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2007年4月27日 (金)

シスアド入門  1

キャノンのプリンター(2台目。2003年11月購入)が動かなくなりました。ベスト電器に修理を依頼したら、窓口の人とパソコン談義で盛り上がり、気づけば一時間近くも話を聞いていました。

「動かなくなったんで、修理に出したいんですが」

「修理、最低でも七千円以上かかりますよ。一応出す前に、どの程度の不具合か見てみましょう。壊れていると思い込んでるだけかもしれませんからね。それとか、パソコンの入力ミスで、恐ろしく仕事が溜まっているとかでも動かなくなりますから。接続してみましょう。」

(接続する)

「・・ちゃんとつながりますね。でもスイッチが入らないな。どこかが悪いんでしょう。買いだめのインクがあるんだったら、修理に出したほうがいいけれど、今プリンター本体は一万円も出せば新しいのが買えるし、修理より買うほうが安いんですよ。プリンターのメーカーは本体で利益を出してるんじゃなくて、インクリボンで儲けているから。」

「そうなんですか。ところで、あなたは何でパソコンを習得されました?」

いろいろ連句的に話しているうち、この永田さんという店員さんに俄然興味がわき、修理はそっちのけ、インタビュアーに変身してしまう。笑

それほど、このひとの話と経歴はおもしろいものだった。なんというか、パソコンというおもちゃばこの概念から変えてしまう魅力的なお話を実体験に即して、生き生きとなさった。パソコンを学ぶことで、人生が変わった、とおっしゃる人に初めて出会った。私はただワープロの変わりにパソコンを学んできたに過ぎないのだが、この永田さんという人の話を聴いていたら、もう一度、自分で独学で、「シスアド」(それが何か、はっきり言ってまだぜんぜんワカラナイ!でも、なあんかかっこいいじゃない)を勉強してみようという気分になる。

単純だが即、「よくわかるマスター初級シスアド」テキストを買う。こんなときの自分は、ほんっとにおめでたい。(いいのだ。だれに迷惑かけるわけでもないし。)

んで、肝腎の修理。

けっきょくプリンターを買ったとき、五年間保証をつけていたことに気づき、あと一年ほど有効ということで、修理に出してみることにしました。

どうか、治りますように。パソコンの神様、お慈悲を。できるだけ無料で済みますように、そこんとこ、4649!

※最近、よく読まれているパソコンがらみの「かささぎの旗」の記事:

「ブラインド・タッチ」http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_72db.html

5月12日の追記:

これは結局、修理に出したつぎのつぎの日には修理完了の連絡を受けました。部品を二箇所新しいのと交換して、ぜんぶで一万二千円近くかかったようですが、購入したときに五年保証というのをつけていたため、無償ですませることができました。パソコンやその周辺機械は割りと故障が多いので、五年保証をつけると便利だなとあらためておもいました。たしか、千円くらいです。

できたコールをうけて引取りにいったとき、永田さんがいませんでした。係りのひとに聞くと、一昨日辞められたとおっしゃいました。ということは、私は永田さんの最後の客だったのかもしれません。一期一会、すごいことばです。かれのあの日のはなしは、パソコンを社会全体のなかでとらえるということをおしえてくれました。全体性のなかでパソコンをいかすということをです。あらたないり口を教えてもらった気がしました。

2007年4月26日 (木)

なんのために

土曜、高橋先生と四時間ちかく話していたなかで、先生がふと聞かれたことば、

「姫野さんはなんのためにブログにあんなに大量に書き写しをしているのです」

がこころのなかでゆれている。

そうだ。私も知りたい。何のために。かんがえたこともなかった。http://homepage2.nifty.com/buntama/kashu/146.txt

2007年4月25日 (水)

定点観測

定点観測

23日午後6時50分頃。
定点観測

25日早朝5時49分頃。あさもやのなかの麦畑。

定点観測

23日午後6時50分。柿若葉はたっぷりとしている。

2007年4月24日 (火)

松延寛之の小説 2

この文章をどの分類に入れるか考えましたが、芸能・アイドルというカテゴリーにとりあえず入れます。松延貫嵐の仕事といい、五木寛之の仕事といい、私には芸能であると思えたからですが、しかし、この処女小説を書き写しているうち、この人はやはり偉大な文学者であると思い直しました。

  

 連載小説   學生  第二回

              松延 寛之

野心

気まずい沈黙を破つて先生の声が響いた。

「お前達は何と馬鹿な奴等だ」

私の知つたことじゃない、前列のほんの二、三人のことに過ぎないのに、と絵美はくちびるをかむのである。ぢろりと目をやりながら、その顔にたたきつけるように先生はいう。

「この組は各自の点数の二分の一しか成績として認めない。何か異存が有るか」

「先生」と立ち上つたのは絵美だつた。あまりにも馬鹿げたことだと思う。どうして私まで点を引かれねばならないのか、と口惜しさで語尾がふるえた。

「先生、それはあんまりだと思います。私達この事件に全然無関係なんですもの。この組のほんの一部の人達の問題に過ぎないんぢやないかしら、それだのに・・・」

「もうよろしい」と先生はさえぎりながらたずねた。

「外の者の考えはどうか」

「先生」とたれかが立ち上つた。
絵美の横に座つていた例の生徒である。

「ぼくは全部が責任をおうべきだと思う」低くはあつたが、動かし難い何物かを感じさせる口調だつた。

「ぼく達の組で不正行為が行われたということは單に個人のみでの問題ではないと思う。不正行為を行うことを何とも思わないような乱れた空氣が組の中に祕んでいたからこそ、そんなことも起り得るのだ。少くともこのクラスで起つた行為については、われわれ全部が責任を負うべきぢやないだろうか」

「封建的だわ。今ごろそんな全体主義を振回すのは笑うべき時代錯誤よ。」

「個人主義だけぢや社会は成立しない。古いものが皆間違つていると思うのは戦後の日本人の欠点だと思う」

「全体主義こそ社会の敵ぢゃないかしら。一人一人の幸福の上にこそ社会生活は営まれるべきだわ」

「自分を殺して全体のためにつくさねばならない事もあるだろう。野球にしてもバレーにしても、君に言わすれば全体主義的精神を養う危険な競技になつてしまうぢやないか」

「そんな事は・・・」

「もうよろしい」と先生が言つた。

「不正行為が恥ずべき行為だ、という事が皆に解ればそれでいゝんだ。点数を引いた所で何になる。俺はそんな馬鹿ぢやない。」

絵美は何も言えなかつた。偉そうな事を言つても結局点数にこだわつていた自分の氣持を見すかされたようで恥かしかつた。皆黙つて筆を走らせていた。

負けた、と思う。しかし不思議にみじめな敗北感はわいて來ないのである。それに彼の飾り氣のないはつきりした口調にも何となく好感が持てた。いつか機会があつたらもう一度話して見たいと思つた。

雨はいつのまにか止んでいる。

生き返つたようなみずみずしい青葉のしげみから、「じいーつ」とさびた音をひヾかせて蝉の歌が湧いて來た。

次の放課後絵美は近くの川辺に出て爽やかな水の感触に浸つていた。

ここで終っています。つづくのでしょうが、ここまでしかありません。もう少し読んでみたいな。ロマンチックなんだけども、この年頃特有の、リクツっぽさと正義感とが押し合いへし合いしてる。それ、なつかしい。ほんとにそうだったですよね。

挿絵は、川辺の女学生がセーラー服で大きな岩に腰掛けて、足を水に浸しているというものです。ところで、私達の時代にはプールが高校にあったのですが、たぶん、五木さんの時代には矢部川かなんかで泳いでいたんじゃないでしょうか。うちの父は昭和四年、高塚生れの高塚育ちですが、学校の夏は矢部川で競泳があっていたといいます。んで、下帯(へこという)がだんだんはずれて、手で押さえながら必死で泳いだという話をよく聞かされました。昔はこういうところがのどかでよいなあとおもいますね。

五木寛之にしろ、黒木瞳にしろ、からだに自然が溶け込んでいるという感じがします。読んでいると、見えるようです。

※学校新聞ですから、地域の宣伝が載っています。これにも、「洋服屋カミヤ」福島町大正町、「月窓園」お土産用のケース入りアイスクリーム、福島町清水町、「金福堂書店」新刊・雑誌,迅速にお取り寄せ致します、福島京町・・と、なつかしい文字がうたれています。金福堂でよく教科書ガイドを買ったなあ!

2007年4月23日 (月)

農の小屋

農の小屋

農の小屋

農の小屋

古くて今にも壊れそうで、ごちゃごちゃといろんな農具や不用品が山と積まれている。台風がくると、瓦が飛んで割れ、その補修をやるのは父です。その瓦は佐賀と福岡の境にある城島瓦を買ってくる。この古い昔ながらのごく普通の瓦の年月を経てそれぞれ微妙に色を変えるところが、美しいとおもう。でも、たぶん傍目にはおばけやしきみたいかも。ねこもいたちもすみつく。

松延寛之の小説 1

土曜日の午後、高橋甲四郎先生宅へお借りしていた御本を返しに出かけた。

先生のお宅は、清流矢部川が流れるかたえにある。家の背後にかの大河がとうとうとした水量を誇って流れ、家の前にも小さな川(花宗川か)がながれ、まさに水明かりのなかの邸宅である。

 五月雨や大河を前に家二軒  蕪村

ここを訪ねるたびに、なぜかこの句が胸によみがえるのもむべなるかな。
しかし、先生がおっしゃるには、過去に一度も洪水には出遭っていないとのこと。大河のそばには大きな堰があり、水のながれを管理できるようになっているからである。

ひさびさにお会いした先生は、以前よりもお元気そうであった。私のためにいろいろと資料をとりそろえて待っていてくださった。それが単純にうれしかった。

また今回も御本をいただいて帰る。日本随筆家協会賞受賞「秋の気配」所収『バルビゾンの道』(日本随筆家協会刊)。表紙絵・田代喜玖生(中学校時代の美術の先生でした)、装丁・榊原眉山のハードカバーの立派なご本である。さっそく今日は朝からそれを読んでいる。

甲四郎先生は国文系の先生ではない。理数系のあたまの持主である。なのに、いや、だから、無意味な技巧を弄することのないまっすぐな文章で淡々と日常のなかにある気高いもの、美しいものを掬い取られている。よんでいると、とても気持がいいのである。科学者であり俳人であった寺田寅彦の文章を思わせる味わいが随所にあるのは、やはり先生の本質は数学者だからなんだろうと思ったことである。この本については後ほどまた記したい。

さて、昨日読者のかたから、以前取り上げた松延貫嵐(八女市の重要文化財である、燈篭人形のもとを築いた江戸期の浄瑠璃作者、かつ俳人)のことでコメントをいただいた。ちょうど甲四郎先生はきのう、福島高校新聞部時代の五木寛之の処女小説をコピーして下さった。こういう偶然は用意されているのだと思う私は、それをまた愚直にもまるごと引用しようとおもう。古い活字だし、小さいし、とても読み辛いものだった。引用に際し、明らかに誤植と分る点のみの訂正にとどめる。おそらく昭和24年か25年ころの、松延寛之15歳のころの文章とのこと。(二回分のみ)ただし、ひとつの懸念は、現在の五木寛之は売れっ子作家であり、ということはプロ中のプロ(笑)、著作権がどうのとかいわれた日には、はっきり言って逃げるしかない。お金ないし、書いてることが威勢がいい割には小心者だし、めだつのこわいし。そのときは、同郷のよしみでおめこぼしを・・と言ってそそくさと逃げよう。

