間違いはなかった。肝臓に多量の銅が沈着していた。問題は死因であるが、致死的に進行した肝硬変ではなかったので疑問が残った。病名は正解したので、この人物が入院していた病院へ行って保存カルテを閲覧することが許された。
彼はやはり二十代の若さであった。ただ、死を迎えた場所は病院のベッドではなかった。地面に自然落下して天国へ召されていた。病理学特別実習でこのようなケースが課題となるのは本当に稀なことである。死因の欄が病名ではない。病棟も精神科病棟である。
カルテは、入院時の彼の体のあちこちの打撲傷についての記載から始まる。狐憑きを追い払う儀式の痕跡。彼は、昔からの伝統文化に守られた風光明媚な田舎の出身だった。
ウィルソン病では、脳にも銅が蓄積し、幻覚を招く。肝臓の病変による症状は出にくいので、病気の発見は精神科受診がきっかけとなることも多い。精神医学的にはしばしば精神分裂病(当時病名)という診断が下される。彼には何の罪もない。たまたま銅の代謝異常という遺伝的素因を先祖から受け継いだだけ。余計な銅を体外へ排出する薬があるので、診断さえつけば病気の進行を止めることができる。この病院の受診によって精神症状の進行は止まったであろうが、それは正常な思考と幻覚に支配された異常な思考との同居状態がずっと続くことを意味する。苦しかったろう。
この病気は早期に発見すれば薬でコントロールすることができる。すなわち発病せずにすむか、発病しても軽症のまま生涯を全うすることもできる。精神科疾患への偏見が災いして、受診が相当に遅れたのみならず、親兄弟や親戚から鞭打たれ、あげくの果て、自ら生きることに終止符を打ってしまった。彼の人生っていったい何だったのだろう。彼にとって精神科医とは何だったのだろう。

うわ。
やっぱり乙四郎はお医者さんなんだ。
なんだか呼び捨てがはばかられる・・

上のはなしが、銅の代謝異常という体質の遺伝で統合失調症をひきおこす例ですね。早めにきづいて手をうっていたら、助かる命だった例でもあるんですね。
名無しさん。わたしはこの乙四郎の回答を読んで、ひじょうにいたましいものがのこります。偏見はまだありますものね。なによりまずじぶんのなかにです。ずっとその偏見と、自分もおなじようになるのではないかというおそれと闘ってこられたのでしょうか。
いろいろと悔いの多い人生をあゆんできたことです。いえ、これはひとりごとです。

エピソード:医学祭

>なぜお医者さんにならんかったの。
最後の謎ときは、次のエピソードで書きます。厳密には、
>なぜフツーのお医者さんにならんかったの。
お医者さんをやらなかったわけではなく、医師免許証が必要な仕事を最初の二年と昨年に四か月だけやりました。あと、臨時に職員の健康診断で何度か白衣を纏いました。
従って、山口大学編で書くのは、もっと厳密には、
>なぜフツーのお医者さんになるのを断念したの
でしょうか。次の回で書きます。いよいよクライマックスです。今回は伏線。
(以下、である調。)
さて、医学祭。医学部学生による文化祭だが、こういうお祭りごとは大好きだ。強烈な思い出としては、乙四郎の作品がポスター図案に採用されたこと。最終選考まで残り、美術部員と争って勝った。町中、あっちにも、こっちにも、自分の絵が飾られている快感!!
軽音楽部のフルバンドに会場を埋め尽くす観客が聴き入っている快感、文芸同人誌掲載の自分の作品をたくさんの人が読んでくれている快感、パソコン全国誌に掲載された自分のプログラムが全国のパソコン上で動いている快感、そんなふうな、個人相手ではなく、大衆を相手とした活動に快感を覚えるようになってきた乙四郎であった。
医学祭のもうひとつの思い出に、特別講演の出演交渉。結果として断られたものの、北杜夫氏、なだいなだ氏と手紙で交渉した。どちらも乙四郎の好み、精神科医兼作家。北氏からは自筆のユニークな断り文をいただき、お宝に。なだ氏からは、やはり自筆の断り文で、追伸として近刊書の紹介が。さっそくそれを読んで読後感想文を送ったところ、次の年の医学祭には無償で来てくだった。何が嬉しいかというと、自分の文章が大作家に無視されなかったばかりか、大作家を多少なりとも動かしたということ。快感である。
医師の快感って何だろう?
自分の受け持ち患者の病気が治ること。
そりゃそうだ。尊い職業だとあらためて思う。

