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2006年12月30日 (土)

とっさの時のテレサ・テン

こんな暮も押し迫って、みんな家でごろごろしている(たぶん)ときに、かささぎ警備保障(有)は、忘年会をなさいました。むくつけき男ども、おっさんもわかいもんも、しめて四十二名、団体バスに乗って、熊本の一流ホテルにくりだして。社に残って仕事の警備見回りをなさっているのは社長ほか数名という次第です。ふしぎな会社ですね。賞与はなく、こういう節目の行事を実にきっちりとなさいます。きのうの大掃除も全員でとってもていねいにやりましたよ。私は古きよき昭和時代を思い出して、胸がじいんとしました。まだ一月もたっていないのに慰労の忘年会にも連れて行ってもらえ申し訳ない感じです。

専務と二人、大浴場を貸切で使えました。露天風呂はさすがに寒かったのですが、入っていると温まり、やはり玉名温泉はいい温泉だと感激しました。ホテルも立派だった。格でいえば、熊本一かもしれない。靴が絨毯に埋もれそう。

男にくどかれた。それも三十代。私をいくつと思ってるんだろとおもいながらも、うれしかったな。独り者の男ばかりのとこに行けば、いやでももてるようだ。しかしこの年で口説かれても何の益にもならん。それどころか後で、えっ52、三人の子持ち、ばばあやん・・っていわれるのがおち。単純なぶん情け容赦がないかれらの世界。笑

ご馳走を食べて、酒が入って、あとはからおけがあったのですが、全員歌わねばいかんということで、私にも回ってきました。これで世代が見えるのですよね。
とっさの時のテレサ・テン、「つぐない」を歌いましたです。テレサ・テンにこんな詞の世界を歌わせた人は天才だと思いました。きょうつくづく歌詞をよんで、いい女の歌だなあー男から見て、と思いましたもの。佳人薄倖。いちばんきれいなときになくなったから、テレサ・テンはいろあせない。だから私も大好きです。 

  つぐない    (詞・荒木とよひさ)

窓に西日があたる部屋は
いつもあなたの匂いがするの
一人暮らせば思い出すから
壁の傷も残したまま置いてゆくわ

愛を償えば別れになるけど
こんな女でも忘れないでね

優しすぎたのあなた
こどもみたいなあなた
あすは他人同士になるけれど

※ テレサ・テン  http://www.ne.jp/asahi/lily/teresa/teresa/info.htm

さいごに、母よ、父よ、夫よ、息子達よ、忘年会に行かせてくれてありがとう。ことに、おかあさん、働きにいくようになって、したくない炊事をさせてごめんなさい。これまで三食私が作って洗ってでしたが、昼ごはんと朝ごはん、おかあさんにたよっています。洗い場の高さが私専用でちょっと普通より高いので、とてもきついだろうと案じています。もうすこしなれたら、朝と晩御飯のしたくはちゃんとやりますので。

2006年12月29日 (金)

忘年会

ほんとは今日は会社の忘年会だった。なるべく全員が揃うよう、警備依頼を断れるところは断るようにしていたようだが、人様の休みのときこそ忙しい業務である。どんどん断れない仕事が入り、忘年会は明日に延期。一番楽しみにしていたのんべいの隊員たちが登板で、忘年会に出られない。大ぼやきだろうな。あとで社長は彼らを飲みに連れていかねばならないはずだ。

きょうはじめて、お昼ごはんを事務室で二人の営業と社長と専務(女性)、それに筑後の人もいっしょに食べた。みなさんはホカ弁、私はお弁当。こういうのは和気藹々といいものだ。

本日受けた警備依頼は新年にむけてのカウントダウン警備であった。三井グリーンランドに十人。たった十人と思うなかれ。ちいさなちいさな会社から十人も暮の最後の夜にそれも真夜中に出すのは大変なんです。

三井グリーンランドの宣伝を。みなさまお揃いでどうぞ。http://www.greenland.co.jp/index2.html

2006年12月28日 (木)

交通誘導警備ークリスマス

ありゃ。疲れていて、間違って続きのほうに書いてしまいました。すみません。忙しくて、なにをする間もないというのに、更新はきっちりやっている自分がさすがです。笑

続きを読む "交通誘導警備ークリスマス" »

2006年12月27日 (水)

野溜め   その2

これは11月18日、はじめて高橋甲四郎先生にお会いしたときに、請うて戴いてきた資料の一部です。

「平北、安東県、輯安県ー早川孝太郎氏案内」

             高橋 昇                  

                   
    昭和十五年十月十二日 沙里院発
            十月十七日 帰任

昭和十五年十月十二日 社団法人農村更正協会主事・日満農政研究会嘱託 松田延一氏 穀検山本所長の紹介にて、突然沙里院西鮮支場を訪問す。森技師案内す。同氏は今回鮮満地方食糧生産事情を調査せんとする目的にて渡鮮せりと。同行の早川孝太郎氏は先行、平壌にて一泊せりと言う。早川氏は農家の実態調査を行い、朝鮮農家の食習慣を調査せんがために来たれりと。柳田國男の高弟なり。
よって、急に同氏に同行せんと、午後八時の列車で平壌に出で、平壌ホテルに泊す。翌朝同氏と会す。本府食糧調査課の張永哲技手随行なり。 

    (で始まる現地調査の旅の記録ー野帖というらしいーの一部です。中略しまして、私の引用したい三ページ目から引用します。)

チャングエ  朝鮮のチャグエと同様なるものを、内地では肥えたごと云う。静岡県の周智郡、愛知県北設楽郡の山村に採用せらる。また東京府下のも使用せらる。岩手県における稗の施肥法。

  畑の一隅に糞溜りを作りて糞を溜め、これに土を入れて、ねり混ぜて、これに稗の種子を混じてこれをつかんで点播す。糞溜りは五反歩に一個くらいを作る。従って耕作地の面積を糞溜りの穴の数にて表す。例えば糞溜一穴、二穴等と云う。・・・後略。

    

※ 一部引用であります。あらためてむかしの記憶をたどりますと、たしかにわが家のたんぼのすみにも一つ野溜めがありました。それは母に今日尋ねてみたところ、じいちゃんんがコンクリートで作ったものだったそうです。当時は町にも金肥をもらいに行ってたといいます。それを溜めて発酵させていたそうです。調べたら、こういうサイトを発見しました。

NGO関連の研究サイトです。http://72.14.253.104/search?q=cache:k7-ovTVvKFUJ:park15.wakwak.com/~knc/kncwhat/album/ndai_koza_rec/koza_rec12_4.htm+%E9%87%8E%E6%BA%9C%E3%82%81&hl=ja&lr=lang_ja&strip=1 このなかの、「世界と日本のおいしい?関係」という題のセッションの中に野溜めが出てきます。

数年前に所属誌のれぎおんで近代化アンケートと題して厠(かわや)についての記憶のいろいろを尋ね、結果をまとめたことがありました。あれは非常におもしろかったです。火野葦平に『糞尿譚』があります。トラックでの肥え汲みをなりわいとする男のはなしでした。ああいうのっぴきならぬ生活のうつしを描けるというのは迫力があります。

2006年12月26日 (火)

二者面談

二者面談

仕事が終わって、すぐ次男の中学校の担任の先生との面談に向かった。いま、二年生だが、クラスが三クラスあり、一クラスに三十人弱である。先生が資料を職員室に取りに行かれているとき、失礼ながら教室を二枚写させてもらう。これは中庭に面したコーナーの一角。きれいに片づけてあった。この右手に黒板や教壇がある。

二者面談

私が座った机には、持ち主が鉛筆で書いたとおぼしき各教科の宿題。理科・・遺伝子のなんとかと読める。

二者面談

学校に出かける前に一度家により、昼休みに買った夕ご飯の食材を置いてくる。そのとき、空を見上げると、電線にたくさんの小鳥。めずらしいので写した。同定するのは困難。

私立中学でよかったとつくづく思えた。校内の雰囲気がとても落ち着いているから。

もう二年たとうとしているけど、五年生の夏休みから進学塾にせっせと通い、学校で学ぶ勉強とは違う詰め込み式の授業をめいっぱい受け、受験させた。その結果、九州で四番目の中学に合格する。ところが、何の因果か脳波異常で薬を三年飲まねばならないと診断された。ということはつまり、遠方に一人、寮生活を送ることは無理ということだった。本人はとても佐賀のその中学校へ行きたがっていたが、父親が説得して断念させた。からだがなにより大事だから。いまは市内の私立校に通っているが、とてもいい学校で、問題があるときには先生がたが親身になって、すばやい処置をとってくださる。とてもありがたい。おかげで楽しい友達ができ、単身赴任の父親不在の寂しさとも無縁でいられる。

体験からいえることだが、六年生のころ塾通いのものすごい負荷に本人はよく耐えた。が、反面、学校で、やさしいともだちにあたっていたようで、その子はいじめられたといっては何度か泣いた。ケーキを買って、次男ともう一人いじめた子を連れ、その子の家に謝りに行ったことを昨日のように思い出す。次の日、けろりとして遊んでいたからよかったが。こどもが三人いてくれると、どんな問題が降りかかっても、なんとかなりそうな気がする。子どもが、自分のなかに答えをもっているのがわかるから。最近は勉強を強いないし、したくなったらするだろう・・というかんじである。塾にももう通っていない。今日もらった成績表は家庭科が学年三位だった。えらい。笑

野溜め

きのう「のだめカンタービレ」がおわったみたい。何回か見たけど、漫画みたいなコマ割のオーバーアクションの楽しい青春ドラマだった。昔でいえば近藤正臣の柔道一直線のピアノを足で弾くのに似たノリの演出だったよね。特価一山二十円のもやしみたいな頭のたいこたたきの男の子(おかま)がかわいかったな。あ、あれはたいこじゃなく、ティンパニというのか。笑

それは置くとして、のだめって語感から昭和二十年代生れのものとして真っ先に連想するのは、野の肥溜めである。私はこれが書きたくて、ずっとのだめが終わるのを待ってたんだ。いくらなんでも上野樹里ちゃんの相手役のハンサムくんに悪いものね。ま、上野樹里のほうはどこかに普遍的な野暮さもしくは処女性ともいうかがあり、それが独特の野性として魅力の素地になっているから、イメージには貢献こそすれまったく関係ないだろうが。

さて。あの田んぼの中にひょっこり出現するこえだめなるものは、いかなる意味を有していたか、ご存じであろうか。そもそも、どの田んぼにもあったわけではない。一面の田んぼの片隅にぽつんと目立たぬように、しかしその強烈なかほりでじゅうぶん目だって存在していた。

それが、高橋昇博士の朝鮮全土をくまなく足で回った戦前と戦時中の貴重な記録を読んでいるとき、ひょいと意味が分ったのである。きちんと引用したい。でも今日は時間がないので、前振りということで筆をおく。

2006年12月25日 (月)

いいものには穴があく

「いいものには穴があくけんね」

と、母が言った。毛百パーセントのベージュのスカート。これはずいぶん古い(母からのお下がり、その前は母の一番姉の遺品だったからたぶんン十年の年季入り)のだけど、裾に中くらいの幅で入っているプリーツがきれいで、捨てずにいた。最近やせてウエストが大丈夫になったから、はけるようになる。でも、よく見たら小さな虫食い穴があいてる。

捨てるにはしのびない。だって遺品だから。とてもよくしてくれた一番近い伯母であった。そこで、穴かがりをする。色味の近いやわらかな布をあて、目立たぬように縫う。

なんとか着れそう。娘からのおさがりのグレーのセーターにもあちこち穴があいていたのを、ビーズで埋めた。乳白色の貝みたいなやや透明がかったので、ぺたんこの丸いビーズ。