 小説 「學生」   
                            
作・ 松延寛之

             絵・ 西隈 敏治

山の見える教室

紫がかつた山々のうねりが窓の外にかかつていた。筑紫山脈である。やや左手に一きわ高し、銀白の雲を背にそびえているのが飛鷹であろう。手をかざせば溶け込みそうな空の青さであつた。
窓ぎわの青桐の若葉が微風にゆれると教室の中には深海のようなさわやかな光が溢れた。
次の時間は漢文の考査というのに絵美は、一人でぼんやりと窓から山を眺めていた。くつきりと白い首すじに、眞紅の絹糸がたつた一本鮮かにゆれている。これが、彼女のささやかな、そして唯一つのお洒落であつた。
絵美がかつてフランス革命物語を読んでいた時、その中に『当時の血なまぐさいパリの町を歩ゆむ乙女達はいい合わせたように首すじに一本の紅糸を結んでいた。ギロチンの下にも彼女達はウイツトとモードを忘れなかつたのである。』という一節があつて、それ以来絵美は、その如何にもパリジェンヌらしいデリカな感覚がすつかり氣に入つてしまつたのであつた。

そして、それは絵美のギリシヤ彫刻を思わせるような、ほりの深い横顔と不思議に美しい調和を見せていた。

『ふるさとの、山に向いていうことなし・・・』と彼女は口ずさんでいた。

やがて鐘が鳴つて教師が用紙を持つて入つてきた。目と頭だけ大きくてひよろりとやせている。轉校して間もない絵美は彼が津田雄峰なる校内の名物男であることだけしか知らなかつた。
用紙を配りながら雄峰先生はいつた。

「要領のええ答案は書かんでええ。まずくとも正面からぶつかれ。では始め」。

問題はかなり難しかつた。考へあぐねた彼女がふと顔を上げた時、彼女はおや、と瞳をこらした。風にでもあおられたのであろう。模範答案らしい用紙が教卓からだらりと垂れ下つてゆれているのである。

絵美は思わず目をこらしたが、窓ぎわの彼女にはとうてい見えそうにもなかつた。絵美は少し失望しながらも、また、思わず目をこらした自分を意識して何となくほほのほてるのを感じた。

手のつけようもない最後の問題だけを残して鉛筆をおきながら絵美は、90点位は取れる、と心の中で考えていた。まだ大分時間がある。

窓を開けると、いつのまにか青かつた空一杯に雲がかかつて灰色の雲が低くちぎつて投げられたように飛んでいる。

『夕立かもしれない』と彼女は思った。

ふと横を向いた彼女は、おやと軽い驚きに打たれながらつぶやいた。答案を書くのに夢中だつたので氣づかなかつたのであろう。すぐ横についぞ見かけぬ男生徒が座つているのである。答案を机の上に伏せだまつて目をつむつて腕を組んでいる青年、その濃いいまゆ毛の間に青年らしい清らかなほこりと、情熱と童心とを絵美は一瞬の内に見て取りながら素早く瞳を返した。

こんな人がこの学校に、と思いながら彼女は青年に不思議な親しみを覚えて自分も目をつむつて腕を組んでみた。

異様な静けさにふとわれに返った絵美は、頭をあげてあつと思わず息を飲んだ。いつのまにやら教壇の上に立ち上つて教室中をにらみ廻しているのは雄峰先生であつた。少し薄暗くなつた教室に時々きらりと「いなづま」が流れて生徒達の顔を青白く浮かび上がらせた。

「馬鹿野郎なぜ不正行為をする」

鋭い声が天井にはね返った。
ごうと音がして白い雨あしが、窓の外にしぶき始めた。青桐の葉が激しく踊つていた。

「福島高校学校新聞」より引用しました。正確な年月日不詳。

挿絵もコピーしたいのですが、私の技術ではできません。肩まである髪の女学生が窓から山並みをみつめている絵です。二年前、島根新報の記者に送っていただいた石橋秀野、山本健吉が戦後すぐの時代に寄稿していた「みづうみ」という島根高校の俳句文芸誌の表紙絵を思わせる叙情性があります。活字が現代表記と旧表記との過渡期で、おもしろいです。それと、同郷人としてほほえましかったのが、濃いということばを、「濃いい」と表記していたこと。つい先日こんな句ができ、これはひょっとしたら方言かもと気になったばかりでした。(濃いは標準語だが、濃ゆいは方言だとある東京人に言われた記憶があるからですが。ほんとうでしょうか。)

影濃ゆくなれば身の透く青葉騒  恭子

2007年4月21日 (土)

一の鳥居の下で

まいあさ高良山の一の鳥居を逆にくぐる。かみさんのご出勤。

くぐれば御井町派出所のまえ、そこから送信しました。

鳥居をくぐるとき、きまって思い出す人のなまえがあります。

鳥居崎謙。
無名の市井人で、むかし新聞投稿族だったころの論敵でした。いっつもいつもなにかといえば「世界に誇る憲法九条を堅持して」という論を展開なさるので、失礼ながら非礼ながら、ひそかにヘイワなくそじじいとなづけてました。

もうくたばったでしょうか。鳥居崎謙。二十年前当時で七十八くらいだった。やいこらじじい。あんたはりっぱだったかもしれん。

2007年4月20日 (金)

久留米藩校『明善堂』

日曜、来春の高校受験の話を聞きに一人で久留米の塾に出かけた。
私立中学の入試と違って公立高校入試には校区が厳然とあり、そのために筑後地方の子たちはほんとうに勉強をしないということであった。というのは筑後地区でトップの公立校は明善だが、これが福岡市内だと筑紫が丘とか福岡高校とか三校くらいが同じハイレベルの偏差値で競り合っているため、生徒達の向学心が高い。競争は張り合いを生み、その結果教師がなにも言わずとも、生徒達は自主的に非常によく勉強する。しかし、筑後には明善しかない。せめてあと一校、明善と同じくらいの偏差値を持つ公立校があれば、福岡市内の高校と同じレベルの優秀な人材を生み出せるのに、残念だ。・・というような趣旨であった。大分県のように、受験校区を廃止すればいいのであろうか。はげしくお金のかかる教育の質の問題(!)とともに、考えなければならない。

引用を続けます。ちょうど久留米藩校明善堂が出てきます。

学問どころ上妻と久留米藩校『明善堂』

現在の福岡県立明善高等学校の前身は久留米藩校『明善堂』ですが、藩校の創設は天明二年(1783年・7代藩主有馬頼徸ヨリユキ)のことです。
この藩校『明善堂』の変遷(八十八年間)を略述しながら、藩学の興隆に献身したわが上妻学派の先賢儒家の躍動の姿を紹介します。

 学問所時代

天明三年(1783)二月六日

七代藩主頼徸の英断によって城外両替町に創設されました。これが藩校のはじめです。

ところが、このときの『学問所』開設の担当者が八女教学の宗儒高山畏斎(たかやま・いさい、上妻郡津江村)で、これはまさに教学八女の誇りです。

2 講談所時代

天明五年二月十一日(開講天明五年九月二十九日)、八代藩主頼貴の熱願によって両替町(井筒屋恵助の空き屋敷)に、『講席』が再興設立されています。

この時も、講席開設に特に功労のあった藩儒広津藍渓(ひろつ・らんけい、上妻郡福島村)が活躍貢献しています。

3 修道館時代

天明七年五月六日、
『講席』を場内町奉行所跡に移転して、『修道館』と改名しています。

ここでも当時の職員組織の中に、講師広津藍渓・会談員後藤鳳澤(ごとう・ほうたく、上妻郡新荘村)の名が列記されています。

寛政七年(1795)正月七日夜、『修道館』類焼、閉館。

4 明善堂時代

藩主頼貴は藩財政窮乏をおして追手門内戸田勘解由邸宅跡に再建着工(寛政八年二月十一日)、寛政八年十一月十二日に落成しています。

そして、寛政八年十一月二十八日に、新たに藩校を『明善堂』と命名しています。

このおりも、開講当時の教員(教授者格)の中に後藤鳳澤の名前が見られ、また文政五年(1822)には講官本荘星川(ほんじょう・せいせん、上妻郡山内村)さらに文政十一年からは星川の明善堂教授全盛時代が出現します。

5 学館時代

蔓延元年(1860)四月五日、

十一代藩主頼咸(よりしげ)の改革策によって、『学館』が設立されています。

この学館時代にも、多数の教学八女の先儒たちが大活躍しています。すなわち、

本荘適所(上妻郡山内村)安政六年1859
高橋嘉遯(上妻郡福島町)慶応元年1865
牛島栗斎(上妻郡津江村)慶応元年
樋口和堂(上妻郡酒井田村)明治二年1869
中野一峰(上妻郡国武村)明治三年学館寮長

等の先輩が貢献をしています。

※ 明善小学

明治五年(1872)十一月二日開校

高山彦九郎は、「継志堂」(高山畏斎遺塾)来遊のみぎり、『筑後の文武は上妻にあり』と賛嘆したと伝えられています。まさに藩校『明善堂』の草創期、充実期、発展期のいずれにおいても「学問どころ上妻」の面目躍如たるものがあります。このことは教学八女の源泉であり、ふるさと八女の教育史における意義は金字塔的存在であると確信します。(つづく)

([八女市上妻小学校沿革誌]1985年刊行より引用)

2007年4月19日 (木)

荷造り

きのう、れぎおん春号が届く。前回、前田編集長のアクシデントで二ヶ月近く遅れたことを思うと、今回もずいぶんご無理なさったろう。きれいな荷造りにいつものことながら感動をおぼえる。

さて、きのうはもう一つ本が届いた。はじめて利用したアマゾンの漫画三冊。無料配送、その荷造りもまたきれいだった。微動だにしないよう、厚紙の上に並べられた本をラップでピンとパック。

それを見て、すぐ連想したのが、いちごの集荷場での五段重ねの紐がけである。いちごってデリケートだし、生産者は摘むのもパック詰めもとても気を遣う。プラ容器に二段重ねでつめたのを四パックずつ一箱につめ、それをさらに五段にして出荷するのだが、集荷場ではその五段重ねの箱に紙の蓋をして、機械でビニール(かなプラかなポリかななんにしろそういったたぐい)バンドをシュシュシュシュぐわしゃん!と掛けて、一丁あがりの姿になる。ちなみに、しゅしゅしゅしゅは機械が紐を箱の四方にはりめぐらす音、ぐわしゃんは、アイロンで紐を切断する音と思ってください。これらの五段重をいくつもいくつも重ね、クール便の大型トラックで高速配送されるのが、みなさまのおくちへとどくのです。

