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2006年11月30日 (木)

黛まどか

西日本新聞で黛まどかをゲストにしたトークショー、ペリカン・カフェ紙上ライブを読んだ。ゲストが好きな音楽を指定、それを背景に聞き手の梁木靖弘との会話を、会場にいる人たちが聞いて楽しむというものである。

読みながら、この人は花があるなあと感心した。きれいな女優さんみたいな感じの俳人で、それが俳人としての才能の邪魔をしているきらいがあるように思える。いつだったか、連句誌れぎおんで、黛まどか特集を前田圭衛子編集長が組まれたことがあった。私も書いた一人だが、そのときに集まった文章を読むと、どれもが批判的なものだった、と言ってよい。あとでものすごく反省したのだが、それはどういう意味かといえば、人は、ただ美しいというだけであなどる。嫉妬がはたらくからだ。しかし、それはこの人の罪ではない。

  帰りにはなくなつてゐる豆筵  黛まどか

  句集『花ごろも』所収

この句を読んだとき、おやっと思ったことをはっきり覚えている。類型句があるかを私は知らない(というのも、特集記事で、自分の俳句にそっくりの句が沢山ある。なぜ美人で若ければよく、年増だと不可となるのは腑に落ちない・・と書かれた評者もあったから)が、とても動きがあって、観察眼が働いていて、いい句だなあと感じた。

豆を干した筵が、自分が通りかかったときには広げられて日を吸っていたのに、帰路同じところを通ると、もう片付けられていた。ただそれだけの句なんだが、その道がどういう道か、作者の目にとまった農家の庭のたたずまいが、あざやかにイメージされる。簡潔に一つの風景を表現できうる俳人は、そうそういないのである。私は、黛まどかをすごいと思う。・・これ、ただ一句で。

ちなみに、まどかさんが選んだ曲は、サザンの「Oh!クラウディア」、バティ・キム「イビョル(離別)」、安田祥子「浜辺の歌」、映画「昼下がりの情事」より「魅惑のワルツ」、ジョン・レノン「イマジン」。ほかに大瀧詠一やユーミンの名も挙がっていました。

市史と詩志

昨夕、松延貫嵐の直系のひまごにあたるというお方から、コメントを頂きました。それには、もし貫嵐の系図がわかれば・・と書かれておりました。私は、このような名家の方がなぜそういう大事なことをご存じないのだろう・・とふしぎに思いました。と同時に、いや、待てよ、と、考えてみました。

五、六年前、柳川古文書館に古文書の無料解読講座を聴講に通っていたとき、近代だけでも何度かの行政区域の変更があっており、史料の行方があちこちに分散してしまっているという事を知りました。当時柳川市は柳川市史を編纂中だったので、史料を回収するのに苦労しているという内部事情を学芸員に伺ったことがあった。たとえば、筑後関連でいえば、三潴県という県がまぼろしのように存在した時期がある。みづまという地名は、折口信夫の「水の女」(昭和二年、『民族』所収)の中にきちんと調べ上げられて登場するような古い言霊をもつ、由緒ある地名です。

そういうことをおもえば、直系の家に系図が伝わっていないということも、あるのかもしれないし、八女福島の燈篭人形(重要無形文化財)を創設した松延家の家系図が、市役所の蔵に眠っているかもしれないとも思います。そうあってほしいものです。

でも、自分の経験で書きますと、市役所は行政をするところであり、文化財の管理や収集にはよほど強力な力が働かぬかぎり機能しないです。文化財担当だった杉山洋先生がいつも烈火のごとく怒りくるっておられたのは、市は文化財の管理をやる気がない、ということです。しかし、それは現在の市の立場から言うと、お金がなく、人も足らず、したくても手が回らないのです。学芸員さんが二人おられますが、それぞれ熱心にご自分の仕事をなさっておられますもの。市長さんも一度は胃がんを克服なさった身で、とても熱心に動いておられます。平成13年のぼんぼり連句大会のときには八女市と商店街のみなさまにとてもお世話になりました。石橋秀野の法事のとき(八女デザイン会議・主催)に、野田国義市長さんが「人は二度死ぬといいますが、一度は生の終り、今ひとたびの死は、人々の記憶から忘れられるときです。しかし石橋秀野は、その二度目の死から蘇らねばならないすぐれた俳人でした。縁あって、その人の墓がここ八女の地にあり、理由があって死後50年間も埋もれたままになっておられましたが、こころある人々によって揺り起こされ、蘇る機縁となりますことは大いなるよろこびです。」と、立派なご挨拶をなさったことは、忘れることができません。

これまで、なんどか個人的に調べていることで、史料がないかと市史をあたってみたけど、入り口があるだけで知りたいことは書かれてないと、腹がたったことがありました。たとえば魚のギギについて。方言でやかましもんのことをギギュタンといいますが、そのことばの元になった「鳴く魚」がぎぎです。聞けば、郡部出身の人が川にいたと記憶しておられました。郷土の川にどのような魚が生息しているのか、せめて市史には書いておいてほしいとおもいました。でも、一定の期間で、あれだけの広い範囲で資料を集めて筆を起こす、歴史書であり博物誌でもあるものを編むのは、並大抵のことではなかったのでしょう。そういう目でみれば、入り口があるだけで詳細がない、と怒るのは間違っていました。それは自分で調べよ、ということなのでしょう。

いま、福島の杉山洋先生から返信の電話がありました。(八女の者が福島というときは、町の意味です。)お聞きしていた、松延貫嵐の件ですが、やはり先生が詳しい系図を持っておられるそうです。その生涯について、杉山先生がもっとも肝腎であると言われたのは、なぜ貫嵐は(この名は実は俳号である。劇作家としての貫嵐はいくつかの別の筆名がある)、かわらこじき、かぶきものの世界へ飛び込まねばならなかったのか、という動機であろうとのことです。

というわけで、長くなりましたが、松延公平様、どうか杉山洋先生にお手紙で、またはご近所にいらっしゃるのであれば、訪ねていかれたらと思います。さいごに、杉山先生はこうもいわれました、「松延貫嵐の一族だと思う、五木寛之もまた」、と。

http://park6.wakwak.com/~shiraki/family.html コメントを頂きました松延一族のかたが書かれていた、血縁にあたるという八女郡立花町の大内家の史料館です。五木寛之関連資料もあるようですね。(まだ行ったことないのです。行かねば・・)

※ 先日、ご紹介しました、朝鮮半島全土の農業(大日本帝国下の)を、足で27年間も踏査されて詳細な研究書を残された、遺伝子研究学者・高橋昇博士のご子息で、かつて高校教員であられた高橋甲四郎先生は、福島高校勤務時は新聞部顧問だったそうです。そして、福島高校の新聞部は五木寛之こと松延寛之少年が創設した部だったという。それに松延少年は処女小説を連載していたそうです。(先生がご自分で古い学校新聞を調べていて、ぐうぜん発見されたものらしい。)それを聞いて、私も半年ほど新聞部にいたことを思い出し、だから甲四郎先生のことを覚えていたんだと合点がいきました。笑

2006年11月28日 (火)

新刊本ご紹介

新刊本ご紹介

斧田千晴著 『父の居た場所』 中日出版社 
平成18年12月1日刊行 1143円+税

新刊本ご紹介

菊池昌治著 『現代にいきづく京の伝統野菜』
     副題 古都の食文化を担って
平成18年10月20日 誠文堂新光社刊行
     1800円+税

斧田さん、やはり接写はすこしぼけてしまいました。
菊池先生、伊藤若冲の表紙絵、ネガ反転しました。

(なにとぞおゆるしください。)

2006年11月27日 (月)

三匹のネコ

三匹のネコ

オムレツ状に折りたたんだ筵の中は黒豆が入っている。雨が降るので、畳んでるのですが、なんとその上にちゃっかり不敵な面構えの猫三匹。飼うとはだれも言ってないのに、いつのまにか小屋の中に居ついてしまった。この目つき。挑戦的。

三匹のネコ

これはしだれ梅の古木ですが、この細い枝先にすがってちっちゃな子猫が屋根の上に這い上がるのを見ました。二匹もです。ひょっとしたら蛇が下から追ってきたのかもしれない。去年だったかな。ということは、あの子猫が上の写真みたいに大きくなったのかもしれないです。ひえーなんてはやいんだ!半年で中型のねこになるとは。んでさげすむような目で人間様を見るのです。

三匹のネコ

これは父が干し柿を吊るしおわったところ。ときに、この屋根の上で猫がじっと窓の外から室内を見ていることがありまして、その表情がなにやら心配げで、飼われているのはどっちかなと思うときがある。笑

2006年11月26日 (日)

松延貫嵐の生涯「八女伝説」

クリスマスに博多座で『八女伝説 松延貫嵐の生涯』が上演されます。
脚本:米倉テルミ   演出:米倉斉加年
監修・出演:米倉斉加年と八女市民

平成18年12月25日月曜日
午後0時30分開場、1時30分開演
全席指定観劇料税込 
                 A席   5000円
                 B席   4000円
                 C席 3000円

観覧ご希望のかたは、0570-02-9999チケットぴあまで。

簡単にあらすじをご紹介いたします。

松延かんらんは八女福島の大庄屋・松延家の跡取りとして生れました。しかし、十六歳のときにお伊勢参りかたがた浪速で見た人形浄瑠璃が忘れられず、二十代のある日、庄屋職も妻子も全てを捨てて浪速に出奔します。浪速では当時、竹本座などの人形浄瑠璃が盛んでした。そこで彼は浄瑠璃書きとして成功します。そして四十代のある日、ゆるされて故郷に帰り、一俳人として多くの弟子を育てるとともに、八女福島の町に人形浄瑠璃の灯をともし、それはいまも「八女福島燈篭人形」として、秋のまつりのときに上演されています。

ここから私のひとりごとです。
十年前くらいに、れぎおんに俗の細道という題で文章を書いていました。少年少女世界の名作という文学全集が小学館から出ていて、夫は子供時代に病弱で親に買ってもらって揃えていたのが、戸畑の夫の実家にありました。で、私の子もまた夫ににて全員病弱で、こども時代は割と入院したり病欠したりが多く、その本のお世話になったのです。そのうち、日本のものはたった二巻しかなかったと思います。その中になんと、ふしぎなことに、これがあったのです。「柳の精」副題、三十三間堂棟木の由来。作は、若竹笛躬となっていました。わかたけてっきゅうとるびがついてます。そして、祇園女御という物語から引いたと書かれていました。

えっとおもいました。当時岩戸山古墳を調べていて、八女市の文化財保護委員長だった杉山洋氏の本でたまたま松延貫嵐を知りました。それには祇園女御も彼の作だと書かれていたからです。ちょうど、石橋秀野ノートを書いていて、それにもついでに書いたんでしたが、18世紀といえば、中国では聊斎志異という本が出て、菊の精の話が出た頃でした。かたや菊の精、こちら柳の精。なんだか気脈が通じていて面白いではありませんか。