そうか。こういうことなんだな。ファッションをスカートに替えるということは・・・。お裁縫にのぼせた中学生のころをちょっとおもいだした。

2006年12月24日 (日)

海軍橋

タンゴバンド、アストロリコのヴァイオリニスト、麻場利華さんから、きのう久々にメールをいただきました。以前、呉にも海軍橋があるか尋ねていたのに対する答えでした。そのまま引用しますね。

気になっていたのですが、どうも、私の見渡す限りでは
呉には海軍橋ってのは、ないみたいです。
(地元の人の中で、俗称みたいに言われているものが、
あるかもしれませんが、私には情報がないです)

> 呉の海軍基地にも、海軍橋っていうのがあるでしょうか。

それで、兵庫県伊丹市のあたりに軍行橋ってのが、ありまして。
私は、アストロリコの前は、宝塚歌劇団で演奏していたので、
そのあたりはウロウロしたことがあるのです。
なんで、この橋を軍行橋っていうのかと思って、ネットで見てみたら
↓コピー添付します。

猪名川の対岸は川西市と伊丹市ですが、明治の末まで池田(現在の池田市)
の人々が猪名川を渡るのは呉服橋のみでした。この橋は1815(文化12)年
に架けられました。私(校長:室田卓雄)は伊丹市に住んでおり、毎日『軍行橋』
を通っています。いつごろ軍行橋が架けられたのか長い間、疑問に思っていました。
先月の伊丹経済交友会発行「いたみティ」に、1911(明治44)年11月19日
に猪名川を挟んで約1万人規模の陸軍大演習が行われたことが写真入りで大きく載って
いました。この演習のために橋を架けたのが軍行橋の由来だそうです。

こんなのがありました。
伊丹には、今でも陸上自衛隊があります。
なんとなく、普段見過ごしている自衛隊基地にも、明治からの歴史があるところ
が実際に、沢山あるのでしょうね。
今更ながら、明治の人々を尊敬してしまいます。

(以上、引用おわり)ということでした。

利華さん、調べてくださってありがとうございました。

ミュージシャンがどれほど忙しいのか皆目分らないのですが、ときどき戴くお便りのはしばしに、夜遅くまでの社交づきあいとか、はたまたあちこちと飛び回るとかあるようで、ひとところにじっとはしておれないようです。

利華さんは宝塚出身であり、宝塚演奏楽団のメンバーだったんですね、アストロリコに入る前は。

そうだ。また連句的な話です。なにかのついでに高橋甲四郎先生から聞いたのです。宝塚で思い出した。先生は黒木瞳(八女出身)の八女高校三年時の担任だったそうです。進路を決めるときに、彼女の親ごさんは堅い職業ー教師とかのーに就く事を希望されていたそうです。でも、本人はそのころ福岡で友人と見てしまったヴェルサイユのばら(宝塚歌劇団)にすっかり心を奪われていて、ずいぶんと悩んだ挙句、親に内緒で宝塚を受験してしまったとのこと。旅費がないので友達に借りて。(まるで、「海が聞こえる」みたいね)。甲四郎先生は一日おきくらいに黒木の黒木さんちを家庭訪問してたそうですよ。とても真面目な子だったらしい。昨年、お父上が亡くなられたとき、東京のマスコミが高橋先生宅まで追っかけてきたそうですが、八女高校で応対したと言われました。

地味な甲四郎先生がそういう女優の人生の節目に立ち会われていたとは存じませんでした。世の中はおもしろいものですね。

あれ。海軍橋について書くはずが、宝塚の話になっている。笑

海軍橋で検索すると、佐世保の海軍橋以外にもありましたので、これって固有名詞じゃなく普通名詞なのかと、利華さんにも聞いてみたのでした。・・おわり。

※ 

利華さんの言葉から、連想したのは、これです。久留米には陸上自衛隊の駐屯基地がありますが、そこは「肉弾三勇士」で有名だったと最近知りました。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-42.html

2006年12月23日 (土)

昭和女子大、昭和48年

これ、なにに分類すればいいか分らないけど、とりあえず、君が代にいれとこう。

毎日なにも考える暇なくすぎてますが、このところ、なにかがひっかかってまして。なんだろう・・と思うのだけど、それに蓋がされているかんじで思い当たらないのでした。それが、先日、高橋甲四郎先生から、かささぎの旗はどんな読者がいるのですと聞かれ、ああそうだ、アクセス解析というのがあった!と思い至り、調べてみましたら、これがわかりました。はやくきづけばよかった。笑

武笠三(むかさ・さん)で検索した方が、このブログを訪れてくださってました。「どうでもよくない話」の記事です。それを自分でも読み返してみて、おおそうだったと気づいた次第です。

さいきん、『摩天楼』(連句・俳句誌、星野石雀主宰)でおなじみの鈴木助次郎氏の歌仙を二つ引用しましたが、そのとき、日高玲さんは昭和女子大出身であり、在学中に三余先生こと助次郎氏のさばきの連句を体験なさっていたと書きました。なぜそのとき、あっと気づかなかったのかなあ。そうなんです、円交5号を引用していたとき、昭和女子大が出てきてたのと重なることに早くきづくべきでした。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%81%8B%E3%81%95%E3%81%95%E3%81%8E%E3%81%AE%E6%97%97%E3%80%81%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

びっくりしたのは、検索ワードのみならず、昭和48年というところまでがいっしょでした。これはなんなんでしょうね。ただのぐうぜんにしては、できすぎです。何かを考えなければいけませんが、何をどうすればいいのか。

氷川女体神社という、なまめかしい名前の神社が、カギのような気がします。たしか、どちらにもあったからです、乙骨三郎がらみでも、武笠三も。とりあえず、気になるので、書きとめておきます。

いま、検索していましたら、以前「案山子」の件でさいたまの松本杏花さんが送って下さったコミュニティー誌がネットで読めることに気づきました。引いておきます。こういうところ、ネットはありがたいですねえ。http://www.city.saitama.jp/contentsdownload/7d631b091a2b2a8/midori-1.pdf

参照)音楽家・乙骨三郎 http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_8f26.html

西片町界隈「のて」と「まち」http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/_2_4dd5.html

どうでもよくない話http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_f479.html#comments

いまのところ、真相はまったくわかりません。詳しくお調べになっているかたが、どこかにいられるのかもしれません。・・それにしても、あらためて今コミュニティー誌の武笠三を読み返せば、なんと乙骨家のおはなしと似ているのでしょうか。武笠三の子の乙二という名前。皇族の乳母をしていたという話も、乙骨菊枝氏の経歴と重なります。こういう偶然があることがほんとにふしぎです。

氷川神社  総本社:http://www.genbu.net/data/musasi/hikawa_title.htm

氷川神社の謎  http://www.emiko.com/Tokyo/hikawa.htm

2006年12月22日 (金)

日本一のたい焼き

というものを隊員さんから戴いて、たべました。餡がつぶし餡なのに、漉し餡のような上品な味で、しつこくなく、とってもおいしかったです。

聞くところによれば、買うためには、かなり並んで待たねばならないようです。それにしても、日本一の・・とは、おおきくでましたね。←これ、名付けらしいですよ。

※ たぶん、これのチェーン店です。http://blogs.yahoo.co.jp/tenpo_consul_help/folder/233584.html

くれも押し詰まって、昨日は会社のお得意さんに賀状を書きました。たくさんあったなあ。筆ペンで表書き。筆ペンが一本おからになったくらいです。

2006年12月21日 (木)

警備の仕事

再就職して二週間経った。ちいさな会社の人間関係が、ボスからの説明もあり、ほどよく見えてきた。警備会社という特殊な仕事場には、若いころ一度勤めたことがあった。それがいま役に立っている。

正直な話をする。若いころやめてしまった理由の一つに、現場の隊員の支離滅裂さというのがあった。現実に、俗世間の荒波にもまれ落っこちてきた男達が大かたを占める職場だったから、はじめて社会に出る小娘には少々過激な職場であったと思う。現場仕事を十ヶ月、事務を一年経験して、やめたのだった。

ところが、そのとき出会ったたくさんの隊員たちの記憶というものが、時を経るごとに懐かしくて、まるで大事な宝物であったかのように蘇るのだ。なぜなのだろう。知性とはぜんぜん関係のない世界であった。人の目からは見えないような地味な世界であった。しかしながら、彼らがいなければ、きっと交通も安全も大混乱しただろう。隊員たちはばかみたいに無垢で、素朴で、苦労をした人が多かった。あったかい人が多かった。とんでもない人もいたけれど、その一人ひとりの顔が、昔であったときのままで、よく思い出されるのだ。

四半世紀ぶりに同じ職種について、給与台帳を付け、隊員管理簿を付けていると、また、あらためて警備士という仕事の裏側がよく見えてくる。これから春先にかけて公共工事などで交通整理があちこちで行われるが、そのやり方一つとっても、本当はとても難しいのである。私の勤める会社の隊員は今回全員落ちたらしい。交通警備の二級免許試験である。もっとも高学歴の子も落ちていたので、社長がぼやきまくっていた。

きょう、その最も高学歴の子(営業をしている)と二人で仕事をしたとき、いろいろと聞いてみた。きみは九州でも二番目に難しい学校をでて、都会の難しい大学に行ったのに、こんなちっちゃな警備会社になんで入ったのって。社会保険は雇用保険しかないような職場なのだ。

かれは、その直接の理由には答えてくれなかった。けれども、いかにもまじめで利発そうな彼がいうには、じっと机にいるより、自分は現場に立つほうが好きです、というんだった。交通整理をしているとき、仕事の流れで、どうしても昼休みがとれないときもあるんです。ひるめし、くえません。でも、自分がいなければ、どうしようもないから、休めません。それに昼抜きには段々と慣れましたよ。・・私は、うんうん、と、つい心の中でうなづいてしまった。あんたのそのきもち、よくわかるよ、って手をとって励ましてあげたくなったくらい。でも、がまんした。笑

そうだ、これはひょっとしたら、部活の女子マネージャーの仕事に一番近い感覚かもしれない。女子マネ、やったことないけども。

2006年12月20日 (水)

英語、ちょっと役立つ。

きいてくだせえ。

今日は中学英語が役に立ったでござる。

ボスが海外バンクに送金する書類の記入を私に書いてくれと依頼され、なんとかこなせたなりよ。はじめてだったけども、勉強になったなり。

そういえば、いつのまにか日本人の名前の表記法が、姓、名の順になっておるのね。むかしは英語の授業でまっさきに習うことの一つが、ファーストネームから書くようにということだったのでござるが、いまは中学英語の指導でも、どちらでもよい、ということなりよ。そのうち、普通に姓・名の順で書くようになるのでござろうか。

横光利一の評文

「張形としての俳句」を書くため借りていた本の中で、ぐうぜん横光利一に出会いました。石塚友二句集『方寸虚実』への序文です。石塚は横光が戦前やっていた運座「十日会」の連衆の一人、横光利一は川端康成をしのぐ力のある文学者でした。とても文章の立った人です。そのまま引きます。

         序 

 一つの俳句として読むものと、詩として読むものとの批評は自ら違ふであらう。私は石塚氏の俳句を句として読まない習慣を持つてゐる。過去の生活の労苦に善く打ち勝ちて感性を衰へさせず、多彩な内面の火華を打ち上がるままにうち放ち、悲しみのよすがとしてこれを眺める諦念のおもむく所、石塚氏にとつては詩境ならざるはない豊かな人生の森林を展いてゆく。これに制限を加へることも人には出来ず、選定を示すことも今は何人も不可能な一時期である。言語は前後左右に爆け、幻惑を誘つてさらに怪乱しつつ進む周囲の光圏の中には、青黴も婦女の皮膚に咲き照り、男臭の穢の積りもひと声の嘆声とともに香りと化す。人々の美と認めるところに今は美はない。心の悲しさの中にもつとも美しい風景の点在することを知つたもののみが、次代の俳境の扉を押し展いて進むことは、あながち今の時代ばかりとは限らないだらう。しかし、俳句もそこにすがる人々の念力の集まるところに生じる歌声であつてみれば、風声おのづから形を整へて泛び来るものの姿は、これを一二の人力の善く左右するところではない。

