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2007年4月18日 (水)

八女教学散歩

上妻下妻地方の学塾

八女の教学興隆の源泉は塾教育(私塾)の伸展にあるといわれています。このすべての向学の徒に開かれた諸派諸塾の林立躍進の景況について、その主流をなすものについて略述します。

教学伸展の礎石となった合原(ごうばる)窓南の塾

八女の教学の窓は合原窓南(三潴郡住吉村)によって開かれました。窓南は、享保八年の秋(1723)、病気のため久留米藩儒官を退いて、上妻郡馬場村に隠遁(いんとん)しています。窓南は、この地で十一年間、請われて数百人に及ぶ学徒に学を講じており、これが学問隆盛の素地となっています。窓南の漢学塾(塾名不明)は浅見絅斎(けいさい)の流れをくむ崎門学派(山崎闇斎を始祖とする朱子学の一派)に属し、広津藍渓(学塾名不明)などの優れた学者を輩出しています。

学塾開花の宗師高山畏斎と継志堂

高山畏斎(いさい)は、大阪の名儒留守希斎に師事、帰国後、津江村で漢学塾(塾名不詳)を開き、天明二年(1782)まで学を講じ、この地に一大学塾を形成しました。畏斎没(天明四年)後も後継の門弟は師の遺徳をしのび『継志堂』(堂号命名は仙台の儒家志村東洲)を建て、畏斎の学風を後進に伝えました。後年さらに門弟たちは各地に塾を開き、教学進展の一大殿堂となった継志堂と共に崎門学系の学風をひろめました。その主なものに、新庄村の会輔堂(今村竹堂)・黒木町の楽山亭(古賀調山)・津江、忠見村の三省堂(牛島穀斎、川口貞次郎)などがあります。

傑出した本荘星川の川崎塾

継志堂に匹敵するものに本荘星川の『川崎塾』(文武兼修)があります。星川は、江戸の碩学古賀精里に従学、文化十一年(1814)帰国後、山内村で川崎塾を開き、純朱子学(朱熹シュキの儒学)を講じています。従来の崎門学に対する純朱子学高揚の功績は高く評価され、星川の学行は門弟達によって永く継承されました。この学系の学塾として著名なものに、新荘村の後の会輔堂(高橋嘉遯)・北河内村の琢成堂(小川鬼山蘀)・福島町の磊磊堂(牛島愚軒)などがあります。

合原窓南の塾

教学八女の興隆の源泉は、塾(私塾)教育の進展にあるといわれています。
八女における教学の窓は筑後随一の儒宗合原窓南先生によって開かれましたが、これが学問隆盛の素地となっています。
窓南の漢学塾(塾名不明、塾跡八女郡上妻村大字馬場字北屋敷808番地)は、浅見絅斎の流れをくむ崎門学派(山崎闇斎を始祖とする朱子学の一派)に属し、八女においては広津藍渓などの優れた学者を輩出しています。
次に掲げる資料は、恒尾一誠氏編集による『合原窓南先生伝』(昭和18・12・10刊)の一節です。

『合原藤蔵、名は余修初め権八と称す、三潴郡の人なり、本姓は草野氏山本郡(今三井郡)発心の城主草野右衛門督鎮永の後裔にして、父を道秋と云い医を業とす。母は牛原氏寛文三年三潴郡住吉村に生る。先生幼にして穎悟(えいご)大に読書を好む。年十一出家して僧と為り十七歳にして説法明弁なり。後京都及び江戸に遊び傍ら儒教を学び、壮年に及んで自ら其の非を悟り、飜然(はんぜん)として法衣を脱し、髪を蓄え浅見安正の門に入り、道を信ずること愈(いよいよ)篤く、行を礪(みが)くこと益々精(くわ)しく、特に性理易学に長じ其の名京師に震う。宝永六年久留米藩主有馬則維公召して儒官とし一藩士太夫の子弟を教授せしむ。生徒の従学する者すこぶる多し。米藩宋学の盛んなる蓋し先生を以て先蹤とすべし。
正徳三年御条目御事目の制定せらるるや先生其の儀に参与し、同法令発布の際には湯川丙次(号東軒)と共に之が説明の任に当れり。かくて在官十余年享保八年の秋病を持って上妻郡(今八女郡)馬場村(今の上妻村大字馬場)に隠遁して窓南と号す。時に年六十一、是に於て、国老以下諸子相追随して往いて道を問う者日夜絶えず。
先生上妻の僻村に在りて士民を教育すること十一年門人数百人に及ぶ。享保十八年八月藩侯有馬徸(ゆき)公再び先生を登用して待講とし稟米二十口を給し秩竹間格に班す。又その老を優待し轎(かご)に乗りて出勤し、かつ庁に在りて帽を冠(かぶ)り、寒を禦(ふせ)ぐことを許さる。時に年七十二、元文二年八月二十日病んで没す享年七十又五。住吉村東南原山先塋(えい)の地に葬る。碑面題して「合原窓南之墓」と日(い)う遺命に従うなり。・・・後略』

昭和十一年七月、窓南先生の不朽の偉業を後世に伝えんと、八女郡上妻村教育委員会は標木を塾跡に設置いたしましたが、それが現在見当たらないのはまことに残念です。(つづく。)

([八女市上妻小学校沿革誌]1985年刊行より引用)

連句的参照)

合原(ごうばる)の姓の俳人が大分の俳句誌『樹(たちき)』にいらっしゃいます。しかもちょうど読んだばかりで、このような句を出しておられたのが印象にのこってました。そのままのきばらぬ日常のスケッチです。引用します。(ルビをふらせていただきました)。

合原正利

「著莪の花」(『樹句集』より)

枝打ちの昼餉の座には朴葉敷き
古文書に一揆を探り神無月
氏神は出雲におわすか神無月
紫をそのままにしてあやめ咲く
花吹雪一両電車は影残し
庚申の塔炎天に苔を取る
残雪を迫田の隅に撮りに行く
反芻の牛かすめてや虎落笛(もがりぶえ)
裸木や空深々と突きさして

神の留守大神木の宮静か
斧仕舞い指先の傷癒えぬまま
ぐちってはぐちっては取る藪虱(やぶじらみ)
庚申の御丈計りぬ炎昼に
著莪の花嫁に出した子便り来る
味噌豆を煮つつおしゃべり茶のみ伽(とぎ)

※庚申信仰が自然に出てきているのが興味をひきました。天文年間の八女地方の百首和歌にも恋の歌で一首でてきます。それをのちほど探し出して、引用します。

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