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2006年11月30日 (木)

市史と詩志

昨夕、松延貫嵐の直系のひまごにあたるというお方から、コメントを頂きました。それには、もし貫嵐の系図がわかれば・・と書かれておりました。私は、このような名家の方がなぜそういう大事なことをご存じないのだろう・・とふしぎに思いました。と同時に、いや、待てよ、と、考えてみました。

五、六年前、柳川古文書館に古文書の無料解読講座を聴講に通っていたとき、近代だけでも何度かの行政区域の変更があっており、史料の行方があちこちに分散してしまっているという事を知りました。当時柳川市は柳川市史を編纂中だったので、史料を回収するのに苦労しているという内部事情を学芸員に伺ったことがあった。たとえば、筑後関連でいえば、三潴県という県がまぼろしのように存在した時期がある。みづまという地名は、折口信夫の「水の女」(昭和二年、『民族』所収)の中にきちんと調べ上げられて登場するような古い言霊をもつ、由緒ある地名です。

そういうことをおもえば、直系の家に系図が伝わっていないということも、あるのかもしれないし、八女福島の燈篭人形(重要無形文化財)を創設した松延家の家系図が、市役所の蔵に眠っているかもしれないとも思います。そうあってほしいものです。

でも、自分の経験で書きますと、市役所は行政をするところであり、文化財の管理や収集にはよほど強力な力が働かぬかぎり機能しないです。文化財担当だった杉山洋先生がいつも烈火のごとく怒りくるっておられたのは、市は文化財の管理をやる気がない、ということです。しかし、それは現在の市の立場から言うと、お金がなく、人も足らず、したくても手が回らないのです。学芸員さんが二人おられますが、それぞれ熱心にご自分の仕事をなさっておられますもの。市長さんも一度は胃がんを克服なさった身で、とても熱心に動いておられます。平成13年のぼんぼり連句大会のときには八女市と商店街のみなさまにとてもお世話になりました。石橋秀野の法事のとき(八女デザイン会議・主催)に、野田国義市長さんが「人は二度死ぬといいますが、一度は生の終り、今ひとたびの死は、人々の記憶から忘れられるときです。しかし石橋秀野は、その二度目の死から蘇らねばならないすぐれた俳人でした。縁あって、その人の墓がここ八女の地にあり、理由があって死後50年間も埋もれたままになっておられましたが、こころある人々によって揺り起こされ、蘇る機縁となりますことは大いなるよろこびです。」と、立派なご挨拶をなさったことは、忘れることができません。

これまで、なんどか個人的に調べていることで、史料がないかと市史をあたってみたけど、入り口があるだけで知りたいことは書かれてないと、腹がたったことがありました。たとえば魚のギギについて。方言でやかましもんのことをギギュタンといいますが、そのことばの元になった「鳴く魚」がぎぎです。聞けば、郡部出身の人が川にいたと記憶しておられました。郷土の川にどのような魚が生息しているのか、せめて市史には書いておいてほしいとおもいました。でも、一定の期間で、あれだけの広い範囲で資料を集めて筆を起こす、歴史書であり博物誌でもあるものを編むのは、並大抵のことではなかったのでしょう。そういう目でみれば、入り口があるだけで詳細がない、と怒るのは間違っていました。それは自分で調べよ、ということなのでしょう。

いま、福島の杉山洋先生から返信の電話がありました。(八女の者が福島というときは、町の意味です。)お聞きしていた、松延貫嵐の件ですが、やはり先生が詳しい系図を持っておられるそうです。その生涯について、杉山先生がもっとも肝腎であると言われたのは、なぜ貫嵐は(この名は実は俳号である。劇作家としての貫嵐はいくつかの別の筆名がある)、かわらこじき、かぶきものの世界へ飛び込まねばならなかったのか、という動機であろうとのことです。

というわけで、長くなりましたが、松延公平様、どうか杉山洋先生にお手紙で、またはご近所にいらっしゃるのであれば、訪ねていかれたらと思います。さいごに、杉山先生はこうもいわれました、「松延貫嵐の一族だと思う、五木寛之もまた」、と。

http://park6.wakwak.com/~shiraki/family.html コメントを頂きました松延一族のかたが書かれていた、血縁にあたるという八女郡立花町の大内家の史料館です。五木寛之関連資料もあるようですね。(まだ行ったことないのです。行かねば・・)

※ 先日、ご紹介しました、朝鮮半島全土の農業(大日本帝国下の)を、足で27年間も踏査されて詳細な研究書を残された、遺伝子研究学者・高橋昇博士のご子息で、かつて高校教員であられた高橋甲四郎先生は、福島高校勤務時は新聞部顧問だったそうです。そして、福島高校の新聞部は五木寛之こと松延寛之少年が創設した部だったという。それに松延少年は処女小説を連載していたそうです。(先生がご自分で古い学校新聞を調べていて、ぐうぜん発見されたものらしい。)それを聞いて、私も半年ほど新聞部にいたことを思い出し、だから甲四郎先生のことを覚えていたんだと合点がいきました。笑

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コメント

2、3日前中学・高校の同級生の静子さんからはがきが届きました。
静子さんは、当時とても読書家で朗読が得意でした。
ほとんど音信普通だったのに、先々月中学の同窓会に出席して、鋭気を養えた事がよほど嬉しかったらしく、突然同窓会報告のはがきが着ました。(もちろん私は欠席)
偶然甲四郎先生と40数年ぶりの再会の直後だったので、甲四郎先生と合ったという報告で返事を書きました。
これに対する返事が2、3日前のはがきと言う事です。
静子さんも当時文芸部に所属しており、甲四郎先生に原稿依頼などしていたので印象深い、俳句の話でもしてみたいので、連絡してみる・・・との事でした。
甲四郎先生の教え子の輪がさらに広がりそうですよ。

さくらさん、おはようございます。
(今朝は早起きの臨戦態勢です、試験があっています。)
当時の部室は、学食のある別棟の二階で、そこの並びに文芸部の部室もありました。今もあまり変わらない感じですよ。
じつは、昨日お昼、高橋先生の御宅に再びお邪魔して、大事な御本をお借りしてきました。
いろいろとお尋ねしたかったことをお聞きすることができ、嬉しかったです。

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