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2008年2月29日 (金)

籾殻焼く

中国と日本でメタミドホス以後、情報が錯綜してますね。
中国のいってることは科学的ではぜんぜんないにしても、感情面からいえば、うなづけます。

中国の工場側:日本人のお口に合うように、いろいろ工夫をこらして、清潔も形を保って精一杯努力して、これまでうまくいっていたのに。

中国ののうみん:作った野菜に虫くいのあとがないように、いろいろ工夫をこらして清潔を保って、会社にうんと買ってもらって、それで虫殺しをまた買えたのに。自分の身にも農薬を浴びて、虫とおなじきもちをあじわってきたのに。

日本ののうみん:米を作っても、減反政策で一反の七分目くらいまでしか作らせない。でも農薬は一反ぶんまかねばならん。そう指導されてきたし、農協はそんな売り方をする。米をまるごと買い上げてくれたのは昔の話。今はほんのお情けくらいのお金しか入らない。かといって余った田を涙をのんで畑にしても、野菜は安い。とにかく米がもんだいだ。いま、輸入米がいったいどれくらい入ってきてるのか、だれか正確に知ってるならおしえてくれ。あなたが今日一日で食べる米、その米はどこの国の米ですか。それを書いた文字が商品にありますか。

これはまったく政治の問題なんだよね。
米だけは自由化したらいけなかったんだと思う。

鍬塚聰子さんの日記のひろばブログを読んでいたら、ダンボールコンポストが紹介された記事があり、「籾殻燻炭」という難しい農業用語に出会いました。もみがらくんたんと読むのでしょう。調べたら、なんのことはない。一昔前まで普通にみかけた、ばあちゃんじいちゃんが今もたまにやってる籾殻焼きであります。でも、あれって完全に燃やしたら灰になるし、ちゅうくらい燃すってのは、難しいのですね。なにもなにも知らなかった!http://suzuki.drivemenuts.com/blog/archives/2007/02/16_183857.php

追記)

父母に上記の作業をして籾殻燻炭(こんなこむずかしい名前では分からなかった。もみがらやきといいました。)を作ってたことを聞いてみた。ブリキの煙突のふもとには火種の木ぎれとか火をつける紙くずをいれた。できあがると、それは苗用に使った。この場合の苗とはイネの苗で、田植え前に籾を「種浸し」して発芽させ、それをパレットにちゃんちゃかちゃんちゃか撒いて、さらにその上から覆土といって、鳥がたべないように、土をかぶせるのですが、そのかわりに昔はこの籾殻燻炭で覆っていたそうです。これですと、鳥もこないし、草も生えないからとのこと。いまでも、わが家のお化け屋敷みたいな二階の物置には、その煙突があるらしい。

2008年2月28日 (木)

宇佐八幡と俳句

   宇佐八幡と俳句

        都留 嘉男

宇佐神宮(通称宇佐八幡)は神亀二年(七二五年)創建。
全国に四万社以上ある八幡宮の総本宮である。
 
主祭神は、応神天皇・比売大神・神功皇后の三柱。渡来系の色が濃い神仏習合の神社であったが、渡来系と大和政権との勢力争いが絡んだ複雑な歴史を有する。都から遠い九州の地にあるが、東大寺建立支援、和気清麻呂による神託事件、隼人征伐など歴史の上でのさまざまな出来事に関わってきた。

源氏が八幡神を守護神としたことから戦の神として武家の尊崇を集めた。近くに「雲の墓標」(阿川弘之)に描かれた宇佐海軍航空隊(宇佐空)があった。この基地を発進する特攻隊員は神前に必中を祈って飛び立ったのである。

代々の宮司は宇佐、宮成、到津の諸氏から出ているが私の宇佐高校時代の級友に、宇佐、宮成、到津の諸君がいた。歴史が現存している土地でもある。

現在は初詣と夏越祓の時期を除いては後記の句にもあるように田舎の静かなお宮であるが、結構著名な俳人が句に詠んでいる。そのいくつかをご紹介する。

ゆく春や歌も歌へず宇佐の宮  蕪村
神かけて祈る恋なし宇佐の春  夏目漱石
宇佐八幡出づるに匂ふ花柊   松崎鉄之介
宇佐八幡池の濁りの源五郎    森田公司
初花や素顔をさなき宇佐の巫女  宮下翠舟
泥鰌掘る宇佐も田舎のことなれば 松田禹川
桜咲く宇佐の呉橋うちわたり   杉田久女
梢より目白の囀り宇佐神宮    瀧澤伊代次


 宇佐海軍航空隊

南冥に桜背に挿し征きしとう   都留 嘉男
宇佐空の掩体壕跡敗戦忌       〃 

 季刊俳句・連句誌『八千草』 山元志津香主宰
 45号(平成二十年二月編集発行)より引用 

おしらせ:

この記事でアップ記事総数が888となりました。トラックバック44、コメント総数1456。めでたい。大石政則日記とも関連する宇佐八幡の随想を今朝たまたま俳誌にみつけ、これはブログに入れなきゃいかんと思って、出社前の朝のわずか十五分でばたばたと打ち込みました。あとで確かめると888という縁起のいい末広がりの数字になっていて、ふしぎな符合でした。 

2008年2月27日 (水)

大石政則日記 その9

昭和二十年二月二十七日

明日、海兵七十三期偵察学生の卒業式につき、今晩祝宴あり。就床時、偵察学生の五、六名来るあり。中に北見少尉(註・北見中尉、昭和十六年佐渡中学より海兵に入り、政則の一年後輩で、昭和二十年八月十五日宇垣中将から神風特攻を命ぜられ、共に出撃、戦死。終戦後の無駄な死であった*) なるあり。小生を呼ぶ。佐渡中学より十六年に海兵に入りたる人なり。小生の手を握り「今迄仁義をきらなかったのは済みませんでした」 と言う。温厚なる人なり。今までかくと知らざりしを憾(うら)む。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

参照) 

* 宇垣纏中将

http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-ugaki.htm

上記から印象深い箇所を引用する。一人息子を終戦のその日に特攻死で散華させられた父親の慟哭。

「私にとっては、たった一人きりの息子でしたからなあ」

「軍の方でもその点を考えてくれるじゃろうち思うちょりましたが」

「やっぱあ非情なもんですな、そこまでは考えてくれんじゃったですなあ」

「とうとう特攻に連れて行ってしもうてですなあ」

「それも戦争が終わった放送の後でっしょうが」

「宇垣さんは部下を私兵化して連れて行ったわけですわ」

「私はそのことで、ずうっと宇垣さんを怨み続けてきましたわ」

「戦後しばらくは、その事を考えると気が狂うごとありましたもんな」

下は最後の地にたつ碑文。http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-ooita.htm九州沖航空戦:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%B2%96%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%88%A6

碑文

昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊はこの地より出撃せり

その時沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名 左の如し

宇垣    纏  中津留達雄  遠藤  秋章  伊藤  幸彦  大木  正夫  山川  代夫  北見  武雄  池田  武徳

山田  勇夫  渡辺    操  内海    進  後藤  高男  磯村    堅  松永  茂男  中島  英雄  藤崎  孝良

吉田    利  日高    保

 

旧制大分中学五十八期会一同  同五十七、五十九期有志一同  旧海軍有志一同

この日の日記は、前回(2/18)から九日も間があいている。
この間の慌しい戦況が思われる。
前回の日記には神風特攻の名前が出、これまでにない激しい調子に胸を突かれた。いてもたってもいられなくなる危機感、切迫感。今回の文中の「仁義をきらなったのをわびる」 同郷の後輩の姿、前回の「桜花隊白虎の志士、天誅岡村一家駐屯所」 、まっすぐ前時代の武士に通ずる。

