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2007年4月17日 (火)

上妻のおいたち

一昨日の夜遅く、テレビから「上妻小学校の双子の数は・・」という声が聞えてきた。母校である。一校になんと11組もの双子がいるそうで、珍しいと話題になり取り上げられていた。次男の友人の双子の弟たちも、近所のこどもたちも、映っていた。

でも、よく見ようとおもったとたん、夫が他の局に変えてしまったので、あとどんな番組だったのか分らなかった。ただ、この番組のおかげで「ああ、そうだった!上妻小学校の記念誌にあった文章を引用しなきゃ」という約束をハタと思い出した。農学者高橋昇博士が卒業した小学校である。以下、『八女市立上妻小学校沿革誌』より抜粋引用する。個人的ではありますが、大分の俳句誌「樹」で最近読んだ、ある俳人の句ともリンクしている内容があり、またまた何日かかかるのですが、適宜、抜粋式の引用をつづけます。自分のための郷土史のお勉強ですが、興味のあるおかたはおつきあいください。

上妻(こうづま)のおいたち

地勢

 上妻は八女地方の中央に位置し、地形が狭小で地理的に相接しているところから人情厚く風俗習慣が類似している。

八女の地名の由来

「八女」の地名は、日本書紀の記述に由来をみることができる。日本書紀巻第七の景行天皇十八年七月の頃に、次のように書かれている。

「七日に八女の国へ来た。藤山の山上を越えるとき、天皇は南の粟崎方面を見下し、下問なさった。南の山々がけわしく重なりあいうつくしい。これは山に神が居るのか、と。答えて、道案内をしていた水沼縣の長官猿大海は言った。実は女の神が住んでいます。いつも山の中に居ます。名を八女津媛と呼んでいます。・・すなわち、八女の地名は、ここから起った。」

景行天皇は一世紀の末期頃の天皇と推察されているので、八女の地名は、古代からの呼び名であったことがわかる。

さらに、日本書紀巻第三十の持統天皇の頃には、八女縣が「上陽咩郡(かみつやめぐん)」と書かれている。「陽咩」と書いて「やめ」とよんでいたが奈良時代には陽咩を「妻(やめ)」と好字し、上妻郡、下妻郡と生葉郡星野村を合併して「八女郡」としたのである。その後、昭和二十九年四月一日に市制施工で「八女市」の誕生をみたのである。

上妻の名称と村の合併

和銅六年(713)に作製された「筑後国風土記」の磐井の墓(岩戸山古墳)についての記述の中に上妻縣の名が見えている。また、平安時代の法典、細則を集成した「延喜式」と漢語辞書の「倭名類聚抄」に上妻の名があり、同時代に上妻庄があったことが知られている。この上妻庄は、上妻校区を中心に成立し、附近一帯に及んだ荘園である。

上妻縣、上妻郡という地域の区画ができてから、上妻郡の名が明治二十九年までつづいたのである。
明治二十二年(1889)には、上妻郡の馬場村、津江村、祈祷院村、納楚村、平田村の五村が合併して「上妻村」と改称した。したがって、上妻郡上妻村の名となり、他の町村も合併によって、上妻郡忠見村、上妻郡長峰村、上妻郡福島町・・・と改称し、現在の大字の名は旧村の名称をとり区画にしたものである。

明治二十九年に、上妻郡、下妻郡、生葉郡星野村が合併して八女郡となり、八女郡上妻村と称していたが、その後、昭和二十六年四月一日町村合併により、上妻村、長峰村、三河村、八幡村、福島町が合併し、福島町となったのである。さらに、昭和二十九年四月一日の市制施工で、川崎村、忠見村、岡山村(一部、筑後市)と福島町を合併して、八女市となり現在にいたっている。

郷土の歴史的背景

古墳時代の継体天皇二十一年(527)六月から、翌年十一月まで一年余にわたって、大和朝廷軍に抵抗し戦乱をおこした筑紫君「磐井(いわい)」は、筑、豊、肥の三国の北部九州を支配した豪族である。これについては、古事記、筑後国風土記、日本書紀に記述されており、磐井の戦乱は古代史のなかで、最後にして最大の戦いであった。
この戦いに動員された民衆は、上妻地区をはじめ筑後全域におよんだと思われる。

