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2008年2月27日 (水)

大石政則日記 その9

昭和二十年二月二十七日

明日、海兵七十三期偵察学生の卒業式につき、今晩祝宴あり。就床時、偵察学生の五、六名来るあり。中に北見少尉(註・北見中尉、昭和十六年佐渡中学より海兵に入り、政則の一年後輩で、昭和二十年八月十五日宇垣中将から神風特攻を命ぜられ、共に出撃、戦死。終戦後の無駄な死であった*) なるあり。小生を呼ぶ。佐渡中学より十六年に海兵に入りたる人なり。小生の手を握り「今迄仁義をきらなかったのは済みませんでした」 と言う。温厚なる人なり。今までかくと知らざりしを憾(うら)む。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

参照) 

* 宇垣纏中将

http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-ugaki.htm

上記から印象深い箇所を引用する。一人息子を終戦のその日に特攻死で散華させられた父親の慟哭。

「私にとっては、たった一人きりの息子でしたからなあ」

「軍の方でもその点を考えてくれるじゃろうち思うちょりましたが」

「やっぱあ非情なもんですな、そこまでは考えてくれんじゃったですなあ」

「とうとう特攻に連れて行ってしもうてですなあ」

「それも戦争が終わった放送の後でっしょうが」

「宇垣さんは部下を私兵化して連れて行ったわけですわ」

「私はそのことで、ずうっと宇垣さんを怨み続けてきましたわ」

「戦後しばらくは、その事を考えると気が狂うごとありましたもんな」

下は最後の地にたつ碑文。http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-ooita.htm九州沖航空戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%B2%96%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%88%A6

碑文

昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊はこの地より出撃せり

その時沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名 左の如し

宇垣    纏  中津留達雄  遠藤  秋章  伊藤  幸彦  大木  正夫  山川  代夫  北見  武雄  池田  武徳

山田  勇夫  渡辺    操  内海    進  後藤  高男  磯村    堅  松永  茂男  中島  英雄  藤崎  孝良

吉田    利  日高    保

 

旧制大分中学五十八期会一同  同五十七、五十九期有志一同  旧海軍有志一同

この日の日記は、前回(2/18)から九日も間があいている。
この間の慌しい戦況が思われる。
前回の日記には神風特攻の名前が出、これまでにない激しい調子に胸を突かれた。いてもたってもいられなくなる危機感、切迫感。今回の文中の「仁義をきらなったのをわびる」 同郷の後輩の姿、前回の「桜花隊白虎の志士、天誅岡村一家駐屯所」 、まっすぐ前時代の武士に通ずる。

前年二月の日記は、ほぼ毎日の記載がある。
なお、昭和十九年は平成二十年の今年と同じく閏年で、二月二十九日まであり、昭和二十年は二月二十八日まで。

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コメント

この日の日記はいろいろとあって、北見中尉の遺族とは本が出るに当たり連絡とりあったらしいです。

ひめのさんが書いてくれた最後の特攻隊の中の後藤高男さんは八女の人ですよ。
この出撃のうち、二機だけが突撃場所がおおよそ特定されていて、アメリカ兵が持ち帰った遺品がアメリカの資料館に展示されているそうですが、その遺品には後藤さんのものもある。

この遺品の事を、八女在住の弟後藤照男さんに知らせに行った時の、照夫さんのことばは次のようなものです。

私は九州の男を感じました。

「兄貴は随分彗星艦爆隊の教官をやっとんたんよ。自分の教え子たちがたくさん特攻へ出て行った。だけん、宇垣さんとおんなじ心境だったんやなかろうかと思うとったい。みんなば逝かせて、自分ばっかり残るわけにはいかんかった。
兄貴の責任感を、わしは評価しとるったい。兄貴の気持ちはようわかるけん。
わしも同じ海軍じゃけん、そげん教育ばうけよった。
宇垣さんが道連れにして行ってしもうたとか、そげんこっちゃなかとです」

後藤高男さんは、このなかでの一番年長者、指揮官の中都留大尉よりも年上だった。古参でもあった後藤上飛曹は、照男さんの言うように、最後の特攻に際してご本人なりの「責任」を胸に出撃して行ったのだろう。
「8月15日の特攻隊員」 吉田紗知著より

また、ひめのさんが引用してるサイトの管理人は私はよう知っとる人です。
この人東京でビジネスマンだけど、出張の多い仕事していて、出張のたび各地の知られざる戦死者の墓地に詣でて写真を撮ってきてるわけ。
このサイトには私が提供した写真も数枚あるよ。
桃割れの写真を集めてる人同様すごいと思わない?

こういう話は誰にしても感心もたれない。
ここでこういう話ができてうれしいよ、ひめのちゃん。

そうでしたか。
八女出身の兵士もいらっしゃったのですね。うがき中尉への非難は非難として、自分が同じ立場なら、同じように出撃せずにはおれなかったろうと思うし、また、部下であれば、上官一人をなんで逝かせるだろうかとおもった。武士の美学ですものね。時間がたって、ちゃんと靖国神社に祀られたとあるのをみて、安堵しました。
乱のときの美学と治のときのもののみかたとはまったくちがう。

ここへ中都留大尉を尋ねておいでいただきました。
ありがとうございました。佐渡島から。そうでしたか。

検索サイト Yahoo  検索ワード 大分 最後の特攻隊なかつるたつお


ご訪問ありがとうございました

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