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2007年2月20日 (火)

青々脊振

おとといの高野花さんの俳句に出てきましたが、乙骨亨二(菊枝氏の若くして亡くなられた兄上)氏について書かれた追悼文が残っていました。引用してもいいでしょうか。

亡くなるとき、ひとは予感があるのか、おせわになったひとたちにおわかれの挨拶にくるもののようです。昨年菊歌仙をまいている最中、何の因果かちょうど私の弟の命日になくなった板前のいとこ(まだ四十なかばでした)、こんどはそのおよめさんがいとことおなじしにかたで逝った、後を追って。いまにしておもえば、たしかにそういうあいさつがちゃんとありました。鳥栖での通夜と葬儀。斎場に「青々脊振」という書の扁額が掲げられていて、それをみていたら、死者がうらやましくなりました。

   亨二さんの思い出

              鈴木 はる

 年月はさだかではないのですが、多分昭和十八、九年の頃かと思われます。そろそろ汗ばむ初夏の頃だったと思いますが、夕飯も終わり、その頃はテレビもなく、一家で何とはなしに雑談をして居た時に、突然玄関の戸を叩く音に一同びっくり、出て見ると、「亨二です。乙骨の亨二です。しばらくでした。」 とのご挨拶に、始めキョトンとしていた父も驚きと喜びで、とにかく上って頂きました。

 仕事の関係で九州住いをしていた父(昆虫学者の江崎悌三氏:註)は近くに親戚もなく、この遠来の訪問者にはよほど嬉しかったとみえ、まるで堰を切った様に懐かしい昔話に花が咲き、亨二さんは時々ポケットからハンケチを出しては汗を拭き拭き、父は終始ニコニコしていました。父は余りお客様とペラペラおしゃべりするのは苦手の方でしたが、この夜のようにいきいきとよくしゃべったのは珍しく大変印象的でした。

 亨二さんは「これから上海まで行くのでその途中にお寄りした」 とおっしゃっていた様ですが、その記憶は定かではありません。お帰りの時に母が差し出したサイン帳に「東京から飄然と現れました。」 とお書きになられました。

 その後亨二さんが戦死なさったと伺い、その時の父の悲しみ方は大変なものでした。乙骨家の大事な人を失った、と。

 今にして思えば、虫の知らせでお別れに見えたのかも知れません。

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コメント

戦争の本読んでると、そういう話は必ず出てきます。
虫の知らせかもしれないし、本人が覚悟を決めて、それでいてさりげなく偶然を装って合いに行った、こっちの方が多かったみたいですよ。

あと、夢枕に立つと言うことが本当にあったらしいですよ。
ちょうど戦地で亡くなった時間に、玄関に誰か来たような気配がしたとか、同じ時間に夢に出てきたとか。

うちの場合は、こんな話を聞きました。
影膳って知ってますよね。旅に出た人の分まで毎回食事を用意して、お膳にすえて無事を願うこと。
蓋つきのおわんに入れた味噌汁の湯気は、蓋に普通ついていますよね。
それが父が戦死したと思われる日からその湯気がつかなくなったそうなんです。
そういえばあの頃だった・・・と戦死公報が入って後でわかったそうです。
信じられないような話ですが、生死を分ける運命も信じられないような事が起きていますもん。


そうですね。
いきていくことじたいが、奇跡的なことであるようにかんじられるこのごろです。あちらがわのせかいから、たくさんの声援をうけているような気がいつもしています。それにしても、なぜ、よりによって弟の命日と重なったのか、きいてみたい。だれにきけばわかるだろうか。

自裁せし人の安けさ雁渡る
菊の昼硬く真白き縦結び

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