エピソード:精神科臨床講義(1)

教科書と通常講義による座学でひととおりの知識を得ると、次の段階として、生身の患者さんから学ぶ臨床講義というものがある。大学5年次前期のこと。5年次後期から卒業年次の6年次にかけては講義室ではなくベッドサイドを臨床各科数週間ずつローテートして学修するので、講義室での最後の仕上げということになる。臨床講義の頃から、医学生たちはぼちぼちと自分の進路を固め始める。乙四郎のように入学当初から(精神科医になるぞ!と)進路を決めているような学生は少数派であるが、進路を決めている学生にとっては、その臨床科の臨床講義を迎えるワクワク感はたまらない。患者さんに接することで、ちょっぴり医師になった気分が味わえる。疑似体験によって、自分の選ぶ進路に間違いがないことを再確認する機会である。
 精神科教授が乙四郎たちの前に連れてきた気品漂うおじさんは、コルサコフ症候群という病名を与えられた方であった。この病気は、ビタミンB1の欠乏によって起こる譫妄症状(ウェルニッケ脳症)が長期化したもの。普通に知的な会話ができるが、一定期間の記憶が吹っ飛んでいる。へべれけに酔っぱらった夜の翌朝の自分を思い浮かべればいい。昨夜の記憶が飛んでいる。そんな感じの症状。ただ、記憶の吹っ飛び方が尋常ではない。このおじさんは四半世紀くらいの記憶が空白だった。
ビタミンB1が欠乏するような栄養失調は、生存に必要なカロリーの大半をアルコールから摂取するようなアルコール依存症の患者に見られる。このおじさんも、呉服屋の若旦那の頃から酒びたりだったらしい。おじさんの直近の記憶は若旦那の頃の風景である。乙四郎が生まれる前の宇部の街の情景が、おじさんの口からありありと語られる。地元資本の大型デパートの所在地あたりの様子を訊ねると、デパート名と同じ商号の商店の番頭さんや丁稚たちの人間模様がありありと語られる。景気がいいので、きっと店舗を大きくすることだろう。
実に精神科臨床講義は面白い。乙四郎の興奮は、講義の間中、醒めやらなかった。
(つづく)

おつかれさま。
ああつかれた。机、椅子はこび、重かった。やっとあしたおわる。同窓会。乙四郎も来たら。知らない顔して。中学時代のなつかしい同級生に会えるよ。らんちゃんやぼんや整子、たからさんのご主人にも。学校の宣伝のためにもどうぞ、ご遠慮なく。みんなで歓迎いたします。
さて、ひさしぶりのいしをなげるですね。精神科の臨床講義、面白いだろな。三年心療内科にいたから何となく想像できます。

エピソード:精神科臨床講義(2)

興奮の精神科臨床講義を終え、ふと我に帰ると、何か心に引っかかるものがあった。医学の中でもとりわけ精神医学が面白いということは実感した。人間観察に人一倍興味がある乙四郎のような人間がそれを生涯の仕事とすることに、何の問題もないように思えた。しかし・・・。

小学校校歌:学びの道をふみわけて(中略)はげめ世のため人のため

そもそも乙四郎が医師を目指した原点は何だったのか。人間観察という自分自身の興味が満たされれば、それでよいのか。救いを求めてきた患者の病気を快方へ導くこと、これが医師の喜びではなかったのか。自分のため、じゃいけない。人のため、これが原点。
コルサコフ症候群のおじさんは、いかに精神科診療を施しても、失った記憶が戻ってくることはない。このおじさんにとって、精神科診療とは何なのか。精神科医は、このおじさんにどういう幸せをもたらすことができるのか。このおじさんはどういう救いを求めてきたのだ、このおじさんに何をすればいいのだ。このおじさんの診察(人間観察)に異常な興奮を感じる乙四郎は、はたしてどんな精神科医になろうとしているのか。
その後、臨床講義を重ね、やがて精神科病棟実習を経験した乙四郎は、はっきりと自覚した。乙四郎を知的に興奮させる患者を、乙四郎は本気で治そうと思ってはいないのだ。医師として最も重要な資質に、乙四郎には重大な欠陥がある。
精神科医療の本当の問題点は、精神科診療の場じゃないところにあるのではないか。乙四郎がうっすらそのことに気づきかけた矢先のこと、公衆衛生学の講義で山陰のとある保健所長が外来講師として教壇に立った。彼は言った。臨床医になるだけが医師の道ではない、行政で働くという道もあるぞ、と。彼は、精神科の医局を飛び出して行政医に転換した経歴の持ち主であった。