 このやうに伝統の重みが沈み溜り、天然の俳色を堪へてゐるところに、不思議な近代色をもつて顕れたのがこの石塚氏の俳句とすべきであらうか。これを明澄ともいへず、高雅ともいへず、古樸ともいひ難ければ閑雅ともいひ難い。また寂寞といふには幾らかの騒ぎあり、清新といふには渣滓が溜つてゐる。しかし、このやうに俳句の持つべき殆ど何ものもなくしてよく俳句となし得てゐる所以は、偽りもなく本能的な生の悲しさがその精神の中に底流し、高雅明澄に対して、いささか自我を風解してここに飄逸な嘆きを加へてゐる淡白さにあるかと思はれる。も早や氏の前では高雅清澄はむかしの威力を持続すること不可能となるかもしれぬ。ある旺盛な新風を孕んで逆巻いてゐるさまが氏の境地の中に伺はれる。伝統といふものは常に一定の形の中にとどまるものではなく、まつたく相反した形相の中に移り動き、人々の知らざる間に真の伝統の芽を噴き延ばすことしばしばあるのみならず、むしろこれが自然でさへある場合には、もつとも悲しみに満ちたものが笑顔をする風流の真諦は、今も昔も変りなくよく労苦を忍従するものの淋しさと賢さの上に、鶴のごとく白く鮮やかに舞ひ降りて来るものと思はれる。

 石塚氏の作品はこれすべて忍苦、人に勝つことを目的としてゐる俗情がない。惨酷無残に人に負けることを願ふ。この非凡な心境こそ何ものよりも氏の恐るべき資質である。

                     横光 利一

     石塚友二句集『方寸虚實』 
     昭和十六年刊行の序文を全文引用。

             

生死を決した生味噌の味

11月17日付の記事「ある俳人の戦記」でご紹介した、山口県の俳人・村中秋天子氏の戦記を、もう一編だけ入力し、ご紹介いたしたいと思います。

   生と死 戦後六十年に思ふ 

         村中 秋天子

 「六十年無名戦士の墓に黴」 
 
 
ソロモン群島ガダルカナル南溟の果ての名もなき島で太平洋戦争の帰趨を決する日米決戦が行われた。ガ島エスペランス、私は某所で最後の覚悟を決めた。マラリヤと栄養失調で最早や重湯も呑めない。足も立たなくなり動く事も出来ない。死 「あゝ自分はいま死ぬるのだ。名もない島で死ぬるのだ。あゝどうせ死ぬるのなら早く死ねばよい」 と叫んだ事を覚えてゐる。夜も眠られない。眠らなくてはと焦るけれどどうしても眠れない。

 そんな時、生味噌が配られた。あゝその味、何も受け付けなかった口が味を覚えた。それからすこしづつ粥が食べられるようになり、足も立つ様になった。ガ島脱出作戦十日前頃と思ふ。

 脱出作戦が十日早かったら歩けないから死、又脱出作戦が十日遅かったら米軍の挟み撃ちにより死、十日が私の生命を救ったのだ。その時歩けなかった人は置き去りになり、モルヒネの注射による死か、手榴弾の自決が待ってゐたのである。

 戦争はいけない!
 
 平和な日が如何に大切なことか。

    平成17年度 湯野俳句会合同句集
             「しろがね」26号より

ガ島撤退秘話:http://www.geocities.jp/honiara_kai/124ht_hiwa/124ht_hiwa_2.htm
日本海軍戦闘史録:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/clh/jyun07.htm

※ 戦争をかいくぐってこられた人々は、独特の仮名表記をなさいます。現代かなと旧仮名が自然に入り混じるのです。「樹(たちき)」の鮫島康子さん(80代半ばと思います)も、とてもセンスのある達者な現代文をかかれますが、ときおり、ぽろりと「でせう」とか「だらう」とかが混じっています。あたかも私のような田舎者が、都会語(笑)でしゃべっているつもりがぽろりと方言が出てしまうのに似て、哀切です。

山本健吉などの大批評家は、果してどういう表記をしていたのかと思うことがありました。晩年の佐藤佐太郎との共著は旧仮名表記でしたから。一つだけ、健吉が自筆で綴った石原八束の著書への批評文を持っています。十年ほど前に古書店から買ったものです。たしか五千円でした。笑

なにしろ、鉛筆書きの無愛想な文字でした。ほとんど感情の揺れなどないに等しいような。一文字のミスもない現代表記でしたねえ。

私は、連句をさいしょ、札幌の窪田薫師から学びましたが、先生は徹底的に正字表記にこだわられました。そして、それは文学的には非常に反骨的でありつつ本質的なことであったにもかかわらず、文章を打ち込み編集する人たちにとっては厄介な問題を突きつけていたようです。だいいち、ものずごく時間がかかるのです。旧仮名変換ソフトがあればいいのでしょうが、それがないし、旧漢字などは論外です。文字を探してへとへとになるからです。そのことだけにかかりっきりの人はいませんし、たいがい本職の余技として連句を楽しんでおられる人ばかりでしたから、窪田式はなかなかつらかったろうとお察しする次第です。でも、私は、いまとても、おけげで勉強させてもらってたなあとありがたいです。学校は教えてくれませんでしたもの。有名な俳人でも平気で間違っていたりするのが、旧仮名ですから。

2006年12月19日 (火)

ふしぎなであい

締切がある文章をふたつ抱えていながら、どうしても今書いておきたいことを書いておこうと思います。

高橋甲四郎著『父の遺稿』を読み、まっさきにうわあって感動したこと、それは背景に落合直文が影のように登場することでした。これは、まさに「かささぎの旗」への祝意としか思えなかった。いまからその意味を書きます。

二週間ほど高橋甲四郎氏の父上で、偉大な農学者の故・高橋昇博士のなされた仕事を簡潔に紹介された飯沼二郎氏のことを甲四郎氏の文章でたどりました。じつは、あの膨大な遺稿には整理のための前段階がありまして、甲四郎先生が手付かずのままだった遺稿に気づいて、なんとかしようと思われたのが、四十一歳のころだったそうです。朝鮮から引き揚げてみえた父上を55歳で亡くされたのが、甲四郎先生21歳のころといいますから、すでに死後二十年が過ぎていたわけです。で、まず、どうなさったかといいますと、前からの知人であった(朝鮮に住んでいたころからの父の仕事仲間であった)森秀男氏に相談なさいました。東京の森氏に全ての遺稿を送り、読んでもらい、どうすべきか仰がれたのです。

結局は、この森秀男氏がとても親身になって遺稿の整理を進めてくださるのですが、途中で面白い展開になります。森氏もお仕事をなさっているわけですから、かかりきりにはなれないわけです。時間がかかります。遺稿目録は二ヶ月で出来ましたが、それからまた項目別に遺稿を整理するのにとても時間がかかりました。どのくらいの時間かというと、まずあっというまに十年がたちました。その時点で、森氏は奥様のおうちの養子になられて、落合秀男となられます。はいそうです、勘がいいかたはもう感づかれているかもしれませんが、この森さんこそ、落合直文の家に縁あってはいられたかたでした。つまり、高橋先生の遺稿整理に加えて、落合家の仕事までがその肩にのしかかってきたのです。落合秀男氏は、祖父(妻の祖父)直文の遺稿の整理に追われることを余儀なくされ、高橋遺稿は宙に浮く形となってきました。落合秀男氏から『落合直文ー近代短歌の黎明』(前田透・著)が出来上がって送られてきたときには、すでに高橋遺稿が秀男氏に送られてから二十年近く経っていたのです。

というわけで、ここから飯沼二郎先生や未來社との出会いが高橋遺稿には開けてくるのですが、落合直文って名がここに出てきたとき、うわあって驚いたものです。といいますのは、このブログを始めたきっかけになった乙骨一族の長老たる、永井菊枝氏から戴いた「近代短歌百年の歩み」という小冊子(永井菊枝・著)に、近代短歌の系図が付されていまして、その二人の始祖の一方が、ほかならぬ落合直文であったからです。今一人は、近代俳句の生みの親でもある正岡子規です。

高橋甲四郎先生は、無意識に出会っておられるのですけれども、これはとびきりすごい出会いであり、歴史的な出会いなんじゃないかと私はこころふるえます。ちなみに、甲四郎先生から、中古で買っても六千五百円はする『落合直文・近代短歌の黎明』 を、先日おじゃましたときに借りてきました。それが気になって読みたいのですが、まだ時間がないのです。

わたしにとって、君が代の歌は、政治的なイデオロギーとはまったく無縁の、恋歌であり、稲作の歌であり、種まきの歌であり、大奥での秘密の元旦儀式の歌であり、八女の天文年間の百首和歌の第一首目の歌であり、とにかく、はじまりのうた、祈念の歌であります。だから、たまたまであった人たちと、大きなふしぎなつながりかたをしているのがありがたいのです。うたのこころを探求する旅に出ると同時に、農業のたましひを訪ねる旅をもできるのが、ありがたいのです。

それを、いま、わすれぬうちに書いておきたかったのでした。

※ 書き忘れましたが、前田透氏(前田夕暮の子)は、『落合直文ー近代短歌の黎明』をまとめあげ、出版間近となったときに交通事故で亡くなり、そのあとを継がれたのが落合秀男氏であったそうです。

(これを書いたので、やっと心安らかに次へすすめます。やれやれ。)

2006年12月18日 (月)

パニクる

うわあああ。たいへんだたいへんだ。

趣味のこととはいえ、締切を二つ抱えている。『連句的』と、『張形としての俳句』。ことに張形のほうは調べて書かねばならず、時間が要る。数日ブログを休むかもしれない。

高橋昇博士のご紹介で、面白い偶然だと思ったことが一つあって、それも詳しく書きたいのですが、年内に出来ればと思っている。これも読まねば書けない。

仕事のほうも、ものすごく忙しい職場で、年末に向けて、だんだん殺気立ってきた。はやい話が、警備会社なんである。すごいのなんの、日々「!」の連続だ。必死で慣れない労働基本法すれすれのややこしい給与計算をしていると、次々に電話がかかる。ほとんどが、暮れの突発的な交通整理の依頼である。現場がそれぞれ違うし、要員の数も二人だったり三人だったりする。しかも、夜間が入る。人は35人くらいしかいない。(久留米本社には。)ドスのきいた女ボスの迫力あるサバキに内心、ひえーーっとおののきながらも、すげえなこりゃと尊敬のまなざしである。彼女はとても複雑でめんどうな経理のほかに、まかない婦というか、買い物おばさん(寮母というかな。週に二回食料品日用品を買出しする。12人分も!)、裁縫おばさんも引き受けている。アーンド、愚痴を聞いてあげて、別れた切れたの悩み事相談窓口もやっているようだ。ま、当分たいくつはしそうにない職場である。どうも人間のぎりぎりの姿を見れるとこに来てしまった。純粋百パーセントの生身ですって感じの職場である。きどってなんかおれんのじゃ。

先週は、慣れなかったのでホカ弁だったけど、今日から、ちゃんと弁当を詰めていった。なぜかというと、お昼休みが取れないから。事務室に一人きりになる。買い物にもいけない。だって、電話が鳴るから。ううキョウフ。

2006年12月17日 (日)

