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2006年10月22日 (日)

俳句誌『拓』15号

長崎の俳句誌『拓』十五号が届いた。

前川弘明(海程、九州俳句同人)が三年前に創刊した季刊俳句誌ということしか、今のところは知らない。十四号を夏にいただき、瀬川泰之「草の男」のよみを依頼され書き送っていたので、掲載誌が送られてきたのだった。

今回目を通して感じたこと、それは前川の覚悟だ。いや、びっくりした。引く。

 読後、「拓」の印象は薄い。これは、内容も他誌同様〈同人作品、作品評、共鳴推薦句、評論等〉と羅列しているだけで、個性が見当たらないからだろうと思う。特別な感想もないので、心に触れた句の私見を述べ、責を果たしたい。

「拓」前号への京武久美(きょうぶ・ひさよし)という俳人の批評文冒頭のことばである。「アナタよくそこまで書けますね」、とあっけにとられた。採られている句も、なるほどそういうよみがあったかという句ばかりで、見方を改めさせられる。一例を引くとー

 二月の朝後頭部を見たとおもふ  横山 隆 長崎市

二月は、僕の誕生月。そのせいか、二月と読み込まれた句を見ると、善し悪しに関係なく、立ち止まって内容を深く考えてしまう。この句も、同様だ。
東北の二月の朝は、まだ寒くて暗いと思いつつ、見えるはずのない後頭部を見たというのは、夢のなかだろうか、それとも背後の鏡で垣間見たのだろうか、と、どうでもよいことを思わず考えてしまう。
後ろには表面からは見えない人間の本質が、びっしり突っ立っているようで不気味である。後頭部であれば、尚更と感じる。
この句の背後にあるのは、作者の自己嫌悪だろう。後頭部を見たという断定ではなく、あくまでも、見たとおもうという呟きが、かえって効果をあげているように思った。(以上引用文)。

鋭い読みであった。
編集後記によれば、この京武久美という俳人は「青森高校で寺山修司と同級生であり、寺山の出発に影響を与えた人である。寺山の俳句は、京武への共感から始まっている」と紹介されている。青森の人だったのか。普段から米備蓄を怠らない土地の俳人の言は、含蓄深く、鋭い。

参考までに、おなじ横山隆の前号句で私の目を引いたのは、次の一句だけだった。

 繁簍青し絶望に着く前なのに  横山 隆

青しの前の髑髏みたいな字がわかるまい。ふつうならルビをふるところだ。しかし横山隆は北西風にはモンスーンとルビを振るが、繁簍にはルビをふらない。このひとは長くこのみちでやっておられる人に違いない。そう思わせる一句だった。ちょうど連句誌「れぎおん」に、新年の発句脇をみつけ、季語としての薺や七草を考えていたところだったので、いやでもこの季語は目をひいた。連句では新年の句は春に寄ったり冬に入れられたりしているが、それは旧暦では年のうちに春が来たりしたからだ。それに新穀を待ちことほぐこころが加わって、正月の季語はより迎春の観が深い。歴史的にも民俗行事と暦と自然とが混然となった味わいをもつ季語なので、一度どなたか整理してもらえないだろうかとおもっている。

 野の川に田の川出会ふ初霞     城倉吉野
   薺摘まんと弾む足取り       前田圭衛子
        -俳諧みなと座・歌仙、れぎおん54号作品より-

そもそも新年(と歳末)の部はなぜ歳時記では別になっているのだろう。

繁簍はハコベラです。
http://www2.ocn.ne.jp/~who/kaze/kisetunokubun.html(人日の項にあります)
http://www12.plala.or.jp/siki/_lives/P/Shakobe/hakobe.html
http://www2.health.ne.jp/library/5000/w5000403.html

