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2007年4月 8日 (日)

父と子とー高橋甲四郎、その6

 この「あとがき」を書くに際して、この膨大な調査資料を父がどのようにして記録していたか書いて欲しいと未來社から話があったが、その当時私は小学生や中学生の頃であり、とても父の仕事を理解できる年頃ではなかった。ただ当時の父は出張する事が多くて自宅に居る日が少なく、したがって父と会話できることも稀であった。時たま家に居る時でも、食事をしている時でさえ、何事かを考え考えして食べており、私が話しかけても生返事をしたり、ピント外れの返事をすることが多かった。
 私が黄海道の海州邑にある旧制中学校に入学して下宿生活をしている時、父がときたま海州に出張すると、必ずといっていい程電話で、
 「出張で海州に来たので、こちら(よく南山ホテルという所に宿泊していた)まで出てこないか」と言われ、その南山ホテルまで会いにゆくと、決まって八畳位の部屋の中央に置かれているテーブルの前に胡坐を書いて、原稿用紙を拡げ、しきりにペンを走らせている姿に出会ったものである。そして自分が来意を告げると、眼鏡越しに振り返り、
 「おう、元気か」
とひとこと言ったきり、再び原稿用紙に向って1分でも2分でも惜しむようにペンを走らせるのだった。
 私は取り付く島もなく、原稿が一段落するまでそばでじっと待っておらねばならなかった。しかしなかなか終らないのが普通であった。それでも私は父のそばに居るだけで、何となく大きな安堵感に浸ることが出来たのである。中学校が夏休みとなり、私が沙里院の自宅(官舎)に帰ってきても、蚊帳の中に机を入れて、先のように原稿に向っている父のすがたを見かけることが多かった。
 
 また、出張のときは何時も藁半紙の粗末な雑記帳(今は市販されていないが、当時は小学校などで書き取り帳に使用されていた)を2、3冊ポケットに忍ばせ、何かあるとその雑記帳に鉛筆で走り書きをしていたようである。今回の実態調査も、この雑記帳に書いたものをその日のうちに宿に帰って転写、整理したのではないだろうか。
 今回及ばずながら、校正(といっても印刷されたものを父の原稿と照合するだけの仕事)の手伝いをすることになり、実態調査の校正印刷物が未來社から私の所に送付されて来るものを読むたびに、出張のためにほとんど自宅を留守にしていた父が、外で行っていた調査研究にただただ眼を見張る思いをした。
 しかし、編集委員の一人として手伝わせていただいた校正作業は、時間的にも精神的にも、不慣れな私にとってはとても困難なことであった。そのため飯沼先生にも多大な御迷惑をお掛けしたことを、あらためておわびしたい。ただ、今から50~60年前、父が朝鮮半島全土に足跡を残しながら、日記風に書いていた調査記録を、一字一句懐かしい筆跡をたどりながら校正していくとき、父の息遣いを肌身に感じ、現実に父がそこによみがえっているような錯覚に陥り、苦しくもあったが反面楽しくもあった。 

 さて、父が実態調査に没頭していた時代は、私はまだ幼く、今回の実態調査の詳細は、当時の私にはとても知る由もないが、家庭における父の、とくに私との思い出を2,3記しておきたい。

 摂氏零下20度を下まわる北朝鮮の厳冬のある夜、あたたかい温突(おんどる)の部屋の片隅に置いてあった四角い木の火鉢の中央で、炭火が赫赫と熾っていた。夜は深深と更けていた。外では雪が静かに舞い降りていたかもしれない。よく見るとその炭火は、あたかも生き物が息を吐き出し、吸い込んでいるかのように実に規則正しく、赤くなったり黒くなったりしているのである。父は両手を前にかざして炭火に当りながら、何事かじっと考え事をしていた。私は火鉢をはさんで父と向い合い、じっと炭火を見詰めていた。
 
 すると突然父はこう言いだした。
 「ほら、見ろよ、炭火が赤くなったり暗くなったりしているが、なぜだか分るか。」
 当時小学生だった私は、現代のように理科の授業が進んでいなかったので、その理由は分らなかった。しかし、父は
 「考えてみろ。」
と言ったきり、とうとうその訳を教えてはくれなかった。
 父はよく本屋に立ち寄る癖があった。そのようなとき、小学生の頃の私はよく父のあとについて行ったものだった。

 ある日、京城(いまのソウル)の大きな書店にはいり、本棚を熱心に見てまわっていた。少し離れた所で、青い目の外国人が、これも同じ並びの本棚から本を探索しているのが目についた。当時外国人は珍しかったのである。私は何気なくそちらの方を指差して、
 「あそこに外国人が・・・」
と父の方を振り返って話しかけたとき、父は急に険しい顔になって、指差している私の手を打ち払い、
 「他人をみだりに指差すものでない!」
と強くたしなめられたことを覚えている。

