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2008年2月14日 (木)

一枚の写真から

『朝鮮全土を歩いた日本人  農学者・高橋昇の生涯』 の裏表紙に、年端もいかぬ二人の少女(姉妹だそうです)が藁をしょって石垣の道を歩いている印象的な写真が使われています。それが気になって気になって、とうとう甲四郎先生に尋ねたところ、先生が返信を下さいました。以下全文引用いたします。

  
   高橋甲四郎です。

今朝から、

黒木町

のお寺(専勝寺)に行ってきました。

 お寺を出たら、雪が鉛色の天から、ひっきりなしに落ちて来ていました。

私は心の中で「バンザイ」を叫びたくなりました。

 日本は、雪が降らないと、どんなに寒くても「冬」の情感が

湧きません。

さて、あの本の裏表紙に載ってる高橋昇博士撮影とおぼしき

写真の、二人の少女がせおっているのは、

あれはなんの藁でしょうね。

麦藁とはちがうように感じられました。

でも、夏のようですし。

 この2姉妹の写真は、人の目を引くのでしょうか、今までの

亡父遺稿の学術書には大抵表紙などに利用されています。

 大阪経済大学の徳永光俊教授他2名(1名は私)で編集した下記の写真集の

解説で、あなたのご質問にお答えいたします。

【写真でみる朝鮮半島の農法と農民】

 この写真集にも同じ2姉妹の写真が掲載されていて、その下に

次のような解説が付されています。

  「大麦の束を背負って運ぶ少女」

           済州市禾北洞(193662日)

姉妹と思われる少女は、現在では使われていない筵を脊中に当てて、

大麦の束を運んでいる途中である。済州島は物を頭にのせて運ぶ風習

がない島である。少女たちも、荷物を背負って運んでいる。

金浄(14861521)は、そんな姿を見て不思議に思い、

「負而不載」と「済州風土記」に記している。

 以上でお分かりのように、背負っているのは、「大麦の束」です。

農業の専門家が解説していますので、間違いはありません。

 なお、解説に書いてありますように、朝鮮人の女性は、

物を運ぶとき、みんな頭にのせて運びます。だから、朝鮮人で

腰の曲がったお婆さんはあまり見かけません。

 しかし、この済州島だけは、頭に載せません。だから、写真を見ただけで

「ああ、ここは済州島だな」ということが分るそうです。また、ここは

台風などで、風を真っ向からから受けるので、ご覧のように、石垣塀

です。

 この済州島は、1274年と1281年の2度の「元寇」のとき、(当時神風と称

されていた)猛烈な台風のために、退却していった「元(ゲン)」の軍隊が

この済州島にたどり着いて、その子孫が住みつき、朝鮮本土とは異なった

風俗習慣が継承されているという説があります。またこの島では、現在も

小柄な蒙古馬使用されています。

 最後に、上記「写真でみる朝鮮半島の農法と農民」は、ヤフーで

「検索」出来ます。ただし、「写真で見る・・・」としてはダメです。

「写真でみる・・・」で検索してください。

 以上で、終わります。

甲四郎先生、ありがとうございました。
よくわかりました。麦藁が肌にあたるとチクチクしました。はしかになったときみたいにきもちがわるかった。だから、この写真の小さな筵ごしに藁をしょってる少女をみると、さりげない気遣いながら、親御さんの「こうすると大丈夫だよ」という声かけが聞えてくるようで、懐かしさと郷愁と同志愛がわいてきます。
それと、どうして自分の知っている麦と違うと感じたのかも、わかりました。それは大麦だったからですね。私たちが知っているのは、小麦でしたので、どことなく様子がちがいます。
下をクリックすると、写真も見れます。詳しく見たい方は本をお求め下さいますよう。↓

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コメント

これを読んで、なんだか深い感動を覚えました。生活というものが、現代は利便性で動いていて「苦労」とか「勤勉」とかは死語になりかけ、だから心が渇いているのに気がつかなくなっているのかもしれません。
関係ないかもしれませんが、朝は冬でも必ず窓を開けて布団を上げたものです。それをしなくなって久しいことを母が亡くなって、思い出しました。
ブログにも載せましたが、この言葉がしみ入ります。

《自力》と言っても違う。
《他力》と言っても正しくない。

自分に嘘のない日々をコツコツ生きていたら、不思議と計らいを超えた力が、
そっと後ろから押してくれた。

怖れをなくし、身をその力に委ね切ることができた時、道はおのずから開け
てきた。そこから喜びに満ちた精進が始まった。
〔嶋野榮道老師『愛語の力 禅僧ひとりニューヨークに立つ』より〕

私もその写真は先生からいただいた資料のどれかで目にしています。
印象に残る写真ですが、当時先生のお父さんが活躍されていた頃の何気ないかわいい写真として撮られたもののような気がしました。
当時の農村風景として特別のことでもなく、日本も同時期は大変な貧乏で戦後10年たった頃でも私たちも田んぼの手伝いをしていたわけだから、朝鮮でも同じだったんだなぁという風に見えました。

鍬塚さん、神崎さん、ありがとうございます。奇しくもお二人は同年代なんですよね。私は最近まるきり農業から離れてしまっていますが、幼い頃から手伝わされた農作業、民俗行事のことをよく思い出します。自分はそうだったのに、こどもには全く農作業を手伝わせなかったのはうかつだった。畑があるのに、趣味の園芸であることのつみぶかさ。気味悪さ。でも、まだオヤが頑張っているから救われる。これが私の代になったら。まわり、皆、そうです。

おりなす八女案内をみてましたら、高橋昇博士の写真展が開催中と案内されていました。
それで、ここ。
わらといえば、こないだ母がこんな話をしました。
雨がずっと降っていたので、かぼちゃの下にしくわらは稲わらじゃなくて、麦わらがよかった、と母が言います。麦わらの方が、水はけがいいんだと。
腐るから。

甲四郎先生ご自身も写真付きで西日本新聞に掲載されていましたね。
大学祭で連句に飛び入りされて挙句をいただいた結城先生も大きな写真入りの記事がありました。

え、気づかなかった。新聞読めてません。
ただ、山下惣一さんと結城さんの対談記事は見開きだったから、目に入りました。
振りかえれば、ありがたき縁でございました。お陰様です、学長さん。

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