なかのいちごのきもちになってみると、ぎうぎうのそのままのすがたで東京や大阪などの大都会までおくられるわけで、傷つきやすい不安なきもちだろう。それをやわらげるための、ひもがけ。ゆれないように、うごかぬように、きづつかぬように。

紐ってすごいな。
ぎうぎうのそのぎうぎう感のもつ余裕なさげな余裕、スペース感ってのは、すごいな。
すべては傷つけぬために。

2007年4月18日 (水)

上人閑居

いま、職場はとても暇です。三月二十日をすぎたころより、いっきに仕事量が十分の一以下に減りました。隊員さんたちは、なにもすることがなくて、かなしいくらいにひまそうです。ほれ。あの箴言がこころをかすめます。
 
上人閑居してふぜんを為す

昔の人はエライもんだす。みんなとはいいませんが、あさっぱらからオハラショースケさん。お酒かっくらうわ朝寝するわ。将棋をさす姿はかっこいいんですが、ぱちんこ、ふうぞくがよいとかはみたくないです。ほんまに・・。

ところが、このところ大いなる変化がありました。お勉強をなさる隊員さんの姿があちこちで見受けられるのです。

ひと月後、交通誘導員資格試験があります。そのお勉強です。試験問題集をのぞきますと、難しいことばがいっぱい!漢字は旧字なのにびっくりします。凶器もいまだに足のある兇器ですし、贓物なんてことば、生まれてはじめて見ましたよ。なんて読むのかわからん。・・・ゾウブツ。スリのことらしい。法律用語は正字を堅持してるのですかね。硬い堅い固いいしあたまの世界でありまするからなあ。
なんどやってもおなじところをまちがえる人には、先輩格の人が懇切ていねいに教えてあげてます。先月まであんなに忙しく時にはケンカもみられたのに、この余裕。今はとってもやさしいみんな。後光がさしてみえます。お金はなくとも時間がたっぷりとあることのしあわせは、かくも人をかえます。そうそう、先日テレビ放映された『海猿』も熱心にみていたようですわ。なにしろ海上保安官の制服のことまで出たりして、みょうにむずかしいんですじゃ。

八女教学散歩

上妻下妻地方の学塾

八女の教学興隆の源泉は塾教育(私塾)の伸展にあるといわれています。このすべての向学の徒に開かれた諸派諸塾の林立躍進の景況について、その主流をなすものについて略述します。

教学伸展の礎石となった合原(ごうばる)窓南の塾

八女の教学の窓は合原窓南(三潴郡住吉村)によって開かれました。窓南は、享保八年の秋(1723)、病気のため久留米藩儒官を退いて、上妻郡馬場村に隠遁(いんとん)しています。窓南は、この地で十一年間、請われて数百人に及ぶ学徒に学を講じており、これが学問隆盛の素地となっています。窓南の漢学塾(塾名不明)は浅見絅斎(けいさい)の流れをくむ崎門学派(山崎闇斎を始祖とする朱子学の一派)に属し、広津藍渓(学塾名不明)などの優れた学者を輩出しています。

学塾開花の宗師高山畏斎と継志堂

高山畏斎(いさい)は、大阪の名儒留守希斎に師事、帰国後、津江村で漢学塾(塾名不詳)を開き、天明二年(1782)まで学を講じ、この地に一大学塾を形成しました。畏斎没(天明四年)後も後継の門弟は師の遺徳をしのび『継志堂』(堂号命名は仙台の儒家志村東洲)を建て、畏斎の学風を後進に伝えました。後年さらに門弟たちは各地に塾を開き、教学進展の一大殿堂となった継志堂と共に崎門学系の学風をひろめました。その主なものに、新庄村の会輔堂(今村竹堂)・黒木町の楽山亭(古賀調山)・津江、忠見村の三省堂(牛島穀斎、川口貞次郎)などがあります。

傑出した本荘星川の川崎塾

継志堂に匹敵するものに本荘星川の『川崎塾』(文武兼修)があります。星川は、江戸の碩学古賀精里に従学、文化十一年(1814)帰国後、山内村で川崎塾を開き、純朱子学(朱熹シュキの儒学)を講じています。従来の崎門学に対する純朱子学高揚の功績は高く評価され、星川の学行は門弟達によって永く継承されました。この学系の学塾として著名なものに、新荘村の後の会輔堂(高橋嘉遯)・北河内村の琢成堂(小川鬼山蘀)・福島町の磊磊堂(牛島愚軒)などがあります。

合原窓南の塾

教学八女の興隆の源泉は、塾(私塾)教育の進展にあるといわれています。
八女における教学の窓は筑後随一の儒宗合原窓南先生によって開かれましたが、これが学問隆盛の素地となっています。
窓南の漢学塾(塾名不明、塾跡八女郡上妻村大字馬場字北屋敷808番地)は、浅見絅斎の流れをくむ崎門学派(山崎闇斎を始祖とする朱子学の一派)に属し、八女においては広津藍渓などの優れた学者を輩出しています。
次に掲げる資料は、恒尾一誠氏編集による『合原窓南先生伝』(昭和18・12・10刊)の一節です。

『合原藤蔵、名は余修初め権八と称す、三潴郡の人なり、本姓は草野氏山本郡(今三井郡)発心の城主草野右衛門督鎮永の後裔にして、父を道秋と云い医を業とす。母は牛原氏寛文三年三潴郡住吉村に生る。先生幼にして穎悟(えいご)大に読書を好む。年十一出家して僧と為り十七歳にして説法明弁なり。後京都及び江戸に遊び傍ら儒教を学び、壮年に及んで自ら其の非を悟り、飜然(はんぜん)として法衣を脱し、髪を蓄え浅見安正の門に入り、道を信ずること愈(いよいよ)篤く、行を礪(みが)くこと益々精(くわ)しく、特に性理易学に長じ其の名京師に震う。宝永六年久留米藩主有馬則維公召して儒官とし一藩士太夫の子弟を教授せしむ。生徒の従学する者すこぶる多し。米藩宋学の盛んなる蓋し先生を以て先蹤とすべし。
正徳三年御条目御事目の制定せらるるや先生其の儀に参与し、同法令発布の際には湯川丙次(号東軒)と共に之が説明の任に当れり。かくて在官十余年享保八年の秋病を持って上妻郡(今八女郡)馬場村(今の上妻村大字馬場)に隠遁して窓南と号す。時に年六十一、是に於て、国老以下諸子相追随して往いて道を問う者日夜絶えず。
先生上妻の僻村に在りて士民を教育すること十一年門人数百人に及ぶ。享保十八年八月藩侯有馬徸(ゆき)公再び先生を登用して待講とし稟米二十口を給し秩竹間格に班す。又その老を優待し轎(かご)に乗りて出勤し、かつ庁に在りて帽を冠(かぶ)り、寒を禦(ふせ)ぐことを許さる。時に年七十二、元文二年八月二十日病んで没す享年七十又五。住吉村東南原山先塋(えい)の地に葬る。碑面題して「合原窓南之墓」と日(い)う遺命に従うなり。・・・後略』

昭和十一年七月、窓南先生の不朽の偉業を後世に伝えんと、八女郡上妻村教育委員会は標木を塾跡に設置いたしましたが、それが現在見当たらないのはまことに残念です。(つづく。)

([八女市上妻小学校沿革誌]1985年刊行より引用)

連句的参照)

合原(ごうばる)の姓の俳人が大分の俳句誌『樹(たちき)』にいらっしゃいます。しかもちょうど読んだばかりで、このような句を出しておられたのが印象にのこってました。そのままのきばらぬ日常のスケッチです。引用します。(ルビをふらせていただきました)。

合原正利

「著莪の花」(『樹句集』より)

枝打ちの昼餉の座には朴葉敷き
古文書に一揆を探り神無月
氏神は出雲におわすか神無月
紫をそのままにしてあやめ咲く
花吹雪一両電車は影残し
庚申の塔炎天に苔を取る
残雪を迫田の隅に撮りに行く
反芻の牛かすめてや虎落笛(もがりぶえ)
裸木や空深々と突きさして

神の留守大神木の宮静か
斧仕舞い指先の傷癒えぬまま
ぐちってはぐちっては取る藪虱(やぶじらみ)
庚申の御丈計りぬ炎昼に
著莪の花嫁に出した子便り来る
味噌豆を煮つつおしゃべり茶のみ伽(とぎ)

※庚申信仰が自然に出てきているのが興味をひきました。天文年間の八女地方の百首和歌にも恋の歌で一首でてきます。それをのちほど探し出して、引用します。

2007年4月17日 (火)

上妻のおいたち

一昨日の夜遅く、テレビから「上妻小学校の双子の数は・・」という声が聞えてきた。母校である。一校になんと11組もの双子がいるそうで、珍しいと話題になり取り上げられていた。次男の友人の双子の弟たちも、近所のこどもたちも、映っていた。

でも、よく見ようとおもったとたん、夫が他の局に変えてしまったので、あとどんな番組だったのか分らなかった。ただ、この番組のおかげで「ああ、そうだった!上妻小学校の記念誌にあった文章を引用しなきゃ」という約束をハタと思い出した。農学者高橋昇博士が卒業した小学校である。以下、『八女市立上妻小学校沿革誌』より抜粋引用する。個人的ではありますが、大分の俳句誌「樹」で最近読んだ、ある俳人の句ともリンクしている内容があり、またまた何日かかかるのですが、適宜、抜粋式の引用をつづけます。自分のための郷土史のお勉強ですが、興味のあるおかたはおつきあいください。

上妻(こうづま)のおいたち

地勢

 上妻は八女地方の中央に位置し、地形が狭小で地理的に相接しているところから人情厚く風俗習慣が類似している。

八女の地名の由来

「八女」の地名は、日本書紀の記述に由来をみることができる。日本書紀巻第七の景行天皇十八年七月の頃に、次のように書かれている。

「七日に八女の国へ来た。藤山の山上を越えるとき、天皇は南の粟崎方面を見下し、下問なさった。南の山々がけわしく重なりあいうつくしい。これは山に神が居るのか、と。答えて、道案内をしていた水沼縣の長官猿大海は言った。実は女の神が住んでいます。いつも山の中に居ます。名を八女津媛と呼んでいます。・・すなわち、八女の地名は、ここから起った。」

景行天皇は一世紀の末期頃の天皇と推察されているので、八女の地名は、古代からの呼び名であったことがわかる。

さらに、日本書紀巻第三十の持統天皇の頃には、八女縣が「上陽咩郡(かみつやめぐん)」と書かれている。「陽咩」と書いて「やめ」とよんでいたが奈良時代には陽咩を「妻(やめ)」と好字し、上妻郡、下妻郡と生葉郡星野村を合併して「八女郡」としたのである。その後、昭和二十九年四月一日に市制施工で「八女市」の誕生をみたのである。

