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2007年4月 6日 (金)

父と子とー高橋甲四郎、その4

(きのうのつづきです。)

 私はここで、実態調査を含めた膨大な父の遺稿など13,000枚の一部を、敗戦の混乱の中で日本国内に運び入れられたもう一人の人物「木下栄さん」についても触れておかねばならない。
  
 木下さんは、はじめ北朝鮮普天堡近くの北鮮支場(支場の呼称は当時のものに従った)に赴任されていたが、戦争末期には徴兵にとられ、済州島に配属されていた。終戦とともに除隊されて、いったん水原に戻られ、ここで父と再会し、父の遺稿の搬出を父から依頼されたのではないかと推察される。
 この辺から後の状況は、日本の敗戦から40数年を経過した1989年(平成元年)に、木下栄さんから私宛に届いた、ただ1通のごく短い次の私信によって伺うことができる。(かっこ内は著者で補筆した。)

 「・・・・お父上と(熊本県玉名駅で最後に)お別れしたのが昭和21年(1946年)だったと思います。部長(父は終戦当時総務部長だった)の研究資料を終戦の年(1945年)の9月18日水原で(あずかり)お別れ(して)持ち帰り、部長引揚後に拙宅にお出でになり、玉名駅までお送りして以来43年を越してしまいました。38歳だった(当時の)青年が、今では81歳の老人となりました。・・・(後略)                         平成元年(1989年)9月22日
                                          木下 栄」

 つまり、1946年(昭和21年)に父は、朝鮮から郷里の福岡県八女市に引き揚げてきて、一応叔母の家に落ち着いたあとに、熊本県玉名市まで出掛けて行って、木下栄さんに預けたままになっている自分の研究資料を貰って八女市の叔母の家まで持って帰ったのだろう。
 当時の日本国内は、敗戦の混乱の中で、交通機関も充分には回復しておらず、日本にぞくぞくと引き揚げてくる人人、はては闇買出しの人人のために客車は不足し、これらの人たちを、貨物車や無蓋車が鈴なりにして運んでいた時代である。父はこのような悪条件のもとで、重たい自分の研究物を必死になって、熊本県玉名市から引揚げ先の叔母の家まで運んできたにちがいない。
 私は木下さんからお便りをいただいたあと、すぐに電話を入れ、父が預けていた研究資料はどのようなものであったかをお尋ねしたが、「中味はよく見ていない。預かっていたものをそっくりそのままお返しした。」
 とのことであった。

 その当時、私が熊本県まで行って木下さんにお会いしていろいろとお話をお聞きすればよかったのだが、自分の仕事に追われていたためにそれが出来ずに、それから瞬く間に7年という歳月が経過したのである。

 そしてこの「あとがき」を書くに当って、再び木下栄さんの証言を得ようと、1996年(平成8年)12月に木下さん宅にお電話をしたところ、木下栄さんの一人娘といわれる方が電話口に出られ、次のような話をされた。

 「父(木下栄さん)は6年前に亡くなりました。82歳でした。父は私たちより一足早く朝鮮から引き揚げましたがその時、いろいろな研究資料をぎっしり詰め込んだ大きなリュックサック1つを背中に背負って帰って来ました。これを見て、当時一緒に引き揚げて来た親戚や知人友人たちは口口に『引揚者は皆自分の食糧品や所帯道具などを持って帰ってくるのに、何のために他人の、しかも生活に役には立たないものばかりを、大事そうに苦労して背負って引き揚げてきたのか、その気持が分らぬ。』と言って、人人の間では今でも語り草として語り継がれていますよ。・・・
  私と母は終戦の時、北朝鮮に住んでいたので漢口で足止めを喰い、父より1年遅れて引き揚げてきましたが、今では母も亡くなり、夫も昨年亡くなりましたので、父が朝鮮から持ってきた沢山の写真や研究物などは、一人娘の私が持っていても仕方がないので、夫のものと一緒に昨年暮頃、何日もかかって焼却してしまいました。そして両親や夫と一緒に住んでいた家屋敷も処分して、いまは私一人マンションで暮らしています。・・・
 父が朝鮮から持って帰った写真は、北朝鮮の農場や農村風景、白頭山などの風景を大きく引き伸ばしたものが何枚も何枚もありました。この写真だけでも積み重ねると30糎(センチ)位の高さになる位ありました。・・・」

 ということは、木下さんが朝鮮から背負って来られたリュックサックの中にあったものは、必ずしも私の父の研究物だけではなかったといえよう。そしてもし、父が朝鮮から引き揚げて来たあと、熊本県の玉名駅まで木下さんに預けていた研究資料を受け取りに行かなかったら、今頃はその父の研究物もすべて灰になっていただろう。
 
 この木下栄さんと父とはどのような間柄であったかは知る由もない。私が木下さんと連絡がとれたのは、父がかつて朝鮮に居たとき、父が結婚の仲人をしたといわれる現在熊本在住の若杉親義さん(この本が出た当時88歳。姫野註)の紹介による。そして私は、木下栄さんとは1通のお便りと1回の電話を交わしただけで、ついにお会いすることが出来ないまま木下栄さんは他界されてしまったのである。(あすにつづきます。)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
      
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

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コメント

資料をリュックで運んできた木下さんの事は、そんなに詳しく書いてあったっけ?と思い、さっき、「父の遺稿」をめくって見ましたが、ここに記載の「あとがき」のほうが詳しいです。

戦後の写真で、汽車や貨車に人が鈴なりに乗ってる写真がよくあるでしょ?
あの時代のことが一番知りたいので、「役にも立たない資料を運んで・・・・」と言うくだりはすごく面白いです。当時の世相の象徴です。

うん、そうですね。石橋秀野を読んだときも、当時は買出しに必死で、こどもを背中にくくりつけては、自分の大切な着物や頂き物の大好きな酒まで、すべて食糧に換えていた様子がうかがえる。
さくらさん、私はこれを読んで、木下さんは資料の価値にきづいて運んだ、と思っていたけど、それとも少し違ったもんを感じた。内容はよく知らない、っておっしゃっている。でも、運んでこられた。これこそ「運命」なんだろうね。

上司に対する忠誠心のような気がします。
それほどの上司だったと言う事じゃないでしょうかね。

そうですね。
それと木下さん自身も、風景写真を持ち帰るなんて、これはどういうことなんだろう。そのひとになってみないとだれもわからぬことです。

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