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2007年4月 3日 (火)

父と子とー高橋甲四郎、その1

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』
         飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998年2月、未來社刊より引用。

あとがき

          高橋甲四郎

 この書物が出版されるに当り、私にとって今でも眼前に鮮烈に浮ぶ、どうしても忘れることが出来ない、ある1つの情景がある。

 それは、この書物の著者である私の父昇の死である。

1946年(昭和21年)5月といえば、日本が無謀な戦争を仕掛けて惨敗してから、まだ1年にもならない時期である。その頃私は北九州にある学校(当時の明治工業専門学校、現在の九州工業大学)に在学し、卒業日までにはまだ日数があり、慣例に従って学寮に寄宿していた。その私の手許に郷里から1通の電報が届いた。

 「チチカエル、スグコイ」

 敗戦と同時に、父は朝鮮からすぐに引き揚げてくるものとばかり思っていた。ところが1ヶ月位経った頃、「残務整理のため、暫く朝鮮に残らねばならなくなった。」という父の便りが届いていたので、父との再会はあきらめて辛抱強く待っていた矢先の電報である。待ちに待った父が帰ってきた。私は取るものも取りあえず、その日のうちに郷里(いまの福岡県八女市)に向かったのである。朝鮮での在勤時代、長い間官舎住まいをしていた父は、日本に引き揚げてきても住むに家なく、やむなく父の妹(私からいえば叔母)の嫁ぎ先の離れ家を借りて寝起きしていた。私は、やつれ果てて郷里に引き揚げてきた父の無事を確認すると、その後授業が再開された学校に戻り、再び父のもとに帰ってきたのは早目の夏休みに入った7月上旬のことであった。

 当時、日本の主要な都市は戦争による被害のために焦土と化し、人人は襤褸(ぼろ)をまとい、焼けただれた倒壊家屋の間をさまよい、満たされない空腹を抱えながら、職と食と住を求めて狂奔していた。叔母の家も例外ではなかった。主食は配給制であり、米麦の代りに甘藷や大豆が配給されることが多かった。毎回の食事の量も茶碗に盛り切り1杯と制限されており、どの家庭でも一日一日をどのようにして食べていくかが大問題であった。だから外地からの引揚者はどこの家庭でも敬遠されがちであった。食べ盛りの四人の子供(私からいえばいとこ)を抱えて、この食糧難の時代に日日苦労をしている叔母の家に、私たち親子が厄介になることがどれだけ迷惑になるかは百も承知していた。しかし、仕方がなかったのである。

 このような状況のもとにおいても、父は引き揚げてきてからは、毎日のように東京方面や熊本方面に出掛けていたらしい。あとで叔母やいとこなどの話を聞くと父は、朝鮮で一緒に仕事をしていて一足先に日本に引き揚げてきていられる、かつての父の部下の人たちの就職の世話などに奔走していたと言う。私が父と過した数日間でさえ、父の姿を叔母の家で見かけることはほとんどなかった。したがって父とゆっくり会話する時間的余裕もなかったのである。

 そして忘れようとしても決して忘れ去ることの出来ない運命の日がやってきた。(つづく。)

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コメント

当時の世相と暮らしぶり、お父さんがどんな方だったかすべてが手に取るようにわかる名文だと思っていました。
そして先生とお父さんの運命のやりきれなさ、無念さを思い、そういう時期を経過した10年くらいあとに私は先生と出会って、あの黒板の前のあの笑顔の胸のうちには深い悲しみがあったのかと思って先生にそう言ったら、どんな運命でもプラス思考で生きてきたから・・・と以外にもさばさばと語られました。
妹さんの嫁ぎ先に間借りする・・・・と言うのも今では考えられない住まいですが、みんなそうして助け合って生きていて、不自由ばかりだったんですよね。
家で手足を自由に伸ばして暮らせる人はそういなかったと思います。
だから昔の人は行儀が良くて、緊張感のあるいい顔してたんだと思います。何事も裏腹です。

朝鮮農業の調査資料を、どさくさの中、リュックに背負って引き上げてきた人にも強く惹かれます。

さくらさん。こんばんは。
コメントありがとうございます。
高橋甲四郎先生にまだ会えていません。きのう、これを引用したい旨お願いいたしましたら、すでに出版され公開されたものだから断る理由もないとされながら、はじめの場面は心苦しいと書かれていました。お父上の死の場面は、それほど辛いできごとなんだなあとおもいました。
れぎおん原稿に落合直文(正岡子規と並ぶ近代短歌の祖)のことを少し書き、連句的につながっていた高橋昇遺稿のことと甲四郎先生のことを書いたんです。時間がなく、記憶で一気に徹夜でかいてすぐ速達で送った。あとで本を確認したら、肝心なことを取り違えていたことに気付き、あおくなりました。
『落合直文ー近代短歌の黎明』を五年がかりで書いて発刊まぎわに亡くなったのは、落合秀男さんじゃなくて前田夕暮の子、前田透でした。どちらもじぶんのしごとをめいっぱいされたあとで完成をまたず急逝されたので、あたまのなかで記憶が合成されて、まちがえてしまいました。
そのとき、はっとしたのは、ただ読んだだけじゃきっちり頭に入ってなかった。やはり手打ちじゃなきゃいかんかったなあって。うどんとおなじ。笑
膨大な農業についての内容は移転させることはできないけど、あとがきならできます。もうじき、高橋昇博士の伝記も出るそうなので、宣伝のためにもひろくご紹介したいとおもいました。