南極観測船

http://www.asagaku.com/jkp/2003/11/1115.html

南極観測船のニュースを読むたびに、小学六年生のころ(昭和40年代初め頃)の「朝の会」を思い出します。毎朝、生徒が仕切る「朝の会」というのが掃除のあとで15分ほど設けてありました。日直の司会が「なにかありませんか」というと、いつも道子ちゃんが元気よく手をあげて、「はい!・・(とたちあがり、)昨日、南極観測船ふじがどこそこに到着したそうです」 と、みんなに教えてくれたのです。そういう話題の提供者は、道子ちゃんだけでした。ほかは、「だれそれが帰りの道でだれかちゃんをたたきました、よくないとおもいまあす」みたいな報告が多かったので、ひときわあざやかに印象にきざまれました。定点観測みたいに道子ちゃんはそれからもよく手を上げては、南極観測船ふじのことを一口ニュースのかたちで教えてくれました。彼女が教えてくれなければ、南極観測船のことなど、まったく知らずにいたでしょうし、興味もなかったと思います。

数年前、同窓会に出たときに、彼女にそのことを告げると、本人はけろりと忘れていたので、びっくりしました。そんなものかもしれません。記憶のなかでの彼女は、とても明るい元気な女の子でした。おぼろげな記憶でしかありませんが、お父さんのいない家庭で、三人きょうだいの長女として、目一杯あかるくけなげにがんばっていた姿が忘れられません。このことは、私が大人になってから当時を振り返って、とつおいつ分析したことですが。

こどもじだいの日々の些事と、南極観測という人類の未来と過去とにまたがる偉大な仕事のニュース。道子ちゃんのそれは、いま思えば、「俗語を正す」という芭蕉の俳諧の作法にも通じる、崇高な精神であったと思うのです。こどもながら、とってもりっぱでした。

農学者飯沼二郎の目  5

(昨日からの続きです。)

 未來社でコピーするために、差し当たり遺稿原文の「実態調査」だけを田口さんが借りて持って行くことになった。

 「『実態調査』全部を持って行きたいけれど、重たいので今日持って帰れるのは、せいぜい七冊が限度でしょう」
 こう言って、田口さんは七冊分を重ねて紐で結び、下げ袋に入れた。重さを手で量り、
 「これくらいなら持って行けそうです」
 すると、飯沼先生が、

 「世界にたった一つしかない資料ですよ、しかも二度と調査することができない貴重な資料ですから、紛失しないように、注意して持って行ってくださいよ」

 と、横から心配そうに言われた。

 私の自宅に来られて、父の遺稿をご覧になられたときの感想を、飯沼先生はあとで、未來社が発行した『朝鮮半島の農法と農民』のPR用の「内容見本」の中で、次のように述べておられる。

 ところが、突然、昨春(1990)、未來社社長の西谷さんから、高橋昇氏のご遺族から遺稿出版の話がもちこまれてきたので、それが果たして出版に価するかどうか、専門家の目で確かめてほしいというお話があった。編集長の田口英治氏と二人でお尋ねした福岡県八女市の昇氏の子息の高橋甲四郎家の広いお座敷一杯におかれていた資料は、予想を越えた膨大なもので、当時の朝鮮人農家の一戸一戸を綿密に調査した、今では全く得がたい資料であり、私は驚喜し興奮した。(中略)
 日帝下の朝鮮人は、ほとんど農民であった。ところが、当時の朝鮮農業の具体的な在り方を示す資料は、きわめて僅かで、しかも断片的なものに過ぎなかった。今回出版されるこの朝鮮全域にわたる資料は、農業はもちろん社会学・民俗学その他にとっても貴重であり、日帝下の朝鮮研究を画期的に推し進めることになるであろう。しかし、それだけではない。私は四十五年の農業研究の結果、昔からその地で行われてきた伝統に基づいて近代化すれば農業は必ず発展し、伝統を否定して近代化すれば農業は必ず衰退することを確信するが、この資料は、ただ単に過去の朝鮮農業の姿を具体的に知らせるばかりでなく、また、今後の韓国・朝鮮農業の真の近代化の基礎をも明らかにすることになるであろう。

高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

2006年12月16日 (土)

農学者飯沼二郎の目  4

(昨日からの続きです。)

 世界に一つしかない資料

             高橋甲四郎

 昼食が終わってしばらく休憩して、三人は再び二階に上がった。
 午前中にすでに実態調査を見られた飯沼先生は、満ち足りた顔を私に向けられ、

 「さて、実態調査以外のものを見せていただきましょうか」

 とおっしゃった。今度は「実態調査」以外の研究論文、「犂に関する研究」、「水田雑草に関する研究」、「稲作の歴史的発展過程(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)」、「耒耜(たび)考」等々(巻末「備考 高橋昇遺稿・資料目録」参照) を、飯沼先生の前のテーブルに積み重ねていった。

 私は非常勤講師をしている地元の私立高校に午後から出掛けねばならなかったので、二人に失礼して、自宅から車で十分くらいの同校に向かった。
 私の担当科目は数学である。この日は私にとって父の遺稿出版の計画が具体化されつつあるよき日であり、気持が晴れ晴れとしていたためか、教壇でも快適に授業が進められた。

 楽しく授業を終えて、足どりも軽く自宅に帰ったのは午後四時ごろだった。すぐ二階に上がると、飯沼先生は積み上げられていた遺稿をほとんど見てしまわれて、横に置かれていた。その傍らで田口さんが、私の姿を見られるや、

 「飯沼先生は、一枚一枚を実に丁寧に、熱心にご覧になっていられましたよ」

 と感嘆していられた。
 飯沼先生は、たくさんの遺稿の中から、表紙に「犂に関する研究」と書いてある一冊を取り出して私に見せ、

 「この『犂に関する研究』は、極めて専門的に書かれており、よくまとまっているので、今回の出版に入りきらなかったら、後日、単行本として出版されたほうがいいでしょう」

 と言われた。

 こうして見終わられた飯沼先生は、いざ立ち上がろうとされたが、長らく座って閲覧されていたために足がしびれたのか、なかなか立ち上がることができない。「うん、うん」 と言われて、ゆっくりゆっくりと立ち上がられた。私は心配になって、

 「大丈夫ですか」

 と、声をかけると、

 「大丈夫」

 と、口をしっかり結んで答えられた。飯沼先生は足のしびれが治ったころ、私と田口さんに向かって、りんとした声でおっしゃった。

 「まず、実態調査を発刊したい」

 田口さんの「中に書いてある図はどうしましょうか」という質問に、

 「図は原図のまま印刷したがよい。そのほうが味がある。校正も原文で行う!」

 びしっとした声でおっしゃった。つまり、きれいに清書された原稿で校正をするのでなく、あくまで父の乱雑な走り書きの元原稿で構成を行い、図も模写されたものを印刷するのでなく、父の直筆の原図をそのまま印刷するということである。

 聞いていて、なにか私の胸の奥からこみ上げてくるものがあった。そして、思わず心の中で叫んだ。

 「さすがは飯沼二郎先生である。すごい!」

     (あすにつづきます。)

高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

参考文献: 耒耜(たび)とは・・・気合で読めそうな気がする資料をふたつ。
http://cidian.sina.com.cn/cidian/search.php?key=%F1%E7%F1%EAhttp://www.kepu.com.cn/gb/technology/ancientech/ancientech_mechanics/200312310013.html

2006年12月15日 (金)

帰路

帰路

ちちははの拝む背中で子は育つ  とかいてあるお寺。

帰路

山茶花のすうっと伸びた樹が何本も立っている。その線のうつくしさにずっと前から写真を撮りたいと思っていたけど、今日は出来ました。実際はもっときれいな紅色の花が咲いて、かつ散り敷いています。

帰路

わが村がみえて、はるか西の空が茜色になっていました。なぜか携帯で撮ると色が違うのです。レンズを通すと、茜色が消えることもあるから悲惨です。これは、ましなほう。

朝の通勤

朝の通勤

久留米の鑓水の信号で。今日は、昨日より十分遅れて八時二十分近くに家を出ましたら、ラッシュに遭い、着いたのはぎりぎりの八時五十八分でした。霧がかかってました。信号の左側は陸上自衛隊駐屯地、右側は聾学校です。鑓水(やりみず)、旗崎(はたざき)と通っていきますが、いずれも混みます。地名が、なんとなく戦国時代風であります。

朝の通勤

車がラッシュで動かないので、自衛隊基地のぐるりをジョギングする隊員を写した。左の人は歩いてアイポッド聴いてる。ように見えますが、これは無線です。(警備会社に勤めて分りました。)毎朝、いつも八時二十分ごろでしょうか、みなさんで基地の周囲を走っておられます。これからも頑張ってください。

農学者飯沼二郎の目  3

(『父の遺稿』高橋甲四郎著の「出版への胎動」から、引用を続けます。)

 翌日、午前九時少し前に、プラザホテルに宿泊中の田口さんから、

 「よかったら迎えにきてほしい」

 と電話がかかってきた。
 自家用車で迎えに行くと、二人はすでに出掛ける支度をして待っていられた。二人を乗せて自宅に戻り、二階の座敷に案内をする。前日座敷一杯に広げておいた遺稿や資料などは、すべて一応ダンボールの中に片づけておいた。

 「今日はまず、農業実態調査から拝見したいと思いますが・・・」

 二階に上がられるや、飯沼先生はこうおっしゃった。系統的に、「黄海道実態調査」、「全羅南北道実態調査」、「江原道実態調査」等々の厚い表紙で項目ごとに綴じられている遺稿を、ダンボール六個の中から次々と取り出して、飯沼先生の前のテーブルの上に置いていった。飯沼先生は、これらの原稿一枚一枚を丹念に開きながら、昨日と同じように熱心に読んでおられた。
 田口さんも飯沼先生の横で、飯沼先生の説明に耳を傾けたり、ほかの資料などを一つ一つ手に取って見ていられた。

 昼近くなり、遺稿調査をいったん中断して、一階の座敷で私を含めて三人で昼食をとることにした。飯沼先生は、昨日よりもやや興奮気味の様子だった。食事中、私にいろいろなことをお尋ねになった。

 「あなたのお父さんは、朝鮮農民の間では、どのようなお方でしたか」

 「ご家庭におけるお父さんは、どのようなお方でしたか」等々。

 食事が終わるころ、私のほうから父が残したこの膨大な遺稿についての今後の処置についてお尋ねした。飯沼先生はきっぱりと言われた。

 「学問というものは、万人の共有物でなければなりません。個人が独占すべきものではありません。ましてや、これを利用して売名行為に走るものでないことは、言うまでもありません」

 飯沼先生のお話を聞いているうちに、私は旧制中学校時代に読んだ本の文句を思い出していた。岩波文庫の岩波茂雄氏が、岩波文庫を発刊するに際し、その発刊の趣旨を文庫本の巻末に、「読書子に寄す」と題して執筆している次の言葉である。

  真理は万人に求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは常に進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を小数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。

 こうして岩波茂雄氏は、低廉で、誰でもたやすく手に入る「岩波文庫」を創設し、人類文化の遺産を広く民衆に解放されたのである。

 この精神こそ、飯沼先生がおっしゃっていたことではなかろうか。この「読者子に寄す」の文章は、数十年経ったいまでも私の脳裏にこびりついて、鮮明に思い出すことができるのである。だからこそ、飯沼先生の一言一句が、短い言葉ながら、私の脳裏にスポンジが水を吸い上げるように染み込んでいったのである。(あすの「世界に一つしかない資料」につづきます)。

高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

2006年12月14日 (木)

農学者飯沼二郎の目  2

(高橋甲四郎著『父の遺稿』より、「飯沼先生との出会い」を引用しております。昨日からのつづきです。)