前年二月の日記は、ほぼ毎日の記載がある。
なお、昭和十九年は平成二十年の今年と同じく閏年で、二月二十九日まであり、昭和二十年は二月二十八日まで。

井筒屋

ふと気づいた。
デパートの井筒屋に対して他とは違う特別な思いがあることに。

はじめて故郷から都会へ出て行ったときの記憶。
いっしょに受験した友のおじさんが井筒屋のえらい人で、その人からお昼をご馳走になった。それまでデパートに行ったことがなかった。その当時の北九州はまだ空気も汚くて、一種独特の空のにごり色、大気にはいなかにない臭気があった。七階だったと思うが、高いビルの食堂で、ナイフとフォークを使ってエビフライ定食みたいなものを食べた。初めてだったので、どういう食べ方をしたらいいのか分からず、そのおじさんを見ながら、まねしてフォークにごはんを載せる食べ方をした。今思えばとてもおかしいのだが。

短大に通うようになって、次第に小倉でのくらしにもなれたころ、はじめてのバイトをしたのも、小倉井筒屋だった。まわされたのは一階の宝石売り場であった。とてもとても緊張した。宝石にはまったく興味がなかったしね。先輩の本職の売り子さんがとてもセクシーなひとで、なんともいえないギャップを感じた。ちょっとの間だったが、空気を教えてもらった。

井筒屋は、まるで初恋にも似た想いが沸き起こる、わたしにとっての特別な場所である。

この文章をかいて、よく振り返ったら、バイトのほうは井筒屋ではなく、東映会館でした。すみません。いまもあるのでしょうか。でも食事は井筒屋でした。

2008年2月25日 (月)

ふくらすずめ

ふくらすずめ

         西野 いりひ   

ほら鹽化ビニールや紙の櫻だって
商店の軒先や安キャバレーの壁でうっすら埃をつけて
わたしの死後にも咲きつづけるだらう
眞贋などと言ふけれど 所詮そんなものだらう
死よりもずーっと遠い崖のやうなところで
ほのぼのと ほのぼのと 混じり合って咲くのだらう。*

死よりも遠い崖のやうなところ
雪の夕べの耳納連山のやうなところ
そこへ行けば
きっとカウンター席越しにゐるのだらう
ふくらすずめのやうな古風な髪をした安い女が
そしてきっとかう言ふだらう歌ふだらう。


あたしばかよね おばかさんよね

 ばかだからばかなうはさを真に受けて**

さう詠んだのは 
さる長崎の俳人でしたね

*  安西 均
   『暗喩の夏』ー「春の眞贋」後半カット引用。 

** 明坂小箔さん。

ちなみに、この短詩は、明坂小箔氏の優れた恋句をさる歌仙の中でぼつにしてしまった良心の呵責にたえかねて書かれたものです。

日本髪:http://www.h7.dion.ne.jp/~pandaya/kami/kami-index.htm

2008年2月23日 (土)

久留米井筒屋辺り

久留米井筒屋辺り
久留米井筒屋辺り
久留米井筒屋辺り

昼休みに用事があって井筒屋へ行きました。
偶然なにも走ってない車道が写ってました。
かなり凹んでますね、みち。
二枚目の写真は、西鉄久留米駅近くのやきそば屋。想夫恋のやきそばがだいすきで、ときに無性にたべたくなるんです。ここと上津店と、あと日田店に何度か行ったことがある。上津店に一年ぶりで最近行ったら、むすこをみた信子さん(落合監督の奥様に少し似ておられるので、勝手ながらあだ名を付けさせてもらいました。もっとかれんでおわかいのですけど。すみません)が、うわーおおきくなったね!とおっしゃった。小学五、六年のころ、よくお世話になってました。ここのやきそばは、麺の表面がちょっと焦げていて固く、葱ともやしと豚肉の短冊切りだけの具がシンプルながらもとてもおいしい。どかたのおっさんなみに、やきそばとごはんの小をもりもりとたべるのであります。ごはんが入らなくなって、塩おにぎりを結んでもらったこともあります(日田店、上津店)。

子犬

子犬
子犬
子犬

生後三週間。
赤ちゃん子犬は日がな一日ねているのですよね。二ヶ月ほどしたら、走り回れるのだろうか。二週間で目があきました。ずいぶんゆっくりです。はじめてなので、すべてが珍しい。

小鳥来る

小鳥来る
小鳥来る
小鳥来る

目白捕り大の男が集まつて    恭子

http://www.geocities.jp/km_vmax/12masa.html

(そうは問屋がおろしません。鳥は賢いです。一度かかるも逃げてしまいました。これがほんとのとりにがすというんでしょうかね。)

山さんのこと

このところ、現場に出ていない。
現場はずっと忙しいのですけど、飛び入りの仕事は断っている。いまの時期は夜勤の仕事がとても多く、(道路工事が多いということ)、無理な編成を組めば隊員全体に無理がいくので、いっぱいいっぱいにならぬように編成役(うらまれ役)の常務が努めている。それと母が、うちは一人しかこどもがいない(私のことです)ので、現場には立たせないで下さい・・・と伝えたひとことがきいたのでしょうね、たぶん。笑。

隊員さんのなかに、面白い人がおられる。
仮に山さんとします。
山さんは普通じゃない。
常にじっとしてないし、失礼ながら貧相だし、現にあやしいように見えるので、みんなからばかにされている。でも社長はそんな山さんを独特のやりかたでかわいがる。正月には下着を買ってやり、おまえはくさいぞ、ちゃんと風呂に入れ、きれいな服に着替えろ、と怒鳴る。山さんはおとなしく社長の言葉に従う。着替えるとき、不器用な山さんはぼーっと突っ立っている。社長が脱がせてあげ、着せてあげ。山さんは鼻水をたらしてたりもする。まるで大きなこどものように。

では彼はばかなのか?
断じて違う。
山さんは時に社長や常務の碁の相手をする。
いつも負かされているのは社長や常務だ。
山さんはほんとはあたまがいい。
泰然としてこのバカめというようにニコリともしない顔で相手を見ている。

事務を執っている私のところにやってきて、山さんが必ずするはなしがあって、それは家族の遺産訴訟のことです。私は内心「山さんのおはこ」と名付けて、それが始まったら耳にシャッターを下ろすことにしてます。うっかり話しにのると、きりがないからです。笑

2008年2月22日 (金)

同窓会

日曜日に上妻小学校の同窓会があった。
案内状、参加にまるをつけてたのに、出しそびれ行かなかった。首都圏に住む、そう度々は帰省できぬおさななじみから、恭子ちゃん、行ってはしづめあきらさんがどんな仕事するのか、みんながどんなふうになってるか、みてきて教えてねって頼まれていた。さっそくどうだった?って電話がかかってきたけど、ひたすらわびるのみ。ごめん、ごめんね。

ナカシマは以前も、町内の幼なじみが週刊誌にのってるよ!と教えてくれたっけ。ええっなんで?と聞くと、どうも厚生省の血液製剤薬害事件で矢面に立ち、国民にわびるお役人役?だったようだ。テレビにも出てたから、きっとそうだよといってた。でも私はとうとう記事も内容もまったく知らない。ただ目にうかぶ懐かしい子ども時代の橋爪章くんに、がんばってくれよとナカシマとともに心で声援を送った。たぶん、どんなことがあっても、おさななじみは、彼を信頼し支持するだろうとおもう。その橋爪章さんが、こんどみやま市瀬高町に新しくできる医院経営の珍しい大学の学長として帰郷、その壮行会もかねる同窓会だったのだ。それにいかなかった。なんてともだちがいのないやつだろう。・・せめてブログでご紹介いたします。

