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2007年7月20日 (金)

俗のほそみち  2

  俗のほそみち  2

        姫野 恭子

        熊本  松本 照子

 いわれなき胸の氷を滾らせる
 冬晴れのひとりが恐し影を見る
 早春や野に佇つ母の手は硬し
 癌焼いて椿の山は花ざかり
 はらからを棄てうすばかげろうの町にいる

この五句を読み、咄嗟に思い出したのは石橋秀野の晩年の句と、本誌の故野田田美子の花三椏の絶唱であった。あわてて手持ちの九州俳句誌の97号から129号までを出してきて、この俳人がどんな作品を書かれる人なのか調べる。すると次の句にであう。

 水底へつづく径あり秋桜
 水の里花の無情を流している
 河骨の片濁りして咲く日暮れ
 うす霜や山は歯ぎしりして曇る
 馬の目の寒き深さに近づけり

どの句も幽冥境を異にするぎりぎりのところにたって書かれている。ことに今回の五句はどの句も一点の弛みもない或る境地に到達している。

 冬晴れのひとりが恐し影を見る  照子

冬晴れや、ではなく、「の」で繋いだことで逆に句が切れを獲得してしまう不思議。うすぼんやり読んでいる頭に、冬晴れの精たちがぴょこぴょこ跳ねて、そのうちのひとりが「あら。ないわ。あたし影がない」と途方に暮れている図が浮かぶのだ。もちろん、そんな景ではなく、一人でひなたぼっこしているときの影のゆらぎにふと感ずるこわさなのだろうが。

 母と子に影冷えて来し風車  石橋 秀野
         
昭和21年 於・松江  五月

この句も似たこわさをもつ。何の影が冷えてきたのだろう。母と子の影がぐらつき、現し世は掻き消えて、そこにあるのは巨大な風車だけというようなイメージを払拭することができない。母と子にの「に」、冷えて来しの「きし」、この三つの「 i 音」が漠然とした緊張をしいる。

 早春や野に佇つ母の手は硬し  照子

ものの芽みながまだ固きなか、年老いて手の指が適わなくなった母が佇む。これは早春のと繋がず、字面に切字を投げ入れて、対照的な生の輝き ―芽ぐみの活力と、枯渇の衰退の美、とを慈しんでいる。一字たりとも揺るがない完璧な俳句である。
かように叙景句みたいにひそやかでありつつ奥深い人情を孕んだ句こそ、山本健吉のいう「純粋俳句」なのだろう。

 陽炎や日本の土に殯(かりもがり) 正岡子規

悼蘇山人の前書をもつ句で、昭和17年刊の「聖戦俳句選」で高浜虚子が採り上げている一句である。蘇山人は支那公使館書記官の息子で俳句仲間だったが、若くして病没したので、日本に埋葬したとある。事実なのだろうが、私には蘇山人の名から子規が創作した話に思えてならない。これもまた純粋俳句である。

 「九州俳句」131号より引用
   平成15年8月15日

※ 先日来気にかけていた正岡子規のかりもがりの一句がこれです。わらびなどどこにもありませんでした。かげろうのほうが、ずっといいです。

  

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