無料ブログはココログ

« 父と子とー高橋甲四郎、その2 | トップページ | 父と子とー高橋甲四郎、その3 »

2007年4月 4日 (水)

句のもつ気配

中村汀女の句評を読んでいて打たれたことを書き留めておく。たとえば、この文章。(以下、中村汀女著『はじめて俳句を作る』(主婦の友社刊)より引用。)

咲き満ちてこぼるる花もなかりけり 高浜虚子

 ある日のあるときに、だれでも春一度は、この心持を味わうことと思う。息もつけないような一刻ずつである。「こぼるる花もなかりけり」 ほんとにこんなときに、私は桜花のもろさではなくて強さ、そんなものを感じてならない。

言われてみれば確かに、大樹のさくらに咲き満ちる花弁のひとひらもこぼすことなく、ぴんと張り詰めた姿勢で咲き誇っている状態を、だれでも一度は目にしたことがあるだろう。そのとき、それを見ているほうも、おなじくその花気をひしひしと感受し、気おされるような気概をいだく。そのような一瞬をとらえて詠んだ虚子のすごさと、的確に読み解いた汀女の冴え。師弟とはかくなるものか。

紫陽花(あぢさゐ)に秋冷いたる信濃かな 杉田久女

 ぴんと張った弦のようで、どこにふれても、高い音が生まれるようだ。この句が「ホトトギス」に載ったころの久女氏の作品は、このとおりの張り切ったものばかりで「秋冷いたる」というこんな表現など、私にはとても及びつかないものだとあきらめていたのを覚えている。その後、初めて、久女さんに会ったとき、うっかりこの句を「あきびえ」と読んだら叱られた、恥ずかしくなつかしい思い出がある。

この文もすごくいい。確かにそうだ。これはしゃちほこばっているし、そこが句の響きともあいまってある物悲しさを醸し出している。南で生きた人間にとっては、信濃も紫陽花もかようなトーンで存在すると思える。

緘黙の鋸草や雨は止む     鍬塚聰子

無施錠の秋天であり鯨幕    鍬塚聰子

かんもくにしろ、むせじょうのしゅうてんにしろ、どこか硬直したぎこちない、クールな響きの言葉たちだ。が、これらの句を前に緊張感を持ってたたずむとき、叙情のふわりとした風がよぎっていく。かんもくののこぎりそうや・あめはやむ。上半身の武装された硬さをふわりとかわす下半身の情緒。あるいはまた、むせじょうのしゅうてんであり・くじらまく。すずしげなサ行音のたたみかけ、座五におかれる鯨幕のゆるぎない悲哀。一句は底のない、でも、からっぽの哀しさを湛えてみごとだ。なぜ、久女の秋冷の句を連想したのだろう。句のトーンが重なるからか。 

ノコギリソウ:http://had0.big.ous.ac.jp/~hada/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/compositae/seiyounokogirisou/seiyounokogirisou.htm

« 父と子とー高橋甲四郎、その2 | トップページ | 父と子とー高橋甲四郎、その3 »

コメント

付いていけん(笑)せめて週に一度は
俗っぽい話題で、私を癒しておくれ。

kyoukoさん
久女さんの句と並べられるとは光栄です。緘黙(熟語での変換が出てこなくておたんちん!と思った)も無施錠は気に入っている言葉です。
徳永義子さんの暗愁の句を樹4月号で取り上げましたが、この二句ともそういう気分だろうなと今思います。
しかし、あなたは良く本を読んでいますね。偉い!「樹」の作品展望を交代してもらいたいなあ。

鍬塚さん。
こんど七月の連句会をするときに、大牟田の俳人谷口慎也先生をお招きしようかと思っているところでした。
長ーく俳句にかかわってこられた人たちが、はじめて俳諧の座につかれたら、どんな句を生み出されるだろうかと、それが知りたい一心です。
鍬塚さんも時間が都合がつけばどうぞいらしてくださいね。まだいつかもわかりませんが。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 句のもつ気配:

« 父と子とー高橋甲四郎、その2 | トップページ | 父と子とー高橋甲四郎、その3 »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31