橋爪章のむかしのイメージとは、こんなだ。
ひとりみんなとは離れ、あたまがよくて、浮世離れしていた。このいいかたはへんだけど、ロージンの雰囲気。うん、かれは「老」だね。この表現、われながら気に入った。ちょっと見、ニタニタ顔のへんな子。おそまつくんのイヤミさんのシェーのまねをよくやってたな。ひじは九十度にまげることと誰もたのまない解説つきで、かかしみたいにぐらぐら立ちながら。お父上は折り紙名人だった。お元気でしょうか。同町内でもなかなか遠いですね。

名前検索したら、あった。

これです。↓ 
がんばってください。会は出席できなかったけど、スミもタッコもカズも、かげながら応援してるよ。
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20071223ddlk40070130000c.html

2008年2月21日 (木)

殺虫剤ホレート

次から次へ初めて聞く名の農薬が出てくる。

中国製かつから殺虫剤ホレート。一袋ぜんぶ食べると危ないとのこと。
なら、うちの長男やらは真っ先にあぶないのか。なんでもぜんぶたべるから。

ホレートはホリドールと関連あるだろうか。

ホリドール中毒ってのが昭和三十年代に多く発生した。
あのころの防虫剤はひどかった。
イネにまいたのである。あおたのむしけたいじに。
青田の虫気退治。

日本がうんと騒ぐことが、あちらの農民を救うことにもなるんだと思う。

2008年2月20日 (水)

いまみちともたか

一昨日は翌日必着郵便があって久留米東局まで夜十時ごろ投函しにいった。昨夜も久留米まで二往復。でもあまり疲れない。元気だ。

子は塾へ自転車(一時間かかる)で行ってたが、壊れて動かなくなったというので軽トラで迎えに行ったってわけ。別に塾へ行っても授業を受けてるわけじゃないようだ。自分で自習室にこもって勉強してるとのこと。ふだんきゃぴきゃぴと明るいむすこが、言葉すくなにまじめモードになってる姿を久し振りにみる。じき試験だ。

いつも私が通勤に使ってるプレオにはcdプレイヤーがついてて、音楽を鳴らしてるのだが、軽トラには付いてない。で、その車中での会話。

「おかあさんがこないだ聞いてたあれ、むかしのロック。いがいといいよね。」

は。
むかしのロック。
そうかー。15年しか生きてない少年にはじゅうぶん昔の音に思えるんだろうな。わたしが父がくちずさむ歌を昔の歌としてしかとらえないように。

でもわたしには昔なんかじゃないんだ。いまの音。そりゃバービー時代の杏子さんのファッション、ことに髪型を見てると、ああ、あのバブルの時代ね。となつかしいものがあるが、強くひきつけられた歌の魅力はそのままだ。男女ボーカルのかけあいがすごくセクシーでいい。下手な恋愛映画見るよりずっとはるかに映像的で刺激的だ。で、あのころは作ってる人のことなんてこれっぽっちも思わなかった。こんどの出会いで調べてみた。いまみちともたかという人がほぼ全ての歌を作っておられた。すごい。

なんなんだろうね。口語のちゃらんぽらんした、なげやり感、エッチな感じ、でも意味をつかもうとするとするりと逃げてゆくきわどさ。これはまるでなんというか、上等の恋句のようなかんじ。げんきがでる。

いまみちともたか。だれなんだ、こいつは。

え、札幌出身。こんど杉浦教授にきいてみよう。笑(そこまで世の中せまくないよね)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E9%81%93%E5%8F%8B%E4%BF%A1

この中(今確かめたら、いまみちともたかのウィキペディア項、消えとる!またかよ)のお父上のとこ。古典がでてくるんですが、最初のやつ*、どんなのが書かれているんだろう。れぎおんは古典にやたら詳しいかたがたがたくさん書かれてますが、その書名、おはつです。いわゆるインテリとよばれる人たちは、ほんとうに驚くべき本を大量に食べておられる。それだけはあほな私にも実感できるから。

*さいしょのやつって、これどす。

  • 『宇比山踏』本居宣長 (←ここクリックしても何も出ません。)
    例の編集弘法隊士の説明:http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/post_0af1.html
  • 2008年2月19日 (火)

    はだか麦

    昭和三十年代の昔、わが家でふだんにふんだんに食べていた麦ご飯(白ご飯が食べたかったのに)にはいってたのは、はだか麦だったそうです。昨日母に尋ねました。裸麦。これで、小麦、大麦、裸麦と出てきたことになりますね。でも違いはよくわかりませんよね。

    お寺での輪になっての会議で、たまたま隣に座ってらした方は県職員だった方で、農業土木の技術屋さんでした。定年でしばらく民間の会社につとめ、今は世話役がいろいろ回ってきてるフリーといわれた。で、話を伺ってたら、いとこの夫とか近所の親戚の親戚と同僚だったことがわかり、これが縁のめぐりだとおもった。

    農業土木ということばは、日本にしかないと、以前、司馬遼太郎の街道を往くで読んだ記憶があります。そういう地と密着した農耕の技術は長く地に住み着いて苦労したなかからしか生まれない。それ、『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 にも出てきます。高橋昇博士が生涯の運命の地、沙里院へ渡って、初めての上司から教えられることに、それがあった。七十年も前の話です。こんなかんじです。

    「いまの日本政府は西洋を手本としてあおぎまくっているが、朝鮮農業を実際みていると、あっとおどろく優れた工夫がなされている。二年三期作だ。いろんな作物を同じ畝で高低の段差をつけて、時機を微妙にずらして、みごとに合理的に作っている。おしえられるよ。」・・というものでした。ものは現地に学べ、ということですよね。

    はだか麦とは:

    http://www.glip.co.jp/mochimugi/mugi/hadaka/hadaka.html

    http://ss.skk.affrc.go.jp/labo/kirenn/shiryoka/kenkyuseika/kenkyu%2017.htm

    河田宏著「朝鮮全土を歩いた日本人 農学者・高橋昇の生涯」

    表紙写真付き本の紹介:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31998507

    塩川慶子さんによるご紹介:

    http://www.ohmynews.co.jp/news/20080205/20602

    2008年2月18日 (月)

    大石政則日記 その8

    昭和二十年二月十八日

    敵の機動部隊本土近辺遊曳(ゆうえい)、関東各飛行場の襲撃相次ぐ。正に国難我らの頭上にあり。先に相次いで神風特攻隊必死必中の体当りをなす。未だに神風は吹き起こらざるか。戦局日ごとに我に不運不利なり。忠勇の士の全身全霊、肉片を傾けつくしても敵の侵攻を阻み、国体の防護を全うすべからざるか。
    我に飛行機あらばと今更嘆くも愚かなり。少数のこの機数にて国家を守らざるべからざる苦しき現実に我らはあるなり。残るは特攻あるのみ。
    銀河隊は特攻半数にして、そは各々胴体に八十番(註・八00キロ爆弾)一個を触発爆発の状況にて抱く。また一式の部隊の方は武道場玄関に「桜花隊白虎の志士、天誅(てんちゅう)岡村一家駐屯所」と掲げあり。宇佐空は主基地と化したり。殺風漲(みなぎ)ることおびただし。
    室戸岬沖に航空母艦現るとの報に、当隊内色めき立つ。銀河特攻隊遂に当飛行場より出撃す。飛行場に全員見送りの隊形に並ぶ。隊長機21号を先頭に単機ずつ北西へ向け、飛行場一杯一杯にて離陸をなす。我ら皆帽を振る。彼また手を振り、挙手の礼をなし轟音を残して行く。特攻隊の志士を眼前に送る。我らの胸中言いつくすべからず。頭にしめたる日の丸入りの白鉢巻印象深かりき。それより飛行機の分散を行う。
    艦攻隊六十名より十六名のみ選び、練習生の三十四名と共に飛行作業猛訓練開始せらるることとなる。思うに米の進攻の前に皇国の安泰も危機を増し、之に加うるに南方よりの原油入らず。飛行機また訓練に充分ならず。現在の全学生、全練習生を全部一定のレベルに引き上げ、同時に送り出す如きは到底不可能なるを以て、かく処置せられたるなり。残留の学生の間には不満の気充満せるも、亦(また)止むを得じ。彼らは専ら自習の予定。他に防空施設に当る模様なり。