当時のほんは共同制作が多かったみたいだし、若竹てっきゅうという人の名も、個人ではなく製作集団の名だったんでしょうか。私は詳しく調べるすべもなく、杉山先生にも聞きましたがはっきりとは応えてもらえなかった記憶があります。

そういうふしぎな縁といいますか、ありまして、わたしは見にいこうかと考えているところです。(それに、父方の従兄が三味線弾きとして出演するので、どちみち親を連れていかねばならぬでしょう。)正直な話、こどものときからあの人形浄瑠璃は苦手で、最後まで見切ったことがありません。だっておもしろくないし、たいくつだからです。それでも、ちゃっぽんぽん祭りに必ず行ってたのは、夜店が沢山出て、それを目当てに行ってました。いま、次男がまさにそうです。

文化財っていうのは、たいへんなものではありますね。みなさん、どうか清き一票を。
もとい、クリスマスにはおそろいで博多座へどうぞ。(あそこの喫茶室のベーグルサンドはいけます。)

※ ところで、素朴な疑問。なして米倉さんがこれに関係されているとでしょうね?八女の人とは違うのに。松延っていうから、私はひょっとして五木寛之の祖先じゃないかと思ったのでしたが。

雨の日曜

ひさびさの雨の日曜日です。
昨日午後から、次男の学校のともだちが来てとまっています。おそくまで楽しそうな話し声が聞こえていました。まだ寝ています。試験があるから一緒に勉強するという話でした。晩御飯は、カツカレーとリンゴヨーグルトにしました。(いぜん、焼肉をしたら、肉しか食べなかった。彼もうちのも。)

きのうブログ記事を二本書き、見直す間もなくアップしたのですが、山本伽具耶さんに気の毒なことをしてしまった・・で終わってました。きちんとお詫びしておかねばと思います。

菊歌仙の名残のオモテで、伽具耶さんの句をいただきました。それが違っていました。口頭で聞いた句を筆記するときに、記憶のなかでことばが微妙にかわっていたようです。そのことに「しろがね」誌を読んでいてはたと気づきました。それをお詫びいたします。

原) 亀鳴くや重たく張りし右乳房
(誤・・亀鳴くや張りて重たき右の乳)

ハリテオモタキのほうが調子がいいから自然と記憶が組みかわったんだと思います。さばきとしては、原句にもどそうかとも思いましたが、濁音がないほうがすっきりするように感じ、連句はあのままにします。
一方、きのうご紹介のマザー・テレサの句は、あざみの音とマザーの音が韻を踏むように重なっていて、それが自然なひびきあいとなっていました。山本健吉がいうように、名句は自然に暗唱させられるというのは、ほんとうです。

山本伽具耶夫妻の結婚記念日とワレラ夫婦のそれがまったく同じでした。同年同月同日の赤口の日。(この赤口、俳諧的。なんか詠めそう。午前中だけ縁起がいいという日)ことし25年でありまする。わたしなどは結婚記念日そのものを完全に忘却しておったのですが、最近なにかの拍子に戸籍をみたら、ちゃんと記載があった。笑

新聞連載小説を読んだためしがないのに、いま連載中の『戦力外通告』っていう藤田よしなが(宜永でした、宜はよきという意味)という人のはきちんと読んでいます。身につまされる。いずこもおなじ秋の暮っていうかなあ。わかる年になってきました。

追伸:

なぜかふたたび、間違えてました。あきれます。原句、本当は、

亀鳴くや重く張りたる右乳房      山本伽具耶

です。暗くくぐもった重たい韻律で、句の世界とオンがぴたっと合致する。これのほうがいいですね。なにがいいたいかといえば、母音のおとのひびきでした。俳句は短いので、母音がよくひびきます。・・なんども失礼しました。ばたばたしていると、ろくなことはない。

ところで、何度も正確な記憶ができなかったおわびに、句の背景を考えてみました。
作者は四十代の後半です。こどもたちも育っている。なのに育児の記憶が「今」のものとして歌われるのはなぜでしょうか。

連句では前句との関連があります。でも俳句は独立して読む。そのとき読者は作者に対して知識があれば、読みを深めることができます。これは、そういう句の動機を考えることで句の奥行きを知ることができるという見本のような作品です。現代女性の苦悩の一端を考えることでもあります。

先日の河野輝暉氏の御句集でも、世間的な読みをすれば、彼は校長先生にまでなられたかたですし、たくさんの立派な受賞作品があるベテラン俳人です。しかしながら、句集を(とてもたくさんの収録数、600句以上!)なんども読んでいるうちに、そういう虚像ではなく、真の河野輝暉像がだんだん屹立してくるのでした。句として見栄えのいい形のいい完成された句は、ちっとも魅力的じゃないです。あらじょうずねえでおわりです。でも、句に謎があるようなのは、いつまでも心に残って、なぜだと考えさせる。そういう作品が私にとっての優れた句なんだなと、おもいます。無意識のうちに書かれたような一句。それです。

2006年11月25日 (土)

マザーテレサの指

先日ご紹介した山口の俳句誌「しろがね27号」にあった、俳友山本伽具耶の印象的な句を、一句だけご紹介したい。

 山薊マザーテレサの指太し  山本伽具耶

山薊のけなげでたくましい野生と慈悲深い聖女の献身がひびきあう。
伽具耶さんの話では、かつてのロミオとジュリエット女優のオリビアハッセーが、映画で最近マザーテレサを演じたが、徹子の部屋に出ているのを見ていたら、徹子さんが女優の指が太いですねえと驚き、子供を育て色んな仕事をしてきたいい手をしていると言って褒めてらした。・・と。それと、以前、伽具耶さんと連句を巻いたときに、恋の句で、伽具耶さんが指細きなんたらかんたらと予定調和の句を出したのを、逆に指太きとしたらどうよって助言したことがあった。それを思い出し、重なって、一句できたという。それを聞いて、うれしくなった。役に立たない自分でも少しはなにかの役に立ったかと。http://www.jca.apc.org/praca/takeda/foreword.html(マザーテレサのことばが出てきます。)
山薊:http://www.asukanet.gr.jp/warainekonoheya/zukan/5-kiku/ao-murasaki5-1.htm

伽具耶さんに関しては、お詫びしなければいけないことがあります。又後で書きます。

市町村合併

土曜。ひさびさにゆっくりしている。小さな雨が降り続いていたが、やんだようだ。あたたかい。夜は寒くなるかもしれない。

ブログを書くとき、よく言葉の検索をし参照としてつける。時間が出来たとき、その記事のサイトをゆっくりと読むのだが、今朝、数日前に書いた「くわカマすき」で雁爪という農具の参照としてつけた山形の人の記事を読んでいて、思わず、そうだったのかと感じ入ることばに出合った。佐高信(批評家)の「政経外科」の引用文中にあることばだ。ご紹介したい。

「私は安易な市町村合併に反対である。大きぐなれば何とかなるでは何ともならない。それは問題の先延ばしでしかないのであり、大きくなって何とかなったという例をほとんど聞いたことがない。

 私が断固としてそう思うのは、地方自治のリーダーとして私が尊敬する二人の自治体首長がいずれも合併反対論者だからである。

 一人は鳥取県知事の片山善博氏。もう一人が福島県矢祭町長の根本良一氏だ」

※文章一部引用をお許し下さい。http://sizenrankato.cocolog-nifty.com/koichi/2006/11/post_75ef.html#comments 詳しくはこちらをご覧下さい。

2006年11月24日 (金)

薫槐第八集

札幌の村岸明子さんから、俳諧寺芭蕉舎幌の会作品集「薫槐」第八集が送られてきた。表紙のアジサイと天道虫の絵に淡い水彩が施されている、だから表紙がべこべこするという手作りの味わい深き大判本である。

ボス・クボタ亡き後も尻取り連句をやっておられるのか。・・と懐かしくぱらぱらと開き、スキップ読みをする。

それがいつしか引き込まれていた。おもしろいのだ。文芸臭などくそくらえって感じが、作品からもエッセイからもそこはかとなく立ちのぼる上品な仕上げになっている。

札幌の巨人、ボス・クボタこと窪田薫宗匠のことは、かたときも(というと嘘っぽいが)忘れたことはない。あれほど無心な連句狂には、これまで会った事がないからだ。

くわしくご紹介したい気持ちを抑え、文章から一つ、作品から一つ、残ったものを引用したい。

初心者の連句ノート(一)
                              馬場 雅美

ー連句とはなにかー
  「俳諧の連歌」のことである。近世、これを略称して『俳諧』と呼んでいたが、近代になって発句が独立して『俳句』となったので、「俳諧」を「連句」と称するようになったという。
  なるほど、なるほど。一寸、これに知識を補足しておこう。電子辞書で「連歌」を引いてみる。連歌とは和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)の唱和形式である。万葉から始まったこの合作形式が、院政時代から多人数の長く連ねる形式、長連歌として発達。第一句を発句、次を脇、第三句を第三、最終句を挙句といった。なるほど、こうした言葉は既に古くからあったのだ。万葉(十四)では頭句のことを既に発句(はつく)と称しているのである。句数によって、歌仙、四十四、五十韻、百韻、千句、万句などがある。
    では、俳諧之連歌の俳諧とは何か。これも電子辞書のお世話になる。「滑稽味を帯びた和歌の一体」とある。万葉の戯言歌の系統という。古今集には「俳諧歌」と称するものが巻十九に収められているとか。
   つまり、俳諧之連歌(すなわち俳諧)とは和歌の唱和形式で、滑稽味を帯びたものを指すのだ。近世になって、この滑稽をもっぱらとする連歌形式が連歌から独立したのである。それが俳諧之連歌すなわち俳諧となった、というわけである。この滑稽を専らとし、言語遊戯的俳諧を高尚な芸術に高めたのが芭蕉さんであった。 

(感想)一部を引きました。電子辞書ってすごいなあと感心したものですから。岩国連句大会の座でも、ねこみのの人は三人とも電子辞書を開いていなすったとです。持っていないとは、いなか人の私と、捌だけでした。それはどうでもいいことではありますが、ここに引いたのは、ちょうど私が数年前に「暦論」のなかでねこみの主宰であられた故・東明雅先生の著『芭蕉の恋句』を一部引用したときに、どういう意味かよくわからず、勝手に自分なりのヨミをして引いたことがあり、あとでその間違いに気づいて、次号で訂正をいれたことがあったからです。それは何かといいますと・・けっこう、重大な、むずかしい問題かもしれないので、これも私の「暦論その十二」から引用します。

 今回、恋句の伝統について調べているうち、東明雅著『芭蕉の恋句』(岩波書店刊)と出合った。主として蕉門俳諧に於ける芭蕉と門弟との恋句のさまざまを紹介されている。その中の一節。

・・・お前たちは知るまいが、昔は恋の句が出ると、相手の作者は恋をしかけられましたと挨拶したものであった。また五十韻・百韻の作品でも、その中に恋句がなければ、一巻とは言わず、半端ものとした。(「恋句の伝統」の章の芭蕉の言)。
 三百年前の俳諧師芭蕉が話している昔とは当時より五百年ほど前の連歌の伝統である。