上妻の名称と村の合併

和銅六年(713)に作製された「筑後国風土記」の磐井の墓(岩戸山古墳)についての記述の中に上妻縣の名が見えている。また、平安時代の法典、細則を集成した「延喜式」と漢語辞書の「倭名類聚抄」に上妻の名があり、同時代に上妻庄があったことが知られている。この上妻庄は、上妻校区を中心に成立し、附近一帯に及んだ荘園である。

上妻縣、上妻郡という地域の区画ができてから、上妻郡の名が明治二十九年までつづいたのである。
明治二十二年(1889)には、上妻郡の馬場村、津江村、祈祷院村、納楚村、平田村の五村が合併して「上妻村」と改称した。したがって、上妻郡上妻村の名となり、他の町村も合併によって、上妻郡忠見村、上妻郡長峰村、上妻郡福島町・・・と改称し、現在の大字の名は旧村の名称をとり区画にしたものである。

明治二十九年に、上妻郡、下妻郡、生葉郡星野村が合併して八女郡となり、八女郡上妻村と称していたが、その後、昭和二十六年四月一日町村合併により、上妻村、長峰村、三河村、八幡村、福島町が合併し、福島町となったのである。さらに、昭和二十九年四月一日の市制施工で、川崎村、忠見村、岡山村(一部、筑後市)と福島町を合併して、八女市となり現在にいたっている。

郷土の歴史的背景

古墳時代の継体天皇二十一年(527)六月から、翌年十一月まで一年余にわたって、大和朝廷軍に抵抗し戦乱をおこした筑紫君「磐井(いわい)」は、筑、豊、肥の三国の北部九州を支配した豪族である。これについては、古事記、筑後国風土記、日本書紀に記述されており、磐井の戦乱は古代史のなかで、最後にして最大の戦いであった。
この戦いに動員された民衆は、上妻地区をはじめ筑後全域におよんだと思われる。

七世紀後半には、上妻咩郡(上妻郡)の軍丁「大伴部博麻」が、六六一年に百済救援軍に従軍、六六三年白村江の戦いに大敗し、唐軍の捕虜となったが、唐軍の日本侵攻情報を知らせるため、自ら身を売って、奴隷となり、そのお金を自分の主である筑紫の君薩夜馬(とらわれの身となっていたさちやま)の路銀とし、三十年後帰国、持統天皇より恩賞を受けている。この時も朝鮮半島へ向って従軍した地元民は、おびただしい人数にのぼったと考えられている。(つづく)

http://www.m-t-o.co.jp/iwatoyama.html(岩戸山古墳)

↑この文章(けっこう長いです)を読んでいたら、次のくだりに遭遇しました。

最後に卑弥呼の国を推定します
耶馬壹国は福岡県八女市  
卑弥呼の城は八女市亀の甲
卑弥呼の塚は筑後市欠塚
耶馬壹国の屯倉は八女市納楚
ただし、現地ではそれらしい話しは一言もありません

ということをブログマスターはかいておられます。で、納楚が屯倉と予想されていることについてですが、当地にすんでいるものとしては、そうかもしれんなあとおもいます。有明海から矢部川を遡り落ち着こうとすればちょうどいい遠さだというかんじがします。しかも洪水が出ても決して水をかぶらない距離です。すくなくとも、この地名は楚の国を連想させることだけは間違いありませんもの。漢字をひとに説明するとき、楚の国の楚だっていえばわかってもらえます。(で、じっさい納楚は納所の転だというはなしでした。)

2007年4月16日 (月)

はたらく車 その4

はたらく車 その4

三葉とも先月撮り溜めていたものです。
おもちゃみたいに鮮やかなカメムシ色のくるま。ナンテイウナマエカワカラナイ。どういう仕事をするんだろな。
はたらく車 その4

出世してるなあとおもって。
はたらく車 その4

これだけは名前を知っています。
ずばり、「規制車」。
通行止めをするとき、これで道をさえぎります。

2007年4月15日 (日)

裏の川

裏の川

川の周囲に咲いていた菜の花、いつのまにか種になっていました。今年は菜の花がとても美しかったですね。胸にしみる黄色でした。
裏の川
裏の川

諸葛菜の花。

2007年4月14日 (土)

牡丹の色

牡丹の色

ここ数日、おとなりは愛媛の娘さん宅へ行かれて留守です。おととしの11月におじさんが亡くなり、それからはおばさんが一人で住んでおられますが、庭の主役であるボタンが今年も咲きました。かなりのっぽになってます。ほんとは背丈を詰めなければいけないんですって。この華をみれば、おじさんがまだ生きておられるような気がします。大きな声のやさしい人でした。

牡丹の色

上の写真は十一時ころ撮ったもの、これは夕刻に撮ったものです。色がぜんぜん違いますよね。あかむらさきって微妙な色ですが、日の強さで写真には別物みたいに写るんですね。でも、じっさいの色とは、どちらもまったく違うと思います。

2007年4月13日 (金)

一人減り、一人増え

長男が岐阜へ就職していったのが先月の六日だった。見送りもしなかったけど、前の日の夜、こんな話をした。

あんたの亡くなったおじさん、おかあさんの弟はね。いくつも高校受験に失敗して、いくつも高校を転々として、さいごは東京の警備会社に就職したのよ。おかあさんが勤めていたところとおんなじ会社。等々力というところに寮があってね。そこから来た手紙には、秋田のやつとともだちになったけど、なんていってるのかようわからん、て書いてあった。おかあさんは弟がかわいくてね。そんな遠くへ行ったのがかわいそうで、毎日のように手紙を出したら、それがよくなくてね。里心をつけてしまって、ある日、無断で仕事休んで、帰ってきてしまったん。あの日のことは生涯わすれない。会社の得意先に穴をあけてしまったから、首になってしまったわけ。アイビーエムの常駐警備で、本人は、また東京にもどるつもりでいたんだよね。でも、仕事はそんなにあまいもんじゃないから。それからだった。弟がぐれはじめたのは。ぐれるというより、うつになっていったんだけど。21で死んでしまったよ。

わかるよね。おかあさんは、あんたが遠くに行っても、元気でやっていけるなら、なんも心配せんけんね。あまえず、つよくやさしい人になって、いつか元気でかえってきてください。

長男は、黙って聞いてくれた。それがうれしかった。

息子が発った日、偶然、二人の若者が私の勤務先に入社してきた。不思議と長男とおなじ名前で同じ年であった。ところが、ひとりの太郎はその日のうちに無断でいなくなり、もう一人のナガサキから来た太郎は、二十日でギブアップ、故郷へ帰ってしまった。

うちのは、とりあえず、ひとつきは大丈夫だったわけで。勝負はこれからだよね。

それにしても手紙どころか、メール一つよこさないとは、たいしたやつだ。お金も、送ろうかといえば、まだいい。とそっけない。二十日が給料日だって。「借りた金、もどすからね。」てなことを言ってくれた。きのう、あんたの父親、単身赴任から帰ってきたよって報告の電話をしたとき。おとなになってたんだなあ。いつのまにか。胸がじいん。

これが八起のアイスだ!

これが八起のアイスだ!

えーっと、これはきのうです。(今日は春の嵐のようなひどいお天気でしたが、昨日はいいお天気でした。)勤め先でちょっとした移動があり、向き合って知らないおじさんとおひるをたべるのがくつうで外食しました。久し振りのゆめタウンでありまする。食べながら外を見ていると、若いママたちがおしゃべりに夢中でした。そのかたわらであかんぼうがいっときもじっとしてなくて、もぞもぞ動き回ってました。これはテーブルの上に乗っておかしを叩いているところ。このあと、かれはじべたに降りて、ちらばっていたおかしをつまんでは食べていましたが、ママは気付いてないだろうな。ともだちとお話中だったから。わんぱくでもいい。たくましくそだってほしい。笑
これが八起のアイスだ!

筑後川をはさんで、あちらが、宮ノ陣です。

これが八起のアイスだ!

いつか、さくらさんのデジカメ日記でご紹介の八起のアイスキャンデーをたまたま営業のえむさんがパチンコで勝ったと言って、みんなに買ってきてくれました。「おお!」これがそうなの!!という感激で、ついかぶりつく前に記念写真をとらせていただきました。本望であります。あずき味。妙にさっぱりとしたなつかしい味でした。↓さくらさんの紹介記事。http://blog.goo.ne.jp/ssj19430903/e/e5a856daaff9e69fba0c7049b233dab5

2007年4月12日 (木)

まとふはおのがひかりのみ

○○のまとふはおのがひかりのみ  水原秋櫻子

おとといの夕方のシャクナゲがあまりにきれいで、それをみてたら、上の句が浮かんで、○○に何が入っていたのかを思い出せず、いろいろと首を挿げ替えてはああでもない、こうでもないとやっていた。

白菊の、寒菊の、などのような菊の気がした。菊だ。ぜったいそれは間違いない。でも、なんの菊だったのだろう。

東京都知事選に、むかし夢中になった男が出ていた。笑わないで聞いてくれ。そのころ少年だった。たぶん17くらい。手書きのアジビラをまいていた。あじのひらきではない、アジテーションのビラ。じぶんは34くらいだったかもしれない。ぽっかりとこころは空疎だった。これは今にいたるまでそうであるが。朝日新聞投稿族だった私は、あまりのそのビラのおもしろさに、紹介した。ヤング雑記長ってあったやん。いまもあるかもしれん。そしたら、大きくとりあげてくれてね。ちょうど、彼が初めての本をだすのにぴたっと一致してたんだね。

若い子は政治的なものからできるだけ遠くいたほうがいい。そういう風潮が全共闘世代以後、かたちづくられている。にもかかわらず、九州の自然はたまにとんでもなく強烈なはみだしもんをうみだす。それにたまがったんだとおもう、いまにしておもえば。

かれの一冊目はうれた。堂々のベストセラーになった。局地的ではあるが。しかしそれっきり。二冊目だかに私の文章を勝手に引用していた。新聞に投稿したぶんだし、でも、たちよみしたとき、おやっとおもった。「ときどきハッとさせられて」という題の文章である。

なぜか気になるのである。それは弟への思いにつながっているのかもしれない。

それじゃ、仕事、行ってきます。

2007年4月11日 (水)

石楠花

石楠花

きのう、夫の単身赴任がおわった。五年、だったかな。これ以上続いていたら、完全にふうふだったことを忘れ果てていたとおもう。

これは昨日の夕方、ご飯の支度中に外をみていたら、あまりにも石楠花がきれいに咲き初めていて、おもわず外に出てカシャ。樫の木がいつのまにか針金を呑みこんで育っていました。十五年前くらいにシイタケをこの下で育てようとしたことがあり、針金はその名残です。とても忙しくて誰も針金をはずすのを忘れていたのです。樫の表情が、ものがなしく感じられるのは気のせいか。もんもんとしたかおしている。

石楠花
石楠花

2007年4月10日 (火)

