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2007年2月 2日 (金)

秋瑾 その2

(きのうのつづきです。文章: 狭間直樹京大教授)

20世紀初頭の東京は、清国をはじめ、ヴェトナムやフィリッピンさらにはインドなどの革命をこころざす青年があつまる政治活動の中心地であり、彼等の必要とする情報の発信源だったのである。その東京で彼女は実践女学校に学んだのだが、彼女は「この上なく人のよい」、礼儀正しい女性との印象を人びとにのこしている。

ところが、帰国して一年半後、秋瑾は故郷の紹興で武装蜂起を主導し、未発のうちに逮捕されて斬首の刑に処された。時に31歳。逃げる余裕はあったのだから、あえて動こうとしなかったのは、そのような「成仁」 への道を彼女自身が選んだからである。その「凛」とした生き様が世にあたえた衝撃はきわめて大きかった。

秋瑾の伝記として、私たちは武田泰淳氏の名作『秋風秋雨人を愁殺すー秋瑾女士伝』 をもっている。それが雑誌『展望』 に発表されたのはほとんど40年前、1967年のことである。そのころの日本、さらに世界には、大きな変動の時期にさしかかっているかの予感がみなぎっていたと言ってよいだろう。そのような時代にあって小説家の武田氏は、秋瑾とその周辺の人びとの心象風景を描き出すことにより、うちつづく革命と戦乱を生き抜いてきた中国人の「重苦しい気持ち」 を日本の読者に伝えようとされたのだった。これは、東アジア世界における秋瑾を媒介とした精神史的交流の重要な成果だといえる。

永田氏がこの大作に取り組む呼び水となったのは、やはり武田氏の秋瑾伝であった。紹興の街を歩いていて、『秋風秋雨人を愁殺す』 の心象風景が胸に浮かんだことが、のめり込みへのきっかけだったという。今の時代「閉塞」 というべき状況のもとで、氏は秋瑾なる「ひとつの凛とした魂の軌跡」 を追い、「圧縮された精神の密度」 を描くことにより、理念にもとづく実践の輝きを人びとの心に映そうとされたのである。これは、東アジア世界における秋瑾を媒介とした精神史的交流の、武田氏をつぐ成果といってよいだろう。

    (あしたにつづく。)

武田泰淳は石橋秀野に戒名を与えた、僧でもあった小説家です。

実践女学校:http://www.jissen.ac.jp/library/shimoda/documents/his09.htm
                 (ここのサイトに昭和八年の運動会の映像があります。見ますと、まるで北朝鮮のマスゲームを見てしまったような感慨がありました。)

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コメント

色が途中でちがうのを訂正しようとしてもどうしても変わりません。ふしぎです。何度やってもああなる。まるで意志をもっているみたいに。字の訂正は出来ましたが、色の訂正が制御不能。

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