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2006年11月26日 (日)

松延貫嵐の生涯「八女伝説」

クリスマスに博多座で『八女伝説 松延貫嵐の生涯』が上演されます。
脚本:米倉テルミ   演出:米倉斉加年
監修・出演:米倉斉加年と八女市民

平成18年12月25日月曜日
午後0時30分開場、1時30分開演
全席指定観劇料税込 
                 A席   5000円
                 B席   4000円
                 C席 3000円

観覧ご希望のかたは、0570-02-9999チケットぴあまで。

簡単にあらすじをご紹介いたします。

松延かんらんは八女福島の大庄屋・松延家の跡取りとして生れました。しかし、十六歳のときにお伊勢参りかたがた浪速で見た人形浄瑠璃が忘れられず、二十代のある日、庄屋職も妻子も全てを捨てて浪速に出奔します。浪速では当時、竹本座などの人形浄瑠璃が盛んでした。そこで彼は浄瑠璃書きとして成功します。そして四十代のある日、ゆるされて故郷に帰り、一俳人として多くの弟子を育てるとともに、八女福島の町に人形浄瑠璃の灯をともし、それはいまも「八女福島燈篭人形」として、秋のまつりのときに上演されています。

ここから私のひとりごとです。
十年前くらいに、れぎおんに俗の細道という題で文章を書いていました。少年少女世界の名作という文学全集が小学館から出ていて、夫は子供時代に病弱で親に買ってもらって揃えていたのが、戸畑の夫の実家にありました。で、私の子もまた夫ににて全員病弱で、こども時代は割と入院したり病欠したりが多く、その本のお世話になったのです。そのうち、日本のものはたった二巻しかなかったと思います。その中になんと、ふしぎなことに、これがあったのです。「柳の精」副題、三十三間堂棟木の由来。作は、若竹笛躬となっていました。わかたけてっきゅうとるびがついてます。そして、祇園女御という物語から引いたと書かれていました。

えっとおもいました。当時岩戸山古墳を調べていて、八女市の文化財保護委員長だった杉山洋氏の本でたまたま松延貫嵐を知りました。それには祇園女御も彼の作だと書かれていたからです。ちょうど、石橋秀野ノートを書いていて、それにもついでに書いたんでしたが、18世紀といえば、中国では聊斎志異という本が出て、菊の精の話が出た頃でした。かたや菊の精、こちら柳の精。なんだか気脈が通じていて面白いではありませんか。

当時のほんは共同制作が多かったみたいだし、若竹てっきゅうという人の名も、個人ではなく製作集団の名だったんでしょうか。私は詳しく調べるすべもなく、杉山先生にも聞きましたがはっきりとは応えてもらえなかった記憶があります。

そういうふしぎな縁といいますか、ありまして、わたしは見にいこうかと考えているところです。(それに、父方の従兄が三味線弾きとして出演するので、どちみち親を連れていかねばならぬでしょう。)正直な話、こどものときからあの人形浄瑠璃は苦手で、最後まで見切ったことがありません。だっておもしろくないし、たいくつだからです。それでも、ちゃっぽんぽん祭りに必ず行ってたのは、夜店が沢山出て、それを目当てに行ってました。いま、次男がまさにそうです。

文化財っていうのは、たいへんなものではありますね。みなさん、どうか清き一票を。
もとい、クリスマスにはおそろいで博多座へどうぞ。(あそこの喫茶室のベーグルサンドはいけます。)

※ ところで、素朴な疑問。なして米倉さんがこれに関係されているとでしょうね?八女の人とは違うのに。松延っていうから、私はひょっとして五木寛之の祖先じゃないかと思ったのでしたが。

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コメント

私は八女の大庄屋松延忠次のひ孫です。
明治時代は福島町の町長や県会議員をしていました。立花町の大内家は祖母の出です。松延貫嵐について非常に関心があります。系図などお分かりでしたら是非教えていただきたいと思います。忠次は高塚の出と聞いています。又忠次について情報をお持ちの方がいらっしゃったらぜひお聞かせ下さい。

松延公平様。
コメントを頂き、有難うございます。
びっくりしました。有名な家の子孫のかたからこのようなコメントをいただくとは思ってもいませんでした。
私はまだ訪ねたことがないのですが、立花の大内家とは史料保存館が最近できたあの大内家ですね。
私が知っているのは、前の文化財委員をなさってた杉山洋先生の書かれていた範囲内です。系図は残念ながら存じません。八女市史という大冊は、内容が中途半端です。私が知りたいのは、どの作品を貫嵐が書いたのかということでした。それと、あの時代に出奔し家を捨てた人が、再び「もと居た場所」にもどれたということは、不自然な気がするのですが、何があったのでしょうね。故郷に錦を飾るのであれば、過去のことは問われなかったのでしょうか。
そういう疑問に答えてくれる物語になっているかなあと期待しています。
系図のことは、杉山先生に明日にでも伺ってみます。それでは、遅くなって失礼しました。

追伸:
 
朝から、その件についての記事をアップしました。どうかごらんください。
おかげで、勉強になりました。


ひめのさまからの御返事真に有難う御座いました。私の曽祖父松延忠次については市発行のの八女市史にも可なり記述されています。又本町の無量寿院の松延忠次の墓に業績が詳しく刻んであります。
 以前市役所を訪問し、忠次を中心にした系図(戸籍)を尋ねましたが、個人情報守秘義務といううことで教えてもらえませんでした。 無量寺院にかこちょうを調べてもらいましたがわからないといううことでした。忠次については明治時代に八女茶や紙などの産業育成で国の褒章を受けています。今の福岡銀行の前身の福州銀行の頭取もしていました。 私は忠次(天保10年5.15日~大正元8.24)から遡ってその親の名前は清蔵、母は楚誉と言うことまでは分かりました。杉山先生に一度お尋ねしたいと思っております。
御親切心より御礼申し上げます。
           松延公平より

松延公平様。再びのコメント有難うございます。
おかしいですね。守秘義務とはそういう場合に使うことばではないとおもいます。子孫がわざわざ出向いてお願いしているのに、教えないなんて、とんちんかんな話ですね。
それに子孫はしらないのに、第三者の杉山先生がご存じであるというのもへんです。
石橋秀野という八女市の無量壽院に眠る俳人を調べていたときに、なんども激しい怒りを感じたことがあって、それは資料があるのに、見せてもらえないことでした。理由は多分松延公平さまと同じです。
行政側には暇と金がなく、保存と分析にまで手がまわらない。一方、杉山先生は、保護委員だったときにコレクターとして自宅に資料を保存すると同時に、他の者は知りえないことも知り、調べることができた。
この一年、君が代の歌を国歌として発見した乙骨太郎乙の一族(名家です)を調べていましたが、太郎乙の孫にあたる昆虫学者の江崎悌三博士は、昆虫標本(もちろん自分が作成したもの)一つ、わたくしせず、大学のものだと言って大学に置かれていたと子孫のかたが書かれていました。
必死でものを調べているときに、それが郷土の人で、どこに資料があるとわかっていて借りれなかった悔しさは、ことばにできません。山本健吉資料館にあった本を文化財だから貸せないといって、ついに貸してもらえなかったことがあります。図書館にも当時はありませんでした。資料館にあるのを自由に扱えるのは杉山先生だけでした。市と文化財担当委員との関係はまったくわかりませんが、なんとなくこういう世界はかなしいことだなあとおもいます。
きっと全国にこういう話がたくさんあって、超ど級の史料がたくさん埋まっているんだろうなあと思ったりします。

昆虫学者江崎悌三:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_3e7b.html(かささぎの旗、三月十六日付)

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