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2007年12月30日 (日)

『呼びにゆく』ー自恃のこころを

佐藤みさ子川柳句集『呼びにゆく』(あざみエージェント刊)をよむ。

いくつか既に印象を書いた句もあるが、未読の句もあり、少しまとめたい。

 

何ももう産まれぬ家に寝静まる  佐藤みさ子

産む、産まぬということばは、太古の昔から女性だけにゆるされた特別な女性主体のことばである。それにひきかえ、「産まれる」という場合は、人知を超えた領域への敬虔な思いがどこかにある。だれのせいでもなく、「運」をころがすものへの敬虔な思い。この句には、なぜかそんなたいそれた人類の歴史とかことばへのおもいとか、あるいは柳田國男が民俗学者になった理由の一つとされる、狭い日本の木と紙の家のなかに数世代が寝起きする悲哀めいたものが、そこはかとなく、まぼろしのように付随している。
いや、それはアンタ一人の誤読よ。と糾弾しないでほしい。少なくとも昭和二十年代最後の年生れの私は、そんなふうに読んだ。日本って、すべてにおいて、そんなかんじだと思わない。人よりもそれを容れる家が主体なのだと。俳句や短歌が、内容にではなく、なによりその容器(五七五や五七五七七)の絶対性に重きを置くように。この句の主体も人ではなく、家である。作者はそれをはっきり意識していて、ひとり夜半に目を覚まし、寝静まるイエを真上から見下している。

この読みが一つの読み。
いまひとつのよみはありふれているが、子宮のメタファーとして家を捉える場合。
私は佐藤みさ子の年齢を存じ上げなかった。しかし、この句集には簡単な略歴が書かれていて、それによると1943年宮城県柴田郡生れということだ。

礼装の衿元川が流れこむ  みさ子

宮城県の柴田郡には、「えりもとがわ」という小川が流れているのだろうか。どんな川か見てみたい。と思い、検索をしたら、そんなものはありません。と出た。
黒紋付の礼装をしているのは、わたし。その衿元にだれかが滝のような涙をこぼす。漫画ではいくらでもお目にかかる場面も、川柳で喩的表現すれば新鮮である。いくらなんでも・・というきもちと、でもわらえるなというきもちと。諧謔の句はほかにも、

深いかと聞いた溺れている人に  〃

これは、わたしなどしょっちゅうやっている。ブログの内容にべたつきのとってもナイーブなトラックバックをつける機械の反応も、おなじです。

さびしくはないか味方に囲まれて  〃

なぜか知らぬがみかたはあじかたと書く。このことは、いつもおなじものを食べている仲間というイメージを否応なくもたらす。仲間うちだけにわかる何か。仲間うちだけに通用する批評眼。そういったものが案外世の中を左右していることに、文芸の世界に長く身をおいていると気づくはずだ。多数決の世の中で一人だけの価値観を貫き通すのは勇気がいる。

周りすべてが敵であってもよしとする人の決意の句であり、次の一句とおなじく、たからかに自分をたのむひとの自恃のうたでもある。それはしかし、うぬぼれとか自己保身という次元のものでなく、しっかりと保つべきものを保ってきた人だけがもつ、どこにも逃げない逃げようがない、自己への信頼をさすのだろう。さびしさは代償として引き受ける覚悟が、既にできたひとの句である。

たすけてくださいと自分を呼びにゆく   〃
風絵の炎どこへも行くあてなく     〃

点線で表す塔の地下部分   〃
物入れた記憶で立っている袋  〃

塔としてすっくと立つために、地下ふかく潜らねばならない。高架橋の工事をずっと見てきて、それを知った。地下には数階建てのビルが建つかとまがうほどの鉄骨で基礎工事をやっていた。塔が夢であれば、点線で表されるのはその見えない部分。記憶とか根性とか挫折とか傷みとかうぬぼれとか自信とかでできた形而上のぶぶんをさすのだろう。

万物をゆすりこどもが通過する  〃

これについては以前、書いた。だれもが納得する、川柳らしい川柳、イキオイと諧謔と現代性をもった名句である。ゆすられたじたじとなるよわい大人ばかりだ。ここらでガツンと一発、ゆすりかえさねばならない。

まだ来ない痛みを待っているような  〃

おばさんからおばあさんにならんとする今、この思春期よりも困難な時期に、自分よりおよそ一回り上の女性の句作品をよませていただきましたことは、とてもありがたいことでありました。立ち向かう勇気をいただけました。この先、なにがあろうと、自恃のこころで乗り切るしかないと思った次第です。そうです、お産のときのあの痛みに耐えられたんだもの。

空虚は「無から(ex nihilo)の出発」を強いる。ボードレールが『悪の華』の詩「旅」で歌ったように「本当の旅人とは、ただ出発のために出発する人々だけだ」とぶつぶつ言いながら。(阿部重夫ブログ「FACTA」編集後記より無断引用)

佐藤みさ子についてのバックナンバー:

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_e327.html

それにしても茂吉が詰られた「無常観・遁走観」こそは、ぼくが茂吉を読む理由なのである。無常は迅速、けっしてとろくない。かえって意識が速い。復古でもない。無常はまっすぐ向こう側へ駆け抜けるものなのである

↑松岡正剛の千夜千冊、齋藤茂吉「赤光」について述べられた最後の部分引用のところの出典はhttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0085.html

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_4cdc.html

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コメント

強固はん、ことし一年いろいろ世話になった。感謝。また新しい年も、連句で鍛えてくだっせ。
次の同窓会の会合は19日だったっけ?また会いましょう。では、また。

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