    『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
    特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
              大石政隆編より
    表紙写真のある紹介記事:

    http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

     季刊 八千草 如月号

    果報は寝て待つてゐるもの牛日は   
                   有馬朗人

    車椅子一回転し初日観る 
                   有馬ひろこ

    有馬文部大臣のときにゆとり教育が始まったのだと思うと感慨深い。全てがこのかたのせいではなかろうに、教育荒廃の元凶のように責められて、肩身がさぞやお狭いことだろう。以前、北冥の魚の句でも初めて知る言葉に出会わせていただいたけれど、この正月の句でも「牛日」なることばに初めて出会わせてもらった。ぎゅうじつ、正月五日のことらしい。のどらかな季語、のどらかな句意。 

    新たなる川

             山元志津香

    わが丈をくきりと染めし初茜
    若菜野や新たなる川流れだす
    色変へぬ松が知ってる昭和の火
    石鹸を洗ふ日もあり芋嵐
    パヴァロッティのアリアをたたむ秋扇
    付け文といふ昔日や葉鶏頭
    栗名月くらしの音も減ってきし
    をとこへし気概はいつも生半可
    笑み損ねし柘榴に止まってゐる時間
    沢胡桃しばらく聴かぬチャイコフスキー
    少女らのジェラシーほどや茨の実
    舞茸の舞いすぎて芯なくしたり
    から松降る加齢の迅さ金ン色に
    秋深しチェンバロ洩るる礼拝堂
    おもかげの湧くよ積るよ解くセーター
     
    会津
    八一忌や散りちるもみぢ仮名のやう
    海底の愚痴をきくかに喰む海鼠
    短日の大きく使ふ草帚

    先年の句で、

    「夫郷にまだ知らぬことちょろぎ噛む」というのがあり、ちょろぎという九州人には珍しい季語とともに忘れられないのでありました。

    2008年2月17日 (日)

    濃ゆい。

    ふくおかの県民性はとてつもなく濃ゆい。
    政治家をみても、すごいことになってる。
    歴史絡みの記事、ヤフーニュースからひっぱると・・・

    山崎氏は自分のあいさつを終えると途中退席。麻生氏は「無役の私にあいさつの機会を与えていただき感謝します」と皮肉たっぷり。鳩山邦夫法相(福岡6区)がそんな気まずい雰囲気を頓着せずに「党4役の1人がおり、次の総裁有力候補もおり、派閥領袖が3人もいる。こんなすごい県連はどこにもない」とあいさつすると会場から爆笑がわいたが、壇上の古賀氏らは複雑な表情を浮かべた。

     福岡県は廃藩置県で筑前(福岡市周辺)、筑後(柳川市周辺)、豊前(北九州市周辺)の3国が合併したが、今も郷土性が強く残り、山崎氏が筑前、古賀氏が筑後、麻生氏が豊前に割拠する構図となっている。

    古賀サン、山崎サン、麻生サンだけでもゲップがでそうなほど濃いのに、なぜかトラブルメーカー鳩山くにおサンまでが久留米にいらっしゃる目出度さよ。確かに、こんなに役者が揃った豪華絢爛な県連はほかにはないどすえ。どうなってゆくんだろ。わくわくする。ある種、新生日本の幕開けに立ち会えるというか、そんな始動のおののきがある。よね?

    話はころっとかわる。
    お寺に昨日も行った。
    五百年の歴史がある古いお寺で(今の本堂は再建後三百五十年くらい)、かなり老朽化しており、いよいよ本堂と庫裏を建て直すというので、その話し合いに行った。檀家数850軒ほど。一億を超す大事業になるんだろうね。だれかお金持ちの檀家がぽんと寄付してくれたらいいなあ、二億円位。(こらこら、すぐそんな虫のいい話をする。笑)

    そうそう。
    大阪弁のジャズ歌手、綾戸智恵の本籍地が八女だって。
    お寺にいらっしゃいましたよ、彼女の一族のかたが。
    綾戸姓は八女の広川地区にかたまっています。
    この人も濃いキャラですが、親しみがわいてきました。

    綾戸智恵http://www.calvadoshof.com/artist/AyadoChie/Index.html

    2008年2月16日 (土)

    オッシャギ飯

    『朝鮮全土を歩いた日本人 農学者・高橋昇の生涯』(河田 宏著)。

    高橋昇博士のこの伝記が、まず福岡で売れ始めたらしい。
    よかったなあ!!涙、涙。
    あの不幸な時代に、このような偉大な日本人農学者がいた。
    それだけでも素晴らしい救いなのですが、その人が八女出身であることが郷土の誇りであり、また、日本人の誇りです。

    先日、高橋甲四郎先生にお答えいただいた「朝鮮少女が運んでいたのは大麦だった」件の続きです。

    小麦と大麦、どうちがうのか。

    これを調べていました。一目瞭然でわかるサイトがありました。

    http://www.eurus.dti.ne.jp/~kae-/mugi/mugi3.html

    それぞれの育ちの経過もわかります。
    (どこのどなたか存じ上げませんが、ブログマスター詳しいレポートをありがとうございました。引用させていただきます。)

    むかし、高度経済成長以前の昔、わが家では二毛作をしており、小麦は自家製でした。おもにうどんをうちました。ばあちゃんがささっとこねて、うどん玉にして麺棒でのばし、ぐるぐる回すと麺がべーっと出てくる小さな機械で、うどんの手打ちをしては「うちこみ」という郷土料理をこさえてくれた。季節の野菜がどっさり入った煮込みうどんです。
    また、ごはんにも、オッシャギという名の麦が入ってました。標準語では押し麦です。先日ファクタフォーラム聴講で上京したとき、ふらりと入った「牛タンねぎし」でも押し麦飯をおかわり自由でたべさせてくれましたが、あそこ、調べたら、結構歴史ある有名なお店だったようです。いまは都会で押し麦飯がはやっているのですかね。この押し麦は、どうも大麦らしいです。ということは昔は大麦も作っていたんでしょうかね?私にはわかりません。ただ、たいがいのものは自作してたことだけはわかる。

    ところで、さいごに、やはり米、政府管掌米ですが、古古米も全部ははけてないようです。売却代が入ってないみたい。どうなってゆくのでしょうね。心ある記者のみなさん、全国のカントリーエレベーターを調べてみてください。実態をしりたい。

    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116932716

    2008年2月15日 (金)