普天間問題、沖縄に譲歩の余地がない以上、日米交渉を真剣にやらなければ来月にもどうしようもない事態となるのが目に見えているのに、動いてませんねぇ~。
日米交渉の戦略を水面下で詰めるべきは官房長官の役割でしょうか。
官房長官は切れ者ですが、この官房長官の外交センス、少し不安です。
官房長官は7日の記者会見で韓国との戦後処理について質問を受け、日韓請求権協定で消滅した個人の請求権については政治的判断で個人補償を行うべきだとの考えを示唆したのだそうです。
戦後処理の個人補償については、たとえば原爆被爆者の米国に対する個人補償請求の実質的代替措置として日本政府が被爆者援護を行うようになったなど、複雑で微妙な経緯があります。
韓国人被爆者の援護についても、政府間で大きなお金の動きがあり、微妙な決着点で何とか収まっています。
ありとあらゆる戦後処理の微妙なバランスの中で、ひとつを取り上げて個人補償を具体化させると、おもちゃ箱をひっくり返したような状態になります。
官房長官に覚悟がおありでしたら、同じ論理で、是非とも、米国に対して東京大空襲や原爆投下などで犠牲となった非戦闘員の個人補償請求について、日米交渉で打開していただきたいところです。
そこまでやっていただけるのであれば、外交力を賞賛いたしたく思います。

「ありとあらゆる戦後処理の微妙なバランスの中で、ひとつを取り上げて個人補償を具体化させると、おもちゃ箱をひっくり返したような状態になります。」

そうでしょうね。なのに、官房長官はなぜ生返事をなさったのでしょうか。ただただ、あちらの国に対していい顔をしたかったのか。それとも、なにか目的があるのでしょうか。

みなさん真面目な中にどーでもいい話を1つ、さくらさんの言う「妹さんの嫁ぎ先に間借りする…」、21世紀の御代にそれを実践してる33歳の同僚がいます。3月末に福島県から出てきて、間借り先はお寺だとか。福島訛りがご愛敬。
お後がよろしいようで。

ろいりさん。コメントありがとさんにござんす。
今朝、黒木瞳が出ました。えめさんに教えてもらったので見ることができました。芸能生活30周年記念のエッセイに書かれたことをふるさとや母親のことを交えて、インタビューに答えておられました。
最初に語られたのは、若かりしころの都会への引け目。なまりがあることへの。それが今はなくなってきたとおっしゃった。たしかな地歩を築かれたからでありましょうが、そういう年齢になったということでもあります。瞳さんはふるさとへ回帰する原点へ回帰する年齢です。高橋甲四郎先生はごらんになったでしょうか。ご自分が八女高校から宝塚へ送り出された生徒ということで、しょうこさんが宝塚音楽学校へ入学されてすぐたずねていかれたらしく、そのときに撮影されたひとみさんの写真をいまも大切にしまっておられました。数年前にみせてもらいました。
戦時や戦後は住む家もなく、あちこちの縁を頼りに転がり込む、というのがこうしろう先生も書かれているように普通だったのですよね。仕方なかった。
石橋貞吉、秀野一家も玉造温泉のお寺に間借りしてるし、そのときの苦労をつづっています。
苦労の時代から今を見たらどう見えるだろう。
いまの時代から当時をみたら、きらめいているのはなぜだろう。

そういや水曜日に「BSジャパン」で久留米特集をやっていたけど、誰も話題にしなさらんね、見た人はおらんとじゃろか。

tv今は姜尚中氏の「ただいま」があってますよ。
1度見たけどまた見たくて録画してきました。
「BSジャパン」は最後の最後(?)ちらと見たような・・。再放送がありますように☆

転がり込む>>3年生の頃祖母の妹さんがしばらく居ました。
花柳界にいてその後旅館をしたりしていましたがやめて我が家へ。
50歳くらいだったのかな? 切れ長目のきれいな人でした。 いつも猫を抱いていて・・。

つくづくと 櫨の葉朱く 染みゆけど 下照る妹の 有りと云はなく 檀一雄

もう一組。檀は瀬高の善光寺というお寺で、最初の妻をなくしてから太郎を抱えての執筆活動をしました・・・。と下のサイトに紹介されています。そのサイトにある、当時の檀の和歌です。よみがながふられていて、はじのはあかくそみゆけど。となっていますが、檀がそうルビをふったのでしょうか。はぜははじと。青木繁の和歌を坂本繁二郎がひらかなにして碑にして祀ったのは、りっぱなことですが、ほんとに青木自身は櫨をはじとよませたかったのかな、とかささぎは疑問に思っています。筑後弁で櫨をはじといいますか?ほんとに?そこまでなまる人はあんまりおらんちおもうとばってん。

わが国は筑紫の国や白日分母います国櫨多き国
                        青木繁
で、さきほどの檀の歌に話を戻します。
はぜははぜとよみたいし、そみゆく、とよんである染みゆくは、しみゆくとよみたいです。ルビがないなら。

ちなみにかささぎがジャンヌダルクさんとつながったのは、この白日分からです。

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