無料ブログはココログ

« 農学者・高橋昇 2 | トップページ | 三余捌歌仙『海甦る』 »

2006年12月 9日 (土)

農学者・高橋昇 3

(『青丘』1991年9月号より、飯沼二郎京都大学名誉教授の書かれた紹介文『高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者』から引用、きのうのつづきです。)

 間混作や作付方式の研究は、日本においても、徳川時代の農民によって積極的に行われた。否、むしろ、徳川時代の農学の中心課題は作付方式や間混作の研究にあったといっていい。しかし、明治になり、西洋農学が日本に導入され、それによって教育された日本人エリートが日本の農学研究の中心に座を占めるにつれて、この徳川時代の農法による達成は、不合理なもの、不規則なもの、幼稚なものとして否定された。なぜなら、土地生産力の低い欧米では、一年に一作しかできず、一年に二作も三作もでき、その上、間混作さえできる日本農業は、とうてい理解できないものであったからである。それ故、間混作や作付方式の研究は、その後、大学や試験場では放棄され、農民自身の手によって行われつづけた。

 国立農業試験場が、これについての研究をはじめるのは、敗戦後の食糧難を打開するため、畑作を正式の研究課題として取り上げて以後のことであり、まもなく、従来のポットや小面積の実験では、それを行うことの不可能なことに気づき、北関東地方の農村について、その実態を調査することになった。しかし、このような新しい試みは、けっきょく、日本の農学者たちにはなじまず、数年ならずして放棄されてしまった。

 このような日本における動きに対して、高橋の研究は、数十年も先んじていた。それは、朝鮮における畑作が、日本のそれよりも、はるかに進んでいたことによるものであろうが、当時の朝鮮における日本人農学者には、日本農業よりも進んだものが朝鮮農業にあるなどということは、とうてい、考えることもできなかったのである。そのような中にあって、高橋が、朝鮮における二年三作法や間混作の研究に着手したことは、本来、高橋が農学研究は研究のための研究であってはならず、農民のための研究でなければならない、と考えていたからでもあったが、同時に、彼が、当時の日本人一般にあった朝鮮人蔑視感から完全に解放されていたことによるものである。そのような彼が、伝統的な試験場技術ーポットや小面積での実験ーの域を越えて、直接、農民に学ぶという調査研究に向っていったのは、当然のなりゆきといえよう。

 「農事試験場のものは、実験室内の仕事や場内の圃場試験にこだわり過ぎている。だから試験場での成果が農家から遊離してしまっている。しかも、遊離してしまっていることに気がついていない。日韓併合以来、ほんとうに朝鮮の農家に定着して役立っているのは、稲の正条植だけではないか。まず、農家に飛び込んでいって、謙虚に教えを受けるべきである。」 という言葉が、当時の高橋の言葉として伝えられている。

高橋は絶対といっていいくらい調査表を作らなかった。そのわけは、調査表をもっていくと、調査項目の欄が埋まれば、それで安心してしまうし、逆に調査表にしばられて、調査項目から一歩も出られなくなるからであった。そして、いつも、藁半紙の雑記帳を数冊ポケットに押し込んで、でかけていった。ときには焼酎を一升ぶらさげて、農家のうす暗い温突(オンドル)に座り込んで、農家のおやじさんと盃を酌み交わしながら、興至れば、何時間でも話し込んで動かなかった。そこには、日本人一般の朝鮮人蔑視は、ひとかけらもなかった。

 とくに、調査といってでかけていかなくとも、会議や講演などで出張したおりに、ちょっとでも時間があると、すぐ村へ行って、農民と話し合った。高橋は沙里院支場からあまり遠くない部落を一つきめておいて、ひまさえあれば訪ねて、村の人たちとつきあい、農家の人たちの心をしっかりとつかんでいた。試験場の「えらい先生」ではなしに、一人の農民として、農家の心になりきっていた。高橋は自転車に乗れなかったから、いつも、誰か若い助手が彼を自転車の荷台にまたがらせて連れていった。彼は根っからの子供好きで、部落の中で子供をみつけると、お菓子を与えたり、虱だらけの頭をなぜたりした。

こうして、北は咸鏡北道の国境の火山地帯から、南は済州島にいたるまで、くまなく朝鮮の農村に足跡を印した。そして、膨大な調査資料を残した。日本の農学者は、戦後の一時期おもいつきのように輪作調査を行い、短期間で止めてしまったのに対し、高橋の農村調査が朝鮮全土に及び、しかも長期間にわたってつづけられたのは、彼の農民から学ぶという謙虚さ、朝鮮農民に対する深い愛情に基づくものであった。(つづく。)

※ 1 
前回より文中、何度も「間混作」 カンコンサクと読むのでしょう、出てきました。これは何であろうかと考えてみますと、字面から、ウネの間か端境期かに別の種類のものを同じ地で作るということだろうか。連想したのは、昔の(わたしのいう昔とは、昭和四十年代くらいまでの農村)水田です。たんぼのぐるりのあぜには大豆が同時に植えられていた。(それは味噌やしょうゆをしこむときや、納豆をつくるのに使われた。全部、自家製であった。)
では、カンコンサクとは、じっさいはなにをいうのでしょうか。検索すれども定義は出ず。しかし、むずかしい学術論文みたいな報告書タイプの文中、幾例か「間混作」、出てます。いずれも、南米コスタリカとかペルーとか、そういうあったかい国々の農業でした。 
http://www.knaes.affrc.go.jp/jnews/15/15p05.html← これはスマトラです。 読めますか。むづかしいですね。笑(長いので、一文を引用しますと→「陸稲、とうもろこし、キャッサバを間混作して、各作物を順次、収穫していく方式が多い。」←スマトラの農業を調べた報告文に使われていた間混作のことば、これで、ほぼ意味が伝わりました。)

  2
沙里院とはどこ?   
http://www.chosunonline.com/article/20070517000025
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%87%8C%E9%99%A2%E5%B8%82

  3
稲の正条植とは?
セイジョウショクかせいじょううえでしょうが、これはきっちりと定規で測ったような間隔の条に植えていくことでしょうか。具体的には、いま、小学校の学童田で、四年生か五年生で実技をやりますが、そのときの正条植のやりかたは、農協青年部のおじさんたちが指導しましたが、長い紐を田んぼのあちらからこちらの端にひっぱって、それを一列植えるたびに同じ間隔をあけて動かしていきます。こどもたちは、紐のそぼに植えればよかったです。これで機械植えとおなじようにできました。。・・・ということは、それまでの朝鮮式の植え方はどうだったろうかという視点がでてきますね。これは本著を読むときにわかると思います。数ヶ月前打ち込んだ、中国の農業ジャーナル誌のご紹介で、大陸の農民の農業をちょっと紹介してありましたが、あれは「投げ植え」でした。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_a0f0.html#comment-6985012

« 農学者・高橋昇 2 | トップページ | 三余捌歌仙『海甦る』 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 農学者・高橋昇 3:

« 農学者・高橋昇 2 | トップページ | 三余捌歌仙『海甦る』 »

最近のトラックバック

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31