この最後の文章の、五百年前という数字ですが、私が勝手に、でもけっこう深く考えて付け加えた数字です。ほんとうはどうなんだろうかと、こういう点はやはり学者の先生じゃないとわからないです。いま、読んで気づくのは、芭蕉の言っている昔とはそんな大昔ではなくて、芭蕉自身がじっさいに出た座で知っている程度の昔なのですよね。それなのに、私がそのときとっさに考えたのは、連歌の成立した時代でした。心のどこかに、平安時代の唱和する和歌のかたちを思い浮かべていたのでしょう。ことほどさように、論というのはむずかしいものですね。(東明雅先生は、私のお送りした暦論を見て、この五百年にはびっくりした、と書かれていました。ははは。いまはなつかしい思い出です)。

さて、どの作品を引用しましょう。上の芭蕉のことば、つぼを言い当てていると思いました。恋句がなければはんぱものだというのです。その目で見れば、意外と恋句にこれはというのが少ない。というか全くないように思える半歌仙もあった。なぜだろう。受け取り方かもしれませんが。長くなりましたので、一部引用にいたします。個人的に川崎展宏さんは好きな俳人ですから、彼に敬意を表して、これを。

     歌仙 尻取り「春塵も」の巻
            平成17年3月5日起首5月10日満尾

おもて三句

春塵も頂く光盧遮那佛       川崎 展宏
  つらつらみるにつらつら燕   村岸 明子
目貼り剥ぎ遠き山脈仰ぎみて   稲葉 由紀

※盧遮那佛(るしゃなぶつ) とは・・http://www.nnh.to/diary/2003/06/08.html
  そういえば、中国の大統領は、Mr Hu と表記されますものね。関係ないか。
 与謝野晶子が詠んだ盧遮那佛 ・・http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/taiju_annex/1901_yosano_1.htm

2006年11月23日 (木)

収穫と保存

収穫と保存

収穫と保存

収穫と保存

大豆は引っこ抜いて、しばらくさかさまにしたまんまにします。このところ雨がふりますので、晴れ待ちです。黒豆はもう収穫済みです。軽トラの荷台にあるのは大根の切干。

くわカマすき

くわカマすき

くわカマすき

くわカマすき

数年前、いとこの長女が雁爪(がんづめ)という古い農具をもらいにきた。彼女はキリスト教の一派のアーミッシュみたいな宗派に属していて、生活は地に根ざす自給自足で山のなかに自分で耕したたんぼがあった。農薬は使わないといって、そのがんづめで畝のあいだをおこし、草を除くという。親にどれが雁爪か尋ねて、二つのそれを車に積みながら、たいへんな苦労だろうと思った。・・がんづめの写真を撮っておけばよかった。http://homepage3.nifty.com/sizenrankato/minpou/minpou2005/minpou2005.8.7/newpage5.html

腹がたたなかった。

先日の岩国連句大会での作品、さばきの先生が一直したのを送ってくださる。

作者名が変えられていた。それはひそかに予想していた。だからこそ、当日ブログにメモしておいた。出句数のばらつきを均すのに、そういうことをする捌がいると聞いたことがあったので。それだけならどうってことはない。

問題は、手をいれた作品が見るも無残なかたちになっていたことだ。どこにも勢いや偶然のおもしろさはなくなっていた。確かに「大安売りの大型店舗」と「銭壺山の小判草鳴る」は、打越で真正面からぶつかりあっていた。気がつかなかったわけじゃないが、たまにそういうこともあるのだ。式目より勢いが優先し流れがもどって渦をまくことだってある。あのとき、みんなへえーってその偶然に驚いたのに、それが台無しにされるのがくやしいだけだ。

うーん。山本要子さんは、どう思われただろうか。きっと私と同じように感じられたんじゃないだろうか。もりさんだって人の句に自分の名が冠されて喜ぶような人ではないと思う。

文台引きおろせばすなはち反故だと芭蕉がいったことばを、ここで噛みしめてはみるが、腹をたてずにおとなのかおをすることのむづかしさよ。

2006年11月22日 (水)

高橋甲四郎先生との出会い

「この夏もひたすら生きて海軍橋」という佐世保の橋の検索で知り合った東京のさくらさん。その縁の重なりの中に、ぐうぜん高校時代の数学教師である高橋甲四郎先生がいらっしゃいました。さくらさんは鳥栖の高校時代に縁があられたそうです。甲四郎先生はすぐ近くに住んでおられることに気づき、雨の降る日でしたが、尋ねました。道がわからなくなり電話しますと、先生は雨の中をわざわざ車で迎えに来てくださいました。81歳になられるとのことでしたが、うちの父よりずっと若く見えました。

先生から、『父の遺稿』(高橋甲四郎・著)と『稲作の歴史的発展過程』(高橋昇・著)、それに、貴重な或る史料をいただいて帰りました。今日、やっと時間がとれて、『父の遺稿』を一冊読み上げました。感動します。いろんな意味で今、先生に出会えてよかった。

読んでいるうち出てくる登場人物に関する資料を持ってたことに気がつき、それを出してきては確かめたりしました。たとえば、落合直文という歌人が背景にちょっと出てきましたが、「ん。おちあいなおふみ。どっかでみた。そうだ、乙骨菊枝先生の近代短歌百年の歩みに出てた。正岡子規と並ぶ巨頭の一人だ。」と気づき、菊枝先生が送ってくださってた本を開いて確かめ、また、落合直文の弟子であった前田夕暮の名を見たときも、「あっ、この歌人の歌集持ってた!たしか、木下利玄などとのアンソロジーがあったっけ」という具合でした。もちろん、甲四郎先生の本に出てきたのは、そういう和歌の話題で出てきたのではありません。わたしは、そこがおもしろいのです。

甲四郎先生の父上である高橋昇博士は、戦前から朝鮮半島に渡り、かの地の農業事情や民俗を30年近くかけて足でくまなく調べ上げ、膨大な史料を残された、朝鮮にとっての柳田國男のような偉大な研究者でした。敗戦による引き揚げのときにも、朝鮮政府から頼まれて一年近く当地の農業指導者にさまざまな指導をしてから、引き揚げてこられたといいます。しかし、帰国後まもなく病に斃れられ、残された13000枚にも及ぶ膨大な研究結果は宙に浮きました。それを、何十年にもわたって根性と執念でこのせちがらい金万能の出版界に送り出された甲四郎先生の、亡きお父上への類まれなる尊敬の念と愛情は、ほんとうに胸を打ちます。登場人物のどの人も、その研究の偉大な価値に気がついて、協力なさいますが、やはり、ただ一人の子であった甲四郎先生の執念がなければ、あの大著は世に出ていないでしょう。すこしづつ、ご紹介していきたいと思っています。

 高橋 昇・著 『朝鮮半島の農法と農民』
     1998年2月発刊、未來社。

落合直文の「孝女白菊の歌」http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/koujoshiragiku.html

孝女白菊の歌の歌詞を読みますと、なぜか上田秋成の「菊花の契り」が下敷きにあるようにおもわれました。父は千尋の谷底で冷たくなっているのに、思いに応えて霊のかたちで兄妹の前にあらわれる。それは菊花のちぎりをした武士が死んでしまったにもかかわらず、血の約束に応えて、幽霊になって弟分のところに帰るおはなしとつながっています。
前田透(歌人・前田夕暮の子)著「落合直文ー近代短歌の黎明」

高橋甲四郎先生の随筆「バルビゾンの道」:http://www.wing8.com/dcity-yame/kurashinojiyoho/199911/con02.html
   〃「S君の答辞」http://www.wing8.com/dcity-yame/kurashinojiyoho/199906/con01.html

嫁くばり

 花葱の中晴れわたる嫁くばり   河野 輝暉
           第六句集『曼珠沙華』より

河野輝暉。もと英語教師にして神社の宮司さん。国東に住んでおられ、句歴は句をごらんになればわかるが、とても長い。その代表句がこれである。(わたくしの選句による)。

花葱を知らなかったので、まずそのことばに打たれる。新鮮だった。葱坊主を花葱というそうだ。15年も俳句をやってきたが、こんなきれいな別名を知ると、おおっという声がもれ、ムンクの叫びほどの形相にかわる。つぎに、おやっと首をかしげる。
嫁くばりとはなんだろうか。嫁を配るのか。見合いでも計るのか。仲人は今時はやらねど、そういったことを詠んだのか。・・と、がぜん興味がわく。

いま検索をかけると、ちょうど国東の方が書いておられるブログにこのことばが出てきた。タイミングがよかったみたい。二ヶ月前にかけたときには一つしかヒットしなかったから。たぶん、結婚後に嫁が万十かなんかを持って村中を挨拶まわりすることのようだと想っていたが、やはり御披露目だった。似たことをここ筑後でもする。葬儀の面でも、似たしくみのようで、なんだかほっとする。失礼とは存じますが引用お許し下さい。http://blog.yahoo.co.jp/tokuchiyuu/35855748.html#35910368
花葱:http://members.stvnet.home.ne.jp/kubookada-k/negi.html

きのう、「菊歌仙」後半を巻いているときに亡くなった従弟の母と妻(離婚していたので正確には元妻)が、そろって忌明けの挨拶にみえた。
生死のことはふしぎな暗合にみちている。この従弟が自裁した日は、私の弟の29回目の命日だった。アルコール依存症からくる鬱の治りかけで発作的な死だった。別れた妻とまたやり直すことになっていたという。従弟は博多で有名なあわび料理専門店の板前をやっていた。腕がよくテレビにも何度か出たことがある。伯母は相変わらず気丈に、優しかった息子の思い出をたくさん話して帰ったが、その間、運転手として付き添ってきたお嫁さんも、ときどきうつむいて涙をふいていた。

かつてははげしくたいりつしたよめとしゅうとめを、こんなにおだやかでやさしいこころでむきあえる関係にかえたのは、たがいに愛するひとりのひとの死だったなんて、むごい。私にはもうひとりアル中から生還した従兄がいるが、彼の場合は妻が苦労の末亡くなり、そのあと、ほんとうにきっぱり断酒して、立ち直った。

いのちのおもさをおもう。愛情と悲しみは同じものだとも。

河野輝暉句集『曼珠沙華』平成18年刊行より十句

見なれたる海なつかしや独活を掘る

生まれたる水より光り羽蜻蛉

右の手に少年果てし沈丁花

あめんぼう水よりおもくなりたがる

母殴りたい頃も食べ柏餅

海に来て養子のごとく高菜揉む

ねこじゃらし自分の夕日持っている

花葱の中晴れわたる嫁くばり

柏餅くれれば母よ母三人

秋立ちぬ梯子に妻のふくらはぎ

2006年11月21日 (火)

スミサクさんの原風景ー地蔵盆

堺市の川柳家・墨作二郎氏から毎号頂いている『点鐘』が、二号分たまった。西日本新聞文芸欄のファンであるが、その引用も最近やっていない。もっとも、紹介しようという魅力を覚える作品には滅多に出合わないからでもある。その川柳選者の先生が新年度から代わる。岸本吟一氏はご病気らしい。今回の「点鐘」119号の編集後記を読むと、スミサクさんも満80歳になられ、足が弱って整形外科医にかかっておられる由。驚くべし、「点鐘」は次の120号で20年を迎えるという。ということはスミサクさんは還暦のときに点鐘を創められたということになる。