    櫨の葉

      櫨の葉 

          石川 セイ子

    目のクルクルっとした少女は
    ポンプを115回ついて、
    ごえもん風呂に水をいれる。

    次はマッチで櫨の葉に火をつけ、
    風呂の湯が沸くまで燃やす。

    なんととうまい袋に11俵も燃やさないと
    風呂が沸かない。
    11俵の櫨の葉は
    きのう櫨の木の下で、
    手で拾い足で踏んで押しつめ、
    拾った櫨の葉。


    だいだい色、茶色、赤い葉
    たくさんの櫨の葉、櫨の葉、
    赤い櫨の火に手をあぶり

    「母ちゃん、お風呂がわいたよ」

    と、少女はいった。

      はぜの実

            石川 セイ子

    赤いはぜの落葉をふみながら、
    房なりになっている実をみていると、
    矢部線の線路を
    列車が音をたてて走って行った。

    (八女市老連公報40号2008正月発行)

    2008年2月14日 (木)

    一枚の写真から

    『朝鮮全土を歩いた日本人  農学者・高橋昇の生涯』 の裏表紙に、年端もいかぬ二人の少女(姉妹だそうです)が藁をしょって石垣の道を歩いている印象的な写真が使われています。それが気になって気になって、とうとう甲四郎先生に尋ねたところ、先生が返信を下さいました。以下全文引用いたします。

      
       高橋甲四郎です。

    今朝から、

    黒木町

    のお寺(専勝寺)に行ってきました。

     お寺を出たら、雪が鉛色の天から、ひっきりなしに落ちて来ていました。

    私は心の中で「バンザイ」を叫びたくなりました。

     日本は、雪が降らないと、どんなに寒くても「冬」の情感が

    湧きません。

    さて、あの本の裏表紙に載ってる高橋昇博士撮影とおぼしき

    写真の、二人の少女がせおっているのは、

    あれはなんの藁でしょうね。

    麦藁とはちがうように感じられました。

    でも、夏のようですし。

     この2姉妹の写真は、人の目を引くのでしょうか、今までの

    亡父遺稿の学術書には大抵表紙などに利用されています。

     大阪経済大学の徳永光俊教授他2名(1名は私)で編集した下記の写真集の

    解説で、あなたのご質問にお答えいたします。

    【写真でみる朝鮮半島の農法と農民】

     この写真集にも同じ2姉妹の写真が掲載されていて、その下に

    次のような解説が付されています。

      「大麦の束を背負って運ぶ少女」

               済州市禾北洞(193662日)

    姉妹と思われる少女は、現在では使われていない筵を脊中に当てて、

    大麦の束を運んでいる途中である。済州島は物を頭にのせて運ぶ風習

    がない島である。少女たちも、荷物を背負って運んでいる。

    金浄(14861521)は、そんな姿を見て不思議に思い、

    「負而不載」と「済州風土記」に記している。

     以上でお分かりのように、背負っているのは、「大麦の束」です。

    農業の専門家が解説していますので、間違いはありません。

     なお、解説に書いてありますように、朝鮮人の女性は、

    物を運ぶとき、みんな頭にのせて運びます。だから、朝鮮人で

    腰の曲がったお婆さんはあまり見かけません。

     しかし、この済州島だけは、頭に載せません。だから、写真を見ただけで

    「ああ、ここは済州島だな」ということが分るそうです。また、ここは

    台風などで、風を真っ向からから受けるので、ご覧のように、石垣塀

    です。

     この済州島は、1274年と1281年の2度の「元寇」のとき、(当時神風と称

    されていた)猛烈な台風のために、退却していった「元(ゲン)」の軍隊が

    この済州島にたどり着いて、その子孫が住みつき、朝鮮本土とは異なった

    風俗習慣が継承されているという説があります。またこの島では、現在も

    小柄な蒙古馬使用されています。

     最後に、上記「写真でみる朝鮮半島の農法と農民」は、ヤフーで

    「検索」出来ます。ただし、「写真で見る・・・」としてはダメです。

    「写真でみる・・・」で検索してください。

     以上で、終わります。

    甲四郎先生、ありがとうございました。
    よくわかりました。麦藁が肌にあたるとチクチクしました。はしかになったときみたいにきもちがわるかった。だから、この写真の小さな筵ごしに藁をしょってる少女をみると、さりげない気遣いながら、親御さんの「こうすると大丈夫だよ」という声かけが聞えてくるようで、懐かしさと郷愁と同志愛がわいてきます。
    それと、どうして自分の知っている麦と違うと感じたのかも、わかりました。それは大麦だったからですね。私たちが知っているのは、小麦でしたので、どことなく様子がちがいます。
    下をクリックすると、写真も見れます。詳しく見たい方は本をお求め下さいますよう。↓

    未来電力地中線課様宛

    未来電力地中線課様宛
    未来電力地中線課様宛

    請求書、さる電力会社直属の電気工事屋さんところにチチュウセンカという課があり、そこ宛に一枚書きました。電話であて先を確かめたとき、「ちちゅうせんか?どんな字を書くのですか」と思わず聞いてしまいました。

    地下に電線を埋め込む課だと思います。

    写真は八女市納楚の信号あたりです。笑
    ローカルですみません。ちょうど赤でしたので、二枚撮りました。
    ここらもいつかずうっと未来には電線が地下に潜る日が来るのだろうかなあ・・と思いつつ。

    2008年2月13日 (水)

    大石政則日記 その7

    昭和二十年二月十三日

    午前自習。午後、飛行作業の予定にて準備をなす。練習生の飛行作業遅く終了せしため、学生の整列は一三〇〇となる。整列時山下大尉より「本日午後『銀河』数十機到着す。否信旗を見たらそのまま飛行機は掩体壕(えんたいごう)に分散せしむべし」と。開始後三十分程にして飛行止め分散の命あり。「銀河」続々と降着。出水にて慣れ親しみしそのままの美しき姿態を再び見る。先の陸攻とこの「銀河」とを以て、宇佐は一大主基地と化せり。興奮の度頓(とみ)にあがる。

    「銀河」:http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-12tokubetu.htm 
        
    : http://www.geocities.jp/torikai007/1945/tokkou.html

    「否信旗」:http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kiryu_singo.htm

    『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
    特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
                  大石政隆編より引用
    表紙写真のある紹介記事:
    http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

    連句的引用:

    銀河:http://kids.gakken.co.jp/kagaku/nandemo/0401.html

    手嶋龍一さん

    うちは地方紙を一紙しか今は取ってない。その新聞を読んでいつも思うのは、社説の驚くべきたいくつさである。世の中にこんな退屈なものがあろうかという予定調和の世界だ。だいたいこう書くだろうなと思った通りのことが、まいあさまいあさ、書かれている。新聞、売れないはずだよね。

    今朝も、沖縄の少女事件を定型を一つも踏み外さない書き方で書いていた。米兵にくし、鬼畜米英の観点をあおるだけ。もういいかげんにしてくれないかな。

    アメリカの男にしろ日本のにしろ、男とはそういうものだから、女子が我が身を守りたいなら、絶対そんな男についてゆかぬようにという純潔教育はどうしたのだろう。そんな声は一つも上がらない。それは怖いことではないのか。14歳の少女の純潔がかかっているのに。

    ファクタのフォーラムで手嶋さんが話してくださったことのなかに、こんなくだりがあった。忘れられない。

    みなさん、アメリカ、こういう多民族異文化に開かれた寛容な国、どれほどの辛酸をなめても戦争をやめない国、これをすばらしいとは思いませんか。

    一つの見方ではなく、多様な見方を提示してくれること。
    それがジャーナリズムの役目だとおもう。

    ところで、この事件を手嶋龍一さんなら、あるいは阿部重夫さんなら、どう軌ってみせるだろうか。
    知りたい。

    2008年2月12日 (火)