 田口さんが自分の荷物を置きに行かれる間、荷物のない飯沼先生と私は、フロントのロビーで椅子に腰掛けていた。しばらくして気になっていたことを飯沼先生に尋ねてみた。

 「先生は最近、ご病気で入院されていらっしゃったとお聞きしていましたが、いまはご健康状態はいかがですか」

 最初、未來社の田口さんから飯沼先生の名前を聞いたとき、私は早速飯沼先生の著書を書店で探した。『農業は再建できる』(ダイヤモンド社)という題の書物を購読した。そして、その本の「まえがき」に、

 「私事になるが、健康を害して入院した私に治療を施し、研究・執筆に復帰することを可能にして下さったお医者さん、看護婦さん方に感謝する」

 とあったので、そのことをお尋ねしたのである。
 飯沼先生は、静かに答えられた。

 「私は、あなたのお父さんと同じように、狭心症だったのです。しかし、いまの医学は非常に進んでいて、風船療法という方法で、ほとんど治ってしまいます」

 飯沼先生の話は続く。

 「これは足の股間の動脈から、小さな風船を心臓の冠状動脈の狭窄部分まで差し込み、その風船を膨らませて、狭くなった血管を広げる治療です。風船は膨らんでも一ミリからせいぜい四ミリまでですから、麻酔の注射がチクッとするくらいで、あとは麻酔のため全然痛みはありません。
 あなたのお父さんも、現在まで生きていられたら、この風船療法でお亡くなりにならなくてもよかったでしょうに・・・」

 飯沼先生は、一見無口のように見えるが、なかなか話題が豊富で、話好きのようでもある。
 田口さんが部屋から戻って来られたので、再度私の車に二人を乗せて、約十分足らずで自宅に着いた。
 家では妻が座敷に三人分の夕食の支度をして待っていた。三人でビールでのどをうるおし夕食を始めたが、ここでも飯沼先生がいろいろな話を始められた。

 「熊本県の農村を訪れたとき、・・・」

 と、九州各県の農家の実態を、自分の体験を交えて、実に詳しく具体的に話をされる。先生独特のくぐもった口調である。難解な農業専門用語が次々と飛び出してくる。田口さんは傍らで、黙々と食事をしながら耳を傾けていられた。
 食事が終わってから飯沼先生に、

 「では、お父さんのご遺稿を見せていただきましょうか」

 とうながされ、三人で遺稿を保管している二階に上がった。

   遺稿調査

 二階には、お二人がみやすいように、分冊になっている数十冊の遺稿を、あらかじめダンボールの中から取り出して座敷一杯に広げておいていた。飯沼先生はこれらを一冊ずつテーブルの上で一枚一枚開いて見ながら、乱雑に走り書きしてある父の原稿を、食い入るように読んでいられた。一、二時間ほどご覧になられたであろうか、

 「では、明日また見せていただきましょう」

 と言われ、田口さんと一緒に二階から降りて玄関を出られたので、私は車でホテルまで送って行った。午後九時を少し過ぎていた。(あすにつづきます)。

 高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

2006年12月13日 (水)

農学者飯沼二郎の目  1

冬至に始めたブログもそろそろ一年になります。何をやりたいのかは解らないまま、次は何をすべきかは見えるのです。八女市出身の農学者高橋昇博士による戦時下の朝鮮半島の農業と農民の克明な調査研究に入るためには、すこし前準備が必要です。最初に、高橋博士の仕事を同じ農学者の目からご覧になり評価なさった、飯沼二郎氏の紹介文を先週まるごと引用しました。つぎは、高橋博士のただ一人の子にして、父の最期を看取った(ということばは正確ではないかもしれぬ。過労による突然死の現場に立ち会われた)ただ一人の人でもある高橋甲四郎氏の書かれた『父の遺稿』(海鳥社2001年刊)から、飯沼二郎氏との出会いを書かれた章をそのまま引きます。なぜ全文引用するかといえば、この文章から様々なことが生き生きと見えてくるからです。あたかも自分がそこにいたかのように。

    「飯沼先生との出会い」   

                高橋甲四郎

 1990年(平成二年)四月になって、未來社(姫野注・東京の出版社)の田口英治さんから、待望の電話がかかってきた。

 「あなたのお父さんの原稿について、五月中旬に飯沼二郎先生と二人で貴宅にお伺いしますので、その節はよろしくお願い致します」

 いよいよ具体的な話になってきた。私は緊張して答えた。

 「分かりました。ところで、お二人とも私はお顔を存じませんので、来宅される前にあなたの顔写真を送ってください。私の写真は今日明日中にお送りいたします」
 「承知しました。写真はできるだけ早くお送り致します。具体的日時は、飯沼先生のご都合もありますので、先生と打ち合わせて後にお返事いたします」

 こんなやり取りがあって、四月下旬になって、田口さんから再び電話があった。

 「飯沼二郎先生と相談の結果、五月十五日と十六日、八女市に滞在して、貴宅で遺稿を拝見させていただきたいと思います」

 五月十五日、新幹線で博多駅に着く二人を、私は駅まで迎えに行くことにした。十五日十五時三十七分に、「ひかり」153号は、定刻通り博多駅の新幹線ホームに入って来た。

 私は、田口さんの顔写真を手に持ち、打ち合わせておいた二号車の昇降口から乗り込み、中の様子を急いで見回した。すると、中央付近の座席から、すっくと立って両手を前の背もたれに置き、にこやかな笑顔でこちらを眺めていられる、背の高い方の姿が目に止まった。

 「もしや、あの方が飯沼二郎先生ではなかろうか」

 そう思いながら、ゆっくりと車内に入った。すると、その方の横から未來社の田口英治さんと思われる方がこちらに歩いて来られ、そのあとから背の高い方が続かれた。私は慌てて車外に降りてホームに出た。私は名刺を二人に差し出しながら挨拶をする。

 「田口です」

 田口さんも名刺を取り出して私に差し出された。

 「こちらが、飯沼先生です」

  田口さんが傍らの飯沼二郎先生を紹介される。飯沼先生は、「や」と軽く相づちを打たれた。三人は、鹿児島本線下りの特急に乗り換えるために、新幹線ホームの階段を下りて行った。
  私は、飯沼先生の荷物を持ってあげねばと思い、飯沼先生をあらためて見つめた。ノーネクタイのこざっぱりした服装、そこら付近をちょっと散歩して来るようないでたちである。手には何もお持ちになっていらっしゃらない。白くて平たい四角な布袋を右肩から引っ掛けておられるだけである。

 「先生、お持ちいたしましょう」

 と先生の方のつり紐に手をかけると、

 「いや、いい」

 と、きっぱりと断られ、さっさと階段を下りて行かれる。

 私たち三人は、再び階段を上がって在来線ホームに出て、しばらくしてやって来た下り特急「有明」19号に乗車した。
 特急は約三十分後、閑散とした羽犬塚駅に到着した。私は駅前の駐車場に預けておいた自家用車で、予約しておいた八女市内の中心街にあるプラザホテルに二人を案内した。一階からのエレベーターに乗って三階にある受付に行くと、蝶ネクタイに黒の背広を着ていた年若い男性従業員が、

 「ここは、前金になっています」

 と言うので、私が財布を取り出して二泊三日の二人分の宿泊費を支払おうとすると、飯沼先生が、私を押しのけるようにして、

 「こちらから望んで遺稿を見せてもらうのだから、私の宿泊料は私が支払うのは当然です」

 と言われた。私は慌てて、

 「いいえ、いいえ、遺稿の調査を依頼したのは私のほうですから、」

 と、飯沼先生の申し出を強く断わった。(あすにつづきます)。

 高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

2006年12月12日 (火)

スカート

「会社にはなるべくスカートをはいてきてくださいね。」

と、会社のおつぼねボス(もつとも、われと同じ年頃だが)に言はれる。スカートか・・としばし感慨にふける。もう何十年もはいてゐなかつたやうな気がせしが、あつたらうか。主婦にて家にこもれるは自分の洋服代等ちやらちやらしたものに全くお金をかけることあたはず。化粧もしかり。自慢ではないがファンデーションと口紅とまゆ墨しか持つてをらぬ。

大げさなれども、スカートをはけば、世界がかはる気がする。

匂いと味

高橋昇博士のご紹介文を打ち込んでいるとき、ちょうど内容に重なるような思い出を綴った随筆入りの俳句誌をぐうぜん頂きました。「こうりゃん」って何だ、どうやって食べたのだろうと戦時下の朝鮮の人たちの胃袋を想っていましたが、中国満州での食の記憶を綴っておられる戦中派男性がいます。なにを食べてもさほどおいしいと感じない飽食の世の中になってみると、こういう記憶は、おいしそうでおいしそうで、読むと食べてみたくなります。脂っこい欧米型の肉食はもううんざりで、素朴なのが食べたいですね。(なお、高橋昇先生の書かれた膨大な研究書には、満州のことも含まれるようですが、大著に収録されたのは朝鮮半島のものだけで、それはまだ本にはなっていないようです。)

    「匂いと味」

          福田 隆郎

 父の肩車の上から匂う甘い香ばしい香り。
左右十基ずつ並んだ焼栗を焼く焼釜。熱い甘栗を父が爪で割り口を付け、親指と人差指でパカッと割ってくれた。抱えた袋が温かい充実感。口に入れると甘く柔らかい味、六十年経つ今も舌と口に残る幼い頃の匂いと味。
 久留米生れで、生後二ヶ月で満州の奉天に渡り、戦後昭和二十一年六月二十一日に、関釜連絡船で博多に引き揚げたのが、小学一年生の時分でした。題の事は、四才から終戦の年までの頃の小生の思い出に残るものです。

 二つ目は、屋台の味と匂いとでも言うもので、先ずは、ジューシィーな豚饅頭。天秤棒の両方の下に七輪、その上に蒸篭(せいろう)が二段、布の覆いをのけると湯気の立つ豚饅がほっかり顔を覗かせる。頭は渦巻状の捻り飾りが誇らしげに見える。かぶりつくと豚肉や野菜とにんにくの味付け最高の肉汁が、口から喉へと広がる。文章には表せない味と香りがいまだに残っている。長崎の中華街にもなかった。

 屋台味パート2、「チェンピン」今では、「クレープ」? チェンピンの素材は、こうりゃん(掃木に使ってある黍の一種)の粉と小麦粉を混ぜ合わせたものを水で溶いたものを鉄板(屋台の上一面)の上で、T字型の木製の板でくるっと一回転させると香ばしい薄い皮が焼き上がる。その焼皮を半分に折り、更に円錐形の状態にして、その中に、もやしや野菜、豚肉とを炒めたものを包んで食べる。これもチェンピンの皮の中で、肉汁と皮の焼けたパリパリとした食感が得も言われぬ味を醸し出してくれる。もう一度食べたい香りと味の一品である。お好み焼屋で出したら受けることを保証する。

 数量(数字)は、後に父母から聞いたものであるが、味や匂い等は、現在も自分の口や舌に残っているし、情景は目に残っているから不思議である。

     満州の高粱畠と赤い夕日、馬と人の挿絵。
             
     山口県湯野俳句会誌「しろがね」
     平成17年度合同句集より引用

※ チェンピンとは・・・1http://www.shejapan.com/theWorldFood/index.files/Page882.htm

              2
http://www.tochinavi.net/kikaku/gyouza2/utsu/hananoki/hananoki.html  

2006年12月11日 (月)

農学者・高橋昇 4

(飯沼二郎『高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者』、9日からの続きです。)

 彼は、朝鮮の農具についても研究をすすめた。1932年頃、沙里院で農機具の展示会を行い、朝鮮全土から在来の犂先(すきさき)とホミ(除草具)を蒐集した。どちらも400点近く集まった。ホミのほうはあまり地方差がみられなかったが、犂先は地方差がひじょうに大きかった。小さいのは移植ゴテぐらいで、重量も二キロに充たないものから、大きいものになると30キロ近いものまであった。このあまりに大きな地方差に驚いた彼は、集めた犂先の重量と寸法を全部測定し、その形をウス紙にトレイスし、詳細な統計表と分布図をつくり上げた。そして、作付方式、土壌の性質、地形、気候との関係などを究明した。さらに詳細な調査表を朝鮮全土の鋳物工場に送って記入してもらい、併せて、時間の許すかぎり、村へ出かけていって、野鍛冶の実態を調べた。朝鮮農業における野鍛冶のもつ意義を確かめようとしたが、このような研究は当時の日本にもなかった。