前から書こうと思っていたことを、今日は書いておきたい。あれは100号に、こんなスミサクさんの作品があった。

       地蔵盆
              墨 作二郎(堺市南旅籠町)

焼跡の夕焼けのお地蔵さん祀る

鼻欠け顔欠けお地蔵さんによだれかけ

居眠りの母が浮かんで お地蔵さんにお茶

お地蔵さんの西瓜に蝉が啼いている

子供提灯あかあか逢えない顔揺れて

リンゴ酢が効いているお地蔵さんの肩

   (「点鐘」100号、平成15年9月)

読んで、この世界を知っていると感じた。

思い出したのは、博多の川のそばの町。住んでいたのは、山笠のやまがめぐる町ではなかったけれど、夫の職場がそこにあり、付き合いで毎年山を舁いていた。その山を舁く(かく)という行為は命がけであり、当時夫は何かに憑かれたようにして山をかき、町内の人たちと近しく付き合っていた。こどもはまだ長女と長男しかおらず小さかった。山笠が終り、しばらくすると地蔵盆があった。時期はたしか八月中旬だったように思う。一二度、夫に連れられて子供と出かけた日の記憶が強く残っている。湾口も遠くない大きな川のそばで、質素な古い家並みが忘れられたように残っている一画に小さな祠があり、古いお地蔵さんが祀られていた。赤い涎掛けをして、地元の人たちから大事にされて。おまいりをすると、昔ながらの駄菓子をこども一人に一袋ずつくれた。そうして他には何もないのだった。露店が出ているわけでもない、ひっそりかんとした、しかしながらその一画では昔からずっと大事にされているのがわかる祭りなのだった。

わたしがこの記憶を大事にしまっているのは、それだけの理由ではない。そこにおまいりしたときに感じた空気は、小倉に下宿して住んでいた娘時代の記憶を蘇らせるからである。私は受験に失敗してお嬢さんが行くミッションスクールに通ったが、こころはどいなかの百姓の娘であったし、そういう目で世の中をみることしかできなかった。だから、最初に下宿した家賃が二万近くするお医者さんの家の間借り生活は、豊か過ぎて窮屈であり、そこで偶然いっしょになった同じ学校に通う豊後高田の子と二人で別に家を見つけて住み始めた。古い小さな家一軒が二つの所帯用に区切られていて、二つの部屋と炊事場、厠がついて月に八千円という破格な家賃だった。そこで私たちは交代で自炊をし、小倉の魚町でアルバイトをして働き、朝日新聞を毎朝よみ、月に一回は教会に行き、学校に通い、社会部で無医村研究という名のごっこあそびをした(いまにしておもえば)。

学校はシオンの丘と名づけられた丘の上にあり、そこまで歩いて通ったが、途中川のそばの古い家並の横をとおった。活気ある町に忘れられたようにしてひっそりと息を殺して建っているかのような家家。その一軒にてんぷらのおいしい総菜屋さんがあった。学校帰りによると、きさくなおばさんが魚の白身フライを包みながら、「ああたたちゃいいねえ。うらやましいわあ」と言っていたのを思い出す。なぜうらやましいのかが、わからなかった。いまもわからない。でも思い出すとき漂う空気は、スミサクさんの句の世界とも、博多の地蔵盆の世界とも、寺山修司が書いた子供時代の地獄の記憶とも、どこかでつながっているような気がするのである。

この地蔵盆というのが、どういう民俗によるのかを私はまだ調べていないし知らない。八女など筑後地方には残念ながらないのだ。
スミサクさんの一連の句の世界は、戦争の焼跡を連想させ、また、阪神淡路大震災をも連想させる。どこかに地獄の風景を内包するがゆえに、お地蔵さんの涎掛けの色は業火の色となり、句は苦界浄土のおもむきを呈する。

それにもう一つの世界を付け加えておきたい。先日、八女の戦没者慰霊祭で見た広島の被爆を扱った映画の『おこりじそう』である。画面はしじゅう雨がふるような古いものだったが、思わず知らず、涙がこぼれた。

 地蔵盆が済んで月夜を転がって   墨 作二郎
                     ( 点鐘119号、平成18年11月)

※ 地蔵盆:http://allabout.co.jp/family/ceremony/closeup/CU20040810A/index.htm

       :http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kb/kb03/kb03025.htm

       :http://www.wombat.zaq.ne.jp/butuniti/houwa22.html

 おこりじぞう:http://www.wombat.zaq.ne.jp/butuniti/houwa18.html

 福岡大空襲:http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/daikusyu/
 小倉大空襲:http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%88%86%e6%92%83

2006年11月20日 (月)

わが母校、福島高校のこと

  「わが母校、福島高校のこと」

           五木 寛之

 人はなぜ自分が学んだ学校のことを、母校と呼ぶのだろうか。たとえば、父校といっても一向にかまわないような気がするのだが、あまりそういう表現はしない。
 自分の生れ育った国のことを、母国というのもそうである。祖国、という言葉と、母国という言葉の間には、どこかしら微妙な語感のちがいがあるようだ。
 人がみずからの出身校を母校と呼び、その生まれ育った国を母国と称するとき、そこにはなにか温かく、そして優しい人間的感情がひそんでいるように思われる。故郷を遠くはなれて流転する人びとの心に浮かぶのは、常に母校の思い出であり、母校の姿であるにちがいない。
 私にとって、母校と呼ぶことができる学校は、ただ一つしかない。それは福島高校である。私はさまざまな事情から、小学校を三度、そして中学校を三度転校することを余儀なくされた。大学も二つの学校に籍を置いたが、ともに卒業することはできなかった。したがって入学から卒業までずっとお世話になったのは、福島高校だけである。素直な気持ちで、わが母校、と称するのはそのためである。
 私は一九四九年の春に福島高校の門をくぐり、一九五二年にそこを出た。当時の校舎は旧女学校の木造の建物で、校庭には藤棚があり、正門附近のたたずまいも趣きのあるものだった。先生がたも、それぞれ人間味豊かな個性的なかたがたばかりだった。
 十代の少年だった私は、そこで多くの友人、先輩と出会った。そのことを私は一生忘れることはないだろう。
  しかし私は、当時のことを思い返すとき、いつも心の一部に焼けた火箸をあてるような痛みを感ぜずにはいられない。それはあまりにも悔いの多いみずからの過去に、激しい自責の念を覚えるからである。三年間の高校生活のあいだに、私はしばしば先生がたの期待を裏切り、また友人や先輩たちの友情を傷つけるような行為をした。
  
 なにをどう説明したところで、言い訳にしかなるまい。今はただ、そのことを恥じ、頭をたれて自分を責めるしかないだろう。
  そんな不肖の卒業生を、同門の仲間として寛容に受け入れてくれるのは、やはり母校の優しさというものだ。私は言葉にならない負い目を抱きつつも、その暖かさに甘える気持ちを押さえることができない。
  
 私はこれまでに一度だけ、現在の福島高校を訪れたことがある。その日は休日で、校庭にも校舎にも、生徒たちの姿はなかった。私は静かな校庭の片隅に背中を丸めてたたずみながら、長いあいだ様々な思い出にふけって時をすごした。そこは私にとってはじめての場所であるにもかかわらず、やはり私の母校だった。目を閉じれば昔の藤棚も、校庭のテニスコートも、図書室の本の匂いも、まざまざと心によみがえってきて、不思議な安らぎをおぼえた。
  私の唯一の母校は、福島高校である。そのことを私は、なによりも大切に思っている。 

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2006年11月19日 (日)

寒昴

      寒昴

            村中 秋天子

震え字の戦友遺筆となる賀状

ガ島に飢ゑし吾や吾妻の七種粥

思はざり生きてふるさと寒昴

春炬燵兵の覚えし針づかい

鶴帰り定年近づく子の無口

百年は早い千年杉植ゑる

足があるまだ動く手も春田打つ

卒業の作文テーマは思ひ遣り

杣の弁当ひと粒残さず初鶯

子燕のはや首廻し羽繕い

軍人勅諭まだ暗記して四月馬鹿

父居し座母の座猫の座端居して

そっと出す身障手帳灸花(やいとばな)

泉あり米塩ありて明日がある

バラバラと帽子に落ちる毛虫焼く

毛虫焼きまず喉痒くみな痒く

ガ島戦子にも語らず終戦忌

生涯を顔に書いてる敬老会

座りゃんせおらとおまえの日向ぼこ

大正昭和平成と生き日向ぼこ

   湯野俳句会誌「しろがね」27号より

2006年11月17日 (金)

ある俳人の戦記

十一日に岩国の連句大会に参加し、その日は亜の会連句会の仲間でもあり、八女句会の一員でもあった山本伽具耶さん宅に沢都さんと二人で泊めてもらいました。その夜はまるで修学旅行のように、枕をみっつ並べて、四方山話をしながらいつの間にか寝入っていました。数年前の湯田温泉合宿を思い出しました。あのときもこんな風にして寝たんだっけなと。連句の仲間というのは有難いものです。遠く離れていても、すぐに昔と繋がれるのですから。

さて、じつは不思議な縁がまたありました。伽具耶さんが二年前に入った湯野という土地の俳句誌『しろがね』を読ませてもらっていて、出合いました。こういうことはありふれているのかもしれませんが、私はふしぎと感じます。戦記です。引用しなければいけないと思いました。巻頭にこれがあったのです。湯野俳句会・村中秋天子氏の文章です。俳句作品も、とても立派で、これものちほど引用いたしたいとおもいます。

  「もしあの時」 戦後六十一年に憶う
                  
                   村中 秋天子
 

 時これ昭和十八年二月一日、日米太平洋戦争の帰趨を決する飢餓の島ガダルカナルを転進(退却)した我が聯隊はラバウルを経て三月二十八日セブ島に向けて出港した。船団は六隻。

 一日目は平穏だった。

 第二日目午後三時頃複従陣の最後尾黒姫丸に敵魚雷二発が命中。船は轟音と共に水煙が昇り四、五分間艏(へさき)を高くあげて沈没した。其の翌朝脇屋隊長は洗面をした瞬間今日は左先頭を進む我が輸送船デンマーク丸に敵潜の攻撃があるとの予感がした。早速警備司令の中尉に本日午前中、中隊全員にて警戒監視をするよう命じた。
 私は船長と共に双眼鏡を手にして船橋に在ったが果たせるかな午前九時五十分左前方一千米に我に向う航跡が一つ、二つ、三つ、四つ、最先頭の魚雷は我が第一、二番船艙(せんそう)付近に当たるように見える。私は船首と船尾の対潜砲に「砲の百五十米前方を射て」と思はず連続怒鳴った。

