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2007年3月 7日 (水)

花外楼のこと 2 

   花外楼の由来

          江崎 政忠

 明治八年一月より二月に亘り大久保利通、木戸孝允、板垣退助を始めとし、薩長土の政治家大阪に会合して国事を談じ、天下の耳目を聳動せり。世に之を大阪会議と云ふ。是より先板垣退助は征韓論につき議合はず、西郷、後藤、副島、江藤諸参議と共に袂を列ねて野に下り、民選議院の建白を為し、木戸孝允また征蕃の議につき有司と所見を異にし、文部卿の職を辞して故山に帰臥せり。当時廟堂には上に三條、岩倉両卿ありと雖(いへども)、大久保利通内務卿として独り威権を擅(ほしいまま)にし、薩閥専制の声漸く喧しく、政局為に動揺を来さんとす。前大蔵大輔井上馨先収会社の事を管して大阪に在り、此情勢を見て憂慮措く能はず、木戸、板垣両人を起して再び台閣の重きに任じ、天下の輿望(よぼう)を繋がんとし、伊藤博文、五代友厚、鳥尾小彌太、小室信夫、古澤滋らと胥(あい)謀りて、百万周旋遂に大久保、木戸、板垣三者をして大阪に会せしむ。即ち大久保は明治七年十二月二十六日、木戸は翌八年一月六日、板垣は同月何れも大阪に来り、爾来(じらい)大久保、木戸は数回旗亭に会し、胸襟を開いて相語り、木戸亦(また)板垣と会して、其(その)進退を議し、二月上旬に及び漸く意志の疎通を見、同 十一日北濱加賀井に集合して、其綱領の協定を為すに至れり。即ち当日の列席者は大久保、板垣三者の外、井上馨、伊藤博文、鳥尾小彌太、富岡簡一等にして、大久保と板垣との会見は、征韓論分裂後このときを以て最初とす。而して大阪会議の結果木戸、板垣両人は参議に任ぜられ、国政上に大改革を来し、元老院、大審院の設置、地方官会議の開会となり、立憲政体の基礎竝(ならび)に確立せり。されば前記二月十一日の会合は、明治政治史上重大なる意義を有するものにして、之が会場たりし加賀井は好箇の史蹟たるを失はざる也。

 当時伊藤博文を始め長州出身者は概ね加賀井に投宿し、木戸の如きも其日記に、據(よ)るに大阪滞在中前後六度加賀井に遊び、其中二晩宿泊せり。現在外楼に珍蔵せる「花外楼 明治八年春二月松菊」と書せる扁額は、当時木戸が加賀井を同音の雅名に改め揮灑(きさい)せるものにして、其風流を偲ぶ唯一の記念と云ふべし。井上は其後に至るも永く花外楼を贔屓にし、大阪に来る毎に同楼に遊び後年鴻池家顧問として瓦屋町別邸に滞留せる際は、毎日の食饌は必ず其厨人をして調理せしめ、先代女将悦、現女将孝等を招きて給仕せしむるを常とせり。余往年井上侯の知遇を得、候の左右に侍して、大阪会議当時の状況を聞くこと一再にあらず、今次花外楼女将の需めに応じ、不文を顧みず、其概要を記すと云爾。

  昭和庚辰十月

             江崎 政忠 識(しるす)

後記につづく。

 

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