合 掌 句:みほとけのみめぐみにより(中略)世の文化(ひらけ)につとめ、社会(よ)に光明(ひかり)を捧(ささ)げむ

(エピソード:とりあえず医師になる   につづく)

同窓会つながりでいえば、福中出身者に、乙さんの事をご存知かとおたずねした。せいちゃん(女性)おぼえていない。
池ちゃん しばらく考えた後、一番成績が良かった人。ずーっと一番やった。
えいてん  俺と親戚らしい
そういうことでした。あんまり関係ないか。

池ちゃんというのは池松さん獣医さんだそうです。打ち上げのとき、この人とえいてんと邦子ちゃんの横にぐうぜんいたのですが、このひともビールはのんでいなかったな。いっしょにソフトクリームをたべた。そのあと、アイスクリームのデザートがきて、それもたべた。うへ
で思い出した。高校時代、学校帰りに福島の岩田屋フードセンターでらんちゃんやくんちゃんやミータンやらとソフトクリームやなにやをよくたべていたなあって。

アフリカ支援
聖マリア病院グループは国際協力に熱心で、四川省の医療チームへも職員を派遣しています。ミャンマー援助へも、今日、ひとり派遣されました。
東京ではアフリカ支援の会議が開催中です。乙は、マダガスカルのエイズ対策協力の協議のため、このたび上京してきました。マダガスカルJICA事務所との国際TV会議。
緊急援助ではない場合、日本の国際協力は、自立を促すことに主眼を置いた技術移転です。日本の国際協力活動は、よく、「飢えた人々へ魚を配るのではなく、魚の釣り方を教える」のだと例えられます。しかし、アフリカ諸国は依存心が強くて、なかなか国際的支援なしに自立できる状況にはなりません。宗主国(イギリス、フランス)が独立心が育たないように介入してきた長い歴史のためか、彼らは依存心からなかなか脱却できないのです。マダガスカルのような仏語圏の国の旧宗主国はフランスなので、フランスが責任もって彼らを苦難から救出しなければならないのでしょうが、経済的な魅力が薄れた国には見切りをつけて距離を置きがちです。日本はそのような国々へ、英仏の尻拭いに出向いているというわけです。
マダガスカルへも、かつて日本兵が上陸して連合国軍と戦ったのだそうで、あながち無縁な国ではありません。マダガスカル国民の幸福を願い、乙は頑張っております。

おつしろう。
そういうことでしたか。
なんだか、にほんがすきになる。ほこり、もてそう。

PR:大学の新しいパンフレットができました。
どんな大学なのか、少しはわかりやすくなりました。
「保健医療経営大学」で検索して、ホームページから「資料請求」してください。

いしになる。
聖マリア病院グループのやってる出張健診で、予定していた医師の都合が悪くなり、代役を探したものの、あまりに急すぎて見つからない。誰かいないか・・・いた、乙四郎!

・・・というわけで、本日の午前中は、肩書きを隠して県内某所で白衣に聴診器。昔取った杵柄。

皆さん、健診を受けましょう。診察コーナーで会えるかも。

おつしろう先生が以前書いていたことで、
[精神科医療の本当の問題点は、精神科診療の場じゃないところにあるのではないか。]

上記、謎としてこころにのこります。

テレビ「ドクターヘリ」をみていたら、番組が終わって、福岡の医療福祉大学ってなまえだったかな。そんな専門学校のコマーシャルが一瞬流れた。あ、保険医療経営大学とおなじようなんだ。とおもった。