 船長は取り舵を間違えて面舵を命じたので絶体絶命、四発共左舷の横腹に命中かに見えた。甲板上の将兵は無意識に反対側の右舷に走り寄り手摺りにつかまり、命中した際上空に吹き飛ばされないようにしている。沈没を覚悟していた我が船の直前に突如、奇跡が起こった。先頭の魚雷が船側三十、四十米前で大音響と共に爆発し水煙をあげ、第二の魚雷は誘発したものの如く五、六十米前で続いて爆発した。第三、第四の魚雷はこの二魚雷の爆発の反動で空中にはじき出されて方向を換えて百米も空中滑走して避けられたものであった。

 対潜砲の何れが命中したかは問わず多数の生命と船舶を救った事実に対し船砲隊に全く感謝の外はない。もしあの時魚雷が命中して居たら私の今日はない。

 パラオ入港後他船に在った海軍監督将校が「そんな陸軍対潜砲が命中するなんて馬鹿なことはない」 と言われた由。しかし事実は小説より奇なり、であった。

  俳句誌『しろがね』第二十七号より  
    山口県湯野俳句会合同句集平成十八年九月発行

※ わが家の伯父はガダルカナルで昭和十八年一月十二日になくなっています。その日付の根拠を知りません。遺骨とか遺物とか何も帰ってこなかった。できれば、この俳人にお会いして、どうだったのかをお聞きしたい思いがあります。一度も伯父には会ったことはありませんが、お世話になったのです。それはどういう意味かといえば、十一年前に亡くなりました祖母(100まで生きた)が、生前、戦死した伯父の遺族年金から私によくお小遣いをくれたのです。それは命をいただいたことでもありました。当時はそういうことは深く考えませんでした。でも、あれは重い重いお金だったのですよね。

「やわらか戦車」の漫画家が書いてたように、兵隊さんの体ほどやわらかなものはない。「プライベート・ベンジャミン」を私もずいぶん前に見ましたが、戦慄するしかなかった。あんなにおそろしい殺し合いをしなきゃいけないなんて、あの世の地獄以上ではないだろうか。日本は61年前の戦争にきれいに負けたおかげで、最終戦争を戦ったのだといって憲法9条を掲げて、のほほんとしていられますが、アメリカの兵隊さんは、まだ、一度も軍旗をおろしていないし、その兵隊さんに守ってもらっている。この事実には目を瞑って、なにも現実を見ないで、慰霊の式典では毎年毎年、同じかたちのぺこり劇が上演され、空洞化が進む。十数年前、初めて参列した慰霊祭はとても感動的なものに思え、涙すら出たものでした。しかし、毎年参加しているうちに、追悼のことばが何一つ変化しないことに疑問を抱くようになりました。

それは、なにも考えていないことと同じではないでしょうか。一応、かたちだけはカッコがつきますが、俳句に便利な季語があるおかげであまりものを考えなくていいようなものです。ことなかれ主義が教育でも外交でも慰霊でも、かくもはびこっているのは、なぜなのでしょう。

2006年11月16日 (木)

礼と菊

  礼と菊 
             姫野恭子

戦後61年の戦没者慰霊祭
大会場にはまばらな参列者

もう参列しても記念品はくれない
もらうのは白い菊の花一本だけ

菊の花一本だけでは
不足だというのだろうか

それとも壇上での頭ぺこりの儀式が
単につまんないだけかもしれないな

中央に戦没者の霊のように白菊の花は横たえられて
左右には市のえらいひとたち 校区のえらいひとたち

献花の儀式は妙に滑稽で
笑いをこらえるのに必死で

代表者が申し合わせたように前に進み出ては
戦没者の霊にお尻を向け観客に礼をするから

ぺこり

次に向かい合っているお偉いさんに

ぺこり

さいごにようやく 戦没者の霊にむかって進み 

ぺこり

白菊を一本 恭しく 捧げ奉るすがたは
まるでかささぎの巣作りを見ているようで

マイクにごつんと頭をぶつける人がいた
だってあまりふかぶかと頭をさげるから

全部で何人分の礼を見届けたろうか
スイッチ一つで切り替わればいいのに

なんて不謹慎なことを思いながら
来年もまた 来るんだろうなここに

これは慰霊という名の 礼のカタチなのだから
慰め鎮められるのは 他ならぬ自分たちの霊

ノハズ

2006年11月14日 (火)

連句大会の裏方

国民文化祭、ことしは山口でした。連句という超マイナー部門は、いつも町から外れた交通の便の悪い処であります。連句人はそれを嬉しがる人が多いのでありますが、お世話くださる裏方の人たちは、銭壺山のてっぺんまでの往復がたいへんだった事でしょう。

連句の楽しさは、一度いっしょに巻いた人とは他人とは思えなくなることです。そんな友だちの一人である山本伽具耶さんが山口県人であり、今回の会の裏方としてお茶係をやってくれてました。伽具耶さんはケーキやパンを焼くのがプロ並みに上手で、連句大会用にシフォンケーキを14個も一人で焼いて、車で運んで切り分け、各テーブルの人数分ずつセットして、あとはコーヒーや紅茶、お茶の準備と補充を引き受けるなど、てんてこまいしていました。当然、裏方は連句には参加できません。

伽具耶さんとは三年前、わが家の軒下に胡麻を干している頃に会ったきりでした。ことしの春に、突然母上を亡くされて、どんなにか気落ちしているだろうと思っていましたが、とても元気で、以前よりさらに若くなったかんじできびきびと動き回っています。逆にちょっと心配になったほどです。

八女で一回だけの連句大会を興行したときには、お茶係を天野おとめさんが一人でやってくれました。あのときは、堺屋の石庭に赤い毛氈を敷いた五つの座を設営して、座卓には小さな野の花を生けて飾りました。通りすがりの観光客にも入ってもらったりしたのです。あのような楽しい座を再び持てたら・・と夢にみます。あの日、捌きをしたのは、前田圭衛子先生、鍬塚聰子さん、沢都さん、山本伽具耶さん、そして私の五人です。おとめさんにも捌きをさせてあげたかった。みな、おなじ仲間でした。でも、誰かが裏方に回らねば会が成り立ちません。

裏方にこそ、大きな拍手を。
ほんとうに、ありがとうございました。

2006年11月13日 (月)

やまぐち国文祭

やまぐち国文祭

会場についたのは実作会が始まる三十分前。開会式アトラクションは別の会場であったらしく、まだだれもいない会場で窓から見えた瀬戸内海を一枚。右奥に愛媛、左奥に呉が晴れておれば見えるそうです。この日は朝から雨で、着くころに上がりました。

やまぐち国文祭

根太の煙句のもりともこさんです。偶然一枚撮っててよかったです。

やまぐち国文祭

あんまりかわいらしくってパチリ。なにかすねてます。

半歌仙『冬めけり』

土曜日、11月11日に催された国民文化祭岩国連句大会での作品です。まだ捌の田部井窓月先生(群馬県館林)の治定があると思いますが、これはその場で出た原型です。沢都さんと当日参加いたしました。(沢さんは前田圭衛子師捌の座です。)

    半歌仙『冬めけり』 

          捌 田部井 窓月

瀬戸内の白き航跡冬めけり      田部井 窓月
  寒靄(かんあい)の中黒き島々   山本 要子
ポケットの底をはたけば鳥舞ひて   姫野 恭子
  幾度も続く拍手喝采         もり ともこ
階に月の出を待つ母ひとり       森  明子
  柚子の香りのみちる擂鉢       恭

パソコンの下に蟋蟀住みつきし     要
  こっち見てゐる何か言ってる     恭
ことばなく「愛の媚薬」で告白す      明
  大安売りの大型店舗         要
耳順過ぎ書画骨董に興味持ち     窓月
  銭壺山の小判草鳴る         恭
煙出す根太天井に夏の月        ともこ
  いつまで続くいぢめ問題       要
心理士のカウンセリングを引き受けて  恭
  ほろ酔ひ加減猫と帰らう        明
花浴びてかごめかごめと遊ぶ子ら    要
  はだれの雪の残るふるさと      恭  

連衆のうち、山本要子さん、森明子さん、もりともこさんの三人は、猫蓑会所属でした。
オモテで一巡したあとお弁当をたべ、その後は一句ごとに捌以外の全員で句を出す方式でした。結果、多く出したものが多く採用され、後ろめたい思いがのこりました。しかし一巻を冷静な目で見渡しますと、もりともこさんのそびきもの句「根太の煙」が、人事句ひしめく中で印象に強く刻まれる作品となってます。

耳順(じじゅん):六十過ぎをそう呼ぶ。六十にして耳したがう。論語。
銭壺山(ぜにつぼやま):岩国の由宇にある山。海を見下すここのふれあいパーク内で大会があり、たまたま当たった席の名が「小判草」でした。
銭壺山:http://www6.ocn.ne.jp/~matiiki/kankou/zenitubo.html
小判草: http://www.hana300.com/kobans.html
根太天井:http://www.city.yamato.kanagawa.jp/SIRYOKAN/webbook/yamato11/dai5shou3setu.html   

公的な援助がなく超低予算での大会だったそうで、スタッフは手弁当で毎日遅くまで大変なご苦労をなさったとお聞きしました。でも盛会のうちに終了し、全国から集った二百数十名の参加者は満足して帰宅されました。紅葉と美しい瀬戸の島々が見える会場で、はじめて出あう人たちと連句を巻けましたことは、感動的なことでした。お世話になったスタッフの方々、ありがとうございました。お弁当も、伽具耶さんのシフォンケーキも、とってもおいしかったです。わすれません。

2006年11月12日 (日)

うえだ画伯との半歌仙

昨日のうえだひろし画伯と巻いた半歌仙が残っていました。
うえだ画伯の句は、絵とおなじ味わいがあります。

   半歌仙 『しのぶさへ』

         平成十年三月四日満尾

                 姫野 恭子 捌

しのぶさへ枯れて餅買ふやどり哉       芭蕉 翁
    ひっそり閑とふゆる山茶花          鍬塚 聰子
幾粒か明け方の雨舟出して           うえだ ひろし
  舎監に渡す酒は辛口             姫野 恭子
十六夜の濃きこと蟹の旨きこと          聰子
  鰍(かじか)いつしか住処(すみか)替へたか ひろし

冷まじき風と真向かふ乳母車          恭
  手提げ袋は丹後ちりめん          聰
夢甘し目鼻の他はありありと          ひ
  義理のふたもじ姉のひともじ         恭
地下街に人ゐて揺るゝハンモック       聰
  山笠舁けば月は滴り            恭
モンローウオーク葬祭場の男傘        聰
  伸びては縮むスカートの丈         ひ
竹とんぼ削る小刀寡黙なる           恭
  西海橋から春の渦潮            ひ
癩院に続くや花の天蓋は            ひ
  ぱらりと蝶の箍(たが)もゆるまむ     聰

   第52回芭蕉祭 献詠連句集 平成十年十月十日発行
     (三重県上野市 芭蕉翁顕彰会編)

うえだひろし画伯の表紙絵が毎号飾る俳句誌『樹』(大分県中津市三光森山、瀧春樹主宰)。
http://satokono.littlestar.jp/frame-bbs.htm(10・17付け「句集の編集」の項です。)