阿野露團(あの・ろだん)の「近代長崎の俳林」はよく調べられた評論ですし、九州の俳人を顕彰しようとする姿勢はとても大切だとおもいます。今回、青木貞雄元九州俳句編集長の寄稿である宮崎の俳人故・山下淳の晩年の挿話は、とても胸を打ちました。私が持っているのは、最後の句集『忘音』と随想集『流域雑記』だけですが、この随想集には深く考えさせられ教えられます。シベリア抑留という辛酸に耐えられたのは、戦場での句会があったからと書かれていました。記録を持ち帰れず、あたまのなかに記憶して帰ったという話。そのひとが晩年は認知症で帰らぬ人となられたということを今回初めて知りました。平成12年6月に87歳で亡くなられたそうです。あらためて、ご冥福をお祈り申し上げます。ご縁をありがとうございました。

 われら一族血濃きか淡きか鳳仙花   山下 淳

打たれる覚悟のできた俳誌だけが、生き残るのでしょう。
叩かれる事によって撥ね返る歌を。そう歌ったのは、中野重治でした。

 毛虫焼くかなたに青き五島灘    前川 弘明

参照: 京武久美 関連http://www.plib.net.pref.aomori.jp/top/museum/sakka/SAKKA13_KANREN/%8E%9B%8ER%8FC%8EiKRJ_MN.html連句的関連:沢田教一http://www.geocities.jp/lsyu25/profile.htm

 追記: 作品にふるルビについて、でございますが、ちょっと考えてみました。というのも、同じ長崎の明坂小箔さん(物書く人)と、以前、ご一緒に連句を巻いたときに、明坂さんは「荏苒として」という漢語みたいなコトバを出されたのです。私は無学で読めなかった。「じんぜんとして」と読みます。荏苒として日を送る、という具合に使う。そうです、いま思われているイメージ通りの言葉です。ルビをふるかどうか。ふらなくていい。知りたきゃ調べよ。それにルビをふるということは、相手をみくびることだ。という実にシンプルな声でありました。そのとき、おおこのひとはオトナだと感動したのでありました。

蛇足的補遺:薺(なづな)について(11月4日書き込み)

一 「四谷怪談」から

孫兵  コレ艱難な暮しといへば、この子の母親めを聞いて下され。それはそれはかひがひしい生れ、まだ生(なま)若い身の上で、正月の薺(なづな)からはじめて、嫁菜・たんぽぽ・ほうれん草(さう)、または枝豆・ゆで玉子、あるとあらゆる出商(であきなひ)、その艱難の中で舅(しうと)のわしらをば、よう孝行にしてくれまするて

お袖  それはマア奇特なお方でござんすな

(以上は、明坂英二著「卵を割らなければオムレツはできない」(1996年青土社刊)のなかの「江戸、玉子のある風景」からの孫引き。四谷怪談の一部。お袖はお岩の妹、孫兵は、お岩の夫、伊右衛門にお岩の間男に仕立てられて惨殺された挙句、お岩と一枚戸板に釘付けされて川に流された小平の父親孫兵衛。孫兵衛が語っているのは嫁のお花のことである。夫が死んだので振り売りの暮らしを余儀なくされている。孫兵衛の孫のその幼い子もまた、たつきにしじみを売って歩いている。明坂さんは卵が歴史のなかに商品としてどう立ち現れてきたか、史料を博捜して書かれていますが、それは生きた俳諧の資料ともいえ、とても勉強になります。)

二  『増補 俳諧歳時記栞草』(曲亭馬琴編、岩波文庫)から

七草、薺打(なづなうち)
 正月七日、、七種の菜を以て羹(あつもの)を作(な)す。是を食ふ人万病なし。
 ○七草は芹(せり)・薺(なづな)・鼠麹(ごぎゃう)・繁縷(はこべら)・仏座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)也。七種(ななくさ)の菜を打(うつ)こと、諸子の考(かんがへ)いまだ見(みえ)ず。しかし、おもんぱかるに、鬼車鳥(姑獲鳥、うぶめどり)がわたるとき、魂魄を抜かれるとの言伝があり、そを避けるため、といふ。(一部省略)菜を打ながら口でとなふるに、「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬさきに」。

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