 (つづく。)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

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コメント

「父の遺稿」はこれらの内容がだいぶ抜粋版となっているような気がします。
着物と着た男の子と口数少ない父親の姿が、映画の一画面のように見えます。

さくらさん。確かにこちらのほうが詳しく書かれていますが地名場所が私にはよくわかりません。しゃりいんって北朝鮮だったっけ。真ん中あたりじゃなかったかな。零下二十度とはすごい寒さですよね。南の人間には想像もつかない。
きのう、娘からもらったドキュメンタリー『セックスボランティア』(新潮文庫・河合香織著)を読んでいたら、最初に登場する「命がけでセックスしているー酸素ボンベを外すとき」という章で、主人公の竹田さんが自分の生い立ちを語っているとこがあるんです。それに、旧満州から引き揚げてきたときのことが書かれていて、妙にリアルで、ここに引用したくなる。いいでしょうか。「帰り船」の世界です。
『終戦二年後の1947年(昭和22年)1月、竹田さんと母と姉の三人は満州から引き揚げることになった。出発の日、荷物を持って外に出ると、あたり一面は白銀の世界だった。冬の大連は零下十度から十五度まで気温がさがることが多かったと竹田さんは言う。母におぶわれ、足を凍えさせながら、集合場所の小学校へ行くとすでに二千人もの人が集まっていた。学校から五キロ離れたところにある倉庫に移動し、そこで五日間過ごし、やっと船に乗ることができた。二畳ほどの広さで、高さが一メートルほどしかない場所に、家族三人と大きな荷物三つを収納しないといけなかったので、交代で眠った。船の中で幼児が死亡し、水葬されたこともあった。そして、五日間の航海の末、船は佐世保に錨をおろした。翌日の朝、小さな船が二艘迎えにやってきた。
「引揚者の皆さん、長い間、ご苦労様でした」という女性の声が響きわたると、あちこちからすすり泣きの声が聞えてきた。消毒のために、DDTの白い粉が荷物の上に大量にかけられた。』以上、文章は1974年生れのノンフィクションライター・河合香織。(これはすごく立派な仕事をされたとおもいました。障害者の性を真正面からとらえようとした。)

①「しゃりいん」は「沙里院」と書き、38度線と首都「平壌(ピヨンヤン)」とのあいだ付近と考えてください。
②零下20℃のときの部屋の内部のガラスは、すべて5ミリ~10ミリの厚さの氷で覆われます。そして見事な結晶華ができて、それは見事なものです。もちろん外部は一切見れません。
 また軒から落ちる雨だれは凍り付いて、長い氷の棒になって、地面に届きます。

takoさま。
ご親切な情報、ありがとうございました。想像もつかない世界を想像するヒントをいただきました。結晶華というのは、雪印のマークみたいなものでしょうか。
暖房はおんどるということで、室温は何度くらいになるのでしょう。これまた想像するのも辛いような、きびしく、さぶいことでありますね。

追伸)
文中の、なぜ炭は息をするのかが分りません。笑
とりあえず、私のかんがえついた回答:
 木は三度生きるから。立ち木としての生と伐られてからの生と炭としての生。炭になるということは、三度目の生であるから(伐られて燃やされてなおかつ存在するから)、三度目の正直で木としての誇りを取り戻すべく、息をしている。
  んなわけ、ないか。

単純なわたしは「酸素を取り入れてるから」と思いましたが。
子どもと炭火を熾すとき、火が燃えるのは空気がいるのと偉そうに言っています。子どもがやたらと紙と割り箸を突っ込むから。
それにしても炭が熾きてぴーんとなるときのあの音、いいですね。あれが息の始まりでしょうか。清少納言が冬の早朝がいいというのも、炭火の赤さが好きだったからで4勝。

 「おんどる」は「温突」と書きます。6畳ぐらいの部屋の床に平べったい石を何枚も広げて、隙間のないように敷き詰め、その上に油紙を貼るのです。
 その石の下に煙道を作って、その間を焚き口から煙を送って、6畳の部屋全体を暖めます。こうすると部屋全体はとても温かくなり、多分20度~30度ぐらいになります。
 その油紙の床の上に、日本のコタツの上におく布団でも敷いておき、足を入れているとボカボカとして気持ちがよく、いつの間にか眠ってしまいます。外は零下15℃~20℃もあるというのに・・・。
(なお、北朝鮮にはコタツのような、薄ら寒いものはありません)
 また,室内の人の息や、湯沸しの蒸気がガラスに凍りつくのです。結晶華は、雪印の華のようなものもあれば、いろいろで、きわめて多彩です。丁度氷の墨絵のような形(実際は銀色)だと考えてください。しかし、もっともっと美麗で、神秘的な様相を呈しており、人間業では作成できません。
 外気の極寒と、室内の温暖に挟まったガラスが
室内の人間にすばらしい舞踊を提供しているようにみえます。、

