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2006年12月 7日 (木)

高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者

また引用を始めます。中断した「切字論」は、調べましたところ、新しく一冊になって出ているようですから、まるごと引用するのはまずいです。川本皓嗣先生、勝手に丸写しして失礼いたしました。こういう本は著作権を考慮せずばなりますまい。

これから写すのは、ちゃんと了解を取った上でのことです。説明は省きます。読めば見えてくるからです。数日に亘っての仕事になるとおもいます。どうかさいごまでお付き合い下さい。

   高橋 昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者

         飯沼 二郎(京都大学名誉教授)

 1907年、統監府勧業模範場の開場式において、統監・伊藤博文は訓辞を述べ、明治維新以来の日本の農学によって韓国の農業を適切に指導したならば、「能く韓国と国民の生活を改善し衣食を充実するの功績を挙げ」ることができるだろう、といっている。農業はそれぞれの土地の在来技術に基づいて発展していくものであるが、このとき、伊藤の脳中には朝鮮の在来技術を尊重しようとする意識はまったくなかった。

 また同日、場長の本田幸介の「(韓国の)農産物の種類善良ならざるが故に、産額従て多からざるのみならず、品質もまた劣れり、これが改良を図らざるべからず」という式辞も、朝鮮の農業を蔑視する先入観に満ちている。もともと国立大学出身の日本人農学者たちは、日本の農民を蔑視する傾向が強かったが、それが日本人一般の朝鮮人蔑視によって一層強化されて、朝鮮の在来技術を尊重しようとする意識がまったく欠如していた。

 勧業模範場という名前そのものが、日本の農業技術を韓国農業の「模範」にしようとする意識を端的にあらわしている。やがて、それは、日韓併合とともに朝鮮総督府勧業模範場、さらに1929年、朝鮮総督府農事試験場と改称され、1944年、道農試をふくめて総督府農業試験場に改組されたが、翌年、日本の終戦によって終止符を打った。

 その間、朝鮮人蔑視の意識は徹底しており、たとえば1931年5月現在の職員数は、技師が専任15人、兼任13人、属が専任7人、技手が専任31人、兼任4人、合計70人であったが、その内、朝鮮人は技手にただ一人、それも専任ではなく、兼任にすぎなかった。

 こうして、朝鮮の農業は日本人農学者によって日本人向けにつくりかえられ、たとえば稲作も、在来の朝鮮品種、栽培方法を否定されて、日本人向けの品種と、それに適した栽培方法に変更することを強制された。その結果、1912年を100とすれば、1928年の米の生産高は150と急速に増加したにもかかわず、日本への米の輸出額は186、朝鮮人一人あたりの米の消費量はついに69と激減している。朝鮮人農家は、みずから生産した米は食べることができず、満州(中国東北部)から輸入した高粱(こうりゃん)や粟(あわ)や稗(ひえ)を食べなければならなかったのである。

 このような日本人農学者のなかにあって、試験場の仕事は農家から遊離してはならない、まず、農民から謙虚に学ぶべきだという考えを実行した例外的存在が、高橋昇であった。

 彼は福岡県八女市の出身で、1918年、東京帝国大学農学部を卒業し、翌年、朝鮮に渡り、敗戦まで26年間、総督府農試に農業技師として勤務した。その間、一戸一戸、農家をたずね、朝鮮全土の農業をくまなく調査し、膨大な資料を残した。敗戦直後、この資料をもって帰国し、みずから整理しようとしたが、半年後、急逝した。その後、この貴重な資料は、ながらく埋もれていたが、今回、未来社から刊行されることになり(A4判約一千ページ。註・現在はすでに刊行されています)、先ごろ、財団法人韓国文化研究振興財団から出版助成金が与えられた。  (あすにつづきます。全文の引用は五日間かかると思います。)

※ 季刊誌『青丘(せいきゅう)』1991年9月号
      「特集・隣人愛の日本人」より引用
   発行   青丘文化社  李 進熙

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