2006年11月11日 (土)

竹騒ぐ

竹騒ぐ

北九州の画家、うえだひろしのリトグラフ「竹騒ぐ」です。

竹騒ぐ

この絵が好きなのは、見るときのきもちによって表情を変えるからです。泥をくぐったような緑の濃い色と、ところどころにぽっかりと空いたくろい穴は、どこからか不安な一陣の風を呼び、さらさらと音無き音を奏で、こころにさざなみをたてます。

竹騒ぐ

11月5日20時8分の月。この夜21時58分が満月。
月をみよう:http://www.astroarts.co.jp/special/moon_watching/index-j.shtml

2006年11月 9日 (木)

たつまきと犬のおちち

北海道のたつまきのすがたをみて、うわあ、ほんとに龍なんだな・・と感じた。名づけはすごいなとおもった。

しらないことがおおすぎる。竜巻のきもちがわからない。

ぜんぜんたつまきとは関係ないんで、申し訳ないのですが。
きのう、たからさんが投句用の俳句をもってパピイをつれてきた。
毎月のことなのに、これまで気づかなかった。パピイにはおちちがなんと六個もあったよ!びっくりした。なんで知らなかったんだろう。52年も生きているのに。
ちなみに、パピイは、パピヨンという種類のスペイン原産の犬。

犬のきもち:http://plaza.rakuten.co.jp/aikentotozan/diary/200608110000/

2006年11月 8日 (水)

イングリッド

イングリッド

矢車菊を抱いた少女。矢車菊を描いたのが多くあります。ほんとに美しい青です。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/4556/yagurumagiku.htm
イングリッド

詩人ジャン・コクトーです。ピカソの画集にもよく出てくる詩人ですよね。

イングリッド

表情がぼやけてしまいました。接写は光が逃げなくて反射するんで、ちょっと離れて写しました。携帯写真は接写向きじゃないですね。これがイングリッドです。確か1932年くらいの作品で、画集自体はキスリング生誕100年を祝した展覧会の図録集であったと記憶しています。

Ingrid キスリングの憂愁

キスリングの憂愁
  
                      本馬 梨枝子
           「アンブロシア」同人 熊本県植木町

        
「エコール・ド・パリ」展の最終日は
たくさんの人で混んでいた
キスリングの「イングリッドの肖像」
の前にやっと立ったとき
ずっと探し求めていた人に会えたような
不思議な想いにつつまれた

哀愁をおびた青いひとみ
優美にデフォルメされたからだの線
黒い衣装と白い襟のコントラスト

パリのラボワール(洗濯船)に暮らし
ピカソとも親交があった
ポーランド出身ユダヤ人画家の傑作だ

館内にある椅子に腰をおろして
キスリングの絵のうしろに
私は描かれていない窓を想像する
その窓から歴史の迷宮に入り込む

美術館を出ると
よく晴れた空に雲が浮んでいる
その彼方にイングリッドの眼をとおして
翳りゆくパリの風景が見えてきた

人はなぜ愛を求めるのか
そのこたえは一枚の絵のなかにある

   西日本新聞平成18年11月6日付「詩2006」より

月曜日に西日本新聞の同人誌の詩紹介コーナーで、「キスリングの憂愁」と題する本馬梨枝子という人の詩を読んだとき、たいそう驚いた。こういうことって、あるんだ。やはり、優れた絵は生きている。人を摑んで放さない。

去年、「マリオットの盲点」で紹介された映画『サイダー・ハウス・ルール』で、助演女優シャーリーズ・セロンをみたとき、おやっと思った。彼女は、モンパルナスの画家・キスリングの描いた女性の肖像にどこか似ていた。三つの図書館を捜し佐賀の図書館に唯一あった「KISLING」画集。十年ほど前に日本でキスリング展をやったときの図譜です。それを読んで(観て)いましたら、パイロットになった息子さんが父キスリングの画業と優しかった母について書いた文章がありました。「父の絵は一見易しいように見えるが、実はとても深いところから出ていることを知っているし、勉強を怠らず苦労して描いていたことも自分は父の身近にいたから知っている。母は常に父が仕事をしやすいようにと気を配っていた。だから自分は苦労の多い画家などにはならなかったのだ」、と語っていました。なるほどとおもいました。ほんとにどの絵も、あっさりと描かれているように見えて、その実、繊細な繊細な絵です。その繊細さは、余分なものを全てそぎ落として心眼が捉えたたましいのかたちをうつしているところからきている。色彩は華やかでも独特の翳りがあり、それが心を捉えて放さぬ魔力になっています。

最初に実物を見たのは、独身のころです。三十年近く前、天神のニューオータニの画廊で、黒い服を着た女性の小さな肖像画をみた。こころに食い込んで離れなくなった。それからキスリングが気になってしようがない。でも、資料がなにもなかった。

ぐうぜん佐賀市民図書館に一冊あった画集。それを借りては眺め借りては眺めしていた。そこへシャーリーズ・セロンを映画で観た。また借りて、確かめると、絵は「イングリッド」と題されたもので、去年携帯で写真を撮っていたのを思い出した。(後でアップします。)

※ シャーリーズ・セロンhttp://www.asmik-ace.com/Cider/Cast02.html
  http://blog.ketainovel.com/?eid=180510(これはまだみておりません。)

   モイーズ・キスリングhttp://www.artschool.jp/columu/kissling/index.htm
  

2006年11月 7日 (火)

伯父の戦記 下

(『ミャンマメクテーラ 東飛行場 激戦の思い出』より後半)。

 更に近寄って来る。肩にかけたビルマ袋と腰には「ナタ」をそれぞれ差している。ビルマ人そのもののスタイルである。かた言のビルマ語と日本語でジェスチャーしながら二人の少年と話す。三日間何も食べていないので困っている。向う岸のあのパパイヤをとってたべさせてくれと頼むと二人の少年は走って行き、まるで猿のようにパパイヤの木に上手にのぼり実を落とす。手持ちの「ナタ」で皮をむき大きな葉っぱに一ぱい持って来て食べろと言う。まだ色づく前で青かったが、実にうまかった。「アジチーツテンマレ」有難うと少年二人に手を合わせ拝んだ。生きた人間を拝んだのはこれが初めてである。少年二人は兄弟だと言った。日本では小学三年生と六年生位だったろうか。二人は「今から家に帰り母に言って飯を持って来る」と立ち去った。夕方近く二人の兄弟とその母はやって来た。炊き立ての飯であろう、青いバナナの葉がぬくもりで黄色くやけている。おかずに塩焼き肉と魚を沢山つけている。大変なご馳走である。
 親子三人に手を合わせ拝む。「アジチーツテンマレ」と。翌日も又翌日も同じことを繰り返し何と十一日間も運んでくれた。その間、夜になるのを待って毎晩、川のほとりまで這って行き、ゲートルの紐に水筒をくくりつけ川に沈めて水を汲み上げ、出血で真赤に染まったガーゼ等を洗いかわかしては傷口の治療は怠らなかった。十二日目の朝を迎えた。今日は多人数の声がする。身体を起こし待っていると、いつもの少年の声である。「ジャパン」と言って来る。母親の他に二人の娘がいて五人連れである。その内の一人が上手な日本語で話す。
 
 この村の村長からの達しで明日この部落へ英軍が来る。以後はここへ来ることが出来ないから今夜中にここを去る様にと言う。彼女はラングーン日本軍兵站病院で看護婦をしていたと言う。その時、日本の兵隊さんに大変優しくしてもらい恩を受けた。これはそこでもらった日本軍の日用品袋だといって色々な物が入ったのをくれた。親子三人もビルマ袋に飯やバナナ等入れた袋を渡し無事に行く様にという。彼等五人に手を合わせ、涙を流しながら拝んだ。ただただ嬉しかった。「アジチーツテンマレ」有難うと・・・・。

 日が暮れるのを待って十二日間のジャングル生活に別れを告げた。四つんばいで一晩中這い続け、ジャングルから今度は背丈以上もある草原のせまい道の中を行く内に疲労は重なり、もう一歩も先へ進めない。道から僅か五、六メートル横に入り込み、しばらく休んでいると、今来た道をビルマ人の話し声が近づいて来る。身を乗り出して呼び止めようと、のど元まで出かかった声を殺し、待つと、ビルマ人二人が先導し、英兵の将校と兵が四、五人、最後に又ビルマ人一人と多人数であった。----

 あの時、声を出してビルマ人を呼び止めていたらと、後で身の毛がよだった。

 そして、日が暮れるのを待って、再び這い出した。膝と手の平には血がにじむ。痛いのをこらえて休み休み何百メートルか行く先で、犬の遠吠えが聞こえる。その気配もだんだん近くなる。ふと見上げれば満月が煌煌と冴え、大きな「パゴタ」が見えてきた。やっと部落に着いてほっとしたのも束の間、寺院の庭先から英語らしい声で誰何された。同時に二、三発の銃声がし、その一発が足元をかすめ、砂煙があがったが、当たらなかった。びっくりして瞬間的に立ち上がり、何メートルか走り逃げた。追ってはこなかった。しばらくは痛みで動けず、静まるのを待ってジャングルへ入り、今来た道と平行してジャングル伝いに腹這いが続く。途中、川が流れており、見渡しても橋はない。何百メートルか行くと、一本の倒木があり、それを橋の替りとして、ようやく渡ることができた。一晩中こうして行く内に曲りくねった川もだんだんと広くなり、手前から向う岸へと牛車の車輪の後だけがはっきりと残っている。この疵で水に入ることは出来ない。痛みと疲労で疲れ果て、一本のカラ傘状の木の下で休んでいる内に寝込んでしまった。

 何かの物音に目が覚めた。周りに五六人の兵隊が着剣をして「イモ刺し」の格好で立っている。「誰だ」と言う。そして「日本兵ではないか」と言った。又「何部隊の兵隊か」とも矢継ぎ早である。菊五十五の兵隊と言い、一部始終を話し終えると皆、びっくりしている。冴え渡った月も朝方を迎え、山の上にかかっている。-----

 こうして、十三日目にして友軍に助けられ、野戦病院へと運ばれたのである。負傷して十三日目の日本軍の声は、ともかく懐かしかった。

 どれ一つとっても奇跡の連続であった。次から次へと後方に移送され、「タイ国、チェンマイ」の陸軍野戦病院でついに終戦を迎えたのである。いろんな噂で不安の連続であったが、昭和二十一年六月十六日、生れ故郷の佐世保へ戻ることができたのである。

 あらから五十年、たってみれば早い気もするが、振り返ると長い年月である。あの時の親子は今、どうしているのか。少年であった二人の兄弟も六十に近いいい壮年になっているだろう。

 再びミャンマーの空に向って叫びたい。「アジチーツテンマレ」と。しかし、命の恩人である彼等の居る村名も二人の名前も解らないのだ。解っているのはただ、収容された野戦病院では関西なまりの言葉がゆきかっていたような印象が残っているくらいである。

