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2006年12月 2日 (土)

『摩天楼』休刊に思う

千葉の花見川から隔月発刊されていた小さな、けれども質の高い俳諧誌『摩天楼』(星野石雀主宰)が、主宰の眼疾のため今147号で休刊となる。昭和60年5月創刊、ということは石雀さん60代でのスタートだったんだ、とあらためて思う。

表紙絵とカット・沼野正子(絵本作家・随想家)。ときおり送れないときもあったが、33回ぶん、「影ふみあそび」の題で文章を書かせていただいた。そのことを、とてもありがたく、また誇りにも感じている。

石雀さんは(先生と呼ぶと感じがでない。前田先生もそうだが、先生と呼んだとたんに何かが喪われる気がする)、大俳句結社「鷹」の長老俳人で、同じく「句夫婦」(これは石橋秀野の句に出てくる語。ちゃんとした語か造語か不明)の櫻岡素子先生とは四十代での晩婚であった。一度もお会いしたことはないが、書かれたものを読むと、幼少のころより足がわるく、みんなからいざりといっていじめられた。母上は東京でお茶屋を営んでいたそうで、つまりは玄人であり、(当時のクロウトとは現在と違って一種の誇り高いサロン文化人である)、石雀さんは千葉のいなかの祖父母の家に預けられて内向的で早熟な文学好きの少年に育った。(参考:お茶屋とはhttp://www.studio892.com/gion/ochaya.html、あるいは岡崎久彦著『陸奥宗光』に詳しい)

私が石雀さんと知り合ったのは、札幌の俳諧師窪田薫師の連句文韻を摩天楼誌に掲載されていたからである。俳句誌は沢山あるが、連句もやる誌は非常に少数である。しかしながら、山本健吉、石橋秀野が二十歳そこそこだった戦前に所属していた上川井梨葉の俳句誌『愛吟』を読むと、連句が掲載されている号もあった。東京の俳句文学館で調べた。(この愛吟にいた健吉の慶応の同級生・宇田零雨は、のちに連句結社「くさくき」を主宰し、今もそれは活動している。いまは零雨の甥で226事件を警視総監だった父の視点から描いた本の著者でもある磯直道氏が主宰)。

ありがたいご縁を大事にして、当時はイチゴの家業と育児などで手一杯だったはずなのに、秀野も調べていたし、結核という病一つよく知らなかった私には、石雀さんの書かれることはとても参考になったので、言われるまま、四枚分の原稿を書いた。

石雀さんは校正を仕事としておられた方である。目が命の仕事だ。
私は何度かハッとするようなミスを訂正していただいたことがある。まだ秀野ノート初期のころだ。健吉の後妻・静枝氏の旧姓を穴倉と書いていた。思い込んでいたが、ほんとうは宍倉であった。それを鋭く指摘なさった石雀先生。びしっとチョークが飛んできて額に当たった気がした。なぜご存知なのだろう。まだ何の評伝も出ていなかった時代だったのに。とふしぎに思っていたら、現実の山本健吉に会ったことがあるとおっしゃっていた。

ほかには、れぎおんに書いていたエッセイで、いつか嶋岡晨の詩(題を忘却)を記憶しているかたちで無謀にも引用したとき、それを正確に訂正して下さったのも、石雀先生だった。この二つの件は忘れることができない。たくさん本を読まれてきた方である。文学を愛された方である。やさしい方である。孤独な方である。そのことを私は忘れないだろう。

※「摩天楼」という誌名は、野村牛耳連句集『摩天樓』から取られている。野村牛耳は明治生れ昭和49年84歳没の高名な連句人。のちほど、当時の連衆の一人小倉ちゆ(現・日高玲)、鈴木三余(故人、鈴木助次郎)と星野石雀の三吟歌仙(数年前の作)を引用したい。これが一番よく巻かれているとおもうから。

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コメント

まてんろうにいつかうろ覚えのまま、かくれんぼを引用、すると星野石雀師は間髪を入れず、原詩を教えて下さいました。
さがしたらでてくるかな

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