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2006年12月11日 (月)

農学者・高橋昇 4

(飯沼二郎『高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者』、9日からの続きです。)

 彼は、朝鮮の農具についても研究をすすめた。1932年頃、沙里院で農機具の展示会を行い、朝鮮全土から在来の犂先(すきさき)とホミ(除草具)を蒐集した。どちらも400点近く集まった。ホミのほうはあまり地方差がみられなかったが、犂先は地方差がひじょうに大きかった。小さいのは移植ゴテぐらいで、重量も二キロに充たないものから、大きいものになると30キロ近いものまであった。このあまりに大きな地方差に驚いた彼は、集めた犂先の重量と寸法を全部測定し、その形をウス紙にトレイスし、詳細な統計表と分布図をつくり上げた。そして、作付方式、土壌の性質、地形、気候との関係などを究明した。さらに詳細な調査表を朝鮮全土の鋳物工場に送って記入してもらい、併せて、時間の許すかぎり、村へ出かけていって、野鍛冶の実態を調べた。朝鮮農業における野鍛冶のもつ意義を確かめようとしたが、このような研究は当時の日本にもなかった。

 朝鮮や、それに深い影響を与えた中国の古農書にも研究をすすめた彼は、中国出張の折には、北京の瑠璃廠(るりしょう)でごっそり中国農書を購入した。京城や東京に出る度に買い漁ったのはもちろんであった。最近でこそ、日本の農学者の中に、日本の古農書を、それぞれの地方における農業近代化のための不可欠な文献として重視する機運がおこってきたが、それまでは、それは過去の農業を知るための単なる歴史的な文献としかみられていなかった。高橋が中国や朝鮮、そして日本の古農書を買い集めたのは、たんなる歴史的な興味からではなく、中国から朝鮮をへて日本へと流れている東アジア農法の原理をとらえ、その中に朝鮮農業の発展方向を見出そうとしたからであった。当時においては、時流をぬいた卓見といわなければならない。

 「農業の研究者は文献というと、横文字で書かれたものだけと思っているが、認識不足も甚だしい。もっと身近にある中国や朝鮮や日本の古農書をなぜ勉強しないのか」と、彼は常々慨嘆していたという。

 どうも研究に少しかたよりすぎたから、最後に、農民と直接かかわる話をしよう。日本のような湿潤な気候の所でできた小麦は軟質でパンに適せず、パン用小麦は米国やカナダから輸入されていたが、十五年戦争が激化するにつれて、その輸入がだんだん困難になってきた。西北朝鮮の気候は乾燥しているから、硬質の小麦ができるはずだと高橋は考えた。そこで調査をしてみると、果して西北朝鮮産の小麦は日本産に較べて、グルテン含量がはるかに高く、米国産やカナダ産の小麦に匹敵することが分った。ところが朝鮮の製粉会社は、パンには適さないと主張して農民から安く買い上げ、その実、パン原料として多量の小麦を朝鮮から日本に送っていた。
 高橋は、沙里院支場産の小麦で製パン試験をくり返し、苦心の末、立派なパンが焼けることを実証し、ついに製粉会社の買上げ価格を1939年度から1円50銭値上げさせることに成功した。当時、小麦は石当り25円前後であったから、農家の手取りは6~7%も増えたわけである。

 当時の総督府は、朝鮮の小麦を少しでも多く製粉会社に売らせて、それを日本に送ろうとし、そのため農家の自家消費をできるだけ抑えるため、農家に対して小型製粉機の普及を抑えようとした。したがって、農家は近くの精米会社の所へ小麦をもっていって賃びきしてもらうほかなかった。製粉賃は無料であったが、製粉歩合は65%どまりで、業者は残った麬(ふ)をさらに機械にかけて粉をとっていた。高橋の計画によれば、もし農民自身で小型製粉機を利用することができれば、製粉歩合は85%以上になるはずである。それは小麦を二割増収するに等しかった。

 そこで高橋は、沙里院支場に大型製粉機を設置してみずから製粉を行い、ウドン、素麺、キシ麺、冷や麦をつくったが、いずれも好評であった。その結果、製麺は小麦の中心地沙里院の名物となり、製麺工場が12軒もでき、沙里院製麺組合が設立されるに至り、12工場で年間2万石の小麦が消費された。

 次は醤油である。当時まだ珍しかったアミノ酸醤油を試作することになり、その研究もどうやら目鼻がついたので、沙里院在住の朝鮮人によって、米糠および大豆の搾油を兼ねたアミノ酸醤油製造の会社が設立された。

 こうして、沙里院にアミノ酸醤油の工場ができ、製麺組合ができたことは、畑作の中心地沙里院にとって大きな意義があった。しかし、農民を愛した高橋の気持としては、製粉、製麺ぐらいは、農民自身にやらせたかった。なぜなら、農民自身で製粉すれば、農家の収入は二割増え、製麺すればさらに二割ふえるはずだからである。農家にとって収入が四割ふえるということは重大なことであった。しかし、残念ながら、農民自身でそれを実行することは、当時の状況からして、きわめて困難であった。

 1944年、総督府農試も、ようやく朝鮮の在来農法研究の必要を認め、そのため農試の大改革を行い、高橋を本場の総務部長にすえた。しかし、翌年日本は敗北し、総督府農試そのものが瓦解した。高橋は、愛する朝鮮から去らねばならなかったのである。

 〔備考〕 落合秀男「朝鮮総督府農試西鮮支場長高橋昇」(『旧朝鮮における日本の農業試験研究の成果』1976所収)に負う所が多い。感謝する。

          (いいぬま・じろう  京都大学名誉教授)

※ 飯沼二郎 http://www.jca.apc.org/beheiren/405IinumaJirousiSeikyo.htm

・・うおお!飯沼二郎氏を調べて、今はじめて知った、君が代訴訟の当事者だということを。一年、いっしょうけんめい追っていたことと、かように連句的に繋がっていたとは思いもよりませんでした。
うかつといえばうかつ、しかし、あじわい深い偶然があります。
高橋甲四郎先生は、なにもおっしゃいませんが、ご存知だったのでありましょう。

何も知らないでいました。乙骨太郎乙・君が代研究と、これを、何も考えずおなじ分類に入れてしまいましたが、われながらいい線いってます。正反対はおなじものという陰陽道の教えが、創価学会と乙骨正生氏の関係のごとく、また、かつての自民党と社会党の関係のごとく、この件に関しても当てはまる。それにしても、記名の飯沼二郎氏の紹介記事、名文です。べ平連、なつかしい響きのことばでした。乙骨一族の江崎家を紹介していたときに、よど号ハイジャック事件に出遭ったでしょう。あのときに、こういうふうにして参照記事をひいたのですが、あの記事をすぐ重ねました。(「かささぎの旗」3月31日付け記事)
参照:
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/asu/41.html ← この文章に流れる空気の色と、上記の飯沼二郎氏紹介文に流れる空気の色は、おなじだと感じました。

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