 記録によると、我が七中隊だけで昭和十八年十月三十一日より昭和二十年七月四日に至り戦死者百八十三名、戦病死者七十八名、併せて二百六十一名の英霊の大半が未だ故国に還れず、現地の草葉の陰で雨にうたれている。----

 五十年、さぞ無念であろう。ただただ安らかにお眠り下さい、と合掌するのみである。

 生きて帰った者に出来る事は、もう二度と戦争をおこさないことだ。その事を守り続けることが、帰れなかった戦友達への何よりの供養になるのではないかと、五十年にして、しみじみ感じる今日この頃である。

  ※ ミャンマーメッティーラ:
    
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki6/meiktila/meiktila.html
    http://www.geocities.jp/stbsg129/essay020.html
   

伯父の戦記 上

先日「目通り61年」で取り上げた長崎の俳句誌「拓」15号(編集発行・前川弘明)の、

 この夏もひたすら生きて海軍橋  高尾芙蓉(西海市)

が忘れがたく、ことに海軍橋という一語のもつ歴史的な重みに打たれて、何も知らなかったのもあり、検索をかけたところ、昨日コメントをいただいたさくらさんのブログに行き着きました。(http://www.geocities.jp/masa030308jp/index.html「父への手紙」)

さくらさんのブログを読んでいますと、縁の重なりが随所にありまして、なにか孫の手のようなもので、肩をとんと叩かれたような気がしました。ブログをご覧下さっている方には、姫野はなにやってるんだろう。「切字論」は引用途中で投げてるし、永井菊枝先生の歌集も一回しかご紹介していないし、歌仙巻いたのに留書も書いていないし、・・とお思いの方もおられることでしょう。(実は私がいちばん気にしているのですが。)それらはいずれやることにして、さくらさんとの出会いでにわかに浮上した、私の父方の伯父の戦記を引用しておこうと決めました。数年前に寿命を全うした伯父は、佐世保の相浦に住んでいました。軍人だったことは知っていましたが、戦記を読むのはじつは今日がはじめてです。読みつつ、打ち込んでいきます。とても優しい伯父でした。

    ミャンマメクテーラ
     東飛行場 激戦の思い出
                        下條 住雄

 忘れもしない、時は五十年前の昭和二十年三月十六日、我が部隊(五十五・七中隊)は、目差すメクテーラ東飛行場攻撃作戦のため深夜をついて一晩中ジャングル内を南下行軍し、夜明け間近、飛行場へたどり着いた。広い滑走路には無蓋の格納庫が幾つも点在し、我が七中隊はその一角に陣取り豪掘りを急いだ。
 地盤は固く穴を掘るには並大抵の事ではなかった。各自の豪掘りが終わる頃には東の空に太陽が昇り始めた。各中隊は中隊長の命令に従い、持場もちばを守り、成り行きを待った。
 自分は衛生兵で中隊指揮班の中隊長の側に何時もいた。当時の中隊長は大迫大尉である。刻一刻と時は流れ、午前九時頃ではなかったろうか。英軍兵舎方向より背の高い丸腰の英兵三十有余名が一列横隊で滑走路を一歩一歩と進んで来る。
 「まだ撃つな、撃つな」 と何処からともなく声が流れる。英軍とはもうその距離七、八十メートルと迫った。その瞬間、友軍の軽機が発射され、同時になりをひそめていた各中隊は一斉射撃に転じた。驚いた英兵は右往左往、一目散に兵舎方向へと逃げて行く。敵に何人ぐらいの死者が出たか記憶はない。それから三十分を過ぎる頃、空には戦闘機が飛来し、地上にはM4戦車が轟音をたてながら目前に迫り来る。一輌現れる毎に報告がなされ、十九輌までは覚えているが、後は記憶がはっきりしない。我が中隊指揮班はコの字型の内側にいたが、三輌の戦車が前に立ちふさがり完全にロの字型にされ逃げ場を失った。容赦なく撃ちまくる戦車砲と天蓋を開け身を乗り出して機関銃でも攻撃され、どうすることも出来ない。撃ち崩される高さ三メートル余りの土砂は土煙と共に我が身に落下し豪はだんだん浅くなる。その都度身をゆすぶりながら土砂からのがれる。もはやこれまでと悟ったのか中隊長が大きな声で叫んだ。

 目標、彼方に見える大きな一本の木。

 中隊長は、そこへ集結と云う。砲撃の合間を見て乗り越えなければ他に道はない。三々伍々、脱出を計る。中隊長の当番兵が我が頭上にちぎれて上半身が落ちて来た。多分、その時、同時に中隊長も戦死したものと思う。それ以来大迫中隊長の肉声を聞くことはなかったからだ。自分は久保曹長と行動を共にし、目標地点まで友軍の死体を乗り越えながら懸命に走った。五、六十メートル位走った時、戦車砲で射たれ、右大腿部から足先まで一瞬、棒でなぐられた様だった。身体が浮き上がる感がして、倒れ込んだ。

 「曹長殿、下條はやられました」

 と一声叫んだのを覚えている。倒れ込んで何分位たったのか解らないが、ふと気がつき体を動かしてみると、右足が全く動かない。それよりも爆風による土砂ほこりを吸い込み口も鼻もつまり息さえ出来ない状態である。戦車はまだいる。そのまま死んだふりをして動かず、戦車が遠のくのを待ち水筒の水で嗽し、三角巾を取り出し右大腿部の止血をして一寸這いで動き出した。時間をかけて漸く目的地までたどり着いた。止血はしているものの出血はひどく真赤に染まった右足の感覚はない。もう一歩も動けない。坐りこんでいるとそこへ八中隊で同年兵の小舟兵長が来た。彼は、南京教育隊の頃からの大の仲良しであった。いきなり「下條ではないか!」と言いながら近寄って来る。

  「俺はもう歩けないから、お前一人安全地へ行ってくれ」

 と言っても彼は聞かない。

  「同年兵のお前を一人おいて俺は行けない。俺の肩につかまれ」

 と言って手を差し延べる。痛む足をこらえながら彼の肩につかまり数分間歩いた。彼は「ここに居れ。動くな」と言って部落へ行き、数分後もどってきた。牛車一台に現地人とやって来て、「これに乗れ」と言う。身体をささえられながらやっと横たわる。デコボコ道を一晩中牛車は走り、朝方、友軍の野戦病院へたどり着いたが、いつの間にか小舟兵長はどこかへ行ってしまっていた。

 野戦病院では担架に乗せられた。夜明け間近に途中で食べた赤くうれた「トマト」が実にうまかった。その味が今でも舌先に残っているような気がする。
 担架の上で一晩を過ごし朝がきて、時間も大分たった頃、一人の衛生兵が顔色変えて走って来て叫んだ。

 「みんなよく聞け!敵戦車が間もなくここへ来る。独歩患者は直ちに出発準備せよ。担送患者は連れて行けないので、各人に任せる」

 なんたることか。
ガヤガヤする内に歩けるものはぞろぞろと隊列になりどこかへ消えてしまった。担送患者はどうすることも出来ない。不安がよぎる。しかしこうしていても仕方ないので、痛む足を引きずりながら担架から降りて五、六十メートル先のジャングル目指し、休み休み少しづつ這って行く。今まで居た野戦病院にはもう敵戦車が来た。砲撃と機関銃が耳をつんざく。夕暮れまで続いた砲撃も次第に止み、静かになった。足の痛みだけが身にしみる。朝から何も食べず空腹でも何ひとつ食べる物はない。身廻り品は衛生兵のカバンと水筒だけになっている。少量の水を呑みながら二日間我慢した。三日目の朝が来た。川の向う岸の土手に一本のパパイヤの木の実が見えるが、どうする事も出来ない。色々と考えていると土手の方に軍靴の足音が聞こえる。息を殺してじーっと見ると英軍将校と兵二人の三人連れである。----

 みつからずにすんだ。敵兵は立ち去って行く。しばらくして今度は寝ているジャングル内を子供の話し声がする。足音もだんだん近づき、五、六十メートル先で足音は止まり話し声も止んだ。じーっと見つめていたのだろう。おびえた小さな声で一声「ジャパン」と言った。頭が丸坊主で軍服姿の自分が日本兵であることが解ったのだろうか。
 おそるおそる近寄って来て、兵器の有無を確認し、何も持たない自分にほっとした様である。    (下に続く)。

2006年11月 6日 (月)

高速道路を走るとき

最近はETC搭載の車が増えましたね。それはともかく、これまで九州の高速道路を走っていて、素朴な疑問を感じることがありましたので、一筆書いておきます。

よくあることと思うのですが、ついうっかり出口を間違えて、通り過ぎたとき、あるいは車線が幾つも分岐しているのに気づかず、ぜんぜん違う方角の車線に入ってしまったときってありませんか。わたしはぼうっとしているので、よくあります。

ともかく一度でなきゃいけないんで、出ますよね、お金を支払って。そして、また新たに下りた地点からの発券をしてもらう。・・と、これがいままでのやり方でした。ところが先月、福岡に行ったとき、出口を一つ見過ごしてしまい、新宮で下りるはずが若宮に出てしまいました。それを係員に言うと、係員は料金を取らずに逆方向の車線に入らせてくれました。新宮へ出て下りるとき、余分な料金は払わなくてもよかったので、とても助かりました。

いつからこういうふうになったのでしょうね。
高速道は高いし、わかりにくいし・・と思っていましたが、こういう優しさに出会うと、うれしくなります。

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ポール・モーリア死去

ポール・モーリア死去というニュースを連休中の新聞記事で知りました。三日になくなったそうです。

高校時代の友人の付き合いで、このひとの楽団を博多まで聴きに行った思い出があります。「オリーブの首飾り」「エーゲ海の真珠」など大好きでした。

その友人のことを、思い出してしまいました。もう、この世にはいません。名を美恵子といい、あだ名をミータンといいました。彼女のおともで東京キッドブラザーズ公演も見に行ったよなあ・・柴田恭兵。じぶんだけなら、そんなの知りもしないし、絶対行かなかったろうから、友達のちからはげにおそろしき。夢見る女の子で、かわいくてきれいだったミータン。結婚して、二年もせぬうちに死んでしまったミータン。吉沢京子が好きだったミータン。よく二人で久留米の古蓮であまいものを食べながら、ゆめのような人生相談をしましたね。四十二歳での死は早すぎました。でも、よくよくかんがえると、それがあなたでもありました。

老舗のパン屋の末娘で、口には出さないけど親思いだったミータン。結婚が遅れたのも、老いた親を残して行けなかったのよね。ときどきあなたをおもいだします。いつまでも、十六歳ではじめて出会った時のまま。

ポール・モーリアのご冥福をお祈りいたします。ミータンも。

2006年11月 5日 (日)

白壁ギャラリー巡り

白壁ギャラリー巡り

紺屋町ギャラリーの樋口善造展を覗いてまいりました。すると、画伯はなんと『無冠の男』著者である小島直記氏とは画学生時代から交友があるそうで、写真が飾られておりました。奥様に了解を得て、撮らせていただいたものです。左から、三十代の小島直記氏、そのご母堂、そして二十歳の樋口氏です。(撮影時は1951年か、場所は東京芸大校庭。)