父と子とー高橋甲四郎、その8

 今回の出版に対して、大きな推進力となっていただいたのは京都大学名誉教授の飯沼二郎先生である。1990年(平成2年)に、未來社の田口英治さんとお2人で拙宅においでになり、父の遺稿をご覧になって以来今日までに、御高齢にもかかわらず、御多忙の中、8年間という長い間、校正に編集に、そして助成金の申請に、数々の御尽力を惜しみなく賜ったことに対して衷心より厚く御礼を申し上げたい。飯沼先生はまさに「伯楽」である。父の調査資料を高く評価していただき、また先生のあたたかい人道的な御配慮によって父の遺稿が日の目を見るようになったのである。

 さらに、この飯沼二郎先生への橋渡しをしていただいた未來社、そしてこれが果して活字になるだろうかと懸念されるような乱雑な父の走り書きの原稿を、1つ1つ活字に組めるように修正しつつ出版まで漕ぎつけていただいた未來社の田口英治さん、面倒な長文の解説をこころよく御引きうけ頂いた東京大学東洋文化研究所教授の宮嶋博史先生、朝鮮半島の詳細な地図(5万分の1)を長い間お貸しいただき、校正の便宜をはかっていただいた久留米大学教授の桜井浩先生、そして、この桜井浩先生を紹介して下さった元九州農業試験場長の向居彰夫氏、また、この「あとがき」全文について懇切丁寧な御助言を賜った九州大谷短期大学助教授で国文学科専攻の安保博史(あぼひろし)先生などに対しても、心より感謝の意を表したい。なお、韓国文化研究振興財団からは1990年に第1回の出版助成金として100万円を交付された。また文部省からも1997年度の出版助成金を交付された。感謝の意を表する。
 そしてさらに、この書物はいまは故人となられた方方の善意の結集がまた今回の出版を可能にしたものと思われる。
 遺稿の中に実名で記録され、朝鮮半島の伝統農業のあり方を指し示されている朝鮮農民の方方、最後まで父の遺稿を出版されようと努められ、こころざし半ばにして故人となられた落合秀男さん、さらには、この困難な出版を採算を度外視して引き受けながら、完成を待たずに逝去された未來社の前社長故西谷能雄氏、また、父の遺稿を詰め込んだ重いリュックサックを、朝鮮から苦労してただ一人で背負って来られた故木下栄さん、そして父昇。
 本書は、これらの人人への「鎮魂の書」ともいうべきものであろう。

 何時だったか妻が、
「あなたは、お父さんの遺稿出版のためにこの世に生まれて来たようなものですね。」
 と言ったことがある。
 そうかも知れない。そうでないかも知れない。しかし、多年の念願であった父の遺稿が公刊されることによって、私は今まで背負っていた大きな荷物を降ろしたような気持で、気分が軽くなったことは事実である。
 そして今から51年前、沢山言い残して置きたかったであろうけれども、ひとことも言い得ずに、無念の思いを込めて突如として遠いあの世に逝った父のもとへ、今なら大手を振って逝くことが出来るような気がする。
 もしそこへ逝ったなら、私は、父が生前言いたかったこと、訴えたかったことに耳を傾けて、一部始終を聞いてやろうと思っている。

 最後に、頭(こうべ)を垂れ、つつしみて腹の底から叫びたい。
 この遺稿出版に携わられた方方、長い間本当に、本当にありがとうございました。

参考:

父:高橋 昇 略歴

1892年(明治25年)12月23日 福岡県八女郡上妻村津ノ江にて梯(かけはし)岩次郎の次男として出生

1907年(明治40年)3月 福岡県八女郡津ノ江上妻尋常小学校卒業

1912年(明治45年)3月 福岡県久留米市明善中学校卒業

1915年(大正4年)3月 鹿児島県鹿児島市第七高等学校卒業

1917年(大正6年) 福岡県八女郡黒木町の高橋家の養子となり、姓を「高橋」と改める

1918年(大正7年)3月 東京帝国大学農学部農学科卒業

同年(大正7年)4月 東京小麦ヶ原試験場に奉職

1919年(大正8年)4月 朝鮮総督府農事試験場水原本場に奉職

1926年(大正15年)3月 農事研究のため欧米各国に視察出張する

同年(昭和3年)6月 欧米視察出張より帰国する

1934年(昭和9年) 稲の育種・遺伝の研究により農学博士の学位を授与される

1944年(昭和19年) 農事試験研究機関の整備統合にともない水原本場にもどり、総務部長となる

1945年(昭和20年)8月 敗戦により残務整理のため、朝鮮に残留する

1946年(昭和21年)5月 朝鮮より郷里八女市に引き揚げる

同年(昭和21年)7月20日 上記郷里にて死去、享年55歳

主な著書

朝鮮主要農作物の品種名について(1933年)
朝鮮農具考(1937年)
(以上の2冊は韓国京畿道水原邑の
中央農業試験場図書館に保管されている。)

その他の主な(未発表分を含む)遺稿

犂に関する研究・・・・・254枚 
稲作の歴史的発展過程(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ)・・761枚
耒耜考・・・・・・78枚
労力調査・・・・・167枚
労力(主として挿秧)調査・・・・65枚
その他多数・・・・・・・・(約3000枚)

子: 高橋甲四郎 

1925年(大正14年)5月2日 朝鮮京畿道水原邑にて高橋昇の長男として出生

1938年(昭和13年)3月 朝鮮黄海道沙里院尋常高等小学校卒業

1943年(昭和18年)3月 朝鮮黄海道州西公立中学校卒業

1947年(昭和22年)3月 福岡県戸畑市 明治工業専門学校機械工学科卒業

1947年(昭和22年)4月以降は、福岡県、佐賀県の公立中学校、県立高等学校にて数学科を担当し、

1986年(昭和61年)3月 福岡県立八女高等学校を最後に定年退職する 

1986年(昭和61年)4月  福岡県立八女高等学校講師

1987年(昭和62年)3月  私立八女学院高等学校講師となり現在に至る。(その間、国立久留米工業高等学校講師などを歴任する)。

以上は本書刊行1998年2月現在のものである。(姫野註)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

 

 

2007年4月 9日 (月)

父と子とー高橋甲四郎、その7

(きのうのつづきです。)

 またある日、父と一緒に旅行した。ある駅の構内で急にトイレに行きたくなった。父に
「便所(当時トイレという言葉はなかった)はどこ?」
 と尋ねたが、父は
「眼と、耳と、口は何のために付いているか!」と一喝された。自分で探せ、ということである。私は駅の構内を歩いている人々に尋ねてまわり、「便所」と書いてある標識を探し出して、やっと用を足したのである。

 父は乗馬が好きでよく遠乗りすることがあった。
 その日は秋晴れの気候のよい日曜日であった。父と雇人と私は2匹の馬にまたがり、当時小学生だった私は、まだ青年のような若い雇人の前にちょこんとまたがって近くの山に行った。その帰りのことだった。町から4キロ程離れた所まできたとき、父は私の背後に乗馬している雇人に、
 「君だけちょっとおりてくれないか。」
と言って私一人を馬の鞍の上に残させた。そして父は何を思ったか、持っていた鞭(むち)でいきなり馬の尻を力一杯たたいたものだからたまらない。馬は驚いて跳び上り、私一人を鞍の上に乗せたまま一目散に駆け出したのである。私は恐ろしさのあまり、鞍の上にしがみついて生きた心地はしなかった。馬は4キロ離れた役所(農事試験場)の自分の馬小屋にはいり、
 「ヒヒーン」
といなないたのである。その時の恐ろしかったこと、しかしこのことで度胸がつき、それからは一人で乗馬することにそんなに抵抗感はなくなったのである。

 万事がこの調子であった。あとで考えてみると、将来私が一人で生きてゆくための指針を与えていたのであろうか。今でいう「自立」というものを植えつけようとしたのであろう。
 
 次に父の健康について少しばかり触れておきたい。
 父の40歳代の後半ではなかったかと思う。1度マラリアに冒されて発熱し、その治療薬としてキニーネを服用していたことがある。そのためか、今度は胃腸がやられてしまった。しかし父は、もともと頑丈な体軀(たいく)の持主であったので何とか持ちこたえていたが、次第に弱っていったのを気力で維持していたのであろう。とうとう50歳の頃胃潰瘍(いかいよう)となり、最後の手段として、
 「断食をやろう」

と決心し、何日間か断食道場にはいり、やせこけて出て来た。しかし本人はすこぶる機嫌がよく、快活であった。
 「これで身体が軽くなった。長年の宿便が出てしまって、身も心も洗われたように軽くなった。

と至極満足そうであった。
 その頃であったと思う。当時の朝鮮帽子(カッ)を被り、朝鮮の白い民族衣装(チョゴリとパジ)を着て、アポジ風よろしく、断食道場で伸ばしたあごの山羊髭を右手でふさふさと撫でながら、写真を撮らせたりなどして得意だったようである。

 当時中学生だった私が休暇で帰省すると、
 「どうだ、似合うか。」
とポーズをとったりしていたことを覚えている。断食は予後の養生が大切であるといわれているが、父は相変わらずの多忙のため、健康は完全には回復していなかったようである。
 この頃から戦争は末期症状を呈してきたため、北九州の学校に在学していた私は、以前のように玄界灘を往復して朝鮮に渡ることが困難となり、その
後の父の健康状態がどのように推移していったかは知る由もない。
 ただ、敗戦の翌年五月に、リュックサック1つを背負い(これが当時の引揚者のスタイルであった)、着のみ着のままで、両手に少しばかりの荷物を下げて、郷里の叔母の家に引き揚げてきたときは、びっくりするようにやつれて気落ちしていたと叔母たちは言っていた。

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

 

2007年4月 8日 (日)

父と子とー高橋甲四郎、その6

 この「あとがき」を書くに際して、この膨大な調査資料を父がどのようにして記録していたか書いて欲しいと未來社から話があったが、その当時私は小学生や中学生の頃であり、とても父の仕事を理解できる年頃ではなかった。ただ当時の父は出張する事が多くて自宅に居る日が少なく、したがって父と会話できることも稀であった。時たま家に居る時でも、食事をしている時でさえ、何事かを考え考えして食べており、私が話しかけても生返事をしたり、ピント外れの返事をすることが多かった。
 私が黄海道の海州邑にある旧制中学校に入学して下宿生活をしている時、父がときたま海州に出張すると、必ずといっていい程電話で、
 「出張で海州に来たので、こちら(よく南山ホテルという所に宿泊していた)まで出てこないか」と言われ、その南山ホテルまで会いにゆくと、決まって八畳位の部屋の中央に置かれているテーブルの前に胡坐を書いて、原稿用紙を拡げ、しきりにペンを走らせている姿に出会ったものである。そして自分が来意を告げると、眼鏡越しに振り返り、
 「おう、元気か」
とひとこと言ったきり、再び原稿用紙に向って1分でも2分でも惜しむようにペンを走らせるのだった。
 私は取り付く島もなく、原稿が一段落するまでそばでじっと待っておらねばならなかった。しかしなかなか終らないのが普通であった。それでも私は父のそばに居るだけで、何となく大きな安堵感に浸ることが出来たのである。中学校が夏休みとなり、私が沙里院の自宅(官舎)に帰ってきても、蚊帳の中に机を入れて、先のように原稿に向っている父のすがたを見かけることが多かった。
 