 朝鮮や、それに深い影響を与えた中国の古農書にも研究をすすめた彼は、中国出張の折には、北京の瑠璃廠(るりしょう)でごっそり中国農書を購入した。京城や東京に出る度に買い漁ったのはもちろんであった。最近でこそ、日本の農学者の中に、日本の古農書を、それぞれの地方における農業近代化のための不可欠な文献として重視する機運がおこってきたが、それまでは、それは過去の農業を知るための単なる歴史的な文献としかみられていなかった。高橋が中国や朝鮮、そして日本の古農書を買い集めたのは、たんなる歴史的な興味からではなく、中国から朝鮮をへて日本へと流れている東アジア農法の原理をとらえ、その中に朝鮮農業の発展方向を見出そうとしたからであった。当時においては、時流をぬいた卓見といわなければならない。

 「農業の研究者は文献というと、横文字で書かれたものだけと思っているが、認識不足も甚だしい。もっと身近にある中国や朝鮮や日本の古農書をなぜ勉強しないのか」と、彼は常々慨嘆していたという。

 どうも研究に少しかたよりすぎたから、最後に、農民と直接かかわる話をしよう。日本のような湿潤な気候の所でできた小麦は軟質でパンに適せず、パン用小麦は米国やカナダから輸入されていたが、十五年戦争が激化するにつれて、その輸入がだんだん困難になってきた。西北朝鮮の気候は乾燥しているから、硬質の小麦ができるはずだと高橋は考えた。そこで調査をしてみると、果して西北朝鮮産の小麦は日本産に較べて、グルテン含量がはるかに高く、米国産やカナダ産の小麦に匹敵することが分った。ところが朝鮮の製粉会社は、パンには適さないと主張して農民から安く買い上げ、その実、パン原料として多量の小麦を朝鮮から日本に送っていた。
 高橋は、沙里院支場産の小麦で製パン試験をくり返し、苦心の末、立派なパンが焼けることを実証し、ついに製粉会社の買上げ価格を1939年度から1円50銭値上げさせることに成功した。当時、小麦は石当り25円前後であったから、農家の手取りは6~7%も増えたわけである。

 当時の総督府は、朝鮮の小麦を少しでも多く製粉会社に売らせて、それを日本に送ろうとし、そのため農家の自家消費をできるだけ抑えるため、農家に対して小型製粉機の普及を抑えようとした。したがって、農家は近くの精米会社の所へ小麦をもっていって賃びきしてもらうほかなかった。製粉賃は無料であったが、製粉歩合は65%どまりで、業者は残った麬(ふ)をさらに機械にかけて粉をとっていた。高橋の計画によれば、もし農民自身で小型製粉機を利用することができれば、製粉歩合は85%以上になるはずである。それは小麦を二割増収するに等しかった。

 そこで高橋は、沙里院支場に大型製粉機を設置してみずから製粉を行い、ウドン、素麺、キシ麺、冷や麦をつくったが、いずれも好評であった。その結果、製麺は小麦の中心地沙里院の名物となり、製麺工場が12軒もでき、沙里院製麺組合が設立されるに至り、12工場で年間2万石の小麦が消費された。

 次は醤油である。当時まだ珍しかったアミノ酸醤油を試作することになり、その研究もどうやら目鼻がついたので、沙里院在住の朝鮮人によって、米糠および大豆の搾油を兼ねたアミノ酸醤油製造の会社が設立された。

 こうして、沙里院にアミノ酸醤油の工場ができ、製麺組合ができたことは、畑作の中心地沙里院にとって大きな意義があった。しかし、農民を愛した高橋の気持としては、製粉、製麺ぐらいは、農民自身にやらせたかった。なぜなら、農民自身で製粉すれば、農家の収入は二割増え、製麺すればさらに二割ふえるはずだからである。農家にとって収入が四割ふえるということは重大なことであった。しかし、残念ながら、農民自身でそれを実行することは、当時の状況からして、きわめて困難であった。

 1944年、総督府農試も、ようやく朝鮮の在来農法研究の必要を認め、そのため農試の大改革を行い、高橋を本場の総務部長にすえた。しかし、翌年日本は敗北し、総督府農試そのものが瓦解した。高橋は、愛する朝鮮から去らねばならなかったのである。

 〔備考〕 落合秀男「朝鮮総督府農試西鮮支場長高橋昇」(『旧朝鮮における日本の農業試験研究の成果』1976所収)に負う所が多い。感謝する。

          (いいぬま・じろう  京都大学名誉教授)

※ 飯沼二郎 http://www.jca.apc.org/beheiren/405IinumaJirousiSeikyo.htm

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2006年12月10日 (日)

われ、就職せり。

とつぜんなれど、われ、再就職に成功す。
ハローワークなる職安にて、職を得たり。
久留米の小さき会社の事務なり。
そは、いとおもしろきところなり。
おもはず口外したきこと多々見聞すれど、
守秘義務ありて、あやふく思いとどまれり。

月曜から金曜の九時から四時まで、われは久留米市民なり。
といふことはだ。これまで子の久留米の予備校時代の図書カードをせしめて使つてをつたが、これからは堂々と自分のカードが作れるのだらう。うれしきことなり。

これまで主婦業をやること25年、一度も外に働きに出たことはなきなり。従つて、さまざまなことがものめづらしくてたのしいなり。われは奴隷にあらず、自立せんとすなり。(笑)

2006年12月 9日 (土)

三余捌歌仙『海甦る』

いまは亡き鈴木助次郎こと三余さばきのローズ連句会の歌仙を紹介します。昭和48年のものです。連衆の女学生やOLだった若い女の子たちも、いまはすでによき家庭の母でありましょう。三余先生の教え子だった昭和女子大の生徒さんたちが主体となって作られた連句会がローズ連句会だと伺ったことがあります。これも俳縁、引用させていただきます。石雀先生の発句がある薔薇館にしようかと迷いましたが、これを。初々しくて座が見えるようです。野村牛耳翁の恋句「目交ひの刹那に彫りしおもざしと」、すばらしい恋句とおもいました。匂いの花、ふしぎな花です。どうか、教えてくださいませんか。(私が連想したのは、牢獄に繋がれている絶世の美女です。たとえば、石橋秀野とか北原白秋との姦通罪で投獄されたひととか。)「り」が柏木ゆかりさん。陰陽イ、の掛け声でやぶさめってするのですか。知りませんでした。勉強になります。「ゆ」がちゆさんこと日高玲さんでしょう。もう一人玲子さんがいらっしゃる。挙句、すばらしいですね。それと、「唐もろこしで作る人形」、かわいらしくてさりげなくて、こんな句、いまなら出ないでしょう。

    『海甦る』 
                  
                鈴木 三余・捌

秋立ちて甦るあり海の青       三余
 野菊彩る風紋の丘          露
相寄るは黙思の月と酌めるらん   牛耳
 郷人困る猿のいたづら        紀子
ままごとの通貨にせんか蝉の殻   タマ
 お花畑にたどり着きけり       ゆかり

快適に肌焼きこがしゆくや夏     玲子
 鑵ジュース売る鈍行の窓       ちゆ
目交ひの刹那に彫りしおもざしと   耳
 尼僧のたより浮世恋ふらし      紀
地価騰り騒音の巷となりはつる    露
 謎の事件は手がかりもなく      余
残業をやうやくすます凍てし月     マ
 脚ある台に煮ゆる湯豆腐       マ
涸れそめし運河にぎはふ家鴨舟    耳
 バス待つ群のカラフルにして      余
柩出づ花と校歌に見送られ       耳
 昼をきららに淡雪の舞ふ        ゆ

名残の折
 
四月馬鹿今日だけ信じゐたき嘘    露
 秘仏のとびら開くをののき       紀
緊張の過剰と知れど若ければ     耳
 長靴りりしく乗馬する女(ひと)    マ
雲の峯ドームは白く陽に炎えて     露
 水争ひの話あれこれ          紀
賢者愚者政治不信とそっぽ向き    露
 老いしライオンいさぎよく餓死     耳
「陰陽(いんやう)イ」 流鏑馬の歌ひびく聞き  り
 お手のものかよヒョットコの芸     耳
ひとり居の部屋訪るる蒼き月      玲
 唐もろこしで作る人形          マ

地下鉄の地上に出でて秋の虹     り
 テニスのボール直線に飛ぶ      耳
筆墨に幽玄を逐ふひたむきに     紀
 ブラウン神父なごやかな髯      ゆ
牢獄の庭に妍あり花ふぶく       り
 大気ふるはす金色の虻        ゆ

      昭和48年8月24日首尾 於仰亭 

野村牛耳連句集『摩天樓』、昭和50年
  東京義仲寺連句会発行

     連衆  野村牛耳、鈴木三余
        ローズ連句会   大橋紀子、小倉ちゆ、柏木ゆかり
                              福島タマ、藤崎玲子、和田露

※ 流鏑馬神事の掛け声:http://blogs.yahoo.co.jp/kyotobrand/33538324.html

農学者・高橋昇 3

(『青丘』1991年9月号より、飯沼二郎京都大学名誉教授の書かれた紹介文『高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者』から引用、きのうのつづきです。)

 間混作や作付方式の研究は、日本においても、徳川時代の農民によって積極的に行われた。否、むしろ、徳川時代の農学の中心課題は作付方式や間混作の研究にあったといっていい。しかし、明治になり、西洋農学が日本に導入され、それによって教育された日本人エリートが日本の農学研究の中心に座を占めるにつれて、この徳川時代の農法による達成は、不合理なもの、不規則なもの、幼稚なものとして否定された。なぜなら、土地生産力の低い欧米では、一年に一作しかできず、一年に二作も三作もでき、その上、間混作さえできる日本農業は、とうてい理解できないものであったからである。それ故、間混作や作付方式の研究は、その後、大学や試験場では放棄され、農民自身の手によって行われつづけた。

 国立農業試験場が、これについての研究をはじめるのは、敗戦後の食糧難を打開するため、畑作を正式の研究課題として取り上げて以後のことであり、まもなく、従来のポットや小面積の実験では、それを行うことの不可能なことに気づき、北関東地方の農村について、その実態を調査することになった。しかし、このような新しい試みは、けっきょく、日本の農学者たちにはなじまず、数年ならずして放棄されてしまった。

 このような日本における動きに対して、高橋の研究は、数十年も先んじていた。それは、朝鮮における畑作が、日本のそれよりも、はるかに進んでいたことによるものであろうが、当時の朝鮮における日本人農学者には、日本農業よりも進んだものが朝鮮農業にあるなどということは、とうてい、考えることもできなかったのである。そのような中にあって、高橋が、朝鮮における二年三作法や間混作の研究に着手したことは、本来、高橋が農学研究は研究のための研究であってはならず、農民のための研究でなければならない、と考えていたからでもあったが、同時に、彼が、当時の日本人一般にあった朝鮮人蔑視感から完全に解放されていたことによるものである。そのような彼が、伝統的な試験場技術ーポットや小面積での実験ーの域を越えて、直接、農民に学ぶという調査研究に向っていったのは、当然のなりゆきといえよう。

 「農事試験場のものは、実験室内の仕事や場内の圃場試験にこだわり過ぎている。だから試験場での成果が農家から遊離してしまっている。しかも、遊離してしまっていることに気がついていない。日韓併合以来、ほんとうに朝鮮の農家に定着して役立っているのは、稲の正条植だけではないか。まず、農家に飛び込んでいって、謙虚に教えを受けるべきである。」 という言葉が、当時の高橋の言葉として伝えられている。

