無料ブログはココログ

« はたらく車 | トップページ | いしをなげる。 »

2008年3月30日 (日)

串良基地慰霊祭における追悼文

串良基地慰霊祭における追悼文

       渋谷 幽哉

さきの大戦以来、すでに五十年になんなんとする今日、平成四年度串良海軍航空基地の特別攻撃隊出撃戦没者三百五十九柱及び二五四空関係四十九柱、計四百八柱の追悼慰霊祭が執り行われるに際し、当時宇佐海軍航空隊派遣の特別攻撃隊八幡隊要員として、当基地に在隊し、諸兄の出撃を眼のあたりにした生存者の一員として、慰霊のことばを申し上げることは、まことに感慨無量のものがあります。
ここに、つつしんで祖国日本の安泰と、民族の永遠の繁栄を願って、敢然と出撃・散華されたあなた方の御霊に、衷心よりまことを捧げるとともに、あなた方を家の中心として、将来を期待しておられたご遺族の思い切なるものを感じます。

顧みますと、あなた方が特別攻撃隊員として、全国各地の艦上攻撃部隊より、当基地に進出され、作戦に参加されたのは、「神風特別攻撃隊の記録」によりますと、四月十二日発令の菊水二号による九七艦攻十九機、四月十六日発令の菊水三号による九七艦攻八機・天山艦攻七機・四月二十八日発令の菊水四号による九七艦攻六機・五月四日発令の菊水五号による九七艦攻六機・五月十一日発令の菊水六号による天山艦攻十機、同じく五月十二日の九七艦攻一機。五月十七日、命によって、宇佐空関係、大宮飛行長、山田飛行隊長等、小生を含め九七艦攻六機原隊復帰。五月二十四日発令の菊水七号による白菊機練十一機、同じく五月二十八日発令の菊水八号による白菊機練七機、同じく五月二十九日、白菊機練四機、六月二十二日発令の菊水十号による白菊機練三機、及び六月二十六日の白菊機練六機を最後に当基地からの八十二日にわたる、突入と認められる総数百二十五機による特攻攻撃は終っています。私達が当基地であなた方と生活を共にしたのは、菊水二号より六号に至る四十日でありましたが、平常時に於いては、決して長い期間ではありません。然(しか)し、あの当時は、時々刻々自分の出撃命令を今日か、明日かと待つという極度に神経が張りつめた状態の日々でした。おかしいかもしれませんが、毎日の三度の食事の一度一度が自分の生きていることを確認する唯一の手段だったような気が致します。そういうように、常識では考えられぬ生活の中に、出撃命令が下るのは、決まって夜の九時頃だったように思います。

      (つづく)

この文章は、筆者の故・渋谷幽哉氏の息子さんで、たまたま竹橋乙四郎の学生時代の友人であった渋谷展太氏から、乙四郎が受け取ったメール添付の書類を、姫野もゆきがかり上いただくことができましたので、展太氏にはお断りをいたしてはおりませんが、参考のため供させていただきますことを、どうかおゆるしください。

« はたらく車 | トップページ | いしをなげる。 »

コメント

きょうは、これが幾度となくよまれています。
あすは、そういえば、全国的に春の慰霊祭が執り行われるようです。八女でも。
こんなに寒い春は、はじめてですね。参拝者は少なかろう。

「春寒いのと秋ひだるいのは辛抱ができん。」
といってたのは秀野の母上ですが、こんな言葉一つとっても、八女人がいったことばに思えるからふしぎです。ひだるい、ということば。ひもじいという意味です。

検索サイト Google  検索ワード 慰霊祭 追悼文

Yahooでもこれが一位です。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 串良基地慰霊祭における追悼文:

« はたらく車 | トップページ | いしをなげる。 »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31