エピソード:とりあえず医師になる

行政で働く、という進路があることを知った乙四郎は、厚生省を受験することにした。国家公務員試験ゆえ、合格するとは限らない。精神科医になるか、行政へ進むかの葛藤を抱えたまま、とりあえず受験のために上京した。受験に際して、行政医の先輩たちの話を聞くことができた。とりわけ印象深かった先輩の話。
「自分もすいぶん悩んだ。臨床各科へ進んだ先輩、研究へ進んだ先輩、行政へ進んだ先輩、卒後5年目くらいの先輩たちの中でいちばん目が輝いていたのが行政へ進んだ先輩だったので、この道を選んだ」
その先輩の目も輝いていた。
乙四郎の心は大きく行政医へと傾いた。しかし、臨床医の魅力も捨てがたい。このまま行政医となれば、一生、臨床から縁遠くなる。学生時代の臨床実習で、臨床医の真似事は嫌というほどやった。臨床医の世界は垣間見ている。しかし、臨床医としての「喜び」を味わったことはない。患者からすべてを委ねられ、その信頼に応える喜びを体験できるのは「主治医」として患者との関係が樹立できた者だけである。学生の分際では決して「主治医」体験はできない。行政医にもなりたい、されど「主治医」としての喜びも味わいたい、どうしよう。
やがて厚生省から合格通知が届いた。昭和55年度の国家公務員上級職採用者名簿に登載されたとのわかりにくい通知。訊けば、年度内に入省すればよいとのこと。入省のタイミングは、4月、7月、10月、1月。
乙四郎は申し出た。「1月に入省したく存じます」
4月(厳密には、医師国家試験に合格して医籍登録した5月)、乙四郎はとりあえず臨床医となった。山口大学病院で精神科診療の日々。主治医として受け持った患者の治療に全力投球し、思いのほか、患者の多くは劇的に快方へ向った。向精神薬の進歩は目覚しく、他科と同様、手遅れでないフレッシュな精神疾患は治せる病気なのだという実感を得た。わずか9か月ではあるが、乙四郎は主治医の喜びを存分に味わうことができた。
中には、どう頑張っても良くならない者もいた。薬で幻覚や妄想を除去することはできても、心を覆う暗い闇がどうしても晴れない。その原因を除去するアクションを起こすまでに四半世紀を要してしまった乙四郎であったが、そのことについてはいずれ。
昭和55年師走、乙四郎は荷造りを始めた。荷物の宛先はわからない。1月1日付けで厚生省に採用されることだけは確定しているが、配属先がどこになるかは直前まで明かされない。配属される可能性は、北海道から沖縄まで、どこだってあり得るのが国家公務員。過酷な引越し人生の幕開けであった。
(エピソード:保健所で働く へつづく)

お疲れ様です。学校で成績が一番だった人の人生は、どのように進んでいくのかという疑問がむかしからありました。私の周りにはその条件を満たす人がいませんでした。今回乙四郎さんを知ることとなり、疑問が解消しそうです。単純に興味本位です。ごめんなさい。
これからも、楽しみにしています。

続き、かいてくれてありがとう。

昨日謎とかいたところ、こころあたりがないわけじゃない。じぶんのさがをじっとぎりぎりまで見切る、これが若い時点でできたというだけでもすごい。できそうでなかなかできないことです。

いしを投げる冒頭、いとこの子は秋、はれて結婚するそうです。おいしになってました。嬉しげに佐世保の伯母が報告してきました。かれはきちんとした戦記*を遺して逝ったおじの孫にあたります。いとこは姉妹二人でしたので、うちとおなじく、養子のようで養子じゃないかたちの結婚をして、姓がご主人のです。これ書きながら、あれ、うちとおなじだったんだ。ときづいた。けっこう、おおいなあ。

*「戦記」カテゴリーから「伯父の戦記」たどれます。これもご縁ですね。(名前に貼り付けました。さくらさんとのご縁がこのころから始まってるのがわかります)。

それと、ぼんへ。
連句のとき、いただいた円ブリオの小冊子、ありがとう。去年だったかな。あのマザーテレサのことば「日本は豊かな国です。でもこころの貧しい国です」、「張形としての俳句」(九州俳句に連載)に自分も引いてた。これも打ち込んでた。「九州俳句」カテゴリーの「張形としての俳句」2です。十二回くらい書いたかな。今回、かけなかった。


ブログ管理人様へお願い

乙四郎はいよいよ上京です。患者を診断して治療する臨床医の世界を離れ、「社会を診断し治療する」という行政医としての人生がスタートします。「社会」は、やがて日本国内にとどまらず地球全体へと大きくなってゆきます。「診断・治療」も軸足が大きく「予防」へと動きます。
この門出を祝い、新しいタイトルを立てていただけませんか?このタイトルに辿り着くのに桜の季節までタイムスリップしなければなりません。時はもう、牛の竹篦の季節ですので。

うしのしっぺいの季節。

(しっぺがえしって竹篦から来たのかな)