高橋は絶対といっていいくらい調査表を作らなかった。そのわけは、調査表をもっていくと、調査項目の欄が埋まれば、それで安心してしまうし、逆に調査表にしばられて、調査項目から一歩も出られなくなるからであった。そして、いつも、藁半紙の雑記帳を数冊ポケットに押し込んで、でかけていった。ときには焼酎を一升ぶらさげて、農家のうす暗い温突(オンドル)に座り込んで、農家のおやじさんと盃を酌み交わしながら、興至れば、何時間でも話し込んで動かなかった。そこには、日本人一般の朝鮮人蔑視は、ひとかけらもなかった。

 とくに、調査といってでかけていかなくとも、会議や講演などで出張したおりに、ちょっとでも時間があると、すぐ村へ行って、農民と話し合った。高橋は沙里院支場からあまり遠くない部落を一つきめておいて、ひまさえあれば訪ねて、村の人たちとつきあい、農家の人たちの心をしっかりとつかんでいた。試験場の「えらい先生」ではなしに、一人の農民として、農家の心になりきっていた。高橋は自転車に乗れなかったから、いつも、誰か若い助手が彼を自転車の荷台にまたがらせて連れていった。彼は根っからの子供好きで、部落の中で子供をみつけると、お菓子を与えたり、虱だらけの頭をなぜたりした。

こうして、北は咸鏡北道の国境の火山地帯から、南は済州島にいたるまで、くまなく朝鮮の農村に足跡を印した。そして、膨大な調査資料を残した。日本の農学者は、戦後の一時期おもいつきのように輪作調査を行い、短期間で止めてしまったのに対し、高橋の農村調査が朝鮮全土に及び、しかも長期間にわたってつづけられたのは、彼の農民から学ぶという謙虚さ、朝鮮農民に対する深い愛情に基づくものであった。(つづく。)

※ 1 
前回より文中、何度も「間混作」 カンコンサクと読むのでしょう、出てきました。これは何であろうかと考えてみますと、字面から、ウネの間か端境期かに別の種類のものを同じ地で作るということだろうか。連想したのは、昔の(わたしのいう昔とは、昭和四十年代くらいまでの農村)水田です。たんぼのぐるりのあぜには大豆が同時に植えられていた。(それは味噌やしょうゆをしこむときや、納豆をつくるのに使われた。全部、自家製であった。)
では、カンコンサクとは、じっさいはなにをいうのでしょうか。検索すれども定義は出ず。しかし、むずかしい学術論文みたいな報告書タイプの文中、幾例か「間混作」、出てます。いずれも、南米コスタリカとかペルーとか、そういうあったかい国々の農業でした。 
http://www.knaes.affrc.go.jp/jnews/15/15p05.html← これはスマトラです。 読めますか。むづかしいですね。笑(長いので、一文を引用しますと→「陸稲、とうもろこし、キャッサバを間混作して、各作物を順次、収穫していく方式が多い。」←スマトラの農業を調べた報告文に使われていた間混作のことば、これで、ほぼ意味が伝わりました。)

  2
沙里院とはどこ?   
http://www.chosunonline.com/article/20070517000025
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%87%8C%E9%99%A2%E5%B8%82

  3
稲の正条植とは?
セイジョウショクかせいじょううえでしょうが、これはきっちりと定規で測ったような間隔の条に植えていくことでしょうか。具体的には、いま、小学校の学童田で、四年生か五年生で実技をやりますが、そのときの正条植のやりかたは、農協青年部のおじさんたちが指導しましたが、長い紐を田んぼのあちらからこちらの端にひっぱって、それを一列植えるたびに同じ間隔をあけて動かしていきます。こどもたちは、紐のそぼに植えればよかったです。これで機械植えとおなじようにできました。。・・・ということは、それまでの朝鮮式の植え方はどうだったろうかという視点がでてきますね。これは本著を読むときにわかると思います。数ヶ月前打ち込んだ、中国の農業ジャーナル誌のご紹介で、大陸の農民の農業をちょっと紹介してありましたが、あれは「投げ植え」でした。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_a0f0.html#comment-6985012

2006年12月 8日 (金)

農学者・高橋昇 2

昨日の『高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者』からの続きです。

 総督府農試は、各道農試の中心的存在であり、本場は水原、支場は朝鮮内、七ヶ所にあった。それらの支場の中でも沙里院は西鮮支場ともよばれ、朝鮮北西部の畑作地帯を研究対象とした。高橋は総督府農試着任以来、1928年まで水原の本場におり、以後、ながく沙里院支場長であった。日本の作物学は、明治以来こんにちに至るまで稲作中心に集中し、畑作の研究はほとんど等閑に付された。したがって、傲慢な日本人農学者たちも稲作技術については、日本の技術を朝鮮農民に高圧的におしつけたが、畑作技術については、自信をもって「指導」する技術をもたなかった。

 朝鮮の畑作を研究対象とした沙里院支場の場長として高橋が長く勤務したことは、彼の目を朝鮮の在来技術に向けさせることを不可避にすると同時に、また、朝鮮の在来技術に深い関心をもっていたからこそ、彼は沙里院支場長に任命されたのでもあった。

 水原本場時代に、彼のした仕事は稲の遺伝、育種関係の研究であり、それは彼の学位論文になった。しかし、それよりも、むしろ、彼らしい特色のある仕事としては、朝鮮中から主要作物ー水稲はもとより、大小麦、とうもろこし、高粱、黍(きび)、稗、粟、大小緑豆、胡麻などー二万以上の品種を精力的にあつめて、その特性を調査した仕事である。現在栽培されているもののみならず、朝鮮の古農書ー農事直説、衿陽雑録、山林経済、海東農書、林園経済志等ーに現れた品種名まで調査した。この頃から、高橋は、日本人農学者がほとんど関心をもたなかった朝鮮の古農書に深い関心をもっていた。そして異名同種の多かった朝鮮の品種名統一の必要性を説き、作物品種命名規定まで提案した。また、この品種特性調査に基づいて、200近い朝鮮農業地図を作成した。これらはいずれも、朝鮮の在来農法に確固たる基礎を与えようとするものであった。

 1928年、沙里院支場の第二代場長として沙里院に赴任する。このときから、彼の特色ある仕事が次々に生れることになる。すでに、初代場長の武田總七郎は、西北朝鮮地方に古くから行われていた二年三作法(麦ー大豆ー粟)を「すべての輪作法中、もっとも工夫を凝らしたもので、その苦心惨憺の跡は歴然たるものがある。要するに、その学問を応用せることにおいて、ほとんど遺憾なきこと、世界にこの右に出るものはない」と高く評価したが、しかし、日本人農学者一般からは、それは時代遅れの好ましくない農法であり、何とかして止めさせるべきもの、と考えられていた。高橋は、改めてこれに着目し、科学的立場で、その合理性を解明しようとしたのである。

 朝鮮における畑作は、1、秋播麦類の越冬と寒害、2、春季の乾燥、3、夏季の多雨による過湿に対する対策を主要な内容とし、そのため作物の種類と播種位置、畦の幅や高さ、耕起の深さなどが合理的に考えられていた。上記の二年三作法では、麦作を中軸として三作物の特性がうまく組み合わされ、広い畦の溝に麦を播き、豆は間作、粟は間作ではなく翌春、畦の上に播かれた。

          (あしたにつづく)。

※ 水原 http://www.asahi-net.or.jp/~qv5e-tcy/honbun/kankoku4.htm

参照:世界の農書:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%9B%B8 このうち、朝鮮の農書をひもとけば、飯沼二郎先生の引かれた数冊の名がでてまいります。

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2006年12月 7日 (木)

高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者

また引用を始めます。中断した「切字論」は、調べましたところ、新しく一冊になって出ているようですから、まるごと引用するのはまずいです。川本皓嗣先生、勝手に丸写しして失礼いたしました。こういう本は著作権を考慮せずばなりますまい。

これから写すのは、ちゃんと了解を取った上でのことです。説明は省きます。読めば見えてくるからです。数日に亘っての仕事になるとおもいます。どうかさいごまでお付き合い下さい。

   高橋 昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者

         飯沼 二郎(京都大学名誉教授)

 1907年、統監府勧業模範場の開場式において、統監・伊藤博文は訓辞を述べ、明治維新以来の日本の農学によって韓国の農業を適切に指導したならば、「能く韓国と国民の生活を改善し衣食を充実するの功績を挙げ」ることができるだろう、といっている。農業はそれぞれの土地の在来技術に基づいて発展していくものであるが、このとき、伊藤の脳中には朝鮮の在来技術を尊重しようとする意識はまったくなかった。

 また同日、場長の本田幸介の「(韓国の)農産物の種類善良ならざるが故に、産額従て多からざるのみならず、品質もまた劣れり、これが改良を図らざるべからず」という式辞も、朝鮮の農業を蔑視する先入観に満ちている。もともと国立大学出身の日本人農学者たちは、日本の農民を蔑視する傾向が強かったが、それが日本人一般の朝鮮人蔑視によって一層強化されて、朝鮮の在来技術を尊重しようとする意識がまったく欠如していた。

 勧業模範場という名前そのものが、日本の農業技術を韓国農業の「模範」にしようとする意識を端的にあらわしている。やがて、それは、日韓併合とともに朝鮮総督府勧業模範場、さらに1929年、朝鮮総督府農事試験場と改称され、1944年、道農試をふくめて総督府農業試験場に改組されたが、翌年、日本の終戦によって終止符を打った。

 その間、朝鮮人蔑視の意識は徹底しており、たとえば1931年5月現在の職員数は、技師が専任15人、兼任13人、属が専任7人、技手が専任31人、兼任4人、合計70人であったが、その内、朝鮮人は技手にただ一人、それも専任ではなく、兼任にすぎなかった。

 こうして、朝鮮の農業は日本人農学者によって日本人向けにつくりかえられ、たとえば稲作も、在来の朝鮮品種、栽培方法を否定されて、日本人向けの品種と、それに適した栽培方法に変更することを強制された。その結果、1912年を100とすれば、1928年の米の生産高は150と急速に増加したにもかかわず、日本への米の輸出額は186、朝鮮人一人あたりの米の消費量はついに69と激減している。朝鮮人農家は、みずから生産した米は食べることができず、満州(中国東北部)から輸入した高粱(こうりゃん)や粟(あわ)や稗(ひえ)を食べなければならなかったのである。

 このような日本人農学者のなかにあって、試験場の仕事は農家から遊離してはならない、まず、農民から謙虚に学ぶべきだという考えを実行した例外的存在が、高橋昇であった。

 彼は福岡県八女市の出身で、1918年、東京帝国大学農学部を卒業し、翌年、朝鮮に渡り、敗戦まで26年間、総督府農試に農業技師として勤務した。その間、一戸一戸、農家をたずね、朝鮮全土の農業をくまなく調査し、膨大な資料を残した。敗戦直後、この資料をもって帰国し、みずから整理しようとしたが、半年後、急逝した。その後、この貴重な資料は、ながらく埋もれていたが、今回、未来社から刊行されることになり(A4判約一千ページ。註・現在はすでに刊行されています)、先ごろ、財団法人韓国文化研究振興財団から出版助成金が与えられた。  (あすにつづきます。全文の引用は五日間かかると思います。)

※ 季刊誌『青丘(せいきゅう)』1991年9月号
      「特集・隣人愛の日本人」より引用
   発行   青丘文化社  李 進熙

2006年12月 6日 (水)

