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2006年11月 7日 (火)

伯父の戦記 下

(『ミャンマメクテーラ 東飛行場 激戦の思い出』より後半)。

 更に近寄って来る。肩にかけたビルマ袋と腰には「ナタ」をそれぞれ差している。ビルマ人そのもののスタイルである。かた言のビルマ語と日本語でジェスチャーしながら二人の少年と話す。三日間何も食べていないので困っている。向う岸のあのパパイヤをとってたべさせてくれと頼むと二人の少年は走って行き、まるで猿のようにパパイヤの木に上手にのぼり実を落とす。手持ちの「ナタ」で皮をむき大きな葉っぱに一ぱい持って来て食べろと言う。まだ色づく前で青かったが、実にうまかった。「アジチーツテンマレ」有難うと少年二人に手を合わせ拝んだ。生きた人間を拝んだのはこれが初めてである。少年二人は兄弟だと言った。日本では小学三年生と六年生位だったろうか。二人は「今から家に帰り母に言って飯を持って来る」と立ち去った。夕方近く二人の兄弟とその母はやって来た。炊き立ての飯であろう、青いバナナの葉がぬくもりで黄色くやけている。おかずに塩焼き肉と魚を沢山つけている。大変なご馳走である。
 親子三人に手を合わせ拝む。「アジチーツテンマレ」と。翌日も又翌日も同じことを繰り返し何と十一日間も運んでくれた。その間、夜になるのを待って毎晩、川のほとりまで這って行き、ゲートルの紐に水筒をくくりつけ川に沈めて水を汲み上げ、出血で真赤に染まったガーゼ等を洗いかわかしては傷口の治療は怠らなかった。十二日目の朝を迎えた。今日は多人数の声がする。身体を起こし待っていると、いつもの少年の声である。「ジャパン」と言って来る。母親の他に二人の娘がいて五人連れである。その内の一人が上手な日本語で話す。
 
 この村の村長からの達しで明日この部落へ英軍が来る。以後はここへ来ることが出来ないから今夜中にここを去る様にと言う。彼女はラングーン日本軍兵站病院で看護婦をしていたと言う。その時、日本の兵隊さんに大変優しくしてもらい恩を受けた。これはそこでもらった日本軍の日用品袋だといって色々な物が入ったのをくれた。親子三人もビルマ袋に飯やバナナ等入れた袋を渡し無事に行く様にという。彼等五人に手を合わせ、涙を流しながら拝んだ。ただただ嬉しかった。「アジチーツテンマレ」有難うと・・・・。

 日が暮れるのを待って十二日間のジャングル生活に別れを告げた。四つんばいで一晩中這い続け、ジャングルから今度は背丈以上もある草原のせまい道の中を行く内に疲労は重なり、もう一歩も先へ進めない。道から僅か五、六メートル横に入り込み、しばらく休んでいると、今来た道をビルマ人の話し声が近づいて来る。身を乗り出して呼び止めようと、のど元まで出かかった声を殺し、待つと、ビルマ人二人が先導し、英兵の将校と兵が四、五人、最後に又ビルマ人一人と多人数であった。----

 あの時、声を出してビルマ人を呼び止めていたらと、後で身の毛がよだった。

 そして、日が暮れるのを待って、再び這い出した。膝と手の平には血がにじむ。痛いのをこらえて休み休み何百メートルか行く先で、犬の遠吠えが聞こえる。その気配もだんだん近くなる。ふと見上げれば満月が煌煌と冴え、大きな「パゴタ」が見えてきた。やっと部落に着いてほっとしたのも束の間、寺院の庭先から英語らしい声で誰何された。同時に二、三発の銃声がし、その一発が足元をかすめ、砂煙があがったが、当たらなかった。びっくりして瞬間的に立ち上がり、何メートルか走り逃げた。追ってはこなかった。しばらくは痛みで動けず、静まるのを待ってジャングルへ入り、今来た道と平行してジャングル伝いに腹這いが続く。途中、川が流れており、見渡しても橋はない。何百メートルか行くと、一本の倒木があり、それを橋の替りとして、ようやく渡ることができた。一晩中こうして行く内に曲りくねった川もだんだんと広くなり、手前から向う岸へと牛車の車輪の後だけがはっきりと残っている。この疵で水に入ることは出来ない。痛みと疲労で疲れ果て、一本のカラ傘状の木の下で休んでいる内に寝込んでしまった。

 何かの物音に目が覚めた。周りに五六人の兵隊が着剣をして「イモ刺し」の格好で立っている。「誰だ」と言う。そして「日本兵ではないか」と言った。又「何部隊の兵隊か」とも矢継ぎ早である。菊五十五の兵隊と言い、一部始終を話し終えると皆、びっくりしている。冴え渡った月も朝方を迎え、山の上にかかっている。-----

 こうして、十三日目にして友軍に助けられ、野戦病院へと運ばれたのである。負傷して十三日目の日本軍の声は、ともかく懐かしかった。

 どれ一つとっても奇跡の連続であった。次から次へと後方に移送され、「タイ国、チェンマイ」の陸軍野戦病院でついに終戦を迎えたのである。いろんな噂で不安の連続であったが、昭和二十一年六月十六日、生れ故郷の佐世保へ戻ることができたのである。

