無料ブログはココログ

« 礼と菊 | トップページ | 寒昴 »

2006年11月17日 (金)

ある俳人の戦記

十一日に岩国の連句大会に参加し、その日は亜の会連句会の仲間でもあり、八女句会の一員でもあった山本伽具耶さん宅に沢都さんと二人で泊めてもらいました。その夜はまるで修学旅行のように、枕をみっつ並べて、四方山話をしながらいつの間にか寝入っていました。数年前の湯田温泉合宿を思い出しました。あのときもこんな風にして寝たんだっけなと。連句の仲間というのは有難いものです。遠く離れていても、すぐに昔と繋がれるのですから。

さて、じつは不思議な縁がまたありました。伽具耶さんが二年前に入った湯野という土地の俳句誌『しろがね』を読ませてもらっていて、出合いました。こういうことはありふれているのかもしれませんが、私はふしぎと感じます。戦記です。引用しなければいけないと思いました。巻頭にこれがあったのです。湯野俳句会・村中秋天子氏の文章です。俳句作品も、とても立派で、これものちほど引用いたしたいとおもいます。

  「もしあの時」 戦後六十一年に憶う
                  
                   村中 秋天子
 

 時これ昭和十八年二月一日、日米太平洋戦争の帰趨を決する飢餓の島ガダルカナルを転進(退却)した我が聯隊はラバウルを経て三月二十八日セブ島に向けて出港した。船団は六隻。

 一日目は平穏だった。

 第二日目午後三時頃複従陣の最後尾黒姫丸に敵魚雷二発が命中。船は轟音と共に水煙が昇り四、五分間艏(へさき)を高くあげて沈没した。其の翌朝脇屋隊長は洗面をした瞬間今日は左先頭を進む我が輸送船デンマーク丸に敵潜の攻撃があるとの予感がした。早速警備司令の中尉に本日午前中、中隊全員にて警戒監視をするよう命じた。
 私は船長と共に双眼鏡を手にして船橋に在ったが果たせるかな午前九時五十分左前方一千米に我に向う航跡が一つ、二つ、三つ、四つ、最先頭の魚雷は我が第一、二番船艙(せんそう)付近に当たるように見える。私は船首と船尾の対潜砲に「砲の百五十米前方を射て」と思はず連続怒鳴った。

 船長は取り舵を間違えて面舵を命じたので絶体絶命、四発共左舷の横腹に命中かに見えた。甲板上の将兵は無意識に反対側の右舷に走り寄り手摺りにつかまり、命中した際上空に吹き飛ばされないようにしている。沈没を覚悟していた我が船の直前に突如、奇跡が起こった。先頭の魚雷が船側三十、四十米前で大音響と共に爆発し水煙をあげ、第二の魚雷は誘発したものの如く五、六十米前で続いて爆発した。第三、第四の魚雷はこの二魚雷の爆発の反動で空中にはじき出されて方向を換えて百米も空中滑走して避けられたものであった。

 対潜砲の何れが命中したかは問わず多数の生命と船舶を救った事実に対し船砲隊に全く感謝の外はない。もしあの時魚雷が命中して居たら私の今日はない。

 パラオ入港後他船に在った海軍監督将校が「そんな陸軍対潜砲が命中するなんて馬鹿なことはない」 と言われた由。しかし事実は小説より奇なり、であった。

  俳句誌『しろがね』第二十七号より  
    山口県湯野俳句会合同句集平成十八年九月発行

※ わが家の伯父はガダルカナルで昭和十八年一月十二日になくなっています。その日付の根拠を知りません。遺骨とか遺物とか何も帰ってこなかった。できれば、この俳人にお会いして、どうだったのかをお聞きしたい思いがあります。一度も伯父には会ったことはありませんが、お世話になったのです。それはどういう意味かといえば、十一年前に亡くなりました祖母(100まで生きた)が、生前、戦死した伯父の遺族年金から私によくお小遣いをくれたのです。それは命をいただいたことでもありました。当時はそういうことは深く考えませんでした。でも、あれは重い重いお金だったのですよね。

「やわらか戦車」の漫画家が書いてたように、兵隊さんの体ほどやわらかなものはない。「プライベート・ベンジャミン」を私もずいぶん前に見ましたが、戦慄するしかなかった。あんなにおそろしい殺し合いをしなきゃいけないなんて、あの世の地獄以上ではないだろうか。日本は61年前の戦争にきれいに負けたおかげで、最終戦争を戦ったのだといって憲法9条を掲げて、のほほんとしていられますが、アメリカの兵隊さんは、まだ、一度も軍旗をおろしていないし、その兵隊さんに守ってもらっている。この事実には目を瞑って、なにも現実を見ないで、慰霊の式典では毎年毎年、同じかたちのぺこり劇が上演され、空洞化が進む。十数年前、初めて参列した慰霊祭はとても感動的なものに思え、涙すら出たものでした。しかし、毎年参加しているうちに、追悼のことばが何一つ変化しないことに疑問を抱くようになりました。

それは、なにも考えていないことと同じではないでしょうか。一応、かたちだけはカッコがつきますが、俳句に便利な季語があるおかげであまりものを考えなくていいようなものです。ことなかれ主義が教育でも外交でも慰霊でも、かくもはびこっているのは、なぜなのでしょう。

« 礼と菊 | トップページ | 寒昴 »

コメント

「父親たちの星条旗」は見ましたか?硫黄島での戦闘が、これでもかというくらいリアルに描かれていました。あんな状況にあってまともな人間でいろという方が土台無理な話で、それでも指揮官というのはそうせざるをえないわけだから、なんとも凄まじいなあと思ったよ。この映画の日本の版のもとになった(のかな?)「散るぞ悲しき」も、涙なくしては読めないいい本です。

斧田さん、ありがとう。
その映画は見ていません。本もまだだけど、いいらしいね。アストロリコの利華さんが夏にそれ言ってたっけ。利華さんは呉の海軍墓地に行ったそうです。身内に戦争で斃れた人がいると、こころが巡礼するものらしい。
斧田さんはなんでまた。戦争ものは意外と見るのに気力がいるのですよね。

滞在時間 58秒 閲覧ページ数 2ページ 参照元 デンマーク丸 輸送船


コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ある俳人の戦記:

« 礼と菊 | トップページ | 寒昴 »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31