三吟歌仙「治聾酒」

    三吟歌仙『治聾酒』
 
衆判 平成15年2月6日首、10月14日尾

 治聾酒や六腑に残る好き心     星野石雀
   大き梁より覗く恋猫        日高 玲
 渡り漁師浜の破船に身を寄せて   鈴木三余
   飛行機雲の溶くるたまゆら    石雀
 交差点かはたれ時の月細く      玲
   身にしみて聴く反戦の歌      三余

 ほつほつと落花生噛みスナイパー  石雀 
   エレベーターに挟むスカート    玲
 いまごろはセーヌ河畔を君一人    三余
   蠱物(まじもの)せしが何事もなく  石雀
 三輪山の蛇身を鳴らす四斗樽     玲
   蛍飛び交ふ方に弦月        三余
 長者の荷橋の半ばにとどこほり   石雀
   竹槍ありしふるさとの蔵       玲
 阪妻のポスターなども貼られゐて   三余
   骰子一擲どんと春雷        石雀
 居続けて縄手の小家花明かり    玲
   頬嬲りゆくあたたかき風      三余

名残の折
 忘れ雪踏む足音のかすかにて    三余
  青いインクは置いてゐないと     玲
 リヨン行き夜行列車にマゾ翁     石雀
  「好きな映画は何度も見ます」    三余
 丈長き髪にささりし藁をとり       玲
  稚児の呻きを消す糸車        石雀
 メルヘンの如き国母の愁ひ顔     三余
  ゴルフボールが池にぽちやりと   玲
 盆の月てらてら山の端にかかり    石雀
  秋袷着て友を見舞ひに        三余
 飾り文字もう書けへんと檸檬切る   玲
  役者を買つたことも昔に        石雀
 
 河なべて暗渠となりし明石町     三余
  遊行の足裏さりさりとする      玲
 山姫の綺羅幻に花のかげ      石雀
  春の雲みる何ごともなく       三余
 蓬餅三つ四つ腹に納まりぬ      玲
  田螺が鳴いてお開きになる     石雀 
    

※ 打ち込んで気づいたのですが(笑)、正花の座に花なく、その打越に石雀さんの花がありましたね。珍しい。山姫ということばは、和歌によく出てくることばです。八女の百首和歌にも出てきました。この歌仙の見所は、長く連句をやってきた俳諧人たちの丁々発止の、それでいて遊びの息のぴったり合ったところです。ことに石雀さんの恋句の悪趣味ともいえる強さを、三余先生と玲さんの二人が懸命に転じて立て直そうと図るところ、すばらしいです。私が深く感動したのは、その一例、名残おもての恋(どうしてじいさまたちは恋ばかりしているんだ)の玲から三余の三句の渡りでした。三余さんて本当にすごいんだとよくわかった転じでした。なお、玲さんは大学生時代から座で連句をなさっていたというクールビューティであります。お元気でいらっしゃるでしょうか。三余さんはこれを巻かれて亡くなられました。遺作です。

  丈長き髪にささりし藁をとり       玲
  稚児の呻きを消す糸車        石雀
 メルヘンの如き国母の愁ひ顔     三余
           

かささぎ警備保障(有)

    かささぎ警備保障(有)

            西野いりひ

くるめの町の北の端を
東から西へ流れる筑後川
そのほとりの広い道を
すこし入ったところにある
かささぎ警備保障(有)

狭い敷地に建つ雑居ビルの
いちばんてっぺんの階上
そこへ今朝も五人の警備員が
あつまってはとびたってゆく
それぞれの場所を護るために

いちばん年かさのげんじいは71歳
スヌーピーにどこか似ていて
宮崎の五ヶ瀬からの出稼ぎで
いつも決まってにこにこと
よく出来る孫の自慢話をする

いちばん若いけんちゃんは17歳
はずかしそうに帽子を目深に被り
顔を隠すようにして敬礼するから
隊長に尻を叩かれて送り出される
オラオラもっとしっかり元気出さんか!

いちばん無口な村上さんは45くらい
昔ケイシチョウに勤めていたって
いったい何があったんだろうね
みんなから離れて いつも
山本周五郎の本を読んでいる

いちばんベテランの浜中隊長はたぶん55
かわいい女子の部下を引きつれて
近くのミスドでココアを奢るのが趣味
といってもかわいい女子の部下は
一人しかいないのだけど

いちばんさいごに残ったのは
そのかわいい女子の美和さん20歳
彼女はいつもみんなの話に笑ってうなづき
大きな元気のよい声をかけてくれる
ハーイきょうもがんばっていきましょう!

景気は中くらいのかささぎ警備保障(有)
筑後川に牡丹色の夕映えが近づくころ
五人の隊員たちが疲れてもどってくる
細長いウナギの寝床みたいな部室に
タイムカードのかささぎの旗が五つはためく



2006年12月 4日 (月)

久留米、師走

久留米、師走

目抜き通りのカソリック教会です。
学生時代ミサに一度礼拝したことがあります。小倉の教会と違って、神父さんの衣装がきらびやかで厳格な印象でした。あとで知ったことは、こちらはカソリック、あちらがプロテスタントでした。

久留米、師走

きのう、久留米市民図書館に本を二冊(カイコの一生の写真本と、石田郷子著『名句即訳ー蕪村』・・タイトルをはっきり記憶していない。たぶんこうだった。とても勉強になった)もどしに行ったら、駐車場が満車で、こまりました。土日の昼は多いので、平日がいいです。見えているのは、石橋美術館です。そういえば、地続きです。

久留米、師走

ここはどこでしょう。井筒屋の向い側、郵便局の前です。珍しくも和服の女性、それも和装のコートを御召しになったなよやかな年配の女性があちらからやってこられたので、別のものを撮るふりをして、つい撮ってしまいました。やはり着物はいいですねえ。師走って感じが出ている。(人通りは少なかったけど、車は多かったのです)

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2006年12月 2日 (土)

喪服妻と四月の雪と色気とは

夫の単身赴任部屋に掃除洗濯に行った。郵便受けにぐじゃっと郵便物や広告が溜まっている。忙しいんだなと片付けてたら、底からレンタル屋の請求書が出てきた。なになに・・喪服妻総集編。返済期日を一月も過ぎてる。あわわ!すぐ電話をした。かくかくしかじか忙しくて返し忘れたようです請求書にも気づかなかったようですごめんなさい。なんとか一万円近い追加料金を負けてください。・・女性店員にすがる。電話ののんびりとした声が事情を察するや、軽蔑したような冷たい声になり、次に店長とおぼしき人のいかめしい声で、お客さん、その定価は四千五百円ですから、それだけ頂きましょう。・・という。おかげで、ものすごいお金を支払わねばならず、サイフはおからになった。(実物をもどしたのに実費を支払うというのは腑に落ちない気もする。)。
怒り心頭に発し、次から返却が遅れた場合はすぐ連絡くださるよう、くれぐれも依頼して帰る。なにが喪服妻だ。まったく何を考えてるんだ!(なにもかんがえていまいが)
かように妻が母のように夫を管理し甘やかす図式が、日本の典型的なイエなんであるが、このどこに色気の介在する余地があろうか。

というわけで、ぺさんの『四月の雪』を見た。
昼メロみたいな話だったが、女優さんが若いのにとってもきれいで色っぽかった。こういうのが着やせするっていうんだなと感心した。でも、肝腎の冬ソナのぺさんは、ロボットみたいで生身の男としての精彩に欠けている。色気がない。むづかしいもんだなあ。

しかし、見所はあった。一番印象に刻まれたのは、交通事故で人を死なしめたにもかかわらず、保険屋に頼んでいるからというせりふが出てくるところ。これは日本とおんなじでイヤなせりふだ。つぎに、二人で亡くなった被害者の家に詫びに行くシーンで、よぎる景色が朝鮮の冬のたんぼなわけです。芭蕉七部集「冬の日」歌仙での杜國の「朝鮮のほそりすすきのにほひなし」ってこんなんだろうな。寒村ってことばがぴったりする。
葬儀が行われているところに着いた二人を迎える遺族の母親の罵声。その葬の場面の原色が目に焼きついた。あれは何の色だったのか確認したい思いに駆られているが、もう一度借りてまで見たくはない。どなたかご存知でしたら教えてください。

『摩天楼』休刊に思う

千葉の花見川から隔月発刊されていた小さな、けれども質の高い俳諧誌『摩天楼』(星野石雀主宰)が、主宰の眼疾のため今147号で休刊となる。昭和60年5月創刊、ということは石雀さん60代でのスタートだったんだ、とあらためて思う。

表紙絵とカット・沼野正子(絵本作家・随想家)。ときおり送れないときもあったが、33回ぶん、「影ふみあそび」の題で文章を書かせていただいた。そのことを、とてもありがたく、また誇りにも感じている。

石雀さんは(先生と呼ぶと感じがでない。前田先生もそうだが、先生と呼んだとたんに何かが喪われる気がする)、大俳句結社「鷹」の長老俳人で、同じく「句夫婦」(これは石橋秀野の句に出てくる語。ちゃんとした語か造語か不明)の櫻岡素子先生とは四十代での晩婚であった。一度もお会いしたことはないが、書かれたものを読むと、幼少のころより足がわるく、みんなからいざりといっていじめられた。母上は東京でお茶屋を営んでいたそうで、つまりは玄人であり、(当時のクロウトとは現在と違って一種の誇り高いサロン文化人である)、石雀さんは千葉のいなかの祖父母の家に預けられて内向的で早熟な文学好きの少年に育った。(参考:お茶屋とはhttp://www.studio892.com/gion/ochaya.html、あるいは岡崎久彦著『陸奥宗光』に詳しい)

私が石雀さんと知り合ったのは、札幌の俳諧師窪田薫師の連句文韻を摩天楼誌に掲載されていたからである。俳句誌は沢山あるが、連句もやる誌は非常に少数である。しかしながら、山本健吉、石橋秀野が二十歳そこそこだった戦前に所属していた上川井梨葉の俳句誌『愛吟』を読むと、連句が掲載されている号もあった。東京の俳句文学館で調べた。(この愛吟にいた健吉の慶応の同級生・宇田零雨は、のちに連句結社「くさくき」を主宰し、今もそれは活動している。いまは零雨の甥で226事件を警視総監だった父の視点から描いた本の著者でもある磯直道氏が主宰)。

ありがたいご縁を大事にして、当時はイチゴの家業と育児などで手一杯だったはずなのに、秀野も調べていたし、結核という病一つよく知らなかった私には、石雀さんの書かれることはとても参考になったので、言われるまま、四枚分の原稿を書いた。

石雀さんは校正を仕事としておられた方である。目が命の仕事だ。
私は何度かハッとするようなミスを訂正していただいたことがある。まだ秀野ノート初期のころだ。健吉の後妻・静枝氏の旧姓を穴倉と書いていた。思い込んでいたが、ほんとうは宍倉であった。それを鋭く指摘なさった石雀先生。びしっとチョークが飛んできて額に当たった気がした。なぜご存知なのだろう。まだ何の評伝も出ていなかった時代だったのに。とふしぎに思っていたら、現実の山本健吉に会ったことがあるとおっしゃっていた。

ほかには、れぎおんに書いていたエッセイで、いつか嶋岡晨の詩(題を忘却)を記憶しているかたちで無謀にも引用したとき、それを正確に訂正して下さったのも、石雀先生だった。この二つの件は忘れることができない。たくさん本を読まれてきた方である。文学を愛された方である。やさしい方である。孤独な方である。そのことを私は忘れないだろう。

※「摩天楼」という誌名は、野村牛耳連句集『摩天樓』から取られている。野村牛耳は明治生れ昭和49年84歳没の高名な連句人。のちほど、当時の連衆の一人小倉ちゆ(現・日高玲)、鈴木三余(故人、鈴木助次郎)と星野石雀の三吟歌仙(数年前の作)を引用したい。これが一番よく巻かれているとおもうから。

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