ももさん。
炭を熾すことをやっていないものとしては、そうかーとおどろきです。台風の夜 練炭の 六つの赤い目 って詩?が教科書に載っていたのを思い出した。あれも息してましたか。高橋甲四郎先生の文章は、こどもの目線で書かれていて、すなおによめます。すっとこころにはいってくる余白がある。

takoさん。
補充説明ありがとうございました。お説の「こたつのようなうすら寒いものは北朝鮮にはありません。」には笑ってしまいます。あんなにあったかいものはこの世にないと思ってる人間には、おどろきのことばです。
さいごの、雪の結晶模様についての説明を読んでいると、ふしぎなきもちになります。冬樹蛉さんの科学の頁で「水からの伝言」のうそっぱちさを顕彰する、じゃなかった検証する科学者の話がありますが、それもひっくるめて、考えさせられます。
(「水からの伝言」というのは、水にことばのレッテルを貼ると水はちゃんとことばの意味を読み取り、悪意には崩れた結晶を、善意にはきれいな結晶を結ぶ、とする証明写真つきの本です。それがほんとかうそか知りませんが、その本をみてると、水の結晶っていうのはさまざまで美しい。たぶん、氷の結晶と同じだとおもう。これをつきつめてゆくと、なにか見えそうな気がしますが・・)

tako先生、こんにちは
こどもの頃の風景をよく細かく覚えておられますね。そのくらい寒いなか、現在北朝鮮の人々の暮らしが思いやられますね。

私のコメントにつけてくださった引き揚げの話、引揚者の多くが博多港についています。
身重の状態で引き揚げてきた女性達を収容してたのが二日市あたりらしいですよ。

博多にお住まいの本田さんと言う女性の書かれた引き揚げの経験談、皆様よろしかったらお読みになってください。
アドレスは、さくらの名前にもリンクさせておきます。
http://www.geocities.jp/masa030308jp/honda01.html

おはようございます。
さくらさん貼り付けありがとうございました。
よみました。船が繋留しても何日も降りられなかったようですね。DDTのふりかけ、が出てました。自分達の小学時代の低学年、たぶん二年生くらいまではその白く独特のにおいのある粉をあたまに振りかけられていた記憶がありますし、すまいのほうも、梅雨を過ぎたころに消毒係りの人たちが役場からと思うけどやってきて、家の玄関口から一斉にホースでジュパーっと虫殺しを散布していきました。どこの家にも。風物詩のひとこまだったな。

さくらさん 読みました。わたしもコロ島から引き揚げ船に乗りました。といっても19年の9月生まれで、引き揚げたのが21年の5月だから記憶はありませんが、母から聞きました。目の前に博多が見えるのに検疫やら何やらで直ぐに上陸できなかったこと。すぐ下船できるからと思い、持っていた夏みかんを他の人にあげて盲目のおばあちゃんが食べたがって困ったこと。別のグルー王の人が母たちを尋ねた間に炊き出しがあり、その人がおにぎりを貰えなかったと聞いた母が「この人の分をどうしてとっておかなかったのですか」と文句を言っておにぎりを取り返したこと。お礼にと余分を下さるのを貰うわけにはいかないと、断ったこと。
それに船を待っている間に髪を短く切り顔に煤を塗って黒くして、父の実家が熊本の菓子店だったこともあって父がお饅頭や朝鮮雨のようなのを作ったのを売りに行ったことなど。わたしが生きて帰れたのが奇跡のような気がします。だからおばあちゃんは下船して1週間後の5月25日に念願のピースご飯を口に出来て吉井でなくなりました。わたしも肺炎で死ぬと言われていたのが、生き延びているのもおばあちゃんが守ってくれているです。

鍬塚さん。コメントありがとうございます。
帰宅後、じっくりまた書きます。

ただいまかえりました。

今日、大連から引き揚げてきたという人の話をたまたまきくことができました。まさに甲四郎先生の書かれたように、零下二十度の世界は、まどに氷の華が咲き、外は見えず、子供たちは凍りついた湖でスケートをしたそうです。暖房はおんどるとペチカだったとのこと。春にわらびとり(と言っておられたような)にいくと、ところどころに赤く塗られたお棺がぼんとあった、埋められずに。という話でした。あちらは土葬だそうですね。正岡子規の句に、
 追悼・蘇山人
 陽炎や日本の土に殯(かりもがり)
というのがあって、蘇山人は支那公使館の書記官のむすこで俳句仲間だったけれど、若死にしたので、日本に仮の埋葬をした、という句です。この「かりもがり」の字が強烈で、わすれられませんです。
昔は日本も土葬でしたよね。甕のなかにとても澄んだ水になって入っていたという。
鍬塚さん、さくらさん。たくさんの記憶、すべて書かれて残してくださいませね、みんなのために。

内容と無関係の出現、お許し下さいm(_ _)m
まったく、ご無沙汰していて、元気で生きているご挨拶まで。興味深い内容であるのに、拝読するために座れない毎日が続いております。失礼をお許し下さいませ。さくらさんも良く登場されているのも拝見しております。
例の豊後水道の旅のあと、私はかなり長い期間、揺れがとまらなくてバランスを失っていたので、門奈さんが「メニエル氏病じゃないか?」と指摘されて、あわてて耳鼻科に駆け込んだ次第です。とりあえずは、脱しました。海軍さんの身内のくせに情けないお話です。
またまた、ピンポンダッシュ状態でごめんなさい。取り急ぎ、ご挨拶までm(_ _)m

rikaさん、
おはよっす。ひさしぶりですがお元気でなによりです。スケジュールみると忙しそうですね、ほんとに。おからだ、おだいじに、またゆっくり遊びに来てください。笑

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