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2007年4月 7日 (土)

父と子とー高橋甲四郎、その5

(きのうのつづきです。)

 さて、話は前に戻るが、私の手元にあった父のすべての遺稿を落合さん宛に発送した年、すなわち昭和41年(1966年)、折り返しこれらの遺稿のすべてにわたり、項目別に分類整理された詳細な資料目録が落合秀男さんから私のもとに送られてきたのである。
 その後、落合さんとは再々手紙で連絡をとり、遺稿の進捗状況をお尋ねしていたが、落合さんもなかなかお忙しい御様子で、遺稿の発刊は遅々として進まなかった。
 このようにしてさらに20年の歳月が流れたのである。
 そのうちに落合さんは胸を患われ、大変苦しそうであった。そして1989年(平成元年)5月16日に落合さんが肺炎のために逝去されたという電話連絡を、そのつきの19日昼頃落合さんの姪御様といわれる方からいただいた。
私はひとまず、その年の5月26日午後2時から東京都中目黒区の実相会館で挙行された、落合秀男さんの告別式に参列した。そして夏休みの8月17日、私はいままで落合秀男さんに預けていたすべての父の遺稿を受けとるべく、落合さん宅を訪問した。勿論、20年前に私宛に落合秀男さんから送っていただいた落合さん直筆の詳細な遺稿目録を持参して行ったのは言うまでもない。落合さん宅には、落合秀男さんの晩年に、遺稿の清書や編集に協力されていた故山口文吉氏(1994年、平成6年、1月19日に逝去。享年81歳)や、南侃氏(もと鯉渕学園の副学園長)、それに落合秀男さんの奥様および姪御様などが待っておられた。これらの方々のご協力により、私が持参した遺稿目録に従って、夜遅くまでかかって原稿、写真、地図、書物など逐一点検し、一枚の原稿の漏れもなく、一葉の写真の散逸もなく目録と照合し終り、後日荷送していただくことを約して落合家を辞した。

 数日後、ダンボール箱6個に詰められた父の遺稿、写真、地図などのすべてが送り返されて来た。中を開いて見ると、各項目別に記号、番号によって整然と分類されているだけでなく、落合秀男さんが知人に筆耕を依頼して、遺稿原稿を清書させていられた転写原稿まで一緒に送られてきたのである。

 その翌年、つまり1990年(平成2年)5月15日、福岡県八女市の拙宅に、京都大学名誉教授の飯沼二郎先生と、未來社の田口英治さんが遺稿調査にいらっしゃった。そして翌16日より拙宅において本格的な調査が始まったのである。

 ちょうど今から1年前のこの5月16日という同じ日に落合秀男さんがお亡くなりになったことを思うと、まことに不思議なことである。

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
   
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

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コメント

『父の遺稿』には書かれていて、ここには書かれていないこともあります。落合秀男さんは亡くなる前に、歌人前田透(前田夕暮の長男)から黙契のかたちで託された養祖父・落合直文の評伝にあとがきをつけ、出版してなくなっています。前田透氏は出版を前に交通事故でなくなったそうです。この仕事があったから落合秀男さんは高橋昇博士の研究物を最後までしあげることができなかったんです。このなんともいえない縦糸と横糸のつながりよう。すごい。

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