無料ブログはココログ

« 高速道路を走るとき | トップページ | 伯父の戦記 下 »

2006年11月 7日 (火)

伯父の戦記 上

先日「目通り61年」で取り上げた長崎の俳句誌「拓」15号(編集発行・前川弘明)の、

 この夏もひたすら生きて海軍橋  高尾芙蓉(西海市)

が忘れがたく、ことに海軍橋という一語のもつ歴史的な重みに打たれて、何も知らなかったのもあり、検索をかけたところ、昨日コメントをいただいたさくらさんのブログに行き着きました。(http://www.geocities.jp/masa030308jp/index.html「父への手紙」)

さくらさんのブログを読んでいますと、縁の重なりが随所にありまして、なにか孫の手のようなもので、肩をとんと叩かれたような気がしました。ブログをご覧下さっている方には、姫野はなにやってるんだろう。「切字論」は引用途中で投げてるし、永井菊枝先生の歌集も一回しかご紹介していないし、歌仙巻いたのに留書も書いていないし、・・とお思いの方もおられることでしょう。(実は私がいちばん気にしているのですが。)それらはいずれやることにして、さくらさんとの出会いでにわかに浮上した、私の父方の伯父の戦記を引用しておこうと決めました。数年前に寿命を全うした伯父は、佐世保の相浦に住んでいました。軍人だったことは知っていましたが、戦記を読むのはじつは今日がはじめてです。読みつつ、打ち込んでいきます。とても優しい伯父でした。

    ミャンマメクテーラ
     東飛行場 激戦の思い出
                        下條 住雄

 忘れもしない、時は五十年前の昭和二十年三月十六日、我が部隊(五十五・七中隊)は、目差すメクテーラ東飛行場攻撃作戦のため深夜をついて一晩中ジャングル内を南下行軍し、夜明け間近、飛行場へたどり着いた。広い滑走路には無蓋の格納庫が幾つも点在し、我が七中隊はその一角に陣取り豪掘りを急いだ。
 地盤は固く穴を掘るには並大抵の事ではなかった。各自の豪掘りが終わる頃には東の空に太陽が昇り始めた。各中隊は中隊長の命令に従い、持場もちばを守り、成り行きを待った。
 自分は衛生兵で中隊指揮班の中隊長の側に何時もいた。当時の中隊長は大迫大尉である。刻一刻と時は流れ、午前九時頃ではなかったろうか。英軍兵舎方向より背の高い丸腰の英兵三十有余名が一列横隊で滑走路を一歩一歩と進んで来る。
 「まだ撃つな、撃つな」 と何処からともなく声が流れる。英軍とはもうその距離七、八十メートルと迫った。その瞬間、友軍の軽機が発射され、同時になりをひそめていた各中隊は一斉射撃に転じた。驚いた英兵は右往左往、一目散に兵舎方向へと逃げて行く。敵に何人ぐらいの死者が出たか記憶はない。それから三十分を過ぎる頃、空には戦闘機が飛来し、地上にはM4戦車が轟音をたてながら目前に迫り来る。一輌現れる毎に報告がなされ、十九輌までは覚えているが、後は記憶がはっきりしない。我が中隊指揮班はコの字型の内側にいたが、三輌の戦車が前に立ちふさがり完全にロの字型にされ逃げ場を失った。容赦なく撃ちまくる戦車砲と天蓋を開け身を乗り出して機関銃でも攻撃され、どうすることも出来ない。撃ち崩される高さ三メートル余りの土砂は土煙と共に我が身に落下し豪はだんだん浅くなる。その都度身をゆすぶりながら土砂からのがれる。もはやこれまでと悟ったのか中隊長が大きな声で叫んだ。

 目標、彼方に見える大きな一本の木。

 中隊長は、そこへ集結と云う。砲撃の合間を見て乗り越えなければ他に道はない。三々伍々、脱出を計る。中隊長の当番兵が我が頭上にちぎれて上半身が落ちて来た。多分、その時、同時に中隊長も戦死したものと思う。それ以来大迫中隊長の肉声を聞くことはなかったからだ。自分は久保曹長と行動を共にし、目標地点まで友軍の死体を乗り越えながら懸命に走った。五、六十メートル位走った時、戦車砲で射たれ、右大腿部から足先まで一瞬、棒でなぐられた様だった。身体が浮き上がる感がして、倒れ込んだ。

