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2006年11月20日 (月)

わが母校、福島高校のこと

  「わが母校、福島高校のこと」

           五木 寛之

 人はなぜ自分が学んだ学校のことを、母校と呼ぶのだろうか。たとえば、父校といっても一向にかまわないような気がするのだが、あまりそういう表現はしない。
 自分の生れ育った国のことを、母国というのもそうである。祖国、という言葉と、母国という言葉の間には、どこかしら微妙な語感のちがいがあるようだ。
 人がみずからの出身校を母校と呼び、その生まれ育った国を母国と称するとき、そこにはなにか温かく、そして優しい人間的感情がひそんでいるように思われる。故郷を遠くはなれて流転する人びとの心に浮かぶのは、常に母校の思い出であり、母校の姿であるにちがいない。
 私にとって、母校と呼ぶことができる学校は、ただ一つしかない。それは福島高校である。私はさまざまな事情から、小学校を三度、そして中学校を三度転校することを余儀なくされた。大学も二つの学校に籍を置いたが、ともに卒業することはできなかった。したがって入学から卒業までずっとお世話になったのは、福島高校だけである。素直な気持ちで、わが母校、と称するのはそのためである。
 私は一九四九年の春に福島高校の門をくぐり、一九五二年にそこを出た。当時の校舎は旧女学校の木造の建物で、校庭には藤棚があり、正門附近のたたずまいも趣きのあるものだった。先生がたも、それぞれ人間味豊かな個性的なかたがたばかりだった。
 十代の少年だった私は、そこで多くの友人、先輩と出会った。そのことを私は一生忘れることはないだろう。
  しかし私は、当時のことを思い返すとき、いつも心の一部に焼けた火箸をあてるような痛みを感ぜずにはいられない。それはあまりにも悔いの多いみずからの過去に、激しい自責の念を覚えるからである。三年間の高校生活のあいだに、私はしばしば先生がたの期待を裏切り、また友人や先輩たちの友情を傷つけるような行為をした。
  
 なにをどう説明したところで、言い訳にしかなるまい。今はただ、そのことを恥じ、頭をたれて自分を責めるしかないだろう。
  そんな不肖の卒業生を、同門の仲間として寛容に受け入れてくれるのは、やはり母校の優しさというものだ。私は言葉にならない負い目を抱きつつも、その暖かさに甘える気持ちを押さえることができない。
  
 私はこれまでに一度だけ、現在の福島高校を訪れたことがある。その日は休日で、校庭にも校舎にも、生徒たちの姿はなかった。私は静かな校庭の片隅に背中を丸めてたたずみながら、長いあいだ様々な思い出にふけって時をすごした。そこは私にとってはじめての場所であるにもかかわらず、やはり私の母校だった。目を閉じれば昔の藤棚も、校庭のテニスコートも、図書室の本の匂いも、まざまざと心によみがえってきて、不思議な安らぎをおぼえた。
  私の唯一の母校は、福島高校である。そのことを私は、なによりも大切に思っている。 

ひょっこり五木寛之のことを思い出して、福島高校の創立95周年記念誌(2004年春刊行)「黐の木(もちのき)」から引用しました。

この作家を知ったのは、短大生のころだったと思いますが、「青春の門」は炭鉱町の筑豊が舞台であるため、自分と同じ高校を出ておられるとはずっと知りませんでした。何かで読んだ話では、八女の立花町(と一応は町の名がつきますが、じっさいは山間部で、どいなかです。昔は柳川立花藩の所領だったためこの名がある)に住んでいた五木寛之こと松延少年は、家計を支えるため自転車にお茶などを積んで、はるか筑豊にまで売りに行っていた・・そうです。

私が読んだ五木さんの本は、ごく限られていて、エッセイが多いのですが、「蓮如」、「運命の足音」は読みました。後者、宣伝ほどにはショッキングな内容でもなかった。ところが、ある日、天野おとめ、沢都たちと句会をしていたところ、といっても無駄話をするのが私たちの句会なんでしたが、そのことをふと漏らしたら、おとめさんが、「徹子の部屋」で五木さんが戦時中の苦労を語った話をしました。五木さんは語るうちにことばにつまって、黒柳徹子さんといっしょに泣いたというのです。それはどういうことかといえば、「運命の足音」に書こうとして、どうしても書くことができなかった辛い体験を語られたからなんだそうです。本には具体的に書かれていなかったけれど、多分そうじゃないかと思って読んでいたので、それを聞いてやはりと思いました。わたしもあからさまに書こうとは思わないし、書けないにちがいない。

どうしても書けないことは書かないで、封印をしたまま、人は人生を終えるのでしょう。

※ 先日来、さくらさんとのメールのやり取りで、縁の重なりがあったと書いた一つ、福島高校時代の数学の先生だった高橋甲四郎先生(さくらさんは鳥栖の高校での恩師だったそうです)に、きのう、お会いできました。雨の中、矢部川の土手まで迎えにきてくださいました。甲四郎先生のことは、いずれ詳しく書きたいとおもいます。

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コメント

五木さんと同窓なのですね。ミーハー的に素敵!いや、先日講演会で「暗愁」という言葉を初めて聞いて、愕然としました。言うに言えないなにか心にあるもの、憂鬱とは言えないが、晴れやかでもない、忸怩でもない、一抹の不安なのか恐れなのか期待なのか、はっきりしないけれどそれを忘れた今の日本はおかしいと言われるのです。便利で、手触り耳障りがちょっと見に良くて、少し品がいいと錯覚し、手触り耳障りに悪いものを遠ざけている、あっけらかんの明るさは、本物ではないとも。

鍬塚さん。書き込みありがとうございました。忙しくて今になりました。
一時間半かけて五人分の晩御飯の用意をしやっとパソコンの前に座ったら、下からおっかさんが「ごはんがないよー」って。わーんもうしらん。人数が多いとママある。おかずを作り終え、さあ食べようというときに気づくごはんがない事件。

たしかに闇がない。つるつるぴかぴかした時代だし、ぶよぶよぜいにくも回ってる。いやな渡世だなあ。

徹子の部屋のその場面は私も見ました。
おおよその事は見当がつきました。

>雨の中、矢部川の土手まで迎えにきてく>ださいました。

48年ぶりに合って、別れたばかりの甲四郎先生の風景が浮かんでくるようです。
土手の上・・・と言うのがほほえましい。
先生のお話期待しています。


さくらさん。私も見たかった、その収録。
高橋甲四郎先生となぜ今出会ったのか、考えて見ますと、農業だと思います。
私は、意図的に、自分の負っているものから目をそらし続けてきた。鍬塚さんが紹介なさった五木さんの言葉のように、ちゃらちゃらときれいなもの、りっぱなもの、みてくれのいいものにばかり目がいって、足元にある、黙って生活を支えてくれている地と血には知らんふりをしてきました。
根を思い起こせという事だと思います。

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