 また、出張のときは何時も藁半紙の粗末な雑記帳(今は市販されていないが、当時は小学校などで書き取り帳に使用されていた)を2、3冊ポケットに忍ばせ、何かあるとその雑記帳に鉛筆で走り書きをしていたようである。今回の実態調査も、この雑記帳に書いたものをその日のうちに宿に帰って転写、整理したのではないだろうか。
 今回及ばずながら、校正(といっても印刷されたものを父の原稿と照合するだけの仕事)の手伝いをすることになり、実態調査の校正印刷物が未來社から私の所に送付されて来るものを読むたびに、出張のためにほとんど自宅を留守にしていた父が、外で行っていた調査研究にただただ眼を見張る思いをした。
 しかし、編集委員の一人として手伝わせていただいた校正作業は、時間的にも精神的にも、不慣れな私にとってはとても困難なことであった。そのため飯沼先生にも多大な御迷惑をお掛けしたことを、あらためておわびしたい。ただ、今から50~60年前、父が朝鮮半島全土に足跡を残しながら、日記風に書いていた調査記録を、一字一句懐かしい筆跡をたどりながら校正していくとき、父の息遣いを肌身に感じ、現実に父がそこによみがえっているような錯覚に陥り、苦しくもあったが反面楽しくもあった。 

 さて、父が実態調査に没頭していた時代は、私はまだ幼く、今回の実態調査の詳細は、当時の私にはとても知る由もないが、家庭における父の、とくに私との思い出を2,3記しておきたい。

 摂氏零下20度を下まわる北朝鮮の厳冬のある夜、あたたかい温突(おんどる)の部屋の片隅に置いてあった四角い木の火鉢の中央で、炭火が赫赫と熾っていた。夜は深深と更けていた。外では雪が静かに舞い降りていたかもしれない。よく見るとその炭火は、あたかも生き物が息を吐き出し、吸い込んでいるかのように実に規則正しく、赤くなったり黒くなったりしているのである。父は両手を前にかざして炭火に当りながら、何事かじっと考え事をしていた。私は火鉢をはさんで父と向い合い、じっと炭火を見詰めていた。
 
 すると突然父はこう言いだした。
 「ほら、見ろよ、炭火が赤くなったり暗くなったりしているが、なぜだか分るか。」
 当時小学生だった私は、現代のように理科の授業が進んでいなかったので、その理由は分らなかった。しかし、父は
 「考えてみろ。」
と言ったきり、とうとうその訳を教えてはくれなかった。
 父はよく本屋に立ち寄る癖があった。そのようなとき、小学生の頃の私はよく父のあとについて行ったものだった。

 ある日、京城(いまのソウル)の大きな書店にはいり、本棚を熱心に見てまわっていた。少し離れた所で、青い目の外国人が、これも同じ並びの本棚から本を探索しているのが目についた。当時外国人は珍しかったのである。私は何気なくそちらの方を指差して、
 「あそこに外国人が・・・」
と父の方を振り返って話しかけたとき、父は急に険しい顔になって、指差している私の手を打ち払い、
 「他人をみだりに指差すものでない!」
と強くたしなめられたことを覚えている。

 (つづく。)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

2007年4月 7日 (土)

筑後川畔

筑後川畔

母を連れて、熊本白水の一心行の櫻をまたことしも見に行こうとして叶わず、かわりに久留米百年公園のつつじまつりにお花見にいく。櫻は満開を通りすぎて散り始めていた。しかし、ほんとうに飛花落花が美しかった。

母は三十年を一心にいちごづくりに捧げてきた人で、プロの百姓である。その代価として、腰が曲がり、思うように歩けない。ゆっくりあるく。遠くまでは歩けないので、車を近くに停める必要がある。公園は広く、警備士の指示によりはじめ東の端に停めた車を、植木市があっている西の端に移動させる。そこはすでに満杯で停めるスペースがない。すると川べりに停めるよう案内がある。ここがそうだった。櫻は背後の高台にある。
筑後川畔
筑後川畔

父と子とー高橋甲四郎、その5

(きのうのつづきです。)

 さて、話は前に戻るが、私の手元にあった父のすべての遺稿を落合さん宛に発送した年、すなわち昭和41年(1966年)、折り返しこれらの遺稿のすべてにわたり、項目別に分類整理された詳細な資料目録が落合秀男さんから私のもとに送られてきたのである。
 その後、落合さんとは再々手紙で連絡をとり、遺稿の進捗状況をお尋ねしていたが、落合さんもなかなかお忙しい御様子で、遺稿の発刊は遅々として進まなかった。
 このようにしてさらに20年の歳月が流れたのである。
 そのうちに落合さんは胸を患われ、大変苦しそうであった。そして1989年(平成元年)5月16日に落合さんが肺炎のために逝去されたという電話連絡を、そのつきの19日昼頃落合さんの姪御様といわれる方からいただいた。
私はひとまず、その年の5月26日午後2時から東京都中目黒区の実相会館で挙行された、落合秀男さんの告別式に参列した。そして夏休みの8月17日、私はいままで落合秀男さんに預けていたすべての父の遺稿を受けとるべく、落合さん宅を訪問した。勿論、20年前に私宛に落合秀男さんから送っていただいた落合さん直筆の詳細な遺稿目録を持参して行ったのは言うまでもない。落合さん宅には、落合秀男さんの晩年に、遺稿の清書や編集に協力されていた故山口文吉氏(1994年、平成6年、1月19日に逝去。享年81歳)や、南侃氏(もと鯉渕学園の副学園長)、それに落合秀男さんの奥様および姪御様などが待っておられた。これらの方々のご協力により、私が持参した遺稿目録に従って、夜遅くまでかかって原稿、写真、地図、書物など逐一点検し、一枚の原稿の漏れもなく、一葉の写真の散逸もなく目録と照合し終り、後日荷送していただくことを約して落合家を辞した。

 数日後、ダンボール箱6個に詰められた父の遺稿、写真、地図などのすべてが送り返されて来た。中を開いて見ると、各項目別に記号、番号によって整然と分類されているだけでなく、落合秀男さんが知人に筆耕を依頼して、遺稿原稿を清書させていられた転写原稿まで一緒に送られてきたのである。

 その翌年、つまり1990年(平成2年)5月15日、福岡県八女市の拙宅に、京都大学名誉教授の飯沼二郎先生と、未來社の田口英治さんが遺稿調査にいらっしゃった。そして翌16日より拙宅において本格的な調査が始まったのである。

 ちょうど今から1年前のこの5月16日という同じ日に落合秀男さんがお亡くなりになったことを思うと、まことに不思議なことである。

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
   
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

2007年4月 6日 (金)

つつじまつり

つつじまつり

久留米つつじまつりは昭和32年からの歴史があり、植木市と物産展が開催されます。百年パークにはさくらが満開でしたが、つつじはまだ早いようです。植木市では鉢植えポットにつぼみをつけたたくさんのつつじたちがありました。これは、エリカの花、(どうもツツジ科らしいです)、珍しかったので。数日前に引用したセイヨウノコギリソウのはっぱと似ていませんか。これがヒースっていうのでしたか。あこがれではありましたね。エリカ:http://www.k5.dion.ne.jp/~hashimot/erica.htm
つつじまつり

これは八女句会の島貞女さんがいつか句に詠んでいたのを思い出し、おおこれが墨田の花火か・・というきもちでカシャ!紫陽花の一種でした。額紫陽花と紫陽花の中間ってかんじで、まるであちこちに花火が揚がっているかのような風情、いい名づけです。
つつじまつり
雑踏警備を視察かたがたボスが連れていってくれた。きのうが初日。今日は雨でしたが、きのうはとてもいいお天気で、まだ人も少なくて、絶好の見学日よりでした。警備の仕事は、三月二十日を過ぎたころから、ぱたりと沙汰やみ状態です。ええーっこんな暇でいいの!?ってかんじ。それじゃなくてもオカラなふところが、いったいどうなるんでしょうか。とてつもなく心配。

一年のサイクルを知らないからそんなことをいうのよ、とボスがいった。半年は水をのんで冬眠し、あと半年は夜も昼も朝もとにかく立ったまま死んでもいい気ではたらく。それが武士道である、そうな。いんや、ちがった。警備業界の常識だそうで。ははーっみごとなことですじゃ。それにしても、忙閑あまりにもはっきりと境目が分かれていて、まるで葱坊主みたいです。あ。そうそう。入札新聞ってのがあるんですね。九州では九建日報っていうの。購読費が高いです。でも、おもしろい。なんかだんだん建築業界にくわしくなってきた。

父と子とー高橋甲四郎、その4

(きのうのつづきです。)

 私はここで、実態調査を含めた膨大な父の遺稿など13,000枚の一部を、敗戦の混乱の中で日本国内に運び入れられたもう一人の人物「木下栄さん」についても触れておかねばならない。
  
 木下さんは、はじめ北朝鮮普天堡近くの北鮮支場(支場の呼称は当時のものに従った)に赴任されていたが、戦争末期には徴兵にとられ、済州島に配属されていた。終戦とともに除隊されて、いったん水原に戻られ、ここで父と再会し、父の遺稿の搬出を父から依頼されたのではないかと推察される。
 この辺から後の状況は、日本の敗戦から40数年を経過した1989年(平成元年)に、木下栄さんから私宛に届いた、ただ1通のごく短い次の私信によって伺うことができる。(かっこ内は著者で補筆した。)

 「・・・・お父上と(熊本県玉名駅で最後に)お別れしたのが昭和21年(1946年)だったと思います。部長(父は終戦当時総務部長だった)の研究資料を終戦の年(1945年)の9月18日水原で(あずかり)お別れ(して)持ち帰り、部長引揚後に拙宅にお出でになり、玉名駅までお送りして以来43年を越してしまいました。38歳だった(当時の)青年が、今では81歳の老人となりました。・・・(後略)                         平成元年(1989年)9月22日
                                          木下 栄」

 つまり、1946年(昭和21年)に父は、朝鮮から郷里の福岡県八女市に引き揚げてきて、一応叔母の家に落ち着いたあとに、熊本県玉名市まで出掛けて行って、木下栄さんに預けたままになっている自分の研究資料を貰って八女市の叔母の家まで持って帰ったのだろう。
 当時の日本国内は、敗戦の混乱の中で、交通機関も充分には回復しておらず、日本にぞくぞくと引き揚げてくる人人、はては闇買出しの人人のために客車は不足し、これらの人たちを、貨物車や無蓋車が鈴なりにして運んでいた時代である。父はこのような悪条件のもとで、重たい自分の研究物を必死になって、熊本県玉名市から引揚げ先の叔母の家まで運んできたにちがいない。
 私は木下さんからお便りをいただいたあと、すぐに電話を入れ、父が預けていた研究資料はどのようなものであったかをお尋ねしたが、「中味はよく見ていない。預かっていたものをそっくりそのままお返しした。」
 とのことであった。

 その当時、私が熊本県まで行って木下さんにお会いしていろいろとお話をお聞きすればよかったのだが、自分の仕事に追われていたためにそれが出来ずに、それから瞬く間に7年という歳月が経過したのである。