 「曹長殿、下條はやられました」

 と一声叫んだのを覚えている。倒れ込んで何分位たったのか解らないが、ふと気がつき体を動かしてみると、右足が全く動かない。それよりも爆風による土砂ほこりを吸い込み口も鼻もつまり息さえ出来ない状態である。戦車はまだいる。そのまま死んだふりをして動かず、戦車が遠のくのを待ち水筒の水で嗽し、三角巾を取り出し右大腿部の止血をして一寸這いで動き出した。時間をかけて漸く目的地までたどり着いた。止血はしているものの出血はひどく真赤に染まった右足の感覚はない。もう一歩も動けない。坐りこんでいるとそこへ八中隊で同年兵の小舟兵長が来た。彼は、南京教育隊の頃からの大の仲良しであった。いきなり「下條ではないか!」と言いながら近寄って来る。

  「俺はもう歩けないから、お前一人安全地へ行ってくれ」

 と言っても彼は聞かない。

  「同年兵のお前を一人おいて俺は行けない。俺の肩につかまれ」

 と言って手を差し延べる。痛む足をこらえながら彼の肩につかまり数分間歩いた。彼は「ここに居れ。動くな」と言って部落へ行き、数分後もどってきた。牛車一台に現地人とやって来て、「これに乗れ」と言う。身体をささえられながらやっと横たわる。デコボコ道を一晩中牛車は走り、朝方、友軍の野戦病院へたどり着いたが、いつの間にか小舟兵長はどこかへ行ってしまっていた。

 野戦病院では担架に乗せられた。夜明け間近に途中で食べた赤くうれた「トマト」が実にうまかった。その味が今でも舌先に残っているような気がする。
 担架の上で一晩を過ごし朝がきて、時間も大分たった頃、一人の衛生兵が顔色変えて走って来て叫んだ。

 「みんなよく聞け!敵戦車が間もなくここへ来る。独歩患者は直ちに出発準備せよ。担送患者は連れて行けないので、各人に任せる」

 なんたることか。
ガヤガヤする内に歩けるものはぞろぞろと隊列になりどこかへ消えてしまった。担送患者はどうすることも出来ない。不安がよぎる。しかしこうしていても仕方ないので、痛む足を引きずりながら担架から降りて五、六十メートル先のジャングル目指し、休み休み少しづつ這って行く。今まで居た野戦病院にはもう敵戦車が来た。砲撃と機関銃が耳をつんざく。夕暮れまで続いた砲撃も次第に止み、静かになった。足の痛みだけが身にしみる。朝から何も食べず空腹でも何ひとつ食べる物はない。身廻り品は衛生兵のカバンと水筒だけになっている。少量の水を呑みながら二日間我慢した。三日目の朝が来た。川の向う岸の土手に一本のパパイヤの木の実が見えるが、どうする事も出来ない。色々と考えていると土手の方に軍靴の足音が聞こえる。息を殺してじーっと見ると英軍将校と兵二人の三人連れである。----

 みつからずにすんだ。敵兵は立ち去って行く。しばらくして今度は寝ているジャングル内を子供の話し声がする。足音もだんだん近づき、五、六十メートル先で足音は止まり話し声も止んだ。じーっと見つめていたのだろう。おびえた小さな声で一声「ジャパン」と言った。頭が丸坊主で軍服姿の自分が日本兵であることが解ったのだろうか。
 おそるおそる近寄って来て、兵器の有無を確認し、何も持たない自分にほっとした様である。    (下に続く)。

« 高速道路を走るとき | トップページ | 伯父の戦記 下 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/6513/4094166

この記事へのトラックバック一覧です: 伯父の戦記 上:

« 高速道路を走るとき | トップページ | 伯父の戦記 下 »

最近のトラックバック

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30