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2007年2月18日 (日)

還浄 1

きのう、鳥栖まで通夜に行く。私よりも年若いみほとけさまをみおくってきた。

そこで同年輩の真宗のお坊様のおはなしをきく。こんなおはなしであった。

みなさんのところではどうでしょうか。少なくとも私の知っている福岡筑紫圏内では、死人が出たら貼る忌中の文字は、あれは仏教のおしえとは相容れないので、やりません。死が忌むべきものならば、その対極にある生も忌むべきものとなるからです。生死と書いて、仏教用語ではショウジと読みます。生死のことは寿命といって如来に約束されたことがらでありますから、死は忌むべきものではない。かわりに、ゲンジョウ=還浄の文字を門にはります。死んだら、みな一人残らず浄土へ還るということを意味します。どんな命も、間違いなく浄土へお迎えしますよ、というのが浄土真宗の如来のみおしえです。

そういえば、三十年近いむかしである弟のときは記憶にないが、祖母が亡くなった十三年前のことははっきり覚えている。たしかに玄関には還浄と書かれた提灯が掲げられていた。あれはそういう意味があったのか。

山本健吉編の歳時記には妙に多いカソリックの行事が気になることもあり、十年ほど前に彼の初期の評論「きりしたん事始」を神田の古書店から求めていた。健吉は長崎でミッションの幼稚園に二年だったか通った。園ではイエスさまがどうなさいましたアーメンと唱え、家に戻れば、仏壇と神棚のある暮らしを何の違和感もなくおくり、その上、加賀藩の家老の家に生まれた母の翠に付き従ってきた祖父の側室である、横山かくばあさん(と書いてある)に可愛がられて育つ。慶応時代に学生結婚した藪秀野もまた大阪のミッションスクールをへて神田の文化学院に通った西洋思想とは近しいモガだった人だ。でも、どちらも根は生粋の日本人であり、非常にふかく切支丹についてもつきつめて研究したふしがある。健吉の友人には遠藤周作もいた。この本は昭和30年ごろ書かれたものだ。遠藤周作の『沈黙』とどう絡むのかは分らないけれど、その周辺の研究をしたものである。

そのなかに、戦国期の大名と宣教師とのわたりあいを書いたくだりがある。いつぞやコメントを戴いた大内家の子孫のかた(八女燈篭人形創始者の松延貫嵐のときに)にも読んでいただきたい。ご先祖のはなしだと思われる。引用したい。ただ、耳ざわりのいい話ではない、現代の道徳規範で考えれば。その点はあらかじめお断りいたします。

シャビエルが西日本の行く先々において、大聲して責めた日本人の三大罪悪とは、萬能なる創造主デウスを知らず偽りの神佛を拝すること、ソドムの悪習に耽ること、ならびに堕胎壓殺を行うことであつた。当時西日本第一の文化都市であった山口の領主大内義隆の前で、彼はローマ字で書いた信仰箇条を朗読したが、たまたまソドムの悪習を論じた一條に至り、「この罪を犯す者は豚よりも汚らわしく犬よりも劣る」 というのを聴くや、義隆は顔面蒼白となつて奥へ引き取つたという。これは義隆が自分の弱点を衝かれたのを憤つたためには違いないが、それのみでなく、そのような非妥協的・不寛容的な暴露の言辞のむくつけさを、長い伝統を経た日本人のデリケートな感性が受けつけなかつたゆえでもあると思う。

※ この昭和三十年代初期の本の文体は、現代表記への過渡期であり、漢字はまだ正字です。(変換する時間の関係で途中から簡略表記にしていることをお詫びします。)促音はおおきいままですが、かなの表記はちゃんと現代表記になっているのがふしぎといえばふしぎです。

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