 そしてこの「あとがき」を書くに当って、再び木下栄さんの証言を得ようと、1996年(平成8年)12月に木下さん宅にお電話をしたところ、木下栄さんの一人娘といわれる方が電話口に出られ、次のような話をされた。

 「父(木下栄さん)は6年前に亡くなりました。82歳でした。父は私たちより一足早く朝鮮から引き揚げましたがその時、いろいろな研究資料をぎっしり詰め込んだ大きなリュックサック1つを背中に背負って帰って来ました。これを見て、当時一緒に引き揚げて来た親戚や知人友人たちは口口に『引揚者は皆自分の食糧品や所帯道具などを持って帰ってくるのに、何のために他人の、しかも生活に役には立たないものばかりを、大事そうに苦労して背負って引き揚げてきたのか、その気持が分らぬ。』と言って、人人の間では今でも語り草として語り継がれていますよ。・・・
  私と母は終戦の時、北朝鮮に住んでいたので漢口で足止めを喰い、父より1年遅れて引き揚げてきましたが、今では母も亡くなり、夫も昨年亡くなりましたので、父が朝鮮から持ってきた沢山の写真や研究物などは、一人娘の私が持っていても仕方がないので、夫のものと一緒に昨年暮頃、何日もかかって焼却してしまいました。そして両親や夫と一緒に住んでいた家屋敷も処分して、いまは私一人マンションで暮らしています。・・・
 父が朝鮮から持って帰った写真は、北朝鮮の農場や農村風景、白頭山などの風景を大きく引き伸ばしたものが何枚も何枚もありました。この写真だけでも積み重ねると30糎(センチ)位の高さになる位ありました。・・・」

 ということは、木下さんが朝鮮から背負って来られたリュックサックの中にあったものは、必ずしも私の父の研究物だけではなかったといえよう。そしてもし、父が朝鮮から引き揚げて来たあと、熊本県の玉名駅まで木下さんに預けていた研究資料を受け取りに行かなかったら、今頃はその父の研究物もすべて灰になっていただろう。
 
 この木下栄さんと父とはどのような間柄であったかは知る由もない。私が木下さんと連絡がとれたのは、父がかつて朝鮮に居たとき、父が結婚の仲人をしたといわれる現在熊本在住の若杉親義さん(この本が出た当時88歳。姫野註)の紹介による。そして私は、木下栄さんとは1通のお便りと1回の電話を交わしただけで、ついにお会いすることが出来ないまま木下栄さんは他界されてしまったのである。(あすにつづきます。)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
      
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

2007年4月 5日 (木)

移転

朝の通勤ラッシュのおかげで写真がとれました。これ、たぶん、幼稚園前のさくら。園の移転にともない、樹も移すのでしょう。そんなかんじでした。

父と子とー高橋甲四郎、その3

(きのうのつづきです。)

 それから20年という歳月が経過する。その間に私は妻を持ち、自分の家を建て、親戚の家(主に叔母の家だが)に長らく預けていた父の荷物を1ヶ所に集めて整理を始めた。すると柳行李の中に雑然と、そしてぎっしりと詰まっている父の筆跡と思しき夥しい原稿や写真、朝鮮地図などを発見した。手に取って見ると、農具の図や、土地を耕作している人や牛の図が至る所に書き込んであった。当時の私にとっては何が何やら皆目分らなかった。多分父が朝鮮から引き揚げるときに、大事にして持って来たものであろうことだけは推察できた。
 私は途方に暮れた。
 父の死後、20年という歳月が経過している今、父の知人友人の多くはすでに故人となられ、そうではなくても、どなたが何処にどのようにして居られるのか、住所録が残っている訳でもなく、全然分らなかった。

 ところがさらに父の荷物を丹念に整理しているうちに、1通の手紙が出て来た。それは終戦になる以前に、いち早く朝鮮を引き揚げて御郷里の東京に落ち着かれ、当時農林省に在勤されていた森秀男さん(朝鮮では副場長として私たちの官舎の近くに住んでおられ、お会いする度に「森さん」と呼んでいたが、後に落合家の養子となられ、「落合」に姓を改められたので、今後は「落合さん」の敬称で呼ばせていただくこととする。)から父に宛てた手紙であった。住所は東京都となっている。父が朝鮮に残留している間に落合さんから父に宛てた手紙のようである。

 そうだ、落合さんに相談しよう。
 こう決めた私は、今回柳行李から出てきた膨大な父の研究物とおもわれる遺稿の目次を、私なりに作成し、いままでの経緯を書いて落合さん宛に郵送した。
 落合さんからは直ちに次のような御返事をいただいた。

 「思いがけぬ貴翰うれしく拝見しました。・・・・
  さて、この度発見されました御尊父の原稿大変貴重なものと存じます。実は私のところにも一部お預かりしております。各道の農業実態調査が大部分です。これは、はじめ片山隆三氏(もと朝鮮農会勤務、現在和歌山県御坊市在住)が預かっていられたものが、九州農試へ回ってきたもの、その後当時の佐藤場長が私にまとめるようにとのことで私の手許に来たものです。・・・貴殿からの資料目次拝見いたしましたが貴重なもののようです。私のお預かりしているものと一緒にすると、より完璧になるかと存じます。・・・
 私のお預かりしている資料は下記の通りです。

1 実態調査の結果より見たる慶南の畜牛問題・・・18枚
2 済州島紀行・・・420枚
3 平南実態調査資料・・・107枚
4 実態調査備忘録・・・82枚
5 雑録・・・
6 咸南実態調査・・・275枚
7 江原道の農具・・・19枚
8 慶南の農具(予備調査)・・・105枚
9 城山農場・・・82枚
10 忠北、忠南、慶北、慶南の視察・・・115枚
11 新昌里の実態調査・・・12枚
12 平安北道実態調査・・・161枚
13 慶南統営部、慶北慶山郡・・・109枚
14 人参の調査・・・17枚
15 京畿道実態調査・・・15枚
16 北鮮紀行(小生執筆)・・・47枚
17 京畿道実態調査・・・44枚
18 畑作物栽培実態調査(平安南道)・・・131枚
19 慶北実態調査・・・111枚

  昭和41年7月19日 

                 森 秀男 」

私は、このお便りを拝見するや、私の手許にあったすべての父の研究資料、写真、朝鮮地図などを、ただちに落合さん宛に送ったのである。(落合さんが保管されていたのは、このようにほとんど実態調査ばかりで、原稿用紙にして総計1870枚もあったのである。つまり全実態調査4300枚の半数近くの資料が、朝鮮に在住していた父の手を離れたあと、まわりまわされて、東京の落合さん宅に10数年間も保管されていたことになる。)

         その4に続く。

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
   
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

2007年4月 4日 (水)

句のもつ気配

中村汀女の句評を読んでいて打たれたことを書き留めておく。たとえば、この文章。(以下、中村汀女著『はじめて俳句を作る』(主婦の友社刊)より引用。)

咲き満ちてこぼるる花もなかりけり 高浜虚子

 ある日のあるときに、だれでも春一度は、この心持を味わうことと思う。息もつけないような一刻ずつである。「こぼるる花もなかりけり」 ほんとにこんなときに、私は桜花のもろさではなくて強さ、そんなものを感じてならない。

言われてみれば確かに、大樹のさくらに咲き満ちる花弁のひとひらもこぼすことなく、ぴんと張り詰めた姿勢で咲き誇っている状態を、だれでも一度は目にしたことがあるだろう。そのとき、それを見ているほうも、おなじくその花気をひしひしと感受し、気おされるような気概をいだく。そのような一瞬をとらえて詠んだ虚子のすごさと、的確に読み解いた汀女の冴え。師弟とはかくなるものか。

紫陽花(あぢさゐ)に秋冷いたる信濃かな 杉田久女

 ぴんと張った弦のようで、どこにふれても、高い音が生まれるようだ。この句が「ホトトギス」に載ったころの久女氏の作品は、このとおりの張り切ったものばかりで「秋冷いたる」というこんな表現など、私にはとても及びつかないものだとあきらめていたのを覚えている。その後、初めて、久女さんに会ったとき、うっかりこの句を「あきびえ」と読んだら叱られた、恥ずかしくなつかしい思い出がある。

この文もすごくいい。確かにそうだ。これはしゃちほこばっているし、そこが句の響きともあいまってある物悲しさを醸し出している。南で生きた人間にとっては、信濃も紫陽花もかようなトーンで存在すると思える。

緘黙の鋸草や雨は止む     鍬塚聰子

無施錠の秋天であり鯨幕    鍬塚聰子

かんもくにしろ、むせじょうのしゅうてんにしろ、どこか硬直したぎこちない、クールな響きの言葉たちだ。が、これらの句を前に緊張感を持ってたたずむとき、叙情のふわりとした風がよぎっていく。かんもくののこぎりそうや・あめはやむ。上半身の武装された硬さをふわりとかわす下半身の情緒。あるいはまた、むせじょうのしゅうてんであり・くじらまく。すずしげなサ行音のたたみかけ、座五におかれる鯨幕のゆるぎない悲哀。一句は底のない、でも、からっぽの哀しさを湛えてみごとだ。なぜ、久女の秋冷の句を連想したのだろう。句のトーンが重なるからか。 

ノコギリソウ:http://had0.big.ous.ac.jp/~hada/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/compositae/seiyounokogirisou/seiyounokogirisou.htm

父と子とー高橋甲四郎、その2

(きのうのつづきです。)

 それは、長いうっとおしい梅雨の合間の雨上り、若葉が朝日に輝き、つかの間の青空が顔を出した7月10日早朝のことである。私は、昨夜おそく東京から帰ってきて、疲れて寝入っている父より一足早く起きて、近くの井戸端で顔を洗い、父が休んでいる離れ家に再び戻ってきた。私の気配に気付いたのか父は目をさまし、仰向けに寝たままの姿勢でつぶやくようにこう言ったのである。
「水を、水を持ってきてくれ」

 私は急いで井戸端に引き返し、手押しポンプで水を汲み上げ、コップになみなみと水を注いで父の枕もとに持ってゆき、
  「水、持ってきたよ」

 と言ってコップを差し出した。父は上半身をこちらに向けるように寝返り、右手を大きく伸ばして私のコップを取ろうとした。
 その時である。
  父の手がコップに届く前に、突然父の体全体が硬直したようになり、まっすぐに伸ばした右の手が、大きな息と一緒に2,3回上下したかと思うと、一言も発することなく、燃えていた火に水が掛けられて消えていくようにして息を引き取ったのである。あっという間もない出来事であった。私は一瞬呆然となったが、すぐさま事の重大さに気付き、走っていって叔母やその家族に父の異変を告げた。それから間もなく町の医者がやってきて診断した。死亡診断書には「狭心症による死亡」と記されていた。