    大石政則日記 その6

    昭和二十年二月十二日

    午前自習。午後、飛行作業。六二三号大不出来。今日はペア揃って調子悪し。

    『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
    特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記より
    表紙写真のある紹介記事:
    http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

    あまおうミルク大福

    あまおうミルク大福
    あまおうミルク大福
    あまおうミルク大福

    あまおうミルク大福 隆勝堂(八女市)
    一個235円くらい。
    デリケートなあまさと酸味が最高です。
    大粒苺の周りはミルク、その外は白餡。
    餡と皮の境界が不分明。
    私は大福は得意ではないが、これは別格。
    生きててよかったとおもう。笑
    1月20日過ぎ頃から売り出され、早くなくなる。
    この日も三個しかなかった。
    私が一個確保して、あとはだれがたべたかな。

    2008年2月11日 (月)

    大石政則日記 その5

    昭和二十年二月十一日

    紀元節、〇八〇〇軍艦旗掲揚。次いで宮城遥拝、御写真奉拝(於司令公室)一〇〇〇より武道場に於て祝賀式。昼食後上陸許可。このころ一式陸攻〇〇機宮崎より飛来す。比島戦局重大を加え、本州擁護に一段と緊張の気漲(みなぎ)るとき練習航空隊たる本隊に陸攻多数終結を見て、前線基地に近き感を覚えせしむるあり。
    「昼間は○大(註・マル大・・・人間爆弾といわれる「桜花」)攻撃、夜間は雷撃を任務とす」 と聞く。久恒氏方にて一日を過ごす。中垣少尉の父君、弟の二人と見ゆ。
    機動部隊進攻の噂あり。

    一式陸攻:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BC%8F%E9%99%B8%E4%B8%8A%E6%94%BB%E6%92%83%E6%A9%9F (これを読めば一式陸攻の命名理由が皇紀2601年であることから「一式」となったとあります。なるほど。繋がってきました。石橋秀野を調べていたころ、皇紀は二千六百年と国中が沸きにわいたのが確か昭和十五年でしたので、その翌年ですね、一式陸攻が世に出たのは。)

    人間爆弾「桜花」:http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kaiten.html
    http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-387.html
    http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20050610

    雷撃とは・・http://www1.mahoroba.ne.jp/~ple/t115.html   

    機動部隊とは・・http://www.kanji.okinawa.usmc.mil/Units/magtf.html

    『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
    特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記より
    表紙写真のある紹介記事:
    http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

    職場の机辺

    職場の机辺

    私の机に誰かの大阪みやげのペンたてがある。
    他の机にずらしても、翌朝になるとまたある。
    なんなんだろうね。

    と思って、杏子サンのブログに行ったら・・わわわ、連句的。

    http://kyoko.weblogs.jp/blog/2008/02/post-e21f.html

    先週くるめのno music, no life のタワーレコードで
    ついに買ってしまいました。バービーボーイズのcd。

    ヴィジュアルもついてきた。実は初めて歌っているところを見た。
    声でしか知らなかった。二人のハスキーな声が大好きだった。

    私のお気に入り。

    ノーマジーン:http://jp.youtube.com/watch?v=sDgkQl4KyRw&feature=related

    惑星タイマー:http://jp.youtube.com/watch?v=Vpe8iFYM_no&feature=related

    いまにして思えば、あの頃の自分は、一人社会に取り残されていると感じていて、夫は深夜にしか帰ってきませんし、こどもの母親ばかりの役目で家にこもっているのはストレスの塊でした。まだ若かったですし。そんなときに、バービーボーイズを聞くと、こころのもやもやが晴れるのでした。分析したことはありませんが、きっと主婦という仕事の、性を押し殺すような部分が、解放されてゆくからだったんだという気がします。そんなわけで、杏子サンは大げさに言えば、命の恩人であります。つらいときを、乗り切れたもの。

    2008年2月10日 (日)

    一俵の重さと筑後の農民

    河田宏(かわた・ひろし)の『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 。非常におもしろい。日本が朝鮮にどういうことをやってきたのかを始め、知らなかったさまざまなことが次々に明らかにされ、そうだったのかと恥じ入るばかりである。

    たとえば、高橋昇博士はわが家の亡き祖母とほぼ同年代だが、その明治生まれの日本人がどういう教育を受けたのかを、これまではっきりとは知らなかった。尋常小学校という名の学校があったのは知っているが、そこで、小学三年ころに農作業をならったとは知らなかった。

    でも、待てよ。

    今でも小学校四年生で、必ず田植えの実習があっているよね。少なくとも八女市の小学校では、実習田というか学童田というのがちゃんと農協青年部の管理で確保されているものね。

    年金がある今だからこそ、オヤは米が売れなくてお金が入らなくても一向に平気な顔をしているが、ここまでくるのにどれだけの苦労をしてきたことだろう。一年中、ずっと休みなく馬車馬のように働いていたのを私は知っている。(そういえば、馬車馬のように、という例えは、ヤメリカンピーポーのみに通じることばかもしれない。馬による農耕は筑後地方でことに盛んであった、と河田の本にあった。)

    ところで。

    一つ、規格が昔とちがっていることを思いついたから、書いておきたい。
    それは米一俵の重さである。
    河田の本にも、朝鮮の農民は二俵(120キロ相当)をチゲ(背負子)に載せて軽々と運ぶ・・と書かれていたし、常識では、こめ一俵とは六十キロなんだろう。でも、農業の現場では、だいぶ前から一俵は三十キロになっている。


    その意味を、どうか想像してみて下さい。

    大石政則日記 その4

    昭和二十年二月十日

    午後、飛行作業、風向屡々(しばしば)変化す。六四五号パスの横風修正操作不良、大いに研究の要あり。思い切ったことをやらねば不可。飛行作業後一時間半、各教官の説教あり。予はフラップのコック中正にするを忘れしため修正を受く。

    ※参照記事:http://www.spy.ne.jp/~ka-z/5thafk/shiryou/tenken.htm

    http://lemefus.com/photorhv/

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%88%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%88%AA%E7%A9%BA540%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

    『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
    特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記より
    表紙写真のある紹介記事:
    http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

    http://shop.nishinippon.co.jp/asp/ItemFile/10000189.html

    2008年2月 8日 (金)

    日本の米

    心配になってきた。

    きのう、お百姓の隊員さんが自宅から米を持って来て、知人に買ってもらっていたのですが、それを横目でみていますと、15キロで四千円でした。それは安いのか高いのか、私にはわかりません。家に帰り、百姓の父に尋ねると、うちもよそも新米(2007新米)がまだぜんぜん売れていないそうで、それどころかまだ古古米があるらしく、営農口座には一円も入金されていないとのことです。

    わたしはこれを聞いて大変驚きました。
    かつてなかったことです。

    追記

    米の輸入自由化の実態は今どうなっているのだろう。
    制限を設けたところで、なし崩しになるのは眼にみえていた。日本の米が売れなくなるのは自然なことだ。だって高いから。政治家も農家の者もこの点はよくわかっている。きれいごとは聞きたくもない。かささぎは、では売れなくなった米はどうなるのかを知りたい。いまのところは、カントリーエレベーターに保存されていると思われる。

    参照
    かささぎの旗:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_21af.html
    グレインエレベーター:http://en.wikipedia.org/wiki/Grain_elevator
    カナダの:http://www.grainelevators.ca/