七世紀後半には、上妻咩郡(上妻郡)の軍丁「大伴部博麻」が、六六一年に百済救援軍に従軍、六六三年白村江の戦いに大敗し、唐軍の捕虜となったが、唐軍の日本侵攻情報を知らせるため、自ら身を売って、奴隷となり、そのお金を自分の主である筑紫の君薩夜馬(とらわれの身となっていたさちやま)の路銀とし、三十年後帰国、持統天皇より恩賞を受けている。この時も朝鮮半島へ向って従軍した地元民は、おびただしい人数にのぼったと考えられている。(つづく)

http://www.m-t-o.co.jp/iwatoyama.html(岩戸山古墳)

↑この文章(けっこう長いです)を読んでいたら、次のくだりに遭遇しました。

最後に卑弥呼の国を推定します
耶馬壹国は福岡県八女市  
卑弥呼の城は八女市亀の甲
卑弥呼の塚は筑後市欠塚
耶馬壹国の屯倉は八女市納楚
ただし、現地ではそれらしい話しは一言もありません

ということをブログマスターはかいておられます。で、納楚が屯倉と予想されていることについてですが、当地にすんでいるものとしては、そうかもしれんなあとおもいます。有明海から矢部川を遡り落ち着こうとすればちょうどいい遠さだというかんじがします。しかも洪水が出ても決して水をかぶらない距離です。すくなくとも、この地名は楚の国を連想させることだけは間違いありませんもの。漢字をひとに説明するとき、楚の国の楚だっていえばわかってもらえます。(で、じっさい納楚は納所の転だというはなしでした。)

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コメント

追伸:
最後のほうに大伴べのはかまという兵隊さんの話を付け足しのように書いているのは、実際は上妻小学校の記念誌からの引用ではございません。かささぎが勝手に「なぜこれをおとしたんだ?!」という素朴な疑問でつい付け足してしまった、別の本からの引用です。この一件はやめの者でも知っている者と知らない者とにわかれる。知っているのはごく一部のものだけ。上陽町(おぼろ大橋がある地のふもとまち)の公園にその人の碑があることも、知っている人はあまりない。それ、かささぎはどうしても書いておきたくて。このような恣意な引用は本来あっていいことではない。つい、かきそびれていました。ごめんなさい。今朝携帯サイトをトイレでひらいてみていたとき、こことつながったんで、これを書いています。
八女はやめですが、ひめとしかよめない陽と口偏に羊の表記の地がまずあって、それからかわったんですよね。妻という字も、やめとよませていますがむしろひめとよむほうがなじむ。下妻、上妻という地名が常陸の国の筑波にもかつてあったことも頭にいれておきたい。そういえばいつか
竹橋乙四郎も神津呂伊利も筑紫筑前筑後筑豊などの地名と筑波とのかかわりについて、なにかをかいてくださったことがございましたなあ。それを大量コメント群の中から拾い出して一度整理する必要があります。

こんばんわ
この古代史コーナーは飲み会で語りましょう
九州説は劣勢のようですが大丈夫です^^♪

えめさん。
おもうんですが、このさちやまとおおともべのはかまさんのおはなし一つとっても、三十年もの長きにわたり、さちやまという君に忠誠をつくし仕えたわけで、ってことはさちやまってひとは、単なる小国のあるじなんかではなかったんじゃないのかな。とかささぎはおもうのですが。どうもよくわからないはなしだね。

今朝、たまたま登校時刻に、上妻小学校近くを通りました。
信号のない横断歩道で左右安全確認中の数人の児童がいたので、横断歩道の手前で一旦停止して児童たちが渡り終えるのを待ちました。
すると・・・
渡り終えた児童たちが、皆、こちらへ回れ右して、お辞儀をするのです!
こんないい子たちに誰が育てているのでしょう。

へーえ。乙四郎ってじいさんみたいだ。なんかさ。そうぞうしただけで、笑える。おつしろうじっちゃんが、目をほそめて、おお。いい子じゃいい子じゃ。ってなきそうな顔になっているところ。うーん。だれがこんなよいじさまにそだてたのでしょう。
いたずらに、人の情けの身にしみて、
まなこうるむも、老いのはじめや。
  はぁ。うしのとらきち、もうねむい。

陽咩
158万件中7位
これが面白い。まえにいちどよんだよ。
あの太宰府の人のところで。↓

検索サイト goo  検索ワード 上妻郡

4位

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