 先妻に先立たれ、後妻を迎えてからは決してしあわせな日日の家庭生活を味わうことが出来ず、家庭的に不遇だった父は、このようにして55年間の生涯を終えたのである。

 私は大きな鉄槌で脳天を叩き潰されたようなショックを受けた。杖とも柱とも頼みにしていた父の死、そして久し振りに再会出来て間もない父との死別は、当時21歳の私にとって「試練」と呼ぶにはあまりにも残酷であった。幼い頃、早くから生母とも死別し、兄弟も姉妹も居ない私は、全くの天涯孤独となったのである。父の後妻となった私の義母とは早くから音信不通であった。
 
 この時から私の苦難の生活が始まったのである。
                                 (つづく)

2007年4月 3日 (火)

花三種

花三種

これ、畑のはじっこにぷちっとあったポピー、かわいいです。あっさむさんのポピーの写真には負けましたが。http://assam226.tea-nifty.com/mariotte/2007/02/flow.html#comments
花三種

これは何の花だと思います。そらまめ。

蚕豆の眸(まみ)黒くして空をみる  恭子
花三種

ねぎぼうず。花葱という言い方は河野輝暉先生の句で知った。

花葱の中晴れわたる嫁くばり  河野輝暉

つくづく妙なツクリですよね。
長い管の尖端にぷすっと刺さるように花が咲く。切り替え部分のツナギのあいまいさがぜんぜんない。かっちり切り替わっている。なんかへんなきもちになるこれみてると。

父と子とー高橋甲四郎、その1

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』
         飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998年2月、未來社刊より引用。

あとがき

          高橋甲四郎

 この書物が出版されるに当り、私にとって今でも眼前に鮮烈に浮ぶ、どうしても忘れることが出来ない、ある1つの情景がある。

 それは、この書物の著者である私の父昇の死である。

1946年(昭和21年)5月といえば、日本が無謀な戦争を仕掛けて惨敗してから、まだ1年にもならない時期である。その頃私は北九州にある学校(当時の明治工業専門学校、現在の九州工業大学)に在学し、卒業日までにはまだ日数があり、慣例に従って学寮に寄宿していた。その私の手許に郷里から1通の電報が届いた。

 「チチカエル、スグコイ」

 敗戦と同時に、父は朝鮮からすぐに引き揚げてくるものとばかり思っていた。ところが1ヶ月位経った頃、「残務整理のため、暫く朝鮮に残らねばならなくなった。」という父の便りが届いていたので、父との再会はあきらめて辛抱強く待っていた矢先の電報である。待ちに待った父が帰ってきた。私は取るものも取りあえず、その日のうちに郷里(いまの福岡県八女市)に向かったのである。朝鮮での在勤時代、長い間官舎住まいをしていた父は、日本に引き揚げてきても住むに家なく、やむなく父の妹(私からいえば叔母)の嫁ぎ先の離れ家を借りて寝起きしていた。私は、やつれ果てて郷里に引き揚げてきた父の無事を確認すると、その後授業が再開された学校に戻り、再び父のもとに帰ってきたのは早目の夏休みに入った7月上旬のことであった。

 当時、日本の主要な都市は戦争による被害のために焦土と化し、人人は襤褸(ぼろ)をまとい、焼けただれた倒壊家屋の間をさまよい、満たされない空腹を抱えながら、職と食と住を求めて狂奔していた。叔母の家も例外ではなかった。主食は配給制であり、米麦の代りに甘藷や大豆が配給されることが多かった。毎回の食事の量も茶碗に盛り切り1杯と制限されており、どの家庭でも一日一日をどのようにして食べていくかが大問題であった。だから外地からの引揚者はどこの家庭でも敬遠されがちであった。食べ盛りの四人の子供(私からいえばいとこ)を抱えて、この食糧難の時代に日日苦労をしている叔母の家に、私たち親子が厄介になることがどれだけ迷惑になるかは百も承知していた。しかし、仕方がなかったのである。

 このような状況のもとにおいても、父は引き揚げてきてからは、毎日のように東京方面や熊本方面に出掛けていたらしい。あとで叔母やいとこなどの話を聞くと父は、朝鮮で一緒に仕事をしていて一足先に日本に引き揚げてきていられる、かつての父の部下の人たちの就職の世話などに奔走していたと言う。私が父と過した数日間でさえ、父の姿を叔母の家で見かけることはほとんどなかった。したがって父とゆっくり会話する時間的余裕もなかったのである。

 そして忘れようとしても決して忘れ去ることの出来ない運命の日がやってきた。(つづく。)

2007年4月 2日 (月)

ただ一字のこと

  ただ一字のこと

            姫野恭子

 九州俳句賞の応募作品集を読んだ。以前、本誌で目にした野田田美子氏の句が、ただ一字の助詞の差し替えで、印象がかなり違ってくることに驚き、なぜだろうかと考えてみた。

 A 薄ら陽の花三椏よ母に癌(元句)

  b 薄ら陽の花三椏よ母の癌(応募句)

 AとBとは、ただ一字しか違わない。しかし、読み下した時に受ける緊迫感がまるきり違っている。Aの句では、あたかも自分の意識を花三椏にずらす事で、母の病を意識の外に置こうとする健気な意志が感じられるし、それ故、読み手も不安定な揺れを共有する。

 が、Bでは、母の病に対し気持の整理がついているかの様な安定感を持ってしまう。そこには、読者の不安の介入など要らないほどの、安定した心配がある。すると不思議なことに、句としての魅力が薄らぐ。

 Aの魅力は、ぐらぐらに揺れる作者の思いを花三椏が一身に支えて存在する、その実在感緊迫感にこそあったと、Bと対比してみてわかった。

 A 啄木忌いくたび職を替へても貧  安住 敦

 B 啄木忌いくたび職を替へてもや  推敲句

 この句は、久保田万太郎の助言でこうなった、ということを「白桃」主宰・伊藤通明氏の講演会で知った。(九月二十一日八女市堺屋での第一回秀野祭にて)。

 ただ一字の事で、Aの句が語りすぎなのに対し、Bには読み手に参加させる余白があり、余韻がある。脚本家の指摘はさすがだ、と唸らされる。

     『九州俳句』誌108号
           平成9年11月20日発行より引用。

注)このなかの安住敦句であるが、原句を確認しておらず、表記にミスがあるやもしれぬ。どなたかご存知のかたはご一報願います。

注)このあと、野田田美子さんご本人から葉書をいただき、応募作の句は誤植であること、そして、作品中の母は自分であること、をサラリとおしえてくださった。

いろんな意味で、私にはわすれられない句である。

花三椏:http://blog.so-net.ne.jp/ysuzuki/2007-02-07

     http://satokono.littlestar.jp/

  

2007年4月 1日 (日)

樹句集 鍬塚聰子と木村賢慈の句

鍬塚聰子の句から十句

緘黙の鋸草や雨は止む

無施錠の秋天であり鯨幕

金柑を煮詰め前世を悔ゆるかな

夾竹桃なんだかんだと泣いている

素戔鳴尊に逢いし芒原

あともどりできれば八月だきしめる

檪の実観音様は猫背です

紫陽花下さい乳房あげます

人の子のぽろり生まれて花卯木

定年やひとりで閉まる冷蔵庫

木村賢慈の句より十五句

松の種蒔く函館の魚箱に

法要の畳に香気みどりの日

山車指揮者がぶれがぶれの川渡り

地表から鞭の先まで花蘇枋

新機種の田植え見ており爺と婆

太陽と言う名の幟日本晴

劇場の桟敷も浮けり梅雨出水

人柱伝説池の牛蛙

段毎に堰の音する青田かな

鰯雲馬関に模造砲五門

蠅生る松の実生の魚箱に

蔓ものの支柱を抜いて夏終る

杉山の左ねじれや野分後

雪山の追憶足の死爪つむ

炭田の水を纏いて鮭の稚魚

   ― 『樹句集』(平成19年2月刊行)より ー

昨夜徹夜で「樹句集」を読み紹介文を書く作業をした。面白い作業ではあった。これは自分の癖だろうけど、句を読んでいて、「これはどういう意味なんですか」と作者にたずねたい欲求に駆られる句が何句かあった。感覚的な句ではなく、民俗の行事を詠んだものに。

地方の俳句誌が存在価値を持つためには避けて通れない問題だろう。いつも「九州俳句」や「樹」という現代俳句系俳句誌の末端にいて思うことは、現代俳句が詩を追うあまり切り捨てた俳句らしい凡庸さ(日記風の些事を書くことは「報告句」であるとしてばっさり切り捨てた)を、連れ戻すことを今しておかなければ、後世の俳人たちに顔向けできないのではなかろうかということだ。心象風景ではなく、きっちりとコトをかき、モノをよむ。それをおろそかにしてはいけないよ、それが俳句なんだよ。と言った高浜虚子はもうはるかな老いぼれびとなんだろうか。―

上掲句は今回光を放っていたものの一部である。

参考:

鋸草:http://foxtail.main.jp/zukan/sheet/na-sheet/nokogirisou.htm

花蘇枋:http://www.hpmix.com/home/kumisaijiki/saijiki/A3_15.htm
     http://www.soka.ac.jp/news/info/nature/v08.html

川渡り:http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/furusato/maturi.htm

ビッグバンとビッグクランチの間

一週間お休みしたあいだに、文章を三本書き上げ、ただいま復帰いたしました。

文章をただ書くだけならわざわざ休まずともよかったのですが、数冊の本をじっくり読まねば書けないたぐいの仕事でしたので、時間をとられました。三本の文章それぞれが有機的に関連していて(このブログを開いてここにこうして書いていることも含めてです)、なんだかとてつもないインスピレーションを戴いた気がしてます。読者のみなさまに、心からの感謝をささげます。ことに二週間ほど前、「中村貞女の句が知りたい」(ほんとは汀女。でもこの貞女の誤字のおかげで私のブログへつながってくださったのですよね。島貞女という八女句会の俳人の名にヒットしたようです。誤字の功徳ありがたし)という検索キーワードでここへたどり着かれたかたには、お礼のことばをふかぶかともうしあげます。ありがとうございました。おかげで「張形としての俳句」、今回だれをとりあげるべきか悩まずにすみ、その上、中村汀女の句集や評伝、それに俳句の作り方指導書などを読むうち、おおいなる指南を得ることができました。

冬樹蛉さんからはきついお叱りのことばを頂戴しましたが、むしろその件をふくめて、いっさいが「ゐの年の夜空の星が鳴り始む」のなかにおかれているとおもいます。

ビッグバンとビッグクランチの間を一周期として・・・

いま、げんざい、どの位置にいるのか、やじるしで示せといわれたら。

ビッグバン:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%B3

ビッグクランチ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81

むむむ。やはりなあ・・!やいこらウイキペディア。せっかく人が必死で書いた資料をはずすなよな。そりゃたぶんどっかで小さな、あるいは大きなミスがあるだろうさ。でも、それはそれとして、置いておいてよ。わたしはあれを見るとなさけなくてなきたくなる。現在この項目はありません。現在現在現在。いいんだよ、現在じゃない時間、もとあった時間までもどってくれたら。ミスはたいしたことじゃない。むしろ、ありがたいんだから。

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