    2008年2月 7日 (木)

    大石政則日記 その3

    昭和二十年二月五日

    風強し、寒気強く曇り。飛行作業なし。午前自習。艦爆は一機着陸の際掩体壕(えんたいごう)に接触、前席山下少尉、後席教官池田少尉負傷。月曜日は事故多しとの言伝えを又々実証する結果となりぬ。午後、山下大尉、兵術、日本の飛行場建設について。

    ※掩体壕とは・・

    http://www.pa.skr.mlit.go.jp/kouchi/B/kochiair/kochiair03_01.html

    http://www.yado.co.jp/kankou/ooita/kunisaki/entaigou/entaigou.htm(宇佐)

    『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
    特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記より
    表紙写真のある紹介記事:
    http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

    http://shop.nishinippon.co.jp/asp/ItemFile/10000189.html

    御正忌さんのころ

    アメリカの選挙、スーパーチューズデイを迎え盛り上がってきましたね。ほんとに接戦になりました。あちらの候補者一覧を見ますと、まず、それぞれの名のそばにはきっちりと信仰する宗教が書かれているのに感嘆します。

    ところで先月真宗のお寺では報恩講、ご正忌さんがありました。
    親鸞聖人のご命日をこう呼ぶのですが、旧暦十一月二十八日(でしたっけ、二十七日でしたっけ)は、新暦だと今年は1月6日あたりで、私のお寺では1月の末でした。十時頃から細長い卓にずらりと並んで、みんなでお餅をちぎっては丸めました。五百円玉くらいの丸にして、餅花(御華束)にするのです。たくさんたくさん作って、それに竹の串を刺して、花束に見立てます。お寺のきらびやかな仏壇の両脇でこれが揺れているさまは、ご正忌さんならではです。毎年のことながら、この時期は寒くて、昔ながらのお寺は底冷えがします。1月はその餅作りと報恩講と後片付けの餅ほぐしと三回もお寺にでかけました(うち最後の一回はオヤが行ってくれた)。いくたび、お寺はさむいなあと思います。

    大きな古いお寺(檀家数約850)で、ご正忌さんは三日間です。御講まかない(食事係り)当番班が八個ほどの集落で、はじめての人たちとわっさかわっさか精進料理の定番を作り、お坊様の法話の前にいっしょにたべて、また片づけます。そのとき、どこかで以前お会いしているのだけど、どこで会ったのか、だれなのかがお互いにおもいだせない人がいました。こういうとき、どういったらいいものかわかりません。あちらはお茶碗をあらいながら、私はふきながら、どこであったのでしょうねえ・・。

    それが、数日後、近所の友からのメールでわかりました。
    以前三ヶ月お世話になったヨガ教室の仲間だったということに!わかってみれば、なあんだ・・。縁ある人とはふしぎと何度もあいます。その人とも親戚の親戚でした、話していたら。

    一番寒いとき、ご正忌さんがあり、酒造の蔵開きがある。
    もう終ったところもありますが、先日はその警備依頼の電話がありました。
    いくつかの酒造が合同でやるみたい。
    昔より客は少ないのでしょうか、どうでしょうね。
    交通取り締まりが・・ですものね。こちらもまた、来客にお酒をのんだらハンドルを握らないでと書いた注意書を配るのが、最初の仕事のようです。

    にょらい たいひのおんどくは
    みをこにしても ほうずべし
    ししゅちしきのおんとくも
    ほねをくだきても しゃすべし

    お寺ではこの歌を法話を聞いたあと、みんなで合唱します。歌詞、記憶ですから少し違っているかもしれません。みんなひらかなでごめんなさい。ししゅちしき、がどんな字がわからなかったからです。仏教用語は難しいですものね。
    でもだいたいこんな歌です。
    長生きの親鸞聖人が晩年近くに作られたみうた、「骨を砕きても」 という歌詞がすごいです。山本健吉も書いてましたが、浄土真宗は仏教のなかでいちばんキリスト教と似ています。(もっともキリスト教といっても宗派がすごいようですが)。

    付録:

    さて、ゲストのお坊様はテノール歌手でもある星野村の樋口不可思師でした。美声のこのかたはご法話もおもしろい。今回はこんなおはなしが印象的でした。銀行や郵便局にお金をあずけても利息がつかないので、行員の甘言にまけてなんとかとうししんたくにあずけた。とらのこのにひゃくまんえん。すると、あっときづいたときにはひゃくろくじゅうまんえんにへっていた。おやじからはおまいが欲をかくからだとしかられる。(このかたはまだ50代)。もうさんざんでございました。笑

    お坊さんも欲はおなじなんだなあとあんしんします。

    2008年2月 6日 (水)

    連句的10  

      連句的 10    

                姫野  恭子

    れ程の痛みならばもういちど君に会える
                山崎将義

    まだ来ない痛みを待っているような
                佐藤みさ子

    陣痛に霜の閂真一文字
                横山房子

        死幻想

    そこは深い 仄暗い海底のようである
    わたしの体は どこへとも知れず
    流され 漂っていた ゆらゆらと

    ふと見ると
    体は青白くふやけて
    あちこちを たくさんのさかなたちが
    喰らっているのだった

    流され ふやけ 噛みつかれてはいるが
    わたしは 独り 記憶の断片を繋げた大海を
    じゆうにおよぎまわっていた

    目をとじれば こどもらの顔が
    見知らぬ顔ながら わたしの子孫だと
    たちまち分かる子どもらの顔が
    何千何万と果て知れず連なっているのがみえる
    さらに目を凝らせば
    子どもらは消えて
    やはり何千何万のさかながわたしの
    ふやけた体をたべているのである

    人が魚を喰らうように
    さかながわたしをくらう

    骨のわたしが残り
    想念は漂流しつづける
    わたしは 死を 理解しえたろうか と

                            
    海底に眼のなき魚の棲むといふ
       眼のなき魚の恋しかりけり
                     若山牧水

      『連句誌れぎおん』2008冬号 

     マンデルブロ集合的詩作,試作,思索

    2008年2月 5日 (火)

    お七夜の子犬

    お七夜の子犬
    お七夜の子犬

    黒い子犬が先に生まれた(自力で)二匹の元気のよいほうで、ボスの手がかばっているのがあとで帝王切開でうまれ看護婦さんのマウストゥマウスの人工呼吸により息を吹き返した二匹のうちの一匹です。もう一匹は死にました。ミルクをのむことができなかった。犬は凄いなと感じたのは、その一匹がまだあたたかく、息があるうちからもう、すでに母犬は見捨てていた。にんげんはハラハラと見守っていたのにもかかわらず、こいつはもうだめだ。育たない。と、正確に知っていた。

    むかし、豚の出産と子育てを見たことがありますが、あれと似てる。がりゅうはそだたないと父母が言います。(がりゅうっていうのは弱いたちのこどもです。方言でしょうかしらね。なんだろ。ほりゅうなら蒲柳ですけど。)

    2008年2月 4日 (月)

    再び、朧大橋

    数日前に『朧大橋』 についての感慨を書いた。

    その後参照記事を検索してるうちに、次の一文に出会う。

    http://www.dokokyo.or.jp/ce/ce0606/essay.html

    これを読んで、わたしは自分の不覚を恥じた。
    毎日毎日仕事場でなにを見てきたというのだろう。
    みな、寝食も時にそこそこにしてまで現場に立っている、焼けるように暑いときも、凍るように寒いときも。全ては建築現場での安全のためにです。