おつしろう。おまたせ。思う存分石をひろってくだせえ。

エピソード:B型肝炎母子感染防止事業
B型肝炎という病気。血液を介して移るので、この病気の予防知識が乏しかった時代には日本中に蔓延していた。B型肝炎ウィルスを保有している人(キャリア)が国民の2%もあった時代。B型肝炎は「国民病」と称されていた。
そんな時代を生き抜いてこられた高齢の方のキャリア率は高い。すなわち、高齢者の肝硬変、肝癌も多い。乳幼児期に感染するとキャリアになりやすく、キャリアが次の世代へとウィルスを引き継いでゆく。
輸血血液のチェック体制が充実し、血液が付着する医療器材が使い捨てになると、キャリア数は激減した。乳幼児期の感染機会は、ほとんど出産時の母子感染のみという状況になった。
乙が医系技官として厚生省児童家庭局母子衛生課に配属された昭和57年当時は、毎年、4000人の赤ちゃんがキャリアになっていた。この子たちがキャリアになるのを阻止できれば、次の世代にはB型肝炎の脅威が日本からなくなるはずである。
昭和59年、近くB型肝炎ワクチンが承認される見込みであるとの情報を得た。このワクチンをキャリアから生まれる新生児に接種することができれば、キャリアは激減するはずである。早速、昭和60年度の政府予算案に本事業を盛り込む検討に着手した。
新薬の承認情報は株価等に影響するので所管部局(薬務局)外には漏れにくいが、技官同志の情報網により予算編成に必要な情報は得ることができた。
大事業なので予算規模は例外的に大きくなった。
当時から予算要求には厳しいシーリング(要求上限枠)があり、大きい要求を上げる時には、他の予算を犠牲にする必要があった。局ごとにもシーリングが課されており、児童家庭局からの要求なので、局内の根回し、説得が必要だった。
肝炎対策は他の部局(保健医療局)の仕事だ、乳幼児期にキャリアになるとしても発症は大人になってからだから児童の健全育成を司る児童家庭局の仕事ではない・・・などなど、縦割り行政の論理を振り翳す抵抗勢力に対し、医系技官のネットワークをフル活用し、局シーリング枠の例外として全省的に取り組む事業と位置づけることができた。
その他、いろんな紆余曲折を経て、昭和60年度予算にB型肝炎母子感染防止事業を盛り込むことができた。事業開始後、赤ちゃんのキャリア発生は、年間400人に激減した。
(その後、ワクチンの改良や事業実施方法の改善により、現在はゼロに近くなっている。)
事業予算規模は、当時、地方負担もあわせて3億円くらい。
3億円あればこのくらいの大事業ができる。
わずかな臨床経験を経て、医系技官になりたての頃のエピソードだが、医系技官の業務に要求される「臨床知識」は半端ではなく、臨床医時代の数十倍は骨身を削って勉強した。当時、日本中のどの臨床医よりもB型肝炎については詳しかったはずである。

臨床経験がないことを理由とした医系技官無能論が喧伝されている昨今が腹立たしく、久々にエピソードを書きました。

(医系技官無能論の例)
   ↓

これで一つわかりました。
縦割り仕事を横に連携しながら、それぞれの部課で天井のある予算をやりくりしながら、ひとつの大きな仕事をやり遂げた官僚時代の乙四郎。
その陰には、血のにじむような努力があったのですね。

「その他、いろんな紆余曲折を経て、昭和60年度予算にB型肝炎母子感染防止事業を盛り込むことができた。事業開始後、赤ちゃんのキャリア発生は、年間400人に激減した。
(その後、ワクチンの改良や事業実施方法の改善により、現在はゼロに近くなっている。)
事業予算規模は、当時、地方負担もあわせて3億円くらい。
3億円あればこのくらいの大事業ができる。
わずかな臨床経験を経て、医系技官になりたての頃のエピソードだが、医系技官の業務に要求される「臨床知識」は半端ではなく、臨床医時代の数十倍は骨身を削って勉強した。当時、日本中のどの臨床医よりもB型肝炎については詳しかったはずである。」

さもありなん。一年半なんでかしらんが、きみのかばんもちをしているような按配のかささぎは、さもありなん・・・としみじみ思います。そんな人です。

長男が昭和60年生まれです。おかげさまなんですね。これまでまったくしりませんでしたよ。そういうたくさんの「おかげさま」があって、いまのわたしたちの暮らしがなりたっていたのだな。と、こんどの政権のおかげで逆説的におもい至らせてもらいました。

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