俗の細道 5
俗の細道 5
姫野恭子
恭賀新年。筑後弁だと「よか春ぃなりました」。あったかい!
さて、早速だが、今年もまたなぜか、朝日新聞の大岡信さんに因縁をつけることから始める定めのようだ。個人的には信さんには何の恨みもないけれど、さだめならばしかたない。信さん、ごめんなさい。
奇しくも去年と同じ正月三日付けの「折々の歌」である。
宝舟日本からも一人乗り 誹風柳多留
信さんはこの解説文に七福神の名前を列挙したあと、「うち、日本の神は何と大黒天だけ。それが川柳の意味。」だと書かれている。信さん、ほんなこつね?七福神のうち純国産はエビスさまじゃなかと。手許の辞書で調べても、大黒天はインドの武神だった。一方の恵比寿は蛭子、事代主命のことだ。おそらく、大黒天には大国主命という物々しい別名があるため、国産神だとする誤解を招きやすいのだろう。
このひとつき、なぜか太宰府観世音寺の宝蔵院にある大黒天立像が気になる。一度見たら忘れられぬ生きた神像である。制作年代は十一世紀末頃というのだが、まるきり現代人の表情をしているのだ。
眉間に皺を寄せ、怒っているような憂い顔。それでいて威厳に充ちた気を発している。がっかりするほどしょぼい袋を肩にかけ、右の手はぐっと握りこぶしにしている。博多にいたころ何度かこの像をみるために都府楼通いをした。井尻駅から一人、西鉄電車にのって。
ここで素朴な疑問が湧き出てくる。
私たちがイメージするあの福福しい大黒様はいったい何時のころから何のきっかけで生まれたのだろう。
大きなふくろを肩にかけ
(うんと中略)
だいこくさまはよいおかた
こんな歌を思い出す。むかし幼稚園の学芸会で、とろいと役をおろされた「因幡の白兎」 で覚えた歌。このはなしは古事記、少年少女世界の名作で読んだ。監修が川端康成の古い本。あちこちにきれいな挿絵があって、がまの穂のなかでうさぎを大黒様がヒーリングしていた。勝手な想像では、大黒天というのは日本の古代無意識のご本尊だ。それが古代九州にあった。支配したヤマトも、その霊力のたたりをおそれて、いつしか神として祀る。そんなことをおもっていたら、句ができた。
ひをつめて大黒天のふくろかな 恭子
ひは霊で、陽で、悲だ。
◇
黒という字がとても気にかかる。昨秋訪れた大分県の宇佐八幡の本殿のずっと手前の参道に小さな祠があり、黒男神社という字が読めた。黒男神社とはなんだろう。知人の宮司様に尋ねると、しかるべき権威のかたに聞いて下さった。それは黒子の神で、本殿の三神を陰から守護されているとのことだった。かみさまにもクロコがあるとは、なんと日本神道は奥が深く楽しいのだろうか*。面白いとおもったことは、もう一つある。恵比寿は兵庫県西宮神社の祭神だとあったことだ。前田圭衛子編集長の地元ではないか。ちなみにわが夫42歳がここ十年欠かさず博多祇園山笠でかかせて戴いているのも恵比寿流の山車である。
連句誌「れぎおん」17号、1997年4月発行より。
参照:太宰府観世音寺宝蔵http://kotomachi.exblog.jp/i24/
大黒天立像http://dazaifu.mma.co.jp/museum/b08.html
(この大黒天像はエール大学にもレプリカがあるとのことです)
* 神様にもクロコ・・ネット検索すると武内宿禰を祀ったものだった。
この文章をかいた十年前はパソコンがなく、ネット検索なんてことはできなかったのだ。ここしばらく紙上にかいたものをネットに移しかえる作業をしているが、隔世の感がある。
2008・1・2追記
正月に太宰府天満宮へ初詣をしたいと例年思うのですが、猛烈なtraffic jam を思うと、行く気がうせます。そこで上記ブログを訪問して、参拝して帰りました。これなら混雑しないし、まっすぐにいにしえに繋がっているのが目でみてわかります。お暇なかたは、ここの梵鐘の写真をご覧下さい。説明にある道真の歌に、とてもむずかしい漢字が一字あるでしょう。「纔」という字。
この字、八女市の文化財でもある「天文歌人」の和歌にも出てきます。今は亡き熊本出身の俳諧学者・東明雅先生から教えてもらってよめた字です。「わずかに」とよみます。であれば、むずかしそうな漢詩もなんとなく読み下せますよね。古い古い時代の鐘の音、どんな響きがするのでしょう。はらはらとなみだがこぼれるような音がするのでしょうか。
去年読んだ本に「金属の旅」(石野亨・著)がある。こども向けのおもしろい本で、鐘の鋳造の話が印象的でした。
「金属を溶かして鋳型に流し込むと鐘の形に固まるのですが、金属は固まるとちぢむので、生まれたばかりの鐘にはむりな力がのこっています。これをひずみ(歪ー鋳造内応力)と呼んでいます。むりな力がかかっているので鐘の音はよいとはいえません。この期間は鐘の幼年期です。
何回も撞木でつかれているうち、このひずみはうたれた衝撃と鐘の振動でだんだんなくなり、二~三年でその鐘のもつ本来の音がでるようになります。鐘は壮年期に入ったのです。
何千回、何万回とついているうちに、こんどは鐘にこまかいひび割れができて音がにごり、これが目に見えるような大きな割れ目になると、鐘は老年期を経て一生を終るのです。
京都妙心寺鐘(698年作)や奈良東大寺鐘(752年作)は、こうして千年以上つかれつづけ、いまは余生をしずかに送っているといえます。
しかし鐘によっては、江戸時代末の黒船来航や第二次大戦でむりにこわされ、大砲や軍艦につくりかえられたものもあります。それぞれの鐘のおいたちをしらべてみると、人の一生と同じでいろいろ考えさせられます。」 石野 亨『鐘をつくる』小峰書店、1984・5
投稿: 姫野 | 2008年1月 2日 (水) 12時28分