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2007年4月10日 (火)

父と子とー高橋甲四郎、その8

 今回の出版に対して、大きな推進力となっていただいたのは京都大学名誉教授の飯沼二郎先生である。1990年(平成2年)に、未來社の田口英治さんとお2人で拙宅においでになり、父の遺稿をご覧になって以来今日までに、御高齢にもかかわらず、御多忙の中、8年間という長い間、校正に編集に、そして助成金の申請に、数々の御尽力を惜しみなく賜ったことに対して衷心より厚く御礼を申し上げたい。飯沼先生はまさに「伯楽」である。父の調査資料を高く評価していただき、また先生のあたたかい人道的な御配慮によって父の遺稿が日の目を見るようになったのである。

 さらに、この飯沼二郎先生への橋渡しをしていただいた未來社、そしてこれが果して活字になるだろうかと懸念されるような乱雑な父の走り書きの原稿を、1つ1つ活字に組めるように修正しつつ出版まで漕ぎつけていただいた未來社の田口英治さん、面倒な長文の解説をこころよく御引きうけ頂いた東京大学東洋文化研究所教授の宮嶋博史先生、朝鮮半島の詳細な地図(5万分の1)を長い間お貸しいただき、校正の便宜をはかっていただいた久留米大学教授の桜井浩先生、そして、この桜井浩先生を紹介して下さった元九州農業試験場長の向居彰夫氏、また、この「あとがき」全文について懇切丁寧な御助言を賜った九州大谷短期大学助教授で国文学科専攻の安保博史(あぼひろし)先生などに対しても、心より感謝の意を表したい。なお、韓国文化研究振興財団からは1990年に第1回の出版助成金として100万円を交付された。また文部省からも1997年度の出版助成金を交付された。感謝の意を表する。
 そしてさらに、この書物はいまは故人となられた方方の善意の結集がまた今回の出版を可能にしたものと思われる。
 遺稿の中に実名で記録され、朝鮮半島の伝統農業のあり方を指し示されている朝鮮農民の方方、最後まで父の遺稿を出版されようと努められ、こころざし半ばにして故人となられた落合秀男さん、さらには、この困難な出版を採算を度外視して引き受けながら、完成を待たずに逝去された未來社の前社長故西谷能雄氏、また、父の遺稿を詰め込んだ重いリュックサックを、朝鮮から苦労してただ一人で背負って来られた故木下栄さん、そして父昇。
 本書は、これらの人人への「鎮魂の書」ともいうべきものであろう。

 何時だったか妻が、
「あなたは、お父さんの遺稿出版のためにこの世に生まれて来たようなものですね。」
 と言ったことがある。
 そうかも知れない。そうでないかも知れない。しかし、多年の念願であった父の遺稿が公刊されることによって、私は今まで背負っていた大きな荷物を降ろしたような気持で、気分が軽くなったことは事実である。
 そして今から51年前、沢山言い残して置きたかったであろうけれども、ひとことも言い得ずに、無念の思いを込めて突如として遠いあの世に逝った父のもとへ、今なら大手を振って逝くことが出来るような気がする。
 もしそこへ逝ったなら、私は、父が生前言いたかったこと、訴えたかったことに耳を傾けて、一部始終を聞いてやろうと思っている。

 最後に、頭(こうべ)を垂れ、つつしみて腹の底から叫びたい。
 この遺稿出版に携わられた方方、長い間本当に、本当にありがとうございました。

参考:

父:高橋 昇 略歴

1892年(明治25年)12月23日 福岡県八女郡上妻村津ノ江にて梯(かけはし)岩次郎の次男として出生

1907年(明治40年)3月 福岡県八女郡津ノ江上妻尋常小学校卒業

1912年(明治45年)3月 福岡県久留米市明善中学校卒業

1915年(大正4年)3月 鹿児島県鹿児島市第七高等学校卒業

1917年(大正6年) 福岡県八女郡黒木町の高橋家の養子となり、姓を「高橋」と改める

1918年(大正7年)3月 東京帝国大学農学部農学科卒業

同年(大正7年)4月 東京小麦ヶ原試験場に奉職

1919年(大正8年)4月 朝鮮総督府農事試験場水原本場に奉職

1926年(大正15年)3月 農事研究のため欧米各国に視察出張する

同年(昭和3年)6月 欧米視察出張より帰国する

1934年(昭和9年) 稲の育種・遺伝の研究により農学博士の学位を授与される

1944年(昭和19年) 農事試験研究機関の整備統合にともない水原本場にもどり、総務部長となる

1945年(昭和20年)8月 敗戦により残務整理のため、朝鮮に残留する

1946年(昭和21年)5月 朝鮮より郷里八女市に引き揚げる

同年(昭和21年)7月20日 上記郷里にて死去、享年55歳

主な著書

朝鮮主要農作物の品種名について(1933年)
朝鮮農具考(1937年)
(以上の2冊は韓国京畿道水原邑の
中央農業試験場図書館に保管されている。)

その他の主な(未発表分を含む)遺稿

犂に関する研究・・・・・254枚 
稲作の歴史的発展過程(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ)・・761枚
耒耜考・・・・・・78枚
労力調査・・・・・167枚
労力(主として挿秧)調査・・・・65枚
その他多数・・・・・・・・(約3000枚)

子: 高橋甲四郎 

1925年(大正14年)5月2日 朝鮮京畿道水原邑にて高橋昇の長男として出生

1938年(昭和13年)3月 朝鮮黄海道沙里院尋常高等小学校卒業

1943年(昭和18年)3月 朝鮮黄海道州西公立中学校卒業

1947年(昭和22年)3月 福岡県戸畑市 明治工業専門学校機械工学科卒業

1947年(昭和22年)4月以降は、福岡県、佐賀県の公立中学校、県立高等学校にて数学科を担当し、

1986年(昭和61年)3月 福岡県立八女高等学校を最後に定年退職する 

1986年(昭和61年)4月  福岡県立八女高等学校講師

1987年(昭和62年)3月  私立八女学院高等学校講師となり現在に至る。(その間、国立久留米工業高等学校講師などを歴任する)。

以上は本書刊行1998年2月現在のものである。(姫野註)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

 

 

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コメント

いま高橋昇博士の年譜を見ていて気付きましたが、上妻尋常小学校(のちの上妻小学校)を明治四十年卒、うちの明治29年生れの祖母もここを出ていまして、(私もそうです)、計算しますと二年間はたぶん一緒の学校でハカセとハルエばあは学んだんだなあ。がぜん身近に感じます。ちょうど右の本棚に「上妻小学校沿革誌」があるので調べると、創立明治9年ですわ。ふる!その時代の校長の名前もわかる。第七代藤木芳尾校長。
はるえばあちゃんを思い出すとき、無私の人だったなあとまずおもう。時代の教育だったんでしょうね。
巻末に上妻のおいたちが記載されてまして、それをいつか引用しておきたい。ぼちぼちと。

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