白壁ギャラリー巡り

展示されていた二十点あまりの絵の中で、一番こころひかれた絵(油彩)です。向うに見える飛形山(とびかたやま)の色が切なくて、胸がきゅんとなります。手前のコスモスが深い陰影を添えて、郷愁を誘う。八女はほんとにいい土地だと、この絵を見て、感じました。これと、黒木の山中の農家を描いた小品が欲しいとおもったけど、油絵は高いですね。二十万ほどします。見ただけで帰りました。富士山の絵、とてもきれいなピンクの暁光につつまれた、が、確か三万ほどでした。それはデジタルアートだから安いのだと言われた。ほんものは電通という会社が所有しているそうです。デジタルアートというのは本物をうつして、少し加筆したものとか。リトグラフと、デジタルアートと、油彩が展示されていました。

白壁ギャラリー巡り

絵を観に来た大学生をスケッチする和服姿の画伯の手。早くて精確です。

樋口善造画伯の略歴:
1931年 八女市生まれ
1949年 八女高校卒業(第一回生)
1954年 東京藝術大学油絵科卒業
      日展、光風会展に発表(光風会会員)
1983年 ドイツ観光局の依頼により、家族と共に
       ドイツに住んで製作する
1994年  10年間のドイツ生活を終え帰国
2004年  八女郡黒木町に移住する

アトリエ:八女郡黒木町大字今42-5

ずうっと前に、八女福島の横町町家交流館で求めていた小島直記著『坂本繁二郎伝』を、『無冠の男』を読んでから読みました。それによると、小島氏は、昭和38年、石橋文化会館ができたとき、ブリジストンの社員で、石橋会長の自伝の口述筆記を勤めたそうです。石橋コレクションの始まりは、石橋会長が久留米高等小学校六年生のころ、図画の先生だった坂本繁二郎から絵を指導された。その後坂本さんは東京に学び、フランスへ留学され、二十年もたって久留米に帰り、石橋会長宅の近くに住まわれた。昭和五年のある日、坂本さんは、郷里出身の青木繁は天才でたくさんの傑作を残したが、散逸したままで惜しい。これを買い集め、小さな美術館を建ててくれと言われた。だからその意を受けて四十歳ころから十年あまりで「海の幸」ほか代表作を集めた。・・小島直記はこう説明しています。たしかに事業も軌道にのり、資金的にも余裕ができたころであったが、絵画をあつめたのは金が余ってたからではない。坂本先生の訥々とした親友を思うきもちに打たれてのことだったと。その後、小島氏は石橋会長の特命を受けてフランスへ随行しますが、フランス語が堪能で文化にも通じておられたところが買われたのでしょう。それなのに、そうは書かれず、自分は自伝の口述筆記をしたからその労をねぎらわれたとかかれています。まことに、坂本繁二郎といい、小島直記といい、謙虚な謙虚なゆかしい人々です。今日知った樋口善造画伯もまた、その偉大な先人二人の薫陶を受けられた、穏やかでゆたりとした謙虚なお人柄だと感じ入りました。小島先生は、お仲人だったそうです。

 小島直記著『坂本繁二郎伝』 
     平成三年 茅ヶ崎の寓居にて執筆の文字あり。
     発行:八女市(市長・斉藤清美)
     製作:中央公論事業出版

八女福島の町

八女福島の町

無量壽院、石橋氏の墓前の山茶花の古木。寒くなれば白椿のような花をたくさん、ひっそりと付ける。そのたたずまいがなんともいえず、美しい。小さな蕾がみとめられた。お墓には例によってワンカップの「つき」をあげて御まいりをする。秀野さん、健吉さん、それから静枝さん。どうかやすらかにお眠りください。

八女福島の町

八女福島の町

仏壇屋さんが多い通りである。ルームミラーに写っている通りに沿って無量壽院があります。仏壇も最近はモダンなのがありますね。材料はほとんど東南アジア、ことに韓国では労賃が安いので、ある程度まで作ってから、仕上げの金箔塗りなどを八女でやると聞きました。

2006年11月 3日 (金)

目通り61年

樹(立ち木)を調べていると、よく「目通り何メートル」という表記にぶつかる。これがわからなくて、調べればいいのに調べず、ずっとああでもないこうでもないと思い続けてきた。たとえば最近では、熊本の相良(あいら)観音の駐車場のナギについて書いたとき、ナギ検索で出てきた熊野のナギの大樹http://www12.ocn.ne.jp/~toukai/meiboku19.htm、目通り3・5メートルとあります。

さいしょ、目通りということばから、こういうことを考えました。人がその一本の樹木を全視野に入れるのに必要な樹木からの距離。おおきな樹ほど下がって眺めなければならないから・・。でも、そうなると、あるとき「目通り周囲全長」などいうややこしい用語にも出くわしてしまい、どうも違うようだぞと怪しくなりました。で、やっと今日きちんと辞書で調べたら、目の高さでの樹の太さ、直径で表す、と書かれています。なーんだそーか。最初の定義は、なかなか哲学的で詩的で、われながらかっこよかったのに。

ぼおっとしていると、同じ本をなんども借りてきているということがあります。一度読んでたのに又借りてきてた。ちくま日本文学全集の「寺山修司」。で、前から気になっていたんですが、この巻末の編集部作成の年譜にある、昭和二十年の項、修司九歳、青森大空襲にあう。父、セレベス島にて死亡。古間木小学校に転校。-というの、本当だろうか。詩人嶋岡晨の随想で、寺山修司にある日自分の父親の経歴をしゃべって、盗まれたというような話が書かれていて、それが確か父親がセレベス島で死去というものだったと記憶する。なんという題の本かは記憶していないので申し訳ないのだが・・でも、そういうことを寺山修司はやりそうで、これ、自作の年譜と思っていたので、それを確かめたかったのだろうか、又借りてしまったのは。・・われながらどうでもいいことをと、みみっちくもある。

 セレベス島:http://www003.upp.so-net.ne.jp/yety-01/a010.htm

 この夏もひたすら生きて海軍橋   高尾芙蓉(西海市)
 夏越粥ひとり平和を祈る日に     〃
 るいるいと自生え南瓜や生死論   〃
 夏星の冴えて夫のハーモニカ    〃
           俳句誌「拓」15号より

こういう句を無常の想いの深い句と呼びたい。いくつも「問い掛け」を発したくなる、わたしにはまぶしすぎる句たちです。

 佐世保海軍橋:http://www.geocities.jp/masa030308jp/ireitabi/tabi1.htm
 夏越粥:これは検索では出てきません。
私が八女に残る天文年間の100首和歌を調べていたとき、「あらにこのはらえ」というのが出てきまして、くづし字辞典を必死でさがしたけど読めませんでした。とても苦労して、結局、柳川古文書館の学芸員に尋ねてやっとわかったのですが。それが夏越の祓、なごしのはらえと同じ行事でした。あらにこのはらえは荒和祓と書いてあります。六月末にする禊=みそぎです。半年に一回づつ、みそぎをしたのですね、むかしの日本人は。長崎の人たちは、原爆忌をいまもとても大事になさっていて、それがみそぎとおなじ行事になっているような気が私はしています。

 追伸:夏の七月八日におまいりにいった靖国神社の写真を以前アップしましたhttp://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_638c.html#commentsが、あの提灯について、興味深い記事が上の佐世保海軍橋の慰霊の文章を綴っておられる方のブログにありましたので、引いておきます。偶然なんてこの世に一つもないという気がしますよね。http://www.geocities.jp/masa030308jp/mitama2004/intex7.htm

     http://www.geocities.jp/masa030308jp/mitama2005/intex3.htm

2006年11月 2日 (木)

天体観測

DVD「天体観測」四巻までを見た。涙が出た。

こどもの読書感想文みたいな感想文で申し訳ない。

それで、今書いておきたいことがある。

こどものころ、星を見る子だった。空が暗かったし。
小学生の四年生くらいまで、家にお風呂がなく、共同風呂に入りにいっていた。その当時はそれが普通で、村には小さな浴場があった。なんと混浴だった。こどもだったので、あまり不思議とも思わなかったが、大人の女達はとても抵抗があったみたいだ。それはともかく、ある夜のこと、たぶん七時から八時ごろのことだと思う、祖母がお風呂からあがるのを外で待っていた。真っ暗な空には星がまたたいていた。見ていると、真横に流れる星がある。その星は、流れるというより、ゆっくりと同じ速さで進んでいるという感じであった。流れ星って真横に流れることもあるんだなと思うゆとりもなく、知識もなく、ただじっとみつめていた。すると、その横切る星が別の星にぶつかりそうになった。ああ・・と思っていると、その別の星は上の方にすっとせりあがって道を譲り、横切る星を通してから、いかにも「あわてずさわがず」といった感じで、ゆっくりともと居た場所に戻ったのである。あとは、なにごともなかったような夜空があり、進んでいた星はやはりずっと動いていた。私は星の観測専門家でもなく、こどもだったので、ばあちゃんが上がってきたらそれきり、星のことは胸にしまった。日常のこととはまったく別次元のことだと、こどもごころにも感じ取っていたのかもしれない、いまにしておもえば。

あれは、とてもふしぎな現象で、でも夢じゃなく、こどもの十歳くらいの私しか見ていなかったことではあるけども、だれか、あの日、あの夜、同じ現象を見た人はいないものかといつも思っている。昭和四十年くらいだったと記憶する。季節もはっきり覚えていない。でも、星の不思議な動きだけは今も鮮やかに印象に刻まれている。その後、夏に流れ星を何度かみたけれど、同じように真横に流れるものは一度も見なかった。だから、ひょっとして、あれは宇宙船かなにかで、ぶつかりそうになったものも、星じゃなくて衛星かなにかだったんじゃないかとか、いろいろと想像してみたけど、結局はわからない。だから、自分の希望的観測で話をまとめると、星は軌道をずれては動かないと皆んな思っているけども、ほんとは自由に動くことが出来る生き物なのだ。中心で星をうごかしているのは、高浜虚子みたいに頑固で融通の利かない季語という筋金入りの式目霊で、毎年毎年決まった季題を提供することに命をかけることができるひとたち。・・・・という考えは、どうだろか。すくなくとも、笑えるよね。何しろ、高浜虚子って、関東大震災のときでさえ、ゆうき定型の花鳥風月俳句をやっていたんだよ。すごくない。地球ってどんなときも忘れずに自転してくれるのと似ていない。

それにしても、五十二歳になり、はるか遠くまできてしまったなあという気がする。村の共同浴場があったところには、とうとうトヨタホームというのが見る間に建ち、年わかい家族が住むらしい。村の住民は老いて、時代の流れに棹をさすことから目をそむけそうになっている。やがてすべてが、あたらしくなるのだろうか。

今年の夏は家の二本の松のうちの一本が枯れた。
こどものときからあった松がいなくなって、さびしい。
今日は先月亡くなった従弟の初命日だった。
ふしぎと悲しくはない。
余りにも安らかな死に顔をしていたからである。

 

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