 あらから五十年、たってみれば早い気もするが、振り返ると長い年月である。あの時の親子は今、どうしているのか。少年であった二人の兄弟も六十に近いいい壮年になっているだろう。

 再びミャンマーの空に向って叫びたい。「アジチーツテンマレ」と。しかし、命の恩人である彼等の居る村名も二人の名前も解らないのだ。解っているのはただ、収容された野戦病院では関西なまりの言葉がゆきかっていたような印象が残っているくらいである。

 記録によると、我が七中隊だけで昭和十八年十月三十一日より昭和二十年七月四日に至り戦死者百八十三名、戦病死者七十八名、併せて二百六十一名の英霊の大半が未だ故国に還れず、現地の草葉の陰で雨にうたれている。----

 五十年、さぞ無念であろう。ただただ安らかにお眠り下さい、と合掌するのみである。

 生きて帰った者に出来る事は、もう二度と戦争をおこさないことだ。その事を守り続けることが、帰れなかった戦友達への何よりの供養になるのではないかと、五十年にして、しみじみ感じる今日この頃である。

  ※ ミャンマーメッティーラ:
    
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki6/meiktila/meiktila.html
    http://www.geocities.jp/stbsg129/essay020.html
   

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コメント

こんばんは
「伯父の戦記上下」拝見しました。
一言では述べられません。
もう一度読んで後でコメントさせていただきます。

さくらさん。こんばんは。
今日、ブログの調子がおかしいのです。重くて、書いても消えます。変ですね。
戦記、読んでくださって感謝いたします。
きっと遺言のつもりで伯父は書いていたのだと思います。もっと早くに読んでいれば、伯父に、これはどういう意味かとか、疑問を聞けたのでしょうが、残念ながら、もうこの世にはいないのです。
打ち込みながら、非常に感動したのは、どんなときでも、冷静に記憶している軍人のすごさです。向うから戦車がくる、銃撃が始まる。土煙のなかで、周囲の状況をきっちり把握して、上官の命令に従う。乱れません。それはすごいことです。
書かれていたのは、原稿用紙に手書きでしたが、きれいな文字で、一字も書き間違いがなかった。それもまた、こころを打ちました。
身びいきというか身内ぼめみたいですが、優しかった伯父に、これほど激しい戦争体験があったのだと知り、なんともいえない想いです。

今日でしたね。高橋甲四郎先生の表彰式は。お会いになったお話でも、また教えてください。


こんばんは
こういう体験記を読んで思う事。
「戦争の犠牲者は罪のない女性と子供である」と言う言葉が、決まりきった文句として、安易に使われます。
「戦争の犠牲者は、罪のない男性と女性と子供である」です。
最前線に立ち、これほどまでに傷つきながらも尚戦わなければならない男性達、そして戦後そういう人達を悪者にした社会、これほどまでの事を一言も語らず、またしても妻や子供のために身を粉にして生計をたて、復興に邁進した叔父様たちの世代に対して何も言えません。
ただただ頭の下がるのみ、何にも言えません。
文字の乱れのない誤字脱字のない冷静な記憶力のすごさ、姫野さんと全く同じ感想です。
他の分野を後回しにしても、ここに書かれた姫野さんに感謝申し上げます。

さくらさん。
ありがとうございました。
わたしは伯父の手書きの文章を見ていて、五木寛之が母校福島高校の九十五周年記念誌に寄せた四枚の原稿を思い出しました。一字の書き損じもありませんでした。
五木さんのことは風に吹かれてというエッセイしか読んでいないのですが、むごい引き揚げ体験がある人です。いつかこれも引用できたらと思います。有名な人ですし、興味がある人も多いかもしれません。

K先生とお会いした時、五木さんのお話も出ました。
五木さんは「青春の門」が印象的なので、北九州出身だとばかり思っていました。
ほんとに八女黒木あたり出身の著名人が多いのに驚きます。
芸術的風土があるのでしょうか。

くにこちゃん。
いしきがもどらないとききました。
これまでずっとがんばってきたあなた。
もう何十年もあっていませんが、さいごにあったひのあなたをおぼえています。ごしゅじんといっしょにならんで、とてもげんきだった。
こうげんびょうでいしきがなくなるとは。
おばはどんなにこころぼそいことでしょう。
こちらのしんせきもあなたをはげましにいこうとしておりましたが、ちょうどのときにうちのちちがにゅういんして、うごけなくなりました。
ここに、なんども、あなたへのてがみをかきかけてはやぶり、かきかけてはけし。
どうか、このよにいきてもどってきてください。
あなたのくるしさはけんこうなわたしには、すこしもわかりませんが、いしきさえあってくれるなら、いきていてくれるなら。とおないどしのわたしはそればかりおもってしまいます。
きょうはおもいきってかかせてもらいましたよ。

今朝、なくなったとのこと。

享年55歳。
よく今までがんばったね、くにこちゃん。
どんなにか辛かったろう。
ひとつも愚痴をこぼすことなく、いつも元気な声で電話にでてくれていた。肢がなくなっても、指がなくなっても。さすが伯父さんの娘と思っていましたよ。
あなたをささえていたものは、強い強い信仰。
ずっと立派でした。
どうか今は安らかにおねむりください。
つつしんで哀悼の意を表します。
  合掌

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