    わたしは交通誘導を主とした警備業の小さな会社に勤めていますが、そこで働く人たちのことを心底すごいなあと思っています。一人ひとり詳しく紹介したいほどに。見聞きするすべてのことを文章でスケッチしたい思いは本能的なものだから、こらえるのに大変苦労します。ということは、それだけすごい現場であるということなんですよね。毎日が発見の日々。現場感覚のすごさ。彼らはそろって、あまり多くを語らないから、なにかを発信してあげたい。

    朧大橋の価値はこれから決まってゆくのだろう。
    いろんな批判はあろうが、橋をかけるために、多くの人たちが心血を注いだのだということだけは、身をもって信じることができる。

    2008年2月 3日 (日)

    朝鮮全土を歩いた日本人

    日本評論社から『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 (河田宏著)が出版された。

    かささぎの旗では高橋昇博士のことを以前少々ご紹介していたご縁があり、著者の河田氏より一冊を贈呈された。折りしも中国からの食品に農薬が入っていて犠牲者が発生した事件により日本中が激震しているこの時機、国の「体」をなす農業とはなにか、農作物を作る農民はどんな苦労をするのかを知るためにも、ひろく読まれて欲しい一冊である。

    植民地時代、朝鮮の農法は遅れたものとされ、日本農法を押しつけられた。それに反対した農学者がいた。総督府農業試験場西鮮支場長・高橋昇である。彼は朝鮮全土を調査して歩き、膨大な資料を残した。そこには、朝鮮のきびしい風土に対応した驚嘆すべき農法があった。(帯文)

    オモテ表紙にはむかしの木造の小学校みたいなかの地の農場試験場の建物の前で、帽子を手にロングコート姿の壮年の博士が笑みを浮かべて立っている写真が掲げられているが、博士の左肩のうしろあたり、背景の建物の壁に埋め込まれた日の丸が、大日本帝国時代の雰囲気を雄弁に物語っている。

    ウラ表紙には、十歳未満の朝鮮の少女がふたり、背中に麦藁束*をしょって、石垣の坂道を下っている写真が取られている。博士の写真も少女の写真も、人物の影がくっきり地面に落ちているのが印象的だ。

    以下に目次と著者を紹介しておきたい。

    第一章 筑後の山河
    第二章 境涯の地へ
    第三章 欧米視察旅行
    第四章 黄海道沙里院
    第五章 農業実態調査
    第六章 日本の敗戦と朝鮮の孤立
    第七章 『朝鮮半島の農法と農民』 の出版

    著者略歴

    河田 宏(かわだ ひろし)

    1931年東京生まれ。
    早稲田大学文学部社会学科中退。以後、日本近現代史、軍事史を中心に著述。
    著書:『日本人の攻撃性』(共著、三一書房)、『明治四十三年の転轍』(社会思想社)、『第一次大戦と水野博徳』(三一書房)、『満州建国大学物語』(原書房)、『内なる祖国』(原書房)

    『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』
      2007年12月20日初刷本より引用

    *麦藁と書きましたが、どうもいま一つ自信がありません。ほかに考えられるのは高粱の藁。見たことがないのです。調べると、こうりゃんのわらって、家の材料になるようなものらしい。ではちがうのか。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00486665&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00486665

    かささぎの旗『農学者高橋昇』の第一回http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_09fb.html

    表紙写真付き本の紹介:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31998507

    参照:http://medakadaigaku.hp.infoseek.co.jp/kimurakouza01.htm
       http://www.ihatov.cc/blog/archives/2006/02/post_350.htm

    2008年2月 2日 (土)

    俗の細道 11

    ミスター・ヤをしかりとばしてしまった。

    ちょうどややこしい得意先からわけのわからんいちゃもんをつけられてくさっていたとこへ折悪しく、そのとりたての電話があった。

    怒らせてしまい、やれ録音するの出るところへ出ようだの電話口でわめく。大のおとこが、みっともない。

    月末は忙しいのだ。
    鉛筆とボールペンと計算機持って、請求書書きに没頭してるときに、何度も電話で「天使のじじい*」に借金の督促。天使のじじいは今現場に出て、いないというのに、では取次ぎをという。こちらは今それどころではなく、取り込み中です、昼休みにかけてくださいとムカムカしながら言って電話を切ると、たちまち取立屋は激怒して、また電話を鳴らす。こうして押し問答の電話が五回も六回も鳴る。さいごは責任者を呼べ、と捨てゼリフ・・まったく。


    ひよわなパートのおばたん(わてどす)に当り散らすより、天使のじじいをつけ回すなり張り倒すなり何なりとなさって、いくらか知らんが借金を踏み倒す覚悟のほどを、ちゃんと本人にお聞きになればよい。
    一方、天使のじじいも天使のじじいだ。
    ふにふにして雲を踏むよにいつまで生きてゆけるものか。

    ここは一つはらをきめて、きっぱり金を払うか、命をかけても踏み倒すか、二つに一つだ。
    やくざもじじいも、けなげな外野をまきこまんでくれ。
    たのむ。

    ここの職場に来てしばらくは、日に数回かかる借金取立ての電話におびえたものだが、いまや、なにもおそれるものはない。
    くるならこい。遠慮はいらん。
    余は明鏡止水のこころなり。

    踏み倒す空の青さや梅真白   恭子

    * 天使のじじいとは・・・

    こころの赴くまま気の向くまま、今だけを生きる。
    お金があれば、すべてばくちにそそぐ。
    宵越の金は持たぬが江戸っ子ではない土着のおっさん。
    仕事はするときはするしできる。
    給料日の翌日から数日きえる。
    魔の数日(たいがい四日)が過ぎれば、憑き物がおちて、ついでにツキもおちて、にこにこした顔で戻ってくる。おべんと代千円貸して、又仕事するからと言って。
    天使のじじいは憎めない。
    ド演歌が得意、私生活はなぞ。

    2008年2月 1日 (金)

    熊井啓監督

    暮れにふっと付けたテレビで、故・熊井啓監督が原作者の遠藤周作とともに、ある事業家のもとへ映画『海と毒薬』の資金を出してくれるよう何度も頭を下げに出向いたというエピソードを見た。

    わたしはこの監督をただ一作によってすごいなあと思っていた。
    それは『千利休ー本覚坊遺文』。

    ビデオでなんども見た記憶がある。ラストシーン、忘れがたい。連句の原点みたいなものが確かにあそこにはあるような気がする。そういうことは全くでてこないのだけれど。原作は井上靖。この人の自筆の詩作品が八女市の堺屋『山本健吉 夢中落花文庫』に掲げられていたものですが、いまはどうなっているでしょう。なにしろ市には全く予算がなく、すぐれた文化財の保護が出来ていない。古賀誠議員、橋も結構ですが、文化にお金ください。ひめのに本を出させてください。にひゃくまんがないので、だせない本があって、それには、八女市のいちばんの宝が書かれている。天文歌人の百首和歌の読みです。これを出版しなければ、と思うけど、子の教育にお金がかかりすぎて、まったく先がみえないため、出版社に入れっぱなしの状態です。あ、これ、関係ないですね。つい愚痴をこぼしました。

    おなじころに出たてしがわら監督の作品はちっとも心にひびかなくて、途中までしか見る気がしなかったけれど、こっちの熊井啓の利休には非常に感動した。なにかが、あった。(今にして思えば、てしがわらさんの草月に若いころ数年間所属してお花を学んだのですけれど、月刊誌『草月』は、やたら小難しくて、教養ひけらかし以外のなにものでもなく、嫌味でしかなかったなあ。その印象と映画